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現代神話構文黙示録 〜スマホアプリ《AVIS》と未定義の神々〜  作者: 秋月キアラ
第9話 ― 星綴高等学園と空席の出席簿
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第1節 ― 出席番号、空欄

 休み時間になると、教室はすぐにいつもの音を取り戻した。


 椅子を引く音。

 机の横をすり抜ける足音。

 誰かが購買のパンを予約していたかどうかで騒ぐ声。

 次の授業の小テスト範囲を確認する声。

 スマホを見ながら笑う声。


 ホームルームの間に教室を覆っていた、あの薄い膜のような緊張は、チャイムと同時にほどけたように見えた。


 けれど、ユウリには戻っていなかった。


 担任が置いていったはずの出席簿は、いつの間にか教卓から消えていた。持って出たのか、最初からそこになかったのか、もう分からない。ただ、ユウリの目には、さっき空欄の横に浮かんだ一文字が焼きついている。


 在。


 いる。


 名前はないのに、出席している。


 それは昨日の栞とは違う不気味さだった。栞には、薄くても声があった。怖がっていた。逃げていた。こちらの問いに、答えようとしてくれた。


 けれど、あの空席には声がない。


 待っているという気配だけがある。


「……なあ、本気で数えるぞ」


 レンが、机の端に腰を預けながら低く言った。


「数えるって?」


「人数。机。椅子。出席番号。こういうのは、まず物理からだ」


 いつものレンなら、すぐにスマホを構え、写真を撮り、スプレッドシートかメモアプリにでも数値を並べ始めただろう。


 でも今朝のレンは、一拍置いた。


 ポケットの上からスマホに触れる。

 そこで、指が止まる。


 昨日、カフェ《ノーネーム》で紙ナプキンに書いた言葉を思い出しているのだと、ユウリには分かった。


 名前を晒すな。助ける時も。


 レンは一度だけ小さく舌打ちし、スマホではなく、自分の指で机を数え始めた。


「一、二、三……」


 声には出さず、口元だけが動く。


 ユウリも一緒に数えた。


 前列から順に。

 黒板側から。

 窓際から。

 空席を飛ばすか、含めるかで、数が変わる。


 含めると、一つ多い。

 飛ばすと、なぜか生徒の数と合う。


 ユウリは眉をひそめた。


「……変だ」


「変だよな」


 レンも同じ顔をしていた。


「机は一つ多い。けど人数を数えると、合ってる気がする。いや、合ってないのに、合ってるって脳が勝手に処理する」


「認識補正?」


「たぶん。前回の栞さんは、対象の個人情報が記録から抜けてた。今回は逆だ。席の方が、クラスの構造に最初からあったみたいに割り込んでる」


 レンは、教室の後ろを見ないようにしながら、目だけで周囲を探った。


「おい、佐伯」


 近くを通りかかった男子に声をかける。


「うちのクラスって、今何人だっけ」


「え? 何人って……三十……何人?」


「何人だよ」


「いや、急に聞かれると分かんないって。出席番号は三十六までじゃなかった?」


「三十五じゃなかったか?」


「そうだっけ?」


 佐伯は首をひねった。


 その様子は、ふざけているようには見えなかった。本当に、数字が手の中からこぼれているような顔をしている。


 レンは続けて聞く。


「じゃあ、窓際後ろから二番目の席、誰の席?」


「あそこ?」


 佐伯は何気なく空席の方を見た。


 ユウリは思わず息を止める。


 見るな。

 トウマの声が頭をよぎった。


 けれど佐伯は、何も異変を感じていないようだった。


「あれ? 前からなかったっけ」


「なかったと思う」


「そうだっけ。転校生用じゃない?」


「転校生、来るの?」


「知らね」


「知らないのに、なんで転校生用って言ったんだよ」


「いや……なんか、そういう感じするじゃん」


 佐伯は自分の答えに納得できないような顔をした。けれど、それ以上考えるのをやめたように肩をすくめる。


「ていうか、次の小テストの範囲知らない? そっちの方が怖いんだけど」


 そう言って、彼は別の友人の方へ行ってしまった。


 レンは苦い顔をした。


「だめだ。疑問が持続しない」


 ミオは、自分の席に座ったまま、空席の方を見ないようにしていた。けれど、見ないことで逆にそこを意識しているのが分かる。机の上で両手を重ね、指先だけを小さく動かしている。


