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現代神話構文黙示録 〜スマホアプリ《AVIS》と未定義の神々〜  作者: 秋月キアラ
第8話 ― カフェ《ノーネーム》の名なし客
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終節 ― 本日の客、栞

 沈黙は、さっきまでの沈黙とは違っていた。


 名前を奪われた空白ではない。

 何かを待つための余白だった。


 カウンターの上で、レシートプリンターはもう動いていない。白い紙の束は、吐き出されたまま重なっている。そこには何枚もの空欄があり、一枚だけ「回収対象」と印字されたものがあり、そして一番上に、さっき生まれたばかりの文字があった。


本日の客:栞


 たったそれだけの文字だった。


 けれど、その文字があるだけで、店内の空気は少し変わっていた。


 窓の外を走っていた白いノイズは消えている。曇り硝子の向こうには、旧北口商店街の夕暮れだけが戻っていた。古い街灯のひとつが、まだ完全には暗くなっていない路地に、薄い黄色の輪を落としている。


 新聞の老人が、何か言いたげにカウンターを見ていた。


「栞……さん、か」


 老人は小さく呟いた。


 その声は、すぐに曖昧になった。

 たぶん、店を出たら忘れてしまうのだろう。


 でも今は、覚えている。


 窓際の女性も、ノートの上にペンを置いたまま、空席の方を見ていた。彼女は何かを書こうとして、しばらく迷い、結局ページを閉じた。


「書かない方がいいことも、あるんですね」


 誰に向けたわけでもない声だった。


 マスターは、静かにうなずいただけだった。


 ユウリは、空席を見た。


 そこには、まだはっきりした人影はない。

 輪郭は淡く、光の角度によっては椅子だけが空っぽに見える。顔も分からない。髪の長さも、服装も、年齢も、性別も、まだ定まらない。


 けれど、さっきよりは確かに、そこにいる。


 白いカップを包む指先のようなものが見えた。

 細く、かすかに震えている。

 それは完全な手ではなく、光と記憶が少しだけ結び直されたような輪郭だった。


「……栞さん」


 ユウリがもう一度呼ぶと、空席の向こうで、小さく息を呑む気配がした。


 返事は、少し遅れて返ってきた。


「はい」


 その声は薄い。

 聞いたそばから輪郭がほどけそうになる。

 それでも、今度は消えなかった。


 ユウリは胸の奥にたまっていた息を、ゆっくり吐いた。


 助かったのだろうか。


 そう問われたら、まだ分からない。


 栞は、本名を取り戻したわけではない。

 役割索引と呼ばれるものから完全に逃げ切れたわけでもない。

 管理機構の索引も、ただ一時的に止まっただけだ。


 店の外へ出れば、きっと多くの人はまた栞を忘れる。

 栞自身も、自分がどんな声で笑っていたのか、どんな顔だったのか、少しずつ分からなくなるのかもしれない。


 それでも。


 この店にいる間は、彼女には席がある。

 呼ばれてもいい名前がある。


 それは、完全な解決ではない。

 でも、何もないよりは、ずっと人間に近い。


 マスターが、カウンターの上のレシートを一枚取った。


 何枚も重なっていた空欄の中から、迷いなく一番上の紙を抜き取る。


本日の客:栞


 その文字を、彼は丁寧に指でなぞった。

 それから、まるで大切な伝票を渡すように、空席のテーブルへ向かう。


 ことり、と小さな音を立てて、レシートが白いカップの横に置かれた。


「こちら、お客様の控えでございます」


 空席の向こうで、指先が揺れた。


 栞は、恐る恐るその紙に触れた。


 最初は、紙の端が少し浮いただけだった。

 次に、淡い指の輪郭が現れた。

 細い指が、感熱紙をそっとつまむ。


 ユウリは、その動きを見ていた。


 たった一枚のレシートを受け取るだけの仕草なのに、栞はひどく慎重だった。

 触れたら消えてしまうのではないか。

 持っていたら誰かに見つかるのではないか。

 それでも手放したくない。


 そんなふうに見えた。


「これ……持っていてもいいんですか」


 栞の声がした。


 マスターは、いつもの穏やかな調子で答える。


「もちろんでございます」


 栞の指が、紙を少し強く握る。


「でも、持ってたら……また見つかるかもしれない」


「その紙は、本名を記したものではございません」


 マスターは言った。


「あなたを縛る記録ではなく、あなたがここへ戻るための目印でございます」


 栞は黙った。


 マスターは、少しだけ目を細める。


「当店では、お客様の忘れ物はお預かりいたしますが」


