第2節 ― 紙魚の巣の虫食い名簿
黒板に浮かんだ文字は、しばらく消えなかった。
次に座るのは、だれ?
白いチョークの線で書かれたその一文は、星明かりの中で妙に生々しかった。
誰かが冗談で書いた落書きではない。
そこには意志があった。問いかけの形をしているのに、答えを待っているというより、答えを奪いに来るような圧があった。
ユウリはミオの手を握ったまま、黒板から目を逸らせなかった。
見てはいけない。
そう分かっているのに、目が吸い寄せられる。
机。
椅子。
ノート。
空欄。
名前欄。
学校にあるものは、どれも当たり前の道具だったはずなのに、今はそのすべてが、誰かを定義するための装置に見えた。
席に座る。
出席簿に名前が載る。
教師に呼ばれる。
返事をする。
それだけで、人は「このクラスの誰か」になる。
では、名前のない席に座ったら。
名前欄が空白のノートに触れたら。
その時、人は何になるのだろう。
「ユウリ」
ミオの声がした。
か細いけれど、確かにミオの声だった。
ユウリははっとして、彼女を見る。
ミオの瞳にはまだ星が映っている。けれど、焦点は戻っていた。さっきまで空席へ引かれていたような危うさは、少し薄れている。
「大丈夫?」
ユウリが聞くと、ミオは小さくうなずいた。
「うん。呼んでくれたから」
まただ。
その言葉を聞くたびに、ユウリは胸の奥が締めつけられる。
自分がミオの名前を呼ぶこと。
それが、彼女をこちら側に引き戻す糸になっている。
それは嬉しいことでもあり、怖いことでもあった。
もし自分が呼び遅れたら。
もし声が届かなかったら。
もし、ミオが別の名前に座らされてしまったら。
「おい」
トウマの声が、それを断ち切った。
彼はノートに近づき、ミオの指が触れていたページを睨んでいる。顔色は変わっていないように見える。けれど、目の奥だけが鋭くなっていた。
「手、離せ」
「もう離してる」
ミオが答える。
「違う。意識の方だ」
トウマは低く言った。
「まだ見てる。あの席を、頭の中で見てるだろ」
ミオは、少しだけ息を呑んだ。
図星だったのだろう。
ユウリはミオの手を握り直した。
「ミオ、こっち見て」
ミオがユウリを見る。
「星宮ミオ」
もう一度、名前を呼ぶ。
ミオの肩から、少し力が抜けた。
その瞬間、教室を満たしていた星明かりが揺らいだ。
黒板の文字がかすれる。
机の上に散っていた星の光が、チョークの粉のように薄くなっていく。
凍りついたように止まっていたクラスメイトたちの輪郭が、少しずつ元の昼の光に戻っていく。
レンが息を吐いた。
「戻る、のか?」
アヴィ=シグルの声が、ユウリのスマホからノイズ混じりに聞こえた。
『一時的にだ。ノートから手を離したのと、ミオの現在名が呼称固定された。着席判定が下がってる』
「着席判定って言い方、ほんと嫌だな」
『僕も嫌だ』
アヴィが珍しく同意した。
星空は、次第に教室の天井へ吸い込まれていった。蛍光灯の白い光が戻り、窓の外には昼の校庭が現れる。遠くで体育の授業をしている別クラスの声が聞こえ、廊下から誰かの笑い声が流れ込んだ。
何事もなかったように。
それが、かえって怖かった。
クラスメイトたちは、さっきまでの星空を覚えていないようだった。
止まっていた時間が、何の継ぎ目もなく動き出す。女子の笑い声も、男子の小テストへの悲鳴も、すべて元の場所へ戻る。
ただ、空席だけは残っていた。
そしてミオの足元に、白いノートが落ちている。
トウマが素早くしゃがみ込み、直接触れないようにハンカチ越しにノートを閉じた。
その仕草は慣れていた。
ユウリは、そのことに気づいてしまった。
「トウマ」
「今は聞くな」
トウマは短く言った。
ノートを持ち上げると、表紙の名前欄が一瞬だけ淡く光る。けれどトウマが睨むと、その光はふっと消えたように見えた。
「これ、どうするんだよ」
レンが聞く。
「捨てる」
「捨てて済むのか?」
「済まない」
「じゃあなんで捨てるんだよ」
「少なくとも、ミオの近くには置かない」
トウマはそれだけ言って、自分の鞄にノートを突っ込んだ。
「ちょっと待って」
ユウリは思わず止めた。
「持ってて大丈夫なの?」
「お前たちよりは」