 ユウリはそっと声をかけた。


「ミオ、大丈夫?」


「うん」


 返事はすぐに返ってきた。


 それだけで、ユウリは少し安心する。


 ミオは自分の手元を見たまま言った。


「あの席、悪いものって感じはしない」


「悪くないの?」


「うん。でも、怖い」


 ミオは言葉を探すように目を伏せた。


「泣いている子どもが、誰かの袖を掴んでるみたい。悪気はないけど、掴まれた方は動けなくなる」


 ユウリは空席を見そうになって、目を伏せた。


 泣いている子ども。


 その比喩が、妙に嫌だった。


 悪意があるなら、戦えばいい。

 危険なら、遠ざければいい。

 けれど、寂しがっているだけなら。

 待っているだけなら。

 それをどう扱えばいいのか。


「ちょっと、女子にも聞いてみる」


 レンが言って、近くの女子グループに声をかけた。


「あのさ、窓際の空いてる席って、誰の?」


「え、誰のって……」


 一人が振り返る。

 もう一人も釣られて見る。


「誰か休んでるんじゃなかった?」


「今日、欠席いたっけ?」


「いないんじゃない?」


「じゃあ、あの席なんなの?」


「えー、知らない。予備?」


「でも予備の席って、あそこに置く?」


「さあ……っていうか、うちのクラスって何人だっけ」


 同じところに戻る。


 人数が分からない。

 席の由来が分からない。

 なのに、それをおかしいと思い続けられない。


 教室の中で、空席だけが、自然な顔をして不自然を押し通している。


 レンは戻ってくると、小さく息を吐いた。


「全員、曖昧。しかも曖昧なことに危機感がない」


「トウマは?」


 ユウリは、教室の後ろ側をちらりと見た。


 玻璃川トウマは、自分の席で文庫本を開いていた。黒いカバーがかかった本で、タイトルは見えない。彼はページを読んでいるように見えるが、視線は文字の上に落ちていない。


 見ないようにしている。


 空席も、ユウリたちも、教室のざわめきも。

 全部まとめて距離を置いているようで、それでも耳だけは明らかにこちらを向いている。


「完全に無関係って顔してるな」


 レンが言う。


「でも、さっき警告してくれた」


「警告だけして放置するタイプだろ、あれ」


 レンの言い方は少し雑だったが、ユウリには否定しきれなかった。


 トウマは助けるために近づいてくる人間ではない。

 でも、知らないふりをして本当に無視できる人間でもない。


 その距離感が、ユウリにはまだ掴めない。


「……一枚だけ撮る」


 レンが低く言った。


 ユウリは彼を見る。


「レン」


「分かってる。拡散しない。クラウドにも上げない。位置情報も切る。顔が入らない角度にする。空席そのものじゃなくて、座席表だけ」


「座席表?」


「黒板の端に貼ってあるやつ。あれなら個人名は映るけど、もうクラスに公開されてるものだし、空席の位置だけ確認できる。あとで歪みが出るか見る」


 ユウリは迷った。


 昨日なら、レンはここまで説明しなかったと思う。

 撮ってから考えたはずだ。


 今は違う。


 撮る前に、自分で危険を言葉にしている。

 記録することが何を固定するのか、それを考えようとしている。


 その変化を、ユウリは見た。


「……分かった。でも、変な反応が出たらすぐ消して」


「分かってる」


 レンはスマホを取り出し、設定を確認した。クラウド同期を切り、位置情報を切り、余計な自動保存機能も閉じる。その手つきは速いが、いつもより慎重だった。


 黒板横の座席表へスマホを向ける。


 画面に、クラスの座席配置が映る。


 名前が並んでいる。

 ユウリの名前。

 ミオの名前。

 レンの名前。

 ほかのクラスメイトたちの名前。


 そして、窓際後ろから二番目。


 そこだけ、名前欄がない。


 空白の四角。


 レンが写真を撮る。


 次の瞬間、スマホ画面が白く乱れた。


「うわ」


 レンが思わず声を漏らす。


 ユウリが覗き込む。


 撮影された画像には、座席表が映っていた。

 けれど、空席の部分だけが白いノイズに覆われている。


 紙の上に印刷された空欄ではない。

 画像データの中で、そこだけ雪のような粒子が渦巻いている。


 そのノイズは、見ている間にも少しずつ形を変えた。

 四角くなり、丸くなり、椅子の背もたれのようになり、またただの白い乱れへ戻る。


「これ、昨日と似てるけど違うな」


 レンが呟く。


「昨日は人影がノイズになった。今日は空白そのものがノイズになってる」


 ユウリのスマホが震える。


 アヴィ=シグルが画面に出る。

 まだ眠たげな顔をしていたが、解析表示はすでに走り始めていた。


《対象:空席》

《人間ではありません》

《神格ではありません》

《残滓ではありません》

《可能性記録の浮上反応》

《警告:着席判定に注意》

《観測固定率:上昇中》


「可能性記録?」


 ユウリが聞く。


 アヴィは腕を組んだ。


『簡単に言うと、“そうなったかもしれない記録”だな』


「未練とか、幽霊とかじゃなくて?」


『似てるが違う。幽霊は、基本的には“いたもの”の残りだ。これは“いたかもしれないもの”の浮上に近い』


「いたかもしれないもの……」


『誰かが座るはずだった席。誰かが来るかもしれなかった教室。呼ばれなかった名前。選ばれなかった出席番号。そういう、確定しなかった記録が、神話構文に押されて現実側へ出てきてる』


