第1節 ― 出席番号、空欄
休み時間になると、教室はすぐにいつもの音を取り戻した。
椅子を引く音。
机の横をすり抜ける足音。
誰かが購買のパンを予約していたかどうかで騒ぐ声。
次の授業の小テスト範囲を確認する声。
スマホを見ながら笑う声。
ホームルームの間に教室を覆っていた、あの薄い膜のような緊張は、チャイムと同時にほどけたように見えた。
けれど、ユウリには戻っていなかった。
担任が置いていったはずの出席簿は、いつの間にか教卓から消えていた。持って出たのか、最初からそこになかったのか、もう分からない。ただ、ユウリの目には、さっき空欄の横に浮かんだ一文字が焼きついている。
在。
いる。
名前はないのに、出席している。
それは昨日の栞とは違う不気味さだった。栞には、薄くても声があった。怖がっていた。逃げていた。こちらの問いに、答えようとしてくれた。
けれど、あの空席には声がない。
待っているという気配だけがある。
「……なあ、本気で数えるぞ」
レンが、机の端に腰を預けながら低く言った。
「数えるって?」
「人数。机。椅子。出席番号。こういうのは、まず物理からだ」
いつものレンなら、すぐにスマホを構え、写真を撮り、スプレッドシートかメモアプリにでも数値を並べ始めただろう。
でも今朝のレンは、一拍置いた。
ポケットの上からスマホに触れる。
そこで、指が止まる。
昨日、カフェ《ノーネーム》で紙ナプキンに書いた言葉を思い出しているのだと、ユウリには分かった。
名前を晒すな。助ける時も。
レンは一度だけ小さく舌打ちし、スマホではなく、自分の指で机を数え始めた。
「一、二、三……」
声には出さず、口元だけが動く。
ユウリも一緒に数えた。
前列から順に。
黒板側から。
窓際から。
空席を飛ばすか、含めるかで、数が変わる。
含めると、一つ多い。
飛ばすと、なぜか生徒の数と合う。
ユウリは眉をひそめた。
「……変だ」
「変だよな」
レンも同じ顔をしていた。
「机は一つ多い。けど人数を数えると、合ってる気がする。いや、合ってないのに、合ってるって脳が勝手に処理する」
「認識補正?」
「たぶん。前回の栞さんは、対象の個人情報が記録から抜けてた。今回は逆だ。席の方が、クラスの構造に最初からあったみたいに割り込んでる」
レンは、教室の後ろを見ないようにしながら、目だけで周囲を探った。
「おい、佐伯」
近くを通りかかった男子に声をかける。
「うちのクラスって、今何人だっけ」
「え? 何人って……三十……何人?」
「何人だよ」
「いや、急に聞かれると分かんないって。出席番号は三十六までじゃなかった?」
「三十五じゃなかったか?」
「そうだっけ?」
佐伯は首をひねった。
その様子は、ふざけているようには見えなかった。本当に、数字が手の中からこぼれているような顔をしている。
レンは続けて聞く。
「じゃあ、窓際後ろから二番目の席、誰の席?」
「あそこ?」
佐伯は何気なく空席の方を見た。
ユウリは思わず息を止める。
見るな。
トウマの声が頭をよぎった。
けれど佐伯は、何も異変を感じていないようだった。
「あれ? 前からなかったっけ」
「なかったと思う」
「そうだっけ。転校生用じゃない?」
「転校生、来るの?」
「知らね」
「知らないのに、なんで転校生用って言ったんだよ」
「いや……なんか、そういう感じするじゃん」
佐伯は自分の答えに納得できないような顔をした。けれど、それ以上考えるのをやめたように肩をすくめる。
「ていうか、次の小テストの範囲知らない? そっちの方が怖いんだけど」
そう言って、彼は別の友人の方へ行ってしまった。
レンは苦い顔をした。
「だめだ。疑問が持続しない」
ミオは、自分の席に座ったまま、空席の方を見ないようにしていた。けれど、見ないことで逆にそこを意識しているのが分かる。机の上で両手を重ね、指先だけを小さく動かしている。
ユウリはそっと声をかけた。
「ミオ、大丈夫?」
「うん」
返事はすぐに返ってきた。
それだけで、ユウリは少し安心する。
ミオは自分の手元を見たまま言った。
「あの席、悪いものって感じはしない」
「悪くないの?」
「うん。でも、怖い」
ミオは言葉を探すように目を伏せた。
「泣いている子どもが、誰かの袖を掴んでるみたい。悪気はないけど、掴まれた方は動けなくなる」