「そういう問題じゃ――」
「じゃあ、誰が持つ? ミオか? お前か? それとも、何でも記録したがるそいつか?」
トウマの視線がレンへ向く。
レンは言い返そうとして、口を閉じた。
昨日の件があるからだ。
そして今日も、撮影しようとした座席表にノイズが出た。
今のレンには、自分が不用意に触れれば事態を進めてしまうかもしれないという自覚がある。
それをトウマは見逃さなかった。
「持つだけなら、俺が一番マシだ」
「理由は?」
ユウリが問う。
トウマは、ほんの少しだけ間を置いた。
「空席に好かれる趣味はない」
答えになっていない。
でも、それ以上は何も言わなかった。
そのまま予鈴が鳴り、次の授業が始まった。
教室は普通に戻った。
教師が来て、教科書を開き、生徒たちは退屈そうにノートを取る。
けれど、ユウリは授業の内容がほとんど頭に入らなかった。
空席は、窓際後ろから二番目にある。
見ないようにしても、そこにあることが分かる。
視界の端に、白い空白が引っかかる。
ミオは、いつもより背筋を伸ばして座っていた。
眠そうでも、ぼんやりしているわけでもない。けれど、ときどき自分の名前を確かめるように、教科書の余白に小さく「星宮ミオ」と書いていた。
ユウリはそれを見て、胸が痛くなった。
レンは、ノートを取るふりをしながら、別の紙に何かを書いていた。数式でも英単語でもない。机の配置図。矢印。観測、固定、着席判定、記録危険、という言葉。
記録しないと決めても、考えることまでは止められない。
それがレンだった。
トウマは、授業中ずっと窓の外を見ていた。
けれど、それはぼんやり外を眺めているのではない。窓際の空席を見ないために、あえてその向こう側だけを見ているようだった。
昼休みを過ぎても、空席は消えなかった。
むしろ、教室になじんでいくように見えた。
誰かが空席の机にプリントを置きかける。
すぐに「あれ、ここ誰の席だっけ」と首を傾げる。
別の生徒が「そこ、空いてるから置いとけば」と言う。
そして、置かれたプリントはいつの間にかなくなる。
空席が、クラスの中で少しずつ役割を得ている。
予備の席。
転校生用の席。
誰かが休んでいる席。
荷物を置く席。
何でもない席。
その曖昧さが、かえって不気味だった。
放課後になった時、レンが机に突っ伏した。
「無理。ネットで調べる」
「今?」
ユウリが聞く。
「今。少なくとも星綴の過去に何かある。学校怪談とか、前身校とか、事故とか、転校生とか、空席とか、出席簿とか。検索ワードは山ほどある」
「記録するなって話は?」
「外部に出すわけじゃない。調べるだけ」
レンはスマホではなく、学校の情報処理室へ行こうとした。
「校内端末の方が履歴が追いやすいし、学校の公式アーカイブにも入れる」
ユウリたちは、放課後の廊下を通って情報処理室へ向かった。
トウマは来ないだろうと思っていた。
けれど、教室を出る時、彼は無言で鞄を持ち、少し離れた後ろからついてきた。
「来るんだ」
レンが言う。
「ノート持ってるからな」
「それだけ?」
「それだけだ」
トウマは、やはり短く答えた。
情報処理室には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。ずらりと並んだモニターの黒い画面に、窓の外の校庭がぼんやり映っている。放課後の校舎特有の、少し埃っぽい静けさがあった。
レンは端末を起動し、学校の公式サイトを開いた。
「まず沿革」
星綴高等学園の公式サイト。
見慣れた校章。
校長挨拶。
教育方針。
進路実績。
そして沿革。
レンは画面をスクロールする。
「創立は……前身校から数えるとかなり古いな。星綴学舎、星見台女学校、星綴中等部、統合、校名変更……」
彼の指が止まった。
「ここ」
ユウリが覗き込む。
沿革の途中に、不自然な空白があった。
年度が飛んでいる。
何年から何年までの記録が、まるで最初から存在しないかのように抜けている。普通なら改行の余白に見えるかもしれない。けれど、その空白だけ、画面の白さが少し違った。
昨日のレシート。
今日の出席簿。
同じ白。
「これ、表示バグ?」
ミオが聞く。
「一応、ソース見る」
レンはキーボードを叩いた。
