第3節 ― 座ってはいけない席
「切る?」
ユウリは、思わず聞き返した。
紙魚原ツヅリの店の奥は、古い紙の匂いに満ちていた。さっき閉じられた出席簿の表紙が、棚の低い灯りを吸って黒く沈んでいる。虫食いだらけの紙片も、星綴学舎という古い名も、そこにかすかに残っていた「玻璃川」の文字も、まだユウリの目の奥に焼きついていた。
トウマは、こちらを見なかった。
「ああ」
「どうやって」
「裂く」
短い答えだった。
けれど、その一言は、ただ乱暴な比喩には聞こえなかった。
空席を片づける。
怪異を祓う。
記録を消す。
そういう言い方ではない。
裂く。
紙を破るように。
つながっているものを、つながっていない状態に戻すように。
レンが顔をしかめた。
「それ、簡単に言ってるけどさ。空席が可能性記録ってやつなら、切った瞬間に何が起こるか分かんないだろ」
「放っておく方が分からない」
「だからって――」
「誰かが座る前に切る」
トウマの声は冷たかった。
でも、その冷たさは無関心ではなかった。
むしろ逆だった。
何かをこれ以上近づけないために、刃物のように冷たくしている。
ツヅリは、閉じられた出席簿に手を添えたまま、静かに言った。
「空白を裂けば、紙は裂け目を覚えます」
「覚えられるのは慣れてる」
トウマは答えた。
ツヅリの目が、眼鏡の奥でわずかに細くなる。
「慣れていることと、傷つかないことは違います」
トウマは何も言わなかった。
その沈黙が、返事の代わりだった。
ユウリは、胸の中のもやもやを押さえながら言った。
「でも、あの席は本当に誰かを傷つけたいわけじゃないかもしれない」
「傷つけたいかどうかは関係ない」
トウマが、初めてユウリを見た。
「人を消すものが、全部悪意を持ってると思うなよ」
その言葉に、ユウリは言い返せなかった。
悪意がなくても、人は傷つく。
助けるつもりでも、記録が刃になる。
名前を呼ぶことも、席を空けることも、時には誰かを縛る。
昨日から、ユウリはそれを何度も見ている。
それでも。
「……学校に戻ろう」
ユウリは言った。
「切るかどうかは、見てから決める」
「見るなって言っただろ」
「見ないと、何を残すのかも分からない」
トウマの眉が、わずかに動いた。
レンが、少しだけ驚いた顔でユウリを見る。
ミオも、静かに頷いた。
ツヅリは、小さく息をついた。
「なら、急いだ方がいいです」
「どうしてですか」
「学校の席は、放課後にいちばん空きますから」
その言葉が、妙に重く響いた。
放課後。
生徒が帰り、教室が空になる時間。
誰も座っていない机が、ただ机として残る時間。
空席が、自分の意味を強く持つ時間。
ユウリたちは、古書店《紙魚の巣》を出た。
旧北口商店街は、夕暮れに沈みかけていた。店先の明かりがぽつぽつと灯り、閉じたシャッターの金属面に赤い空が映っている。いつもならどこか懐かしく見える景色が、今は少しだけ紙の上に描かれた背景のように薄く見えた。
トウマは、先頭を歩いていた。
鞄の中には、白いノートが入っている。
名前欄のないノート。
今日からこのクラスにいる、と書かれたノート。
それが近くにあるせいか、ユウリのスマホは時々小さく震えた。
AVISは何も言わない。
ただ、画面の端に青白い輪が滲んでは消える。
星綴高等学園に戻る頃には、校舎はすっかり夕方の色を帯びていた。
部活動の声が校庭から聞こえる。
吹奏楽部の音階練習。
体育館から響くバスケットボールの音。
廊下を走って叱られる生徒の声。
学校はまだ日常の中にあった。
けれど、教室のある階へ近づくにつれて、その日常の音が少しずつ遠ざかっていく。
廊下の窓から射し込む夕陽は、赤というより、淡い金色だった。教室のドアのガラスに、誰もいないはずの机の影が映っている。
ユウリは、扉の前で足を止めた。