ユウリは空席を見そうになって、目を伏せた。
泣いている子ども。
その比喩が、妙に嫌だった。
悪意があるなら、戦えばいい。
危険なら、遠ざければいい。
けれど、寂しがっているだけなら。
待っているだけなら。
それをどう扱えばいいのか。
「ちょっと、女子にも聞いてみる」
レンが言って、近くの女子グループに声をかけた。
「あのさ、窓際の空いてる席って、誰の?」
「え、誰のって……」
一人が振り返る。
もう一人も釣られて見る。
「誰か休んでるんじゃなかった?」
「今日、欠席いたっけ?」
「いないんじゃない?」
「じゃあ、あの席なんなの?」
「えー、知らない。予備?」
「でも予備の席って、あそこに置く?」
「さあ……っていうか、うちのクラスって何人だっけ」
同じところに戻る。
人数が分からない。
席の由来が分からない。
なのに、それをおかしいと思い続けられない。
教室の中で、空席だけが、自然な顔をして不自然を押し通している。
レンは戻ってくると、小さく息を吐いた。
「全員、曖昧。しかも曖昧なことに危機感がない」
「トウマは?」
ユウリは、教室の後ろ側をちらりと見た。
玻璃川トウマは、自分の席で文庫本を開いていた。黒いカバーがかかった本で、タイトルは見えない。彼はページを読んでいるように見えるが、視線は文字の上に落ちていない。
見ないようにしている。
空席も、ユウリたちも、教室のざわめきも。
全部まとめて距離を置いているようで、それでも耳だけは明らかにこちらを向いている。
「完全に無関係って顔してるな」
レンが言う。
「でも、さっき警告してくれた」
「警告だけして放置するタイプだろ、あれ」
レンの言い方は少し雑だったが、ユウリには否定しきれなかった。
トウマは助けるために近づいてくる人間ではない。
でも、知らないふりをして本当に無視できる人間でもない。
その距離感が、ユウリにはまだ掴めない。
「……一枚だけ撮る」
レンが低く言った。
ユウリは彼を見る。
「レン」
「分かってる。拡散しない。クラウドにも上げない。位置情報も切る。顔が入らない角度にする。空席そのものじゃなくて、座席表だけ」
「座席表?」
「黒板の端に貼ってあるやつ。あれなら個人名は映るけど、もうクラスに公開されてるものだし、空席の位置だけ確認できる。あとで歪みが出るか見る」
ユウリは迷った。
昨日なら、レンはここまで説明しなかったと思う。
撮ってから考えたはずだ。
今は違う。
撮る前に、自分で危険を言葉にしている。
記録することが何を固定するのか、それを考えようとしている。
その変化を、ユウリは見た。
「……分かった。でも、変な反応が出たらすぐ消して」
「分かってる」
レンはスマホを取り出し、設定を確認した。クラウド同期を切り、位置情報を切り、余計な自動保存機能も閉じる。その手つきは速いが、いつもより慎重だった。
黒板横の座席表へスマホを向ける。
画面に、クラスの座席配置が映る。
名前が並んでいる。
ユウリの名前。
ミオの名前。
レンの名前。
ほかのクラスメイトたちの名前。
そして、窓際後ろから二番目。
そこだけ、名前欄がない。
空白の四角。
レンが写真を撮る。
次の瞬間、スマホ画面が白く乱れた。
「うわ」
レンが思わず声を漏らす。
ユウリが覗き込む。
撮影された画像には、座席表が映っていた。
けれど、空席の部分だけが白いノイズに覆われている。
紙の上に印刷された空欄ではない。
画像データの中で、そこだけ雪のような粒子が渦巻いている。
そのノイズは、見ている間にも少しずつ形を変えた。
四角くなり、丸くなり、椅子の背もたれのようになり、またただの白い乱れへ戻る。
「これ、昨日と似てるけど違うな」
レンが呟く。
「昨日は人影がノイズになった。今日は空白そのものがノイズになってる」
ユウリのスマホが震える。
アヴィ=シグルが画面に出る。
まだ眠たげな顔をしていたが、解析表示はすでに走り始めていた。
《対象:空席》
《人間ではありません》
《神格ではありません》
《残滓ではありません》
《可能性記録の浮上反応》
《警告:着席判定に注意》
《観測固定率:上昇中》
「可能性記録?」
ユウリが聞く。
アヴィは腕を組んだ。
『簡単に言うと、“そうなったかもしれない記録”だな』
「未練とか、幽霊とかじゃなくて?」