画面にHTMLのコードが流れる。
けれど、沿革の空白部分だけ、コメントアウトも欠番もない。ただ、本当に記述が抜けている。
「おかしい。年度が飛んでるのに、コード上では連続してる。見た目だけじゃなくて、情報そのものがない」
「学校側が消した?」
「可能性はある。でも、普通に削除したなら痕跡が残る。これは、削除というより……最初から電子化されなかったみたいな抜け方だ」
レンは、さらに検索を続けた。
星綴高等学園 空席。
星綴 出席簿 怪談。
星見台 未着席。
星綴学舎 欠番。
神狭市 星の裏側。
いくつか検索結果は出る。
けれど、開くとリンク切れ。
キャッシュなし。
古い掲示板はスレッド番号だけ残り、本文がない。
画像検索には、校舎の写真が出るのに、集合写真らしきものだけが白く抜ける。
レンは椅子の背にもたれた。
「だめだ。電子記録が虫食いになってる」
「虫食い?」
ユウリが聞く。
「比喩。いや、比喩じゃないかも。必要なところだけ、食われてるみたいに抜けてる」
その時、ユウリのスマホが震えた。
AVISが起動する。
アヴィ=シグルは、画面の中で少し真面目な顔をしていた。
《電子記録:欠損》
《校内アーカイブ:該当期間欠落》
《外部検索:回収不能》
《紙媒体記録:残存可能性あり》
《推奨調査地点:旧北口商店街/古書店《紙魚の巣》》
「紙魚の巣?」
レンが画面を覗き込む。
「古書店だ」
アヴィが言った。
「旧北口商店街の奥。神話、郷土資料、民俗学、学校文集、閉店した店のチラシ、誰も読まない冊子、そういうものが山ほど集まってる。電子化されなかった紙の記録なら、あそこに残ってる可能性がある」
「なんでそんな店知ってるの」
ユウリが聞く。
アヴィは少し目を逸らした。
「AVISの検索候補に出た」
「今、目逸らしたよね」
「気のせいだ」
ミオが小さく言った。
「そこに行けば、分かるかな」
「分かるかどうかは別として」
レンは立ち上がった。
「ネットがだめなら紙だ。紙なら、電子ログみたいに一括で消されてないかもしれない」
トウマは、情報処理室の入口近くに立ったまま、何も言わなかった。
けれど、古書店の名前を聞いた瞬間、ほんの少しだけ反応したように見えた。
「トウマも来る?」
ユウリが聞く。
「ノートを持ってる」
「それはもう聞いた」
「なら分かってるだろ」
彼はそう言って、先に廊下へ出た。
旧北口商店街へ向かう頃には、空は夕方に傾いていた。
第8話でカフェ《ノーネーム》へ行った時と同じ道。けれど、今日の目的地はさらに奥だった。商店街のアーケードは半分ほどしか明かりがついておらず、古い金物屋、閉じた文具店、昔ながらの惣菜屋、よく分からない占いの張り紙が残るシャッターが並んでいる。
その奥。
人通りがさらに細くなる路地に、古書店《紙魚の巣》はあった。
看板は、木製だった。
古い紙に滲んだ墨のような文字で、《紙魚の巣》と書かれている。店先には均一本の箱が積まれていたが、並んでいるのは文庫本だけではない。古い郷土史。学校文集。誰かの卒業アルバムらしきもの。神社の祭礼記録。廃業した喫茶店のメニュー表。色褪せた地図。
店の扉を開けると、紙の匂いがした。
埃っぽいのに、不思議と嫌ではない。
古い本棚、黄ばんだ紙、乾いた糊、インク、少しだけ湿気を吸った木材。
店内は狭い。
けれど、奥行きがあるようにも見える。入口から見るとただの古本屋なのに、一歩入ると棚が迷路のように枝分かれしていた。天井近くまで積まれた本。床に置かれた木箱。ラベルの剥がれた資料ファイル。背表紙が読めない革装本。民俗学、神話、都市伝説、宗教史、郷土資料、学校史、個人の日記、古い旅行パンフレット。
本棚の隙間から、何か小さな白いものが動いた気がした。
「虫?」
ミオが小声で言う。
「紙魚だろ」
レンが答える。
「本当にいるのかよ」
「店名だからな」
その時、奥から声がした。
「いますよ。紙を食べるものは、紙に食べられたものも覚えますから」
ユウリたちは一斉に振り向いた。
カウンターの奥に、一人の女性が座っていた。
年齢は分かりづらい。二十代にも見えるし、もっと年上にも見える。長い髪は灰色がかった黒で、毛先だけが淡く銀に抜けている。丸い眼鏡の奥の目は眠たげだが、こちらを見た瞬間だけ妙に鋭かった。