中から、声が聞こえる。
数人の生徒が残っているらしい。
帰り支度をしている声。
部活へ行く前に雑談している声。
いつもの放課後の教室。
でも、その隙間に、別の音があった。
椅子が軋む音。
誰も座っていないはずの椅子が、誰かを待つように、小さく鳴っている。
「開けるぞ」
レンが言った。
ユウリは頷く。
扉を開けると、放課後の教室があった。
夕陽が机の列を斜めに照らしている。
黒板には次の日の予定が書かれ、チョークの粉が棚に積もっている。数人のクラスメイトが残っていて、鞄を持ったまま話していた。
そして、窓際後ろから二番目。
空席は、そこにあった。
朝よりも、はっきりしている。
机の天板に、夕陽が妙に白く反射している。
椅子はきちんと引かれている。
誰かが今から座るために、少しだけ空間を空けているように見えた。
「……なんか、朝より強くないか」
レンが小声で言う。
アヴィがユウリのスマホ画面に現れる。
『観測固定率が上がってる。放課後で教室の着席状態が解除されたせいだな。全員が席を離れる時間は、あの席にとって都合がいい』
「都合がいいって?」
『空いてるのが自分だけじゃなくなる。空席が増えれば、自分も紛れやすい』
その言葉の直後、教室に残っていた女子の一人が、空席の方を見た。
ほんの一瞬だった。
彼女は友人と話しながら、何気なく視線を向けただけだ。
けれど、その表情が止まった。
「……あれ」
彼女は小さく呟いた。
「どうしたの?」
友人が聞く。
「いや、なんか……私、吹奏楽部に入ってた気がして」
「え? あんた帰宅部じゃん」
「そうなんだけど」
女子は空席を見つめたまま、少しだけ笑った。
「でも、今、すごくはっきり見えた。私、あそこで楽譜に名前書いてて……コンクールの前で、すごい泣いてて」
友人は笑った。
「何それ、夢?」
「分かんない。でも、懐かしい感じがした」
ユウリは背筋が冷えるのを感じた。
別の自分。
部活に入っていたかもしれない自分。
その女子は、もう一度空席を見ようとした。
トウマが低く言う。
「見るな」
声は小さかった。
でも、異様に通った。
女子はびくりとして、視線を逸らした。自分でもなぜ注意されたのか分からない顔をしている。
次に、教室の前方にいた男子が空席へ目をやった。
彼の顔が、ぼんやりと緩む。
「俺……告ってたかも」
「誰に?」
友人がからかうように聞く。
男子は答えなかった。
ただ、空席を見つめながら、耳まで赤くなっていく。
「いや、なんでもない。変な感じしただけ」
笑いで流そうとしている。
けれど、その目はまだ空席から離れない。
レンが低く呟いた。
「未来の幻視か?」
『正確には、選ばなかった可能性の反射だ』
アヴィが答える。
『あの席は“座らなかった未来”を映している。席に座っていれば、こうだったかもしれない。別の部活、別の告白、別の進路、別の名前。そういう未確定の分岐を、本人に見せてる』
「悪意で?」
『たぶん違う』
アヴィは珍しく慎重だった。
『ただ、見せてる。席という器は、座る理由が欲しいんだろう』
ミオが、空席を見ないようにしながら、小さく言った。
「寂しいんだ」
ユウリはミオを見る。
「分かるの?」
「うん。奪いたいって感じじゃない。ただ、ずっと空いてるのが怖い。誰かに座ってほしい。でも、誰がいいのか分からない」
ミオの声は、少し震えていた。
「だから、近くにいる人の“座らなかった未来”を見せる。ほら、ここもあったよって。あなたには、こういう席もあったよって」
その時、ユウリの視界が揺れた。
見ないようにしていたはずなのに、空席が視界の端に入った。
ほんの一瞬。
それだけで、ユウリは見てしまった。
自分が、普通に教室で笑っている。
AVISを起動していない自分。
神話構文も、管理機構も、栞も、空席も知らない自分。