『似てるが違う。幽霊は、基本的には“いたもの”の残りだ。これは“いたかもしれないもの”の浮上に近い』
「いたかもしれないもの……」
『誰かが座るはずだった席。誰かが来るかもしれなかった教室。呼ばれなかった名前。選ばれなかった出席番号。そういう、確定しなかった記録が、神話構文に押されて現実側へ出てきてる』
レンが眉をひそめる。
「じゃあ、人間じゃない?」
『少なくとも今は人間じゃない。神格でもない。神話残滓でもない。ただ、形を得る前の記録が、席という器に入ってる』
「だから“着席判定に注意”か」
『座る、という行為は強い。学校では特にな。席に座れば、その席の人間として扱われる。出席簿に紐づく。クラスの構造に登録される』
アヴィは、少しだけ声を低くした。
『誰かが座れば、席は“空席”ではなくなる。問題は、その時、座ったやつが何として登録されるかだ』
ミオの指が、机の上で止まった。
ユウリはそれに気づく。
「ミオ?」
「……呼んでる」
「空席が?」
ミオはうなずく。
「でも、名前では呼んでない。席があるよって。ここなら、別のものになれるよって」
その言葉に、ユウリの胸がざわついた。
別のものになれる。
それは、誘惑のようにも聞こえる。
救いのようにも聞こえる。
そして、ミオにとっては危険な言葉だった。
星宮ミオではない何か。
女神の器。
理に触れた存在。
まだ名前の定まらない席。
ユウリは思わず言った。
「近づかない方がいい」
「うん」
ミオはうなずいた。
けれど、その視線は空席から完全には離れない。
ユウリは、トウマの方を見た。
彼はまだ文庫本を開いている。
けれど、もう読んでいるふりすらしていなかった。目線は伏せたままだが、顎の角度が少しだけ硬い。
ユウリは席を立った。
レンが小声で言う。
「行くのか?」
「うん」
「噛みつかれるぞ」
「犬じゃないんだから」
「いや、似たようなもんだろ」
そのやり取りが聞こえたのか、トウマの眉がわずかに動いた。
ユウリは、トウマの席の横に立った。
「トウマ」
「何」
即答だった。
顔は上げない。
「さっきの空席のこと、何か知ってるの?」
「知ってるわけじゃない」
トウマは短く答えた。
「じゃあ、なんで見るなって言ったの」
「見たらまずいと思ったから」
「どうして?」
トウマは文庫本を閉じた。
ぱたん、という小さな音が、妙にはっきり聞こえる。
彼はようやくユウリを見上げた。
「お前、昨日の件で何を学んだ?」
「昨日?」
「名前を呼ぶことは、救いにもなるし、鍵にもなる。そういう話だったんだろ」
ユウリは息を呑んだ。
「……見てたの?」
「見てない。聞いてない。けど、お前たちの顔を見れば分かる」
トウマの声は冷たい。
けれど、的を外していなかった。
「空いてる席も同じだ。席は、人を呼ぶ。名前のない席は、名前のあるやつを欲しがる」
ユウリは黙った。
トウマは続ける。
「席っていうのは、ただの家具じゃない。学校では特にそうだ。そこに座るやつの名前、出席番号、成績、友人関係、教師からの認識。全部つながる。空席は、つながる相手がいない状態だ」
「だから、誰かを座らせようとする?」
「そうだ」
トウマは視線を空席へ向けないまま言った。
「悪意があるかどうかは関係ない。空いてる穴は埋まろうとする。埋めるものがなければ、近くにあるものを引っ張る」
「近くにあるものって」
「名前が揺らいでるやつ。居場所に迷ってるやつ。別の何かになりかけてるやつ」
その言葉が、ミオに向けられているのは明らかだった。
ユウリは、声を落とす。
「ミオのこと?」
トウマは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「じゃあ、どうすればいいの」
「近づけるな。見せるな。触らせるな。できれば、席ごと消す」
「消すって」
「切る」
その一言は、妙に冷たかった。
切る。
それは比喩ではないように聞こえた。
ユウリは、トウマの横顔を見た。彼の表情は変わらない。けれど、その瞳の奥には、硬く閉じた扉のようなものがある。
「トウマは、前にもこういうのを見たことがあるの?」
聞いた瞬間、トウマの目が細くなった。
空気が少しだけ冷えた。
「ない」
短い答え。
でも、嘘だと思った。
少なくとも、何か似たものを知っている。
空いた席。
痕跡だけ残る誰か。