白いブラウスに、黒い長いカーディガン。
首元には、本の栞のような細い紐飾り。
指には薄い紙片が何枚も挟まっている。
彼女は、読んでいた本を閉じた。
「いらっしゃいませ。探し物ですか。それとも、探され物ですか」
レンが眉をひそめる。
「普通に探し物です」
「普通の探し物なら、普通の棚にあります。普通でない探し物なら、普通でない棚にあります」
「またそういうタイプの店かよ……」
ユウリは既視感に頭を抱えたくなった。
旧北口商店街には、どうしてこういう店ばかりあるのか。
女性は、ユウリたちを順番に見た。
ユウリ。
ミオ。
レン。
最後に、トウマ。
トウマを見た時だけ、ほんの少し目を細めた。
「星綴の空席でしょう」
いきなり言われて、レンが警戒したように一歩前へ出た。
「なんで知ってるんですか」
女性は平然と答えた。
「空いたところは、紙が先に覚えますから」
レンは返答に詰まった。
ユウリは、慎重に尋ねる。
「あなたは?」
「紙魚原ツヅリ」
女性は名乗った。
「この店の店主です。紙が覚えていることを売ったり、紙が忘れたことを預かったりしています」
「それ、古本屋の説明として合ってます?」
「だいたい合っています」
ツヅリは淡々と言い、カウンターの下から古い鍵束を取り出した。
「星綴高等学園。前身校。第零席。未着席。星の裏側へ落ちた名。どれから見ますか」
レンがユウリを見る。
ユウリも、ミオを見る。
ミオは少しだけ緊張した顔でうなずいた。
「全部、見せてもらえますか」
ユウリが言うと、ツヅリは目を細めた。
「全部は危険です。紙は、読む人を選ぶことがありますから」
「じゃあ、安全な範囲で」
「安全な範囲が知りたいなら、図書館へ行くべきですね」
「……危なくない範囲で」
「それなら、少しだけ」
ツヅリは立ち上がり、棚の奥へ歩いていった。
ユウリたちは、その後を追う。
店の奥は、入口から見たよりずっと深かった。棚の間を抜けるたびに、外の商店街の音が遠ざかっていく。薄暗い電球がいくつも吊られ、その下に古い紙束が眠っていた。
ツヅリは一番奥の棚の前で止まり、鍵を使って小さな木箱を開けた。
中から出てきたのは、一冊の古い出席簿だった。
黒い表紙。
角は擦り切れ、背は割れかけている。
表紙には、かろうじて読める文字で「星綴学舎」と書かれていた。
ツヅリは白い手袋をはめ、慎重にページを開く。
紙は黄ばんでいる。
ところどころに虫食いの穴があり、文字が欠けていた。名前の一部が食われ、日付の一部が消え、欠席欄に穴が開いている。
けれど、その穴がただの劣化ではないことは、すぐに分かった。
虫食いの形が、文字の周りだけ不自然に避けている。
あるいは、文字を隠すために食われたようにも見える。
ツヅリはページの中ほどを指した。
「ここです」
そこには、通常の出席番号とは別に、奇妙な項目があった。
第零席
未着席
星の裏側へ落ちた名のために空けること
ユウリは息を止めた。
「第零席……」
「一番目ではなく、零番目。誰かの前にある席。まだ来ていない者、来なかった者、来るかもしれなかった者のための席です」
ツヅリは、静かに説明する。
「星綴高等学園のある丘は、もともと星見の丘と呼ばれていました。昔、この辺りでは、子どもが生まれる前、あるいは旅人が帰る前、まだ決まっていない未来のために、席をひとつ空ける儀礼があったそうです」
「誰かを呼ぶため?」
ミオが聞く。
「半分は」
ツヅリは答えた。
「もう半分は、呼びすぎないためです」
「呼びすぎない?」
「未来を名指ししすぎると、未来はその名に縛られます。だから、席だけを空けておく。誰が来てもいい。誰も来なくてもいい。来るべき者を決めつけないための余白です」
ユウリは、第8話のカフェを思い出した。
席を空けていただけ。
あのマスターの言葉。
けれど、今目の前にある空席は、ただ穏やかな余白ではない。
誰かを座らせようとしている。
「でも、今の空席は危険です」
ユウリが言うと、ツヅリはうなずいた。
「余白は、いつも優しいわけではありません」
彼女は出席簿の虫食い穴に指を近づけた。