レンとくだらない話をして、ミオをただクラスメイトとして見て、放課後にコンビニで新作アイスを買うかどうかだけで悩んでいる自分。
軽い。
あまりにも軽い未来だった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
欲しかったわけではない。
でも、そこにあったかもしれないと思うと、失った気がする。
「ユウリ」
ミオの声で、ユウリは戻った。
「大丈夫?」
「……うん」
ユウリは頷く。
けれど、手のひらに汗をかいていた。
レンも、表情を硬くしていた。
「俺も見た」
「何を?」
「言いたくない」
レンは短く答えた。
その横で、トウマだけは空席を見ていなかった。
けれど、ユウリは気づいた。
トウマの背後に、ほんの一瞬、別の景色が重なっていた。
普通に笑っているトウマ。
教室の中で、誰かと並んで座っている。
今より少し幼く、今よりずっと穏やかな顔で。
隣の席に誰かがいる。顔は見えない。けれど、トウマはその誰かに向かって、今の彼からは想像できないくらい自然に笑っていた。
次の瞬間、その景色は消えた。
トウマの目が、さらに冷たくなる。
「もう十分だ」
彼は低く言った。
その時だった。
教室に残っていた男子の一人が、ふらりと空席へ歩き出した。
さっき告白していたかもしれない自分を見た男子だった。
「おい」
レンが声をかける。
男子は振り向かない。
空席だけを見ている。
「ちょっと座るだけ」
彼は呟いた。
「なんか、分かる気がする。あそこに座ったら、思い出せる」
「やめろ!」
ユウリが叫んだ。
男子の手が、椅子の背に触れる。
その瞬間、黒板の横に貼られていた座席表が、かすかに光った。
男子の名前が薄れる。
インクが消えるように。
紙に染み込んでいた文字が、水に溶けるように。
ユウリの心臓が跳ねた。
名前が、消えかけている。
トウマが動いた。
彼は鞄から白いノートを取り出した。
表紙の名前欄は空白のまま。けれど、トウマが触れた瞬間、その空白が黒く軋むように歪んだ。
同時に、彼のスマホが勝手に起動する。
AVISの画面ではない。
あるいはAVISでありながら、通常の画面とは違う。
文字が壊れている。
《■■構文接続》
《対象:空席》
《記録線:検出》
《断章裂貌:部分起動》
画面が黒く割れた。
いや、画面だけではない。
トウマの足元から、教室の床へ細い黒い線が走った。紙にカッターを入れたような、まっすぐで冷たい裂け目。そこから、黒い紙片のようなものがふわりと舞い上がる。
トウマの背後に、影が浮かんだ。
人の形ではない。
破れた紙片。
欠けた仮面。
裂けたページの断面。
顔のようで顔ではないもの。
目の位置に、黒い空白だけがある。
契約相。
ユウリは、本能的にそう理解した。
《断章裂貌》。
名乗られたわけではない。
けれど、壊れたAVISの表示と、その影のあり方が、そう告げていた。
トウマは、空席へ手を伸ばした。
黒い裂け目が、机の脚へ向かって走る。
「待って!」
ユウリは叫び、男子の方へ駆け寄った。
「座ろうとした人まで巻き込むかもしれない!」
トウマは止まらない。
「巻き込まれる前に切るんだよ」
声は冷たかった。
でも、その奥に焦りがあった。
「名前が消えてからじゃ遅い。席に座ってからじゃ遅い。痕跡だけ残ってからじゃ、どうにもならない」
黒い裂け目が、床を走る。
男子の手は、まだ椅子の背に触れている。
座席表の名前は、さらに薄くなっていく。
ユウリは男子の腕を掴んだ。
「こっち見て!」
男子の目は虚ろだった。
「思い出せるんだ」
「何を!」
「言えなかったこと」
その一言で、ユウリの胸が痛む。
空席は、彼を騙しているのではない。
彼自身の中にあった後悔を映している。
だからこそ危険だった。