 そこで一度、静かに言葉を切った。


「お客様自身を、忘れ物にはいたしません」


 栞の指が震えた。


 レシートの端が、かすかに揺れる。


 声は聞こえなかった。

 けれど、泣きそうになっているのだと、ユウリには分かった。


 ミオが、そっと空席に近づいた。


 近づきすぎない。

 怖がらせない距離を保ったまま、彼女は小さく微笑む。


「また会えたら、呼ぶね」


 栞の気配が、ミオの方を向く。


 ミオは、ゆっくり言った。


「栞さんって」


 しばらく、返事はなかった。


 けれど、白いカップの湯気が小さく揺れた。

 栞がうなずいたのだと思った。


「……うん」


 その声は、か細かった。


「また、呼んで」


 ユウリは、その一言を忘れないように、胸の中で繰り返した。


 また、呼んで。


 それは、本名を取り戻したいという願いではない。

 世界に記録されたいという願いでもない。

 ただ、誰かに呼ばれたいという、小さくて切実な願いだった。


 レンは、少し離れた席でスマホを見つめていた。


 画面には、さっき撮ったノイズ画像が残っている。

 人影だったものは、もうほとんど黒と白の砂嵐に変わっていた。それでも、中央に何かが座っていた痕跡だけは残っている。


 レンは、しばらくその画像を見ていた。


 指が削除ボタンの上で止まる。


 ユウリは何も言わなかった。


 ミオも見守っている。


 レンは、ゆっくり息を吐いた。


「……くそ」


 小さく呟いて、削除を押した。


 画面から画像が消える。

 さらに、最近削除した項目からも消す。

 クラウド同期も確認する。

 バックアップに残っていないかまで、妙に丁寧に見ていく。


 それはレンらしかった。


 削除すると決めたら、徹底的にやる。

 半端に残せば、それが危険になると分かっているから。


 最後に、レンはスマホを閉じた。


 そして、カウンターに置かれていた紙ナプキンを一枚取る。


「メモくらいは、いいよな」


 ユウリは少し迷った。


 レンはそれを察したように、言葉を足す。


「名前は書かない。現象も詳しく書かない。俺が忘れないためだけ」


 ユウリは、うなずいた。


「うん」


 レンはペンを借り、紙ナプキンの端に短く書いた。


名前を晒すな。助ける時も。


 それだけだった。


 レンはそれを折りたたんで、自分の財布に入れた。


 どこか照れくさそうに、けれど真剣な顔で。


「忘れそうだから」


「レンが?」


「俺が」


 レンは、苦い顔で笑った。


「たぶん俺、すぐ記録したくなる。証拠残したくなる。誰かに説明できる形にしたくなる。それが必要な時もある。でも、今日みたいな時は違うって、覚えとく」


 ユウリは、少しだけ笑った。


「うん」


「笑うなよ」


「笑ってない」


「笑ってる」


 ミオも、少し笑った。


 その笑いで、ようやく店の空気が本当に戻ってきた気がした。


 重苦しい神話構文の圧力ではなく、古いカフェの夕方。

 コーヒーの香り。

 木の床。

 湯気。

 少し冷めたミルクティー。

 名前のない菓子。


 栞は、レシートを大切そうに持っていた。


 まだ顔は見えない。

 でも、さっきよりは確かに、そこに座っていることが分かる。


 やがて、ユウリたちは席を立った。


 外はもう、夕方から夜へ変わりかけている。

 旧北口商店街の店先には、小さな灯りがぽつぽつと点き始めていた。


 会計を済ませる時、マスターは何も言わず、いつものようにカップを片づけていた。


 ユウリは少し迷ってから、カウンター越しに尋ねた。


「あの人を、この店に置いていたんですか」


 マスターは、手を止めない。


 白い布でカップの縁を拭きながら、穏やかに答える。


「置いていたのではございません」


 ユウリは黙って続きを待った。


「席を空けていただけでございます」


「それ、同じじゃないんですか」


「少し違いますな」


 マスターは、磨き終えたカップを棚へ戻した。


「人を置くとは、居場所を決めること。席を空けるとは、来るかどうかを相手に委ねること」


 ユウリは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。


 確かに、ここには席があった。

 名前を聞かない席。

 誰にも覚えられない人が、それでも座っていられる席。


 でも、それを用意していたのなら、この人は最初から分かっていたのではないか。


 ユウリは少しだけ不満を込めて言った。


「やっぱり、知ってたんですね」


 マスターは、静かに微笑んだ。


「知らないふりをすることにも、作法がございます」


