序節 ― 一つ多い机
翌朝の星綴高等学園は、いつも通りに騒がしかった。
昇降口には、雨も降っていないのに傘を振り回す男子がいて、下駄箱の前では誰かが提出期限のプリントを探して鞄をひっくり返している。廊下の窓は朝の光を受けて白く光り、吹奏楽部の朝練の音が、校舎のどこか遠い場所からかすかに流れていた。
笑い声。
上履きの音。
机を引く音。
スマホの通知音。
誰かが誰かの名前を呼ぶ声。
学校という場所は、名前でできているのだと、ユウリはふと思った。
出席番号。
座席表。
ロッカーの札。
テストの答案。
提出物の名簿。
呼ばれれば返事をして、いなければ欠席になる。
当たり前のことだった。
少し前までは、意識したこともなかった。
けれど、昨日のカフェ《ノーネーム》で、空欄のレシートを見た後では、その当たり前が少しだけ違って見える。
名前があること。
呼ばれること。
記録されること。
覚えられること。
それらは、ただ便利な仕組みではない。
人が世界の中に座っているための、細い糸のようなものなのかもしれなかった。
「ユウリ、靴箱の前で哲学するな。詰まってる」
後ろからレンに言われ、ユウリは我に返った。
「あ、ごめん」
「朝から顔が重いぞ。カフェイン足りてないんじゃないか?」
「昨日、飲んだだろ」
「昨日の分は昨日の分。今日の分は今日の分」
「それ、ただ飲みたいだけだよね」
レンは軽く肩をすくめる。
いつも通りの調子に聞こえる。
けれど、ユウリには少しだけ分かった。
レンは昨日から、いつもよりスマホを見る回数が減っている。
手持ち無沙汰になると、無意識にポケットへ指を伸ばす。けれど、すぐに手を止める。何かを検索したい。記録したい。確認したい。でも、昨日の紙ナプキンの言葉が、その指を一度止めている。
名前を晒すな。助ける時も。
レンが自分で書いたメモだ。
あれを財布に入れる時のレンの顔を、ユウリはまだ覚えていた。
「栞さん、今日も来るかな」
隣を歩いていたミオが、小さく言った。
彼女は下駄箱から上履きを出し、少しだけ視線を落としている。
その声は、ただ昨日のことを思い出しているだけではなかった。どこか、自分自身のことを確かめるようでもあった。
「カフェに?」
ユウリが聞くと、ミオはうなずいた。
「うん。あのレシート、持ってたよね。ちゃんと戻ってこられるかなって」
「戻ってこられると思う」
ユウリは答えた。
自信があるわけではない。
ただ、そうであってほしいと思った。
ミオは少しだけ笑う。
「ユウリ、昨日から“たぶん”を言わなくなったね」
「あ」
「今のは、いいと思う」
そう言って、ミオは先に廊下へ歩き出した。
朝の光の中で、彼女の横顔は普通の高校生に見えた。制服の袖、少し揺れる髪、鞄についた小さな星形のキーホルダー。けれど、その普通さを守ることが、今のユウリにはひどく大事に思えた。
星宮ミオ。
ユウリは、心の中でその名前をもう一度呼ぶ。
女神でも、器でも、理触者でもなく。
今、廊下を歩いている一人の少女の名前として。
教室へ入ると、いつもの朝のざわめきがあった。
窓際では女子たちが昨日の配信番組の話をしている。前の席では男子が小テストの範囲をめぐって騒いでいる。黒板には、日直が途中まで書いた日付と連絡事項があり、チョークの粉が朝日にきらきら浮いていた。
机の配置も、見慣れたものだった。
前から何列目。
窓際から何番目。
ユウリの席。
レンの席。
ミオの席。
当たり前の教室。
そのはずだった。
ユウリは、自分の席に鞄を置きかけて、ふと手を止めた。
何かが違う。
すぐには分からなかった。
黒板も同じ。
窓も同じ。
カーテンの端が少しほつれているのも同じ。