ミオが、両手で胸元を押さえた。
「違う」
彼女の声が、教室に響く。
「違う。あの席、奪いたいんじゃない」
トウマが一瞬だけ視線を向ける。
ミオは、苦しそうに息をしながら続けた。
「ただ、ずっと空いているのが怖いんだと思う。誰も座らないまま、何のためにあるのか分からなくなるのが怖い。だから、見せてる。ここに座れば、なれたかもしれないものを」
「だから何だ」
トウマの声が荒くなった。
「怖ければ、誰かの名前を欲しがっていいのか」
その言葉は、空席へ向けられているようで、別の誰かへ向けられているようでもあった。
ミオが怯む。
ユウリは男子の腕を引きながら、トウマを見た。
「トウマは」
言葉が勝手に出た。
「誰かの席を見たことがあるの?」
黒い裂け目が止まった。
ほんの一瞬。
教室の空気が凍る。
トウマは答えない。
けれど、その沈黙が、あまりにも重かった。
破れた紙片が、彼の背後でゆっくり舞っている。仮面の欠片のような影が、黒い空白の目で空席を見ている。
トウマは、低く言った。
「痕跡だけ残るのが、一番きついんだよ」
ユウリは、何も言えなかった。
痕跡だけ。
席だけ。
名簿の虫食いに残った姓だけ。
いたかもしれない誰かの跡だけ。
それを見たことがある人間の声だった。
その時、空席の椅子が大きく軋んだ。
きい、と。
それは教室の椅子の音ではなかった。
もっと古い木の音。
長い時間、誰にも座られなかった椅子が、ようやく誰かを見つけた時の音。
男子の名前が、座席表からほとんど消える。
ユウリは叫んだ。
「レン!」
「分かってる!」
レンは男子のもう片方の腕を掴み、力任せに引いた。
男子の手が椅子から離れる。
その瞬間、彼は糸が切れたように膝をついた。
座席表の名前が、薄いままだが戻る。
完全ではない。けれど、消えてはいない。
トウマの裂け目は、空席の机の脚の手前で止まっていた。
ユウリは息を切らしながら言う。
「まだ、切らないで」
「甘い」
トウマは吐き捨てた。
「それでも」
ユウリは、まっすぐ見返した。
「まだ、分からない」
「分かってからじゃ遅いものもある」
「分からないまま消したら、戻せないものもある」
トウマの目が、鋭くなる。
二人の間で、空気が張り詰める。
その時、教室の窓の外が暗くなった。
夕方の光が消えたのではない。
教室そのものが、別の場所へずれ始めていた。
床が軋む。
壁の色が変わる。
白い現代的な壁紙が、古い木造校舎の板壁へと滲んでいく。蛍光灯が消え、代わりに古い裸電球のような淡い光が天井から下がる。
机が増えた。
一つではない。
二つ。
三つ。
十。
数えきれないほどの机が、教室の奥へ奥へと並んでいく。
どれも空席だった。
椅子はきちんと引かれ、机の上には何もない。
ただ、誰かが座るのを待っている。
ミオが小さく悲鳴を飲み込んだ。
レンが周囲を見回す。
「旧校舎……なのか?」
アヴィの声が、ノイズ混じりに響く。
『空席反応、増殖……いや、これは過去の教室構造だ。前身校の記録に引きずられてる』
トウマが舌打ちする。
「だから、切るって言ったんだ」
その時、黒板に白い文字が浮かび始めた。
かり、かり、かり。
チョークが走る音。
誰も書いていない。
けれど、文字は勝手に増えていく。
本日転入:星宮ミオ
ユウリの心臓が、止まりかけた。
ミオの身体が、ふっと空席の方へ傾く。
「ミオ!」
ユウリは彼女の手を掴む。
けれど、今度は強い。
見えない何かが、ミオの名前を黒板の文字へ、空席の机へ、古い出席簿の空欄へ引き寄せている。
ミオの瞳に、星空が映る。
彼女は抵抗しようとしている。
でも、その足が一歩、空席の列へ向かって動いた。
黒板の文字が、さらに濃くなる。
本日転入:星宮ミオ
空席の一つが、ゆっくり椅子を引いた。
そこへ座れ、と言うように。