「……ずるいです」


「よく言われます」


「誰にですか」


「覚えておりませんな」


 そう言って、マスターは何食わぬ顔で新しいカップを棚から出した。


 ユウリは、ますます不満そうな顔をした。


 けれど、怒ることはできなかった。


 この人は、助けたのかもしれない。

 見ていただけなのかもしれない。

 ユウリたちが来るのを待っていたのかもしれない。

 それとも、栞が自分で選ぶまで、ただ席を空けていただけなのかもしれない。


 どれも、違う。

 どれも、少し合っている。


 そういう人なのだと思うしかなかった。


 店を出る直前、ユウリのスマホが震えた。


 AVISの画面が開く。


 今度の表示は、警告ではなかった。


《現在名保持:成功》

《対象:栞》

《真名復元:未実行》

《管理索引:一時回避》

《役割索引:再接続保留》

《余白反応:微弱上昇》


 アヴィ=シグルが、画面の端に現れた。


 小さな相棒は、どこか納得がいかないような、けれど少し感心したような顔をしている。


『お前、また変な解決をしたな』


「そう?」


『そうだ。普通は、名前を取り戻すか、対象を隔離するか、構文を切断するか、どれかだ』


「普通はね」


『名前を戻さずに、呼び名だけ置いた。真名でも仮名でもない、本人許諾済みの現在名。……そんな処理、普通はない』


 ユウリは、画面の中のアヴィを見る。


「じゃあ、失敗?」


 アヴィは少し黙った。


 そして、ふいっと目を逸らす。


『悪くない』


「褒めてる?」


『解析結果を述べている』


「分かりにくいなあ」


『分かりやすい神話構文なんて、だいたい罠だ』


 ユウリは少し笑った。


 そして、扉に手をかける。


「普通じゃなくていいよ。たぶん」


 アヴィは、それ以上何も言わなかった。


 カフェの扉を開けると、夜の匂いがした。


 旧北口商店街は、昼間よりもずっと細く見える。閉じたシャッターの前に置かれた植木鉢、古い看板、斜めに伸びた電線、誰もいない路地。街灯の明かりが、乾いた石畳に淡い円を作っている。


 さっきまで店内にあった圧力は、もう外には残っていなかった。


 それでも、ユウリは一度だけ振り返った。


 カフェ《ノーネーム》の白い札が、扉の横で静かに揺れている。

 そこには、やはり何も書かれていない。


 ミオが、隣に並んだ。


「栞さん、また会えるかな」


「会えると思う」


 ユウリは答えた。


「たぶん」


 レンがすぐに言う。


「また、たぶんって言った」


「神狭市で断言する人は信用するなって、アヴィが言ってたし」


「便利に使うなよ、相棒の名言を」


 ミオが小さく笑った。


 その笑いが、夜の商店街に柔らかく溶けた。


 三人は、駅の方へ歩き出す。


 その時だった。


 ユウリは、遠くの街灯の下に誰かが立っているのを見た気がした。


 細い路地の先。

 古い時計店のシャッターの前。

 街灯の輪の外側。


 人影がひとつ。


 管理機構の誰かかもしれない。

 欠落街区に関わる誰かかもしれない。

 ただの通行人かもしれない。


 あるいは、あのマスターの別の顔かもしれない。


 ユウリが目を凝らすと、人影はすっと路地の影へ溶けた。


「ユウリ?」


 ミオが呼ぶ。


「何かいた?」


「……分からない」


 ユウリは、少しだけ足を止めた。


 ポケットの中で、スマホが小さく震えたが、画面は点かなかった。

 AVISも、今回は何も言わない。


 ただ、胸の奥に小さな違和感だけが残る。


 今日の事件は終わった。

 けれど、神狭市のどこかでは、また別の空欄が開きかけている。


 そういう予感がした。


 三人が路地を抜けた後。


 カフェ《ノーネーム》の店内では、マスターが空席のカップを片づけていた。


 白いカップの横には、もうレシートはない。

 栞が持っていったからだ。


 けれど、カウンターの奥で、レシートプリンターがもう一度だけ動いた。


 ジジ、と短い音。


 マスターは手を止め、ゆっくり振り返る。


 誰も会計していない。

 誰も注文していない。

 それでも、白い紙が一枚、静かに吐き出されていた。


 マスターは、その紙を手に取る。


 印字されていたのは、たった一行。


次回予約:空席


 老紳士のマスターは、それを見て、困ったように、あるいは楽しむように微笑んだ。


「おや」


 そして、誰もいない店内へ向けて、静かに言う。


「また、お席を空けておかねばなりませんな」

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