 レンが眉をひそめる。


「じゃあ、人間じゃない?」


『少なくとも今は人間じゃない。神格でもない。神話残滓でもない。ただ、形を得る前の記録が、席という器に入ってる』


「だから“着席判定に注意”か」


『座る、という行為は強い。学校では特にな。席に座れば、その席の人間として扱われる。出席簿に紐づく。クラスの構造に登録される』


 アヴィは、少しだけ声を低くした。


『誰かが座れば、席は“空席”ではなくなる。問題は、その時、座ったやつが何として登録されるかだ』


 ミオの指が、机の上で止まった。


 ユウリはそれに気づく。


「ミオ?」


「……呼んでる」


「空席が?」


 ミオはうなずく。


「でも、名前では呼んでない。席があるよって。ここなら、別のものになれるよって」


 その言葉に、ユウリの胸がざわついた。


 別のものになれる。


 それは、誘惑のようにも聞こえる。

 救いのようにも聞こえる。

 そして、ミオにとっては危険な言葉だった。


 星宮ミオではない何か。

 女神の器。

 理に触れた存在。

 まだ名前の定まらない席。


 ユウリは思わず言った。


「近づかない方がいい」


「うん」


 ミオはうなずいた。


 けれど、その視線は空席から完全には離れない。


 ユウリは、トウマの方を見た。


 彼はまだ文庫本を開いている。

 けれど、もう読んでいるふりすらしていなかった。目線は伏せたままだが、顎の角度が少しだけ硬い。


 ユウリは席を立った。


 レンが小声で言う。


「行くのか?」


「うん」


「噛みつかれるぞ」


「犬じゃないんだから」


「いや、似たようなもんだろ」


 そのやり取りが聞こえたのか、トウマの眉がわずかに動いた。


 ユウリは、トウマの席の横に立った。


「トウマ」


「何」


 即答だった。


 顔は上げない。


「さっきの空席のこと、何か知ってるの?」


「知ってるわけじゃない」


 トウマは短く答えた。


「じゃあ、なんで見るなって言ったの」


「見たらまずいと思ったから」


「どうして?」


 トウマは文庫本を閉じた。


 ぱたん、という小さな音が、妙にはっきり聞こえる。


 彼はようやくユウリを見上げた。


「お前、昨日の件で何を学んだ?」


「昨日?」


「名前を呼ぶことは、救いにもなるし、鍵にもなる。そういう話だったんだろ」


 ユウリは息を呑んだ。


「……見てたの?」


「見てない。聞いてない。けど、お前たちの顔を見れば分かる」


 トウマの声は冷たい。


 けれど、的を外していなかった。


「空いてる席も同じだ。席は、人を呼ぶ。名前のない席は、名前のあるやつを欲しがる」


 ユウリは黙った。


 トウマは続ける。


「席っていうのは、ただの家具じゃない。学校では特にそうだ。そこに座るやつの名前、出席番号、成績、友人関係、教師からの認識。全部つながる。空席は、つながる相手がいない状態だ」


