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現代神話構文黙示録 〜スマホアプリ《AVIS》と未定義の神々〜  作者: 秋月キアラ
第8話 ― カフェ《ノーネーム》の名なし客
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第3節 ― 名前を戻すとは限らない

 回収対象。


 その四文字が印字された瞬間、カフェ《ノーネーム》の空気が変わった。


 それまで店内に満ちていた琥珀色の灯りが、少しだけ白く冷えたように見えた。ランプの光は変わっていない。カウンターの奥で湯気を上げるコーヒーサーバーも、壁際の本棚も、窓辺の古い鉢植えも、何ひとつ動いていない。


 けれど、店の外側から、何かが近づいている。


 ユウリは、そう感じた。


 それは足音ではなかった。

 人の気配でもない。

 もっと無機質で、冷たく、角ばったもの。


 スマホの通知音が、店内のあちこちで一斉に鳴った。


 窓際の女性が、驚いて自分のスマホを見る。

 新聞の老人も、胸ポケットから古い端末を取り出す。

 奥の席の学生風の人物は、眠たげだった目を見開いた。


 けれど、誰の画面にも、はっきりした通知は出ていないようだった。

 画面は一瞬だけ白く光り、すぐに元の待ち受けへ戻る。

 何かが届いたはずなのに、届いた事実だけが消されている。


 ユウリのスマホだけは、違った。


 AVISの画面が勝手に立ち上がる。


 青白い円環が高速で回転し、今までよりも強い警告音が短く鳴った。


《未登録存在を検出》

《管理機構索引との照合開始》

《白環管理区域:外部監査ログ反応》

《分類候補:保護対象/隔離対象/削除候補》

《危険度評価:保留》

《現在名:未検出》


 文字列は、冷たい。


 保護対象。

 隔離対象。

 削除候補。


 それらは、どれも人間に向ける言葉のようで、人間に向けるべきではない言葉だった。


 ユウリは、奥歯を噛んだ。


 空席のカップが、小さく震えている。透明な飲み物の表面に、細かな波紋が何度も広がっていた。テーブルの向こうにいるはずの誰かが、息を殺しているのが分かる。


 見えない。


 けれど、怯えている。


「まずい」


 アヴィ=シグルの声が、画面の中で低く響いた。


 小さな相棒の顔から、いつもの皮肉が消えている。


「名前はないのに、危険度だけが登録されかけてる」


「危険度だけ?」


 ユウリは聞き返した。


「そうだ。対象名が空欄のまま、存在反応と構文濃度だけを拾われてる。名前がないから追跡不能、じゃない。名前がない異常存在として扱われ始めてる」


 レンが、真っ青な顔でカウンターのレシートを見ていた。


「名前がないから、余計に危険判定されるのかよ」


「管理側から見れば、正体不明の構文反応だからな。人間かどうかも判定できない。保護するか、隔離するか、消すか。あいつらは、その三択に落とし込もうとしてる」


 アヴィの声が、かすかに苛立つ。


「分類できないものを、分類できないまま置いておくのが下手なんだ」


 ユウリは、レシートの文字を見た。


 回収対象。


 その言葉が、カフェの中にあるはずの温度を奪っていく。


 空席の向こうから、細い声がした。


「……いや」


 さっきよりも、はっきり聞こえた。


 けれど、聞いた直後から輪郭が薄れる。

 声質も、年齢も、性別も定まらない。

 ただ、怯えだけが残る。


「いや。連れていかれたくない」


 カップが震える。


「名前を戻したら、見つかる。戻さなくても、見つかる。じゃあ、どうすればいいの」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 自分自身に向けた問い。