名前のない場所。
トウマは、それを知っている顔をしていた。
ユウリがさらに聞こうとした時だった。
ミオの小さな声がした。
「……これ」
振り向くと、ミオが空席の近くに立っていた。
ユウリの心臓が跳ねる。
「ミオ!」
「近づかないって言っただろ!」
レンも声を上げる。
ミオはびくりとして、こちらを見た。
「ごめん。でも、落ちたの」
彼女の足元に、一冊のノートが落ちていた。
いつ落ちたのか分からない。
空席の机の中から滑り出したのだろうか。
それとも、最初から床にあったのに、誰も気づかなかったのか。
表紙は白い。
名前欄はある。
けれど、何も書かれていない。
ユウリは慌てて近づこうとして、トウマに腕を掴まれた。
「触るな」
「でも、ミオが」
「だから止めろ」
トウマの声には、明らかな焦りが混じっていた。
ミオは、まだノートには触れていなかった。
ただ、しゃがみ込んで、表紙を見つめている。
白いノート。
新品のようにも見える。
けれど、紙の端は少し黄ばんでいて、古い匂いがしそうだった。
ミオは、ゆっくり手を伸ばした。
「ミオ、待って」
ユウリの声が届くより早く、ミオの指先がノートの角に触れた。
その瞬間。
教室の音が消えた。
ざわめきも、廊下の足音も、遠くのチャイム予鈴も、すべて水の中へ沈んだように遠ざかる。
窓から差し込んでいた昼の光が、青黒く変わった。
ユウリは息を止めた。
教室全体が、夜になっていた。
天井がない。
いや、天井はある。
蛍光灯もある。
けれど、その向こう側に深い夜空が透けて見える。
無数の星が、黒板の上、窓の外、床の反射、机の天板にまで散っている。まるで教室そのものが、星空の中に沈んでいるようだった。
生徒たちは動かない。
笑っていた姿勢のまま。
歩きかけた足のまま。
ページをめくる手のまま。
すべてが薄い星明かりの中で静止している。
動けるのは、ユウリ、ミオ、レン、トウマだけだった。
そして、空席。
空席の机の上に、白いノートが開いている。
ミオの指先が、まだそのページに触れていた。
ユウリは駆け寄り、ノートを見た。
最初のページに、文字があった。
わたしは、今日からこのクラスにいます。
その下に、名前欄。
名前:
空白。
何も書かれていない。
けれど、その空白はただの白紙ではなかった。
そこに、誰かの名前が入るのを待っている。
ミオの指先が、名前欄のすぐそばにある。
ユウリは思わずミオの手を掴んだ。
「ミオ、離して」
「うん……」
ミオは答えた。
けれど、声が遠い。
彼女の瞳には星が映っている。
黒い夜空と、いくつもの名前にならなかった光。
トウマが低く舌打ちした。
「だから触るなって言った」
「今それ言ってる場合かよ!」
レンが叫ぶ。
彼もスマホを手にしていたが、画面は星の砂嵐で埋まっている。AVIS一般版も、カメラも、時計も、全部が星明かりのノイズになっていた。
ユウリのスマホだけが、かろうじて動いている。
アヴィ=シグルの声が、途切れ途切れに響いた。
『……着席判定、上昇……まずい、名前欄に触れさせるな……』
「分かってる!」
ユウリはミオの手を引いた。
その時、黒板にチョークの音がした。
誰もいない黒板。
そこに、白い文字がひとりでに浮かんでいく。
かり、かり、かり。
乾いた音が、星空の教室に響く。
次に座るのは、だれ?
文字が書かれた瞬間、空席の椅子が、きい、と小さく動いた。
まるで、誰かに席を譲るように。
あるいは、誰かを招くように。
ユウリはミオの手を強く握った。
「ミオ」
名前を呼ぶ。
ミオの瞳が、少しだけ揺れた。
「星宮ミオ」
もう一度呼ぶ。
ミオの唇が震える。
「……ユウリ」
その声が戻った瞬間、ユウリは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
けれど、夜の教室はまだ消えない。
黒板の文字は、星明かりの中で白く浮かんでいる。
次に座るのは、だれ?
トウマが、ユウリの横に立った。
彼は空席を見ていない。
黒板も見ていない。
ただ、ノートだけを睨んでいる。
「このまま放っておくと、名前を入れられる」
「誰の?」
ユウリが聞く。
トウマは、短く答えた。
「一番、空いているやつの」
その視線が、一瞬だけミオへ向いた。
ユウリは、ミオの手を離さなかった。