「だから、誰かを座らせようとする?」


「そうだ」


 トウマは視線を空席へ向けないまま言った。


「悪意があるかどうかは関係ない。空いてる穴は埋まろうとする。埋めるものがなければ、近くにあるものを引っ張る」


「近くにあるものって」


「名前が揺らいでるやつ。居場所に迷ってるやつ。別の何かになりかけてるやつ」


 その言葉が、ミオに向けられているのは明らかだった。


 ユウリは、声を落とす。


「ミオのこと?」


 トウマは答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


「じゃあ、どうすればいいの」


「近づけるな。見せるな。触らせるな。できれば、席ごと消す」


「消すって」


「切る」


 その一言は、妙に冷たかった。


 切る。


 それは比喩ではないように聞こえた。


 ユウリは、トウマの横顔を見た。彼の表情は変わらない。けれど、その瞳の奥には、硬く閉じた扉のようなものがある。


「トウマは、前にもこういうのを見たことがあるの?」


 聞いた瞬間、トウマの目が細くなった。


 空気が少しだけ冷えた。


「ない」


 短い答え。


 でも、嘘だと思った。


 少なくとも、何か似たものを知っている。


 空いた席。

 痕跡だけ残る誰か。

 名前のない場所。


 トウマは、それを知っている顔をしていた。


 ユウリがさらに聞こうとした時だった。


 ミオの小さな声がした。


「……これ」


 振り向くと、ミオが空席の近くに立っていた。


 ユウリの心臓が跳ねる。


「ミオ!」


「近づかないって言っただろ!」


 レンも声を上げる。


 ミオはびくりとして、こちらを見た。


「ごめん。でも、落ちたの」


 彼女の足元に、一冊のノートが落ちていた。


 いつ落ちたのか分からない。

 空席の机の中から滑り出したのだろうか。

 それとも、最初から床にあったのに、誰も気づかなかったのか。


 表紙は白い。


 名前欄はある。

 けれど、何も書かれていない。


 ユウリは慌てて近づこうとして、トウマに腕を掴まれた。


「触るな」


「でも、ミオが」


「だから止めろ」


 トウマの声には、明らかな焦りが混じっていた。


 ミオは、まだノートには触れていなかった。

 ただ、しゃがみ込んで、表紙を見つめている。


 白いノート。


 新品のようにも見える。

 けれど、紙の端は少し黄ばんでいて、古い匂いがしそうだった。


 ミオは、ゆっくり手を伸ばした。


「ミオ、待って」


 ユウリの声が届くより早く、ミオの指先がノートの角に触れた。


 その瞬間。


 教室の音が消えた。


 ざわめきも、廊下の足音も、遠くのチャイム予鈴も、すべて水の中へ沈んだように遠ざかる。


 窓から差し込んでいた昼の光が、青黒く変わった。


 ユウリは息を止めた。


 教室全体が、夜になっていた。


 天井がない。


 いや、天井はある。

 蛍光灯もある。

 けれど、その向こう側に深い夜空が透けて見える。


 無数の星が、黒板の上、窓の外、床の反射、机の天板にまで散っている。まるで教室そのものが、星空の中に沈んでいるようだった。


 生徒たちは動かない。


 笑っていた姿勢のまま。

 歩きかけた足のまま。

 ページをめくる手のまま。

 すべてが薄い星明かりの中で静止している。


 動けるのは、ユウリ、ミオ、レン、トウマだけだった。


 そして、空席。


 空席の机の上に、白いノートが開いている。


 ミオの指先が、まだそのページに触れていた。


 ユウリは駆け寄り、ノートを見た。


 最初のページに、文字があった。


わたしは、今日からこのクラスにいます。


 その下に、名前欄。


名前:


 空白。


 何も書かれていない。


 けれど、その空白はただの白紙ではなかった。

 そこに、誰かの名前が入るのを待っている。


 ミオの指先が、名前欄のすぐそばにある。


 ユウリは思わずミオの手を掴んだ。


「ミオ、離して」


「うん……」


 ミオは答えた。


 けれど、声が遠い。


 彼女の瞳には星が映っている。

 黒い夜空と、いくつもの名前にならなかった光。


 トウマが低く舌打ちした。


「だから触るなって言った」


「今それ言ってる場合かよ!」


 レンが叫ぶ。


 彼もスマホを手にしていたが、画面は星の砂嵐で埋まっている。AVIS一般版も、カメラも、時計も、全部が星明かりのノイズになっていた。


 ユウリのスマホだけが、かろうじて動いている。


 アヴィ=シグルの声が、途切れ途切れに響いた。


『……着席判定、上昇……まずい、名前欄に触れさせるな……』


「分かってる!」


 ユウリはミオの手を引いた。


 その時、黒板にチョークの音がした。


 誰もいない黒板。


 そこに、白い文字がひとりでに浮かんでいく。


 かり、かり、かり。


 乾いた音が、星空の教室に響く。


次に座るのは、だれ?


 文字が書かれた瞬間、空席の椅子が、きい、と小さく動いた。


 まるで、誰かに席を譲るように。


 あるいは、誰かを招くように。


 ユウリはミオの手を強く握った。


「ミオ」


 名前を呼ぶ。


 ミオの瞳が、少しだけ揺れた。


「星宮ミオ」


 もう一度呼ぶ。


 ミオの唇が震える。


「……ユウリ」


 その声が戻った瞬間、ユウリは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 けれど、夜の教室はまだ消えない。


 黒板の文字は、星明かりの中で白く浮かんでいる。


次に座るのは、だれ?


 トウマが、ユウリの横に立った。


 彼は空席を見ていない。

 黒板も見ていない。

 ただ、ノートだけを睨んでいる。


「このまま放っておくと、名前を入れられる」


「誰の?」


 ユウリが聞く。


 トウマは、短く答えた。


「一番、空いているやつの」


 その視線が、一瞬だけミオへ向いた。


 ユウリは、ミオの手を離さなかった。

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