後ろの掲示板に貼られた進路希望調査の紙も、昨日と変わらない。
けれど、教室の奥行きが、ほんの少しだけ広い。
そんな気がした。
「……なあ」
隣でレンも同じように立ち止まっていた。
彼は鞄を肩にかけたまま、教室の後方を見ている。
「ユウリ。あそこ、前から机あったか?」
ユウリは、レンの視線を追った。
窓際。
後ろから二番目。
そこに、机が一つあった。
誰も座っていない机。
椅子はきちんと収められている。机の上には何もない。落書きもない。教科書もない。鞄もない。けれど、そこにだけ朝の光が少し強く当たっていて、天板の木目が妙に白く浮かんで見えた。
空席。
ただの空席だ。
そう思おうとした瞬間、ユウリの喉が少し乾いた。
教室に空席があること自体は珍しくない。欠席者がいれば空くし、掃除の後に机の位置がずれることもある。転校生用に余分な机を出しておくことだって、あるかもしれない。
けれど、その机は、最初からそこにあるような顔をしていた。
誰かが今朝運び込んだのではない。
教室が作られた時から、そこだけ空いていたような自然さで、そこにある。
「……分からない」
ユウリは正直に言った。
「昨日、あった?」
「なかった、と思う。いや、なかったよな。俺、後ろの席のやつにプリント借りた時、あのへん通ったし」
「じゃあ、誰か欠席?」
「欠席なら席は元からあるだろ。そうじゃなくて、机の数が……」
レンは途中で言葉を止めた。
数え始めたのだ。
机の数。
クラスの人数。
座っている生徒。
空いている席。
レンの眉間にしわが寄る。
「合わない」
「どう合わない?」
「机が一つ多い。たぶん。でも人数を数えると、合ってる気もする」
「どっちだよ」
「それが気持ち悪いんだよ。数え直すたびに、頭の中で勝手に補正される」
レンは自分の額を軽く叩いた。
「待て。これ、昨日のレシートと同じ系統じゃないか?」
その言葉を聞いた瞬間、ユウリのポケットの中でスマホが震えた。
AVIS。
画面を開く前に、嫌な予感がした。
青白い円環が立ち上がる。
アヴィ=シグルが、眠そうな顔を出しかけ、教室の奥を見た瞬間に表情を変えた。
『……朝から何だよ』
「こっちが聞きたい」
ユウリは小声で答える。
画面に文字が走った。
《微弱神話構文反応》
《識別対象:空席》
《分類:未着席/未登録/未観測》
《対象名:なし》
《出席状態:保留》
《警告:視線固定を避けてください》
ユウリは、思わず目を逸らした。
「視線固定を避けろって」
レンもスマホを覗き込み、顔をしかめる。
「見るなってことか?」
『正確には、見続けるな、だな』
アヴィが言った。
『対象が“見られること”で輪郭を得るタイプの反応だ。観測されるほど、そこにある理由を作り始める』
「机なのに?」
『机とは限らない。今は机として見えてるだけだ』
その言い方に、ユウリは背中が少し冷えるのを感じた。
机として見えているだけ。
つまり、本当は別の何かかもしれない。
あるいは、まだ何にもなっていないのかもしれない。
ミオは、教室の入口に立ったまま、その空席を見ていた。
さっきまでの柔らかい表情が消えている。
目を凝らしているわけではない。むしろ、見たくないものを見てしまったような顔だった。
「ミオ」
ユウリが呼ぶ。
ミオは少し遅れて振り向いた。
「……あの席」
「何か感じる?」
「誰か、待ってる」
ミオは、ぽつりと言った。
「でも、誰を待ってるのか分からない。待ってるっていうより、空いていることが怖いみたい」
「空いていることが?」
ミオはうなずく。
「うん。ずっと空いていると、自分が何のためにあるのか分からなくなるから」
ユウリは、もう一度空席を見そうになり、慌てて視線を落とした。
見続けるな。