「空いているということは、何かが入れるということです」
ミオが、かすかに身を震わせた。
レンは腕を組む。
「じゃあ、なんで今になって現れたんですか。昔の儀礼なら、ずっと前からあったはずだ」
「条件が重なったのでしょう」
ツヅリは、淡々と言った。
「AVIS一般版の拡散。神狭市全体の神話構文濃度の上昇。星綴高等学園が持っていた古い観測構文の再活性化。そして」
彼女はユウリを見る。
「最近、誰かが“真名ではない現在名”を成立させた」
ユウリの心臓が、どくんと鳴った。
「栞さんのこと……知ってるんですか」
「知っているわけではありません」
ツヅリは、どこかで聞いたような言い方をした。
「紙の揺れで分かるだけです。名前を戻さず、呼び名だけを置いた。そういう処理は、余白に響きます」
アヴィが、スマホ画面の中で気まずそうに目を逸らした。
『……理屈としてはあり得る』
「アヴィ」
『責めるな。お前の選択が間違いだったとは言ってない。ただ、余白を守る選択は、別の余白を起こすことがある。構文は隣の空白に共鳴する』
ユウリは、言葉を失った。
栞を助けたことが、今回の空席を呼び起こしたのか。
そう考えた瞬間、胸が重くなる。
ミオが、そっと言った。
「ユウリのせいじゃない」
「でも」
「違う」
ミオは、はっきり言った。
「栞さんは、あの時、呼ばれてもいい名前を選んだ。それは悪いことじゃない」
ユウリは、ミオを見る。
彼女の声は柔らかいが、揺れていなかった。
レンも口を挟む。
「そうだろ。原因の一つではあるかもしれない。でも、原因と責任は違う」
「レン……」
「責任を考えるなら、AVIS一般版をばらまいたやつとか、管理機構の監視とか、神狭市そのものの構文濃度とか、他にも山ほどある。ユウリ一人で背負うな」
レンは少し照れたように顔をそらした。
「あと、今は落ち込むより調べる方が先」
「うん」
ユウリは小さくうなずいた。
ツヅリは、そんな三人のやり取りを黙って見ていた。
「よい友人ですね」
ぽつりと言う。
レンが少し警戒した顔になる。
「急に褒められると怖いんですけど」
「では、怖がってください」
「そういう返しも怖い」
ツヅリは表情を変えず、出席簿の別のページを開いた。
「第零席は、本来、空けておくための席でした。誰かを座らせるためではない。ですが、観測構文が歪むと、空白は“埋めるべき欠落”として振る舞います」
「だから、ミオを引っ張った」
ユウリが言う。
「ミオさんだけではありません」
ツヅリは、ちらりとミオを見る。
「名前が揺らいでいる者。居場所が揺らいでいる者。別の可能性を強く抱えている者。そういう人は、空席にとって座りやすい」
ミオは唇を結んだ。
ユウリは、その横顔を見て、もう一度決める。
守る。
でも、どう守るのか。
消せばいいのか。
切ればいいのか。
空けておけばいいのか。
まだ答えは出ない。
その時、トウマが無言で出席簿のページに手を伸ばした。
「触らないでください」
ツヅリの声が、初めて少しだけ鋭くなった。
トウマの指が止まる。
「見るだけだ」
「見るだけでも、紙は見返します」
「知ってる」
そう言って、トウマはページを覗き込んだ。
ユウリは、トウマの横顔を見る。
彼の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
動揺。
それは本当に一瞬だった。
でも、確かにあった。
トウマの目が、虫食いだらけの名簿のある箇所に固定される。
ユウリも、その視線を追った。
ページの端。
名簿の下段。
虫に食われて、ほとんど読めなくなった名前の横に、かすかに残った文字がある。
玻璃川。
ユウリは息を呑む。
玻璃川、の後ろは食われている。
名は読めない。
性別も、学年も、出席番号も分からない。
ただ、姓だけが、紙の端に引っかかるように残っていた。
トウマの手が、出席簿の表紙を掴む。
「トウマ……?」
ユウリが声をかけるより早く、トウマは名簿を閉じた。
ぱたん、と乾いた音が、店の奥に響く。
ツヅリは何も言わなかった。
レンも、ミオも、言葉を失っている。
トウマは出席簿から手を離し、低く言った。
「もういい」
声が、いつもより硬い。
「あの席は、切る」




