序節 ― 空席は、まだ空いている
朝の星綴高等学園は、拍子抜けするくらい普通だった。
窓から差し込む日差しは教室の床を白く照らし、黒板には一時間目の連絡事項が残っている。担任はいつも通り出席を取り、配布物を前から回し、提出期限を守れと二度念を押した。誰かのスマホが鳴って注意され、後ろの席では宿題を忘れた生徒が友人に小声で泣きついている。
その中に、一つだけ空いた席があった。
机も椅子も、そのままだった。以前のように、近くを通る生徒がわざわざ距離を取ることはない。プリントを回す時には机の上へ一度置かれ、掃除の時間になれば誰かが普通に椅子を持ち上げる。
けれど、誰もそこには座らなかった。
担任も何も言わない。クラスメイトも話題にしない。
昼休みになる頃には、ユウリ自身も何度もその席を視界の端に入れながら、いちいち足を止めなくなっていた。
「唐揚げ一個」
弁当箱へ伸びてきた箸を見て、ユウリは顔を上げた。
「聞く前に取るなよ」
「聞いた」
レンはすでに唐揚げを口へ運んでいる。
「取った後だろ」
「細かいな。友達だろ?」
「友達なら人の昼飯を勝手に減らしていい法律でもあるの?」
「ない。でも友情は法律の外にある」
「急にいい話っぽくするな」
レンが満足そうに頷く。向かいでミオが箸を口元へ運びかけたまま、くすくす笑った。
四人は空いた席の周りに、それぞれ自分の椅子を寄せていた。誰かが決めたわけではない。ただ、昼休みになって集まった結果、自然とそうなった。
ユウリの弁当。ミオの小さなランチボックス。レンが購買で買ってきたパンと紙パックの飲み物。
そしてトウマの机の上には、コンビニの小さなケーキがあった。
透明な容器の蓋を外し、付属のフォークで端からきっちり切り取っている。いつもの無愛想な顔との組み合わせに、レンがしばらく無言で視線を向けていた。
トウマが眉を寄せる。
「何だよ」
「お前、甘党なの?」
「悪いか」
「いや。世界から食事ごと切断してそうな顔してるから」
「久遠、お前から切っていいか」
ミオが吹き出した。
「ちょっと、トウマくん……」
「俺は普通に昼飯を食ってるだけだ」
「ケーキだけで?」
ユウリが訊くと、トウマはフォークを止めた。
「その前にパン食った」
「そこはちゃんとしてるんだ」
「玻璃川トウマという人間を何だと思ってるんだ、お前ら」
「世界から食事ごと切断してそうな人」
「天瀬も切るぞ」
「二人目だ」
「予約が埋まってきたな」
「久遠は最優先だ」
言い切られて、今度はレンまで笑った。
教室のざわめきが、その笑い声をすぐに飲み込んでいく。少し離れたところでは、次の小テストの範囲でもめている声がする。廊下を運動部らしい生徒が走り抜け、教師の怒鳴り声が追いかけていった。
ミオが笑いすぎたのか目元を押さえている。トウマは不機嫌そうな顔のまま、それでもケーキを食べる手は止めていない。
そんな光景を眺めながら、ユウリは自分の弁当箱へ目を戻した。
唐揚げが一個減っている。
それだけだった。
「で、放課後どうする?」
レンがパンの袋を丸めながら言った。
「何かあるの?」
「何もないから聞いてる。最近、何もない放課後って貴重じゃん」
「そういう言い方すると、何か起きそうだからやめて」
ユウリが返すと、ミオも小さく頷いた。
「私も今日は、普通に寄り道したいです」
「ほら。星宮もこう言ってる」
「僕も反対してないよ」
ユウリは残っていた卵焼きを口へ入れた。
「ただ、レンが言うと嫌な予感がするだけで」
「信用ねえなあ」
「実績があるから」
「反論しづらい」
レンが肩をすくめる。
「トウマは?」
「帰る」
「即答」
「お前らに付き合うと帰宅時刻が遅くなる」
「高校生みたいな理由だ」
「高校生だよ」
「今日一番まともなこと言ったな」
「久遠」
「はいはい。切断予約一名様ね」
ミオがまた笑う。
その時だった。
机の上に置かれていたレンのスマホが、短く震えた。
ただの通知音だった。
メッセージでも、ニュースでも、ゲームでも、毎日何度も鳴る程度の振動。それなのにレンの指が止まった。
ユウリは、その変化に気づいた。
笑っていた口元が消える。
ほんの一瞬だけ、レンは画面を見るのをためらった。それからスマホを手に取り、通知を開く。
ユウリの位置から、文字が見えた。
《Invitation remains valid》
《Club MISLEAD》
《次の扉は、まだ開いています》
レンの親指が動いた。
画面が伏せられる。
早かった。
けれど、見えなかったことにはできない程度には遅かった。
「……何?」
ミオがレンを見る。
「いや」
レンは伏せたスマホへ手を置いた。
「何でも――」
そこで、自分から言葉を切った。
ユウリは黙ってレンを見る。
ゲームセンター《コンティニュー》で、神格適性がランキングにされ、人の名前も体験も勝手に数字へ変わっていった夜。その事件が終わったあと、店の外の階段でも、レンは同じようにスマホを伏せた。
あの時、ユウリは気づいていた。
けれど、訊かなかった。
レンが自分から話さないなら、まだ話したくないことなのだと思った。それに、あの夜のレンは、自分が流した情報で誰かを危険へ巻き込んだことを受け止めるだけで精一杯だった。
だから待った。
今回は違う。
「レン」
名前を呼ぶ。
責める声にはしなかった。
それでもレンは、誤魔化すように笑わなかった。
教室の時計が秒を刻んでいる。誰かがペットボトルの蓋を落とし、床を転がる軽い音がした。
レンは伏せたスマホから手を離さない。
数秒。
やがて、小さく息を吐いた。
「……話す」
ユウリは何も返さなかった。
隣でミオも、向かいのトウマも、続きを急かさない。
空いた席だけが、四人の間に残っていた。