そう言われると、余計に気になる。
教室の中では、ほかの生徒たちが相変わらず普通に過ごしている。誰もその机を気にしていない。空席のすぐ近くで友人と話している生徒もいるのに、まるでそこだけ目に入っていないようだった。
いや、目に入っているのかもしれない。
入っているけれど、疑問に思わない。
それが一番気味悪かった。
「なあ、あそこって誰の席?」
レンが近くの男子に聞いた。
男子は振り向き、空席の方をちらりと見る。
「あそこ? 誰のって……」
彼は少し首を傾げた。
「転校生用じゃね?」
「転校生来るの?」
「知らね」
「じゃあ、なんで転校生用って思ったんだよ」
「え、だって……そういう席っぽくない?」
男子は自分で言いながら、少し困った顔をした。
別の女子にも聞いてみる。
「あの席? 前からなかったっけ」
「なかったと思う」
「そうだっけ。なんか、ずっと空いてる気がするけど」
「誰か休んでるんじゃない?」
「うちのクラス、今日欠席いる?」
「えっと……分かんない。何人だっけ、うち」
会話が、そこで曖昧にほどける。
誰もはっきり答えない。
けれど、誰も本気で不安がらない。
それは、記憶が抜けているというより、疑問を持つ手前で思考が丸め込まれているようだった。
昨日の栞は、誰にも覚えられなかった。
今日の空席は、誰にも不審がられない。
似ているようで、違う。
ユウリは、そう感じた。
やがてチャイムが鳴った。
朝のホームルームの時間。
生徒たちが慌ただしく席へ戻る。椅子が引かれ、机が鳴り、教室の空気が授業前の形へ整っていく。
空席は、やはり空いたままだった。
誰も座らない。
誰もそこが空いていることを気にしない。
担任が出席簿を持って入ってきた。
「はい、席つけ。朝から騒がしいぞ」
いつもの声。
いつもの足取り。
いつもの出席簿。
ユウリは、自分の席に座りながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
担任は黒板の前に立ち、出席簿を開く。
「じゃあ、出席取るぞ」
名前が呼ばれ始める。
一人目。
返事。
二人目。
返事。
三人目。
少し眠そうな声。
四人目。
欠席ではなく、遅刻気味に手を上げる声。
いつもの朝。
名前を呼ばれ、返事をする。
いることを確認される。
ユウリは、その単純なやり取りに妙な緊張を覚えていた。
名前は、呼ばれることで席に結びつく。
もし、呼ばれない名前があったら。
もし、名前のない席だけがあったら。
出席簿のページをめくる音がした。
担任の声が、途中で止まった。
「……」
ほんの一瞬。
けれど、ユウリにははっきり分かった。
担任が、何かの名前を読もうとして、読めなかった。
教室の空気が、薄く波打つ。
誰も気づいていないようで、数人がなんとなく顔を上げた。
ミオは机の上で指を握りしめている。
レンは口元だけを動かして、何かを数えている。
ユウリのスマホは、膝の上で微かに震え続けていた。
担任は眉をひそめ、出席簿を見下ろす。
「……ん?」
小さな声。
それから、何かをごまかすように咳払いをした。
「次、天瀬」
「はい」
ユウリは返事をした。
自分の名前が呼ばれた瞬間、少しだけ体が戻ってくる感覚があった。
出席簿に自分の名前があり、それを教師が読み、自分が返事をする。
ただそれだけで、自分がこの教室に座っていることが確かになる。
そのことが、少し怖かった。
名前を呼ばれない席は、どうなるのだろう。
担任はそのまま出席を取り続けた。
ミオの名前も呼ばれる。
「星宮」
「はい」
ミオの返事は、ほんの少しだけ遅れた。
ユウリは思わず振り向く。
ミオは大丈夫、というように小さくうなずいた。けれど、その顔色はよくない。
出席が終わり、担任が連絡事項へ移る。
文化祭準備の予定。
進路希望調査の再提出。
保健室からの注意。
どれも普通の連絡だった。
ただ、担任の指先が、ずっと出席簿の同じ位置を押さえていた。
まるで、そこにある空欄が勝手に開かないようにしているみたいに。
ユウリは、教室の後方へ視線を向けそうになった。
その瞬間だった。
「見るな」
低い声がした。
ユウリは反射的に振り向く。
教室の後ろ側。
窓とは反対の列。
玻璃川トウマが、机に肘をついたまま、こちらを見ていた。
黒に近い髪。
白い肌。
いつも少し眠たげにも、不機嫌にも見える目。
教室の中にいながら、どこか一人だけ温度が低い。
トウマは、空席を見ていなかった。
見ないようにしているのだと、ユウリには分かった。
「トウマ?」
レンが小声で言う。
トウマは、レンには答えなかった。
ユウリだけを見る。
「見ていると、座らせられる」
その言葉に、ユウリの背筋が凍った。
「座らせられるって、誰が」
「知らない」
トウマは短く言った。
「でも、空いてる席っていうのは、たいてい誰かを待ってる。待ってるものに、むやみに目を合わせるな」
ミオが、少しだけ息を呑んだ。
トウマの視線が、一瞬だけミオへ動く。
その目に、奇妙な感情が浮かんだ。
警戒。
苛立ち。
それから、ほんのわずかな痛み。
けれど、トウマはすぐに顔を背けた。
「特に、名前が不安定なやつは」
ミオの肩が、かすかに揺れる。
ユウリは思わず言った。
「ミオは不安定なやつじゃない」
声が少し強くなった。
トウマは、冷めた目でユウリを見る。
「じゃあ、守れよ」
それだけ言って、前を向いた。
ユウリは言葉を失った。
怒りたいのに、怒れなかった。
トウマの言い方は冷たい。
でも、その言葉の中には、ただ突き放すだけではない何かがあった。
守れよ。
それは、挑発のようでもあり、忠告のようでもあった。
ホームルームが終わるチャイムが鳴る。
担任が出席簿を閉じ、教室を出ていく。
生徒たちはすぐにざわめきを取り戻した。
その瞬間、ユウリのAVISが一段強く震えた。
画面に、新しい表示が出る。
《出席簿変動を検出》
《空欄行:活性化》
《対象:空席》
《出席状態:保留》
《記入待機中》
ユウリは、教卓の上を見た。
担任が置き忘れたのか、出席簿がまだそこにあった。
いや、さっき担任は持って出ていったはずだ。
なのに、そこにある。
黒い表紙の出席簿。
少し開いたページ。
誰も触れていないのに、紙が一枚、ふわりとめくれた。
ユウリは立ち上がる。
「ユウリ」
ミオが呼ぶ。
「見るだけ」
そう言って、ユウリは教卓へ近づいた。
レンも後ろからついてくる。
トウマは動かない。けれど、こちらを見ている気配だけはあった。
出席簿のページには、クラスの名前が並んでいる。
天瀬ユウリ。
久遠レン。
星宮ミオ。
ほかの生徒たちの名前。
そして、その途中。
一行だけ、名前の欄が空白になっていた。
空欄。
けれど、欠席欄でも備考欄でもない。
まるで、誰かの名前が入るために、最初からそこだけ空けられていたような一行。
ユウリが見つめていると、その空欄の横に、薄く文字が浮かんだ。
出席の印。
黒いインクではない。
紙の奥から滲み出すような、淡い灰色の一文字。
在
ユウリの喉が、かすかに鳴った。
いる。
名前はない。
でも、いる。
教室の後ろで、椅子が小さく軋んだ。
誰も座っていないはずの空席から、音がした。
ユウリは振り向きそうになった。
その直前、トウマの声が鋭く飛んだ。
「見るなって言っただろ」
ユウリは、息を止めた。
教室のざわめきの中で、空席だけが、確かに誰かを待っていた。