 店の空気に投げ出された、行き場のない声。


 ユウリは立ち上がりかけて、動けなかった。


 本名を取り戻す。


 それが、いつもなら正解に見えた。

 名前を失った人に名前を返す。

 誰にも覚えられない人を、もう一度この世界へつなぎ直す。


 でも今、それをすれば、この人は外側から捕捉される。


 管理機構に見つかる。

 役割索引に見つかる。

 あるいは、本人が言っていた「名前を探しているもの」に見つかる。


 では、名前がないままにするのか。


 そうすれば、今度は誰にも覚えてもらえない。

 ここに来ても、帰れば忘れられる。

 話しても、声が残らない。

 席に座っても、レシートは空欄のまま。


 助かるために、誰にも呼ばれないまま生きる。


 それが救いだとは、ユウリにはどうしても思えなかった。


 でも、呼ぶことが暴力になるなら。


 名づけることが檻になるなら。


 何をすればいい。


 店の外で、また何かが鳴った。


 電波ノイズのような、遠くの踏切の警報音のような、あるいはサーバー室の低い駆動音のような音。窓の曇り硝子が、わずかに白く滲む。外の路地には誰もいないはずなのに、ガラスの向こうに四角い光がいくつも走った。


 白環管理区域。


 神狭市南部にある、白い施設群。

 管理機構の影が濃い場所。

 記録、監視、補正、隔離。


 その方向から、見えない糸が伸びてきているようだった。


 レンが窓に近づきかける。


「外、確認してくる」


「だめ」


 ミオが即座に言った。


 普段のミオからは考えられないほど、強い声だった。


 レンが足を止める。


「なんで」


「外から見られる」


 ミオは、両手で自分の腕を抱いていた。


「今、店の外に出たら、レンも一緒に引っかかる。たぶん、ログを持ってる人として」


 レンの顔がこわばった。


 自分がさっき撮ろうとしたこと。

 記録しようとしたこと。

 それが、今になって重みを持って戻ってきたのだと、ユウリにも分かった。


 レンは何か言おうとして、結局、言わなかった。


 その時、カウンターの奥から、静かな陶器の音がした。


 ことり。


 老紳士のマスターが、ユウリたちのいるテーブルへ歩いてきた。


 手には、湯気の立つコーヒーカップがひとつ。


 この状況で、あまりにも場違いに見えるほど、いつも通りの所作だった。背筋はまっすぐで、歩く音はほとんどしない。皺の刻まれた手は、震えも迷いもなくカップを運んでいる。


 マスターは、ユウリの前ではなく、空席のテーブルの少し端にそのカップを置いた。


 さっきの透明な飲み物とは別に、深い色のコーヒーが湯気を立てる。


「サービスでございます」


 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。


 けれど、その声に、空席の向こうの気配がわずかに揺れた。


 ユウリはマスターを見上げる。


「今、それどころじゃないんですけど」


「それどころ、とは何を指すのでございましょう」


 マスターは穏やかに言った。


「外部からの監査か、空欄のお客様か、それとも、あなたが今選ぼうとしている答えのことでございますか」


 ユウリは言葉に詰まった。


 この人は、いつもそうだ。


 何も知らないふりをしている。

 ただの喫茶店のマスターの顔をしている。

 けれど、問いの置き方だけが、妙に深いところへ届いてくる。


「……知ってたんですか」


 ユウリは聞いた。


「何をでございましょう」


「この人が、追われてること」


 マスターは少しだけ目を伏せた。


「当店へいらっしゃるお客様には、それぞれ事情がございます」


「答えになってません」


「ええ。答えではございませんので」


 レンが、苛立ったように口を開く。


「あのさ、今そういう問答してる場合じゃ――」


「本名とは」


 マスターは、レンの言葉にかぶせるでもなく、ただ静かに言った。


「必ずしも人を救うものではございません」


 店内が、また少し静かになった。


 ユウリは、マスターの顔を見る。


 老紳士は穏やかに微笑んでいる。

 けれど、その目は笑っていない。

 冷たいわけではない。

 怖いわけでもない。

 ただ、長い時間を知っている目だった。


 たくさんの名前が呼ばれ、忘れられ、書き換えられ、奪われるところを見てきたような目。


「本名があれば、人は探されます。記されます。証明されます。愛されることもございましょう。守られることもある」


 マスターは、空席のカップから立つ湯気を見た。


「ですが、縛られることもございます。追われることもございます。分類され、役割を与えられ、その名でしか生きられなくなることも」


 ユウリの胸の奥が痛んだ。


 星宮ミオ。

 理触者ミオ。

 女神の器。

 現在名。

 照応候補、過多。


 同じ人を指す言葉なのに、呼び方ひとつで、その人の扱われ方が変わる。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 ユウリは、思わず聞いた。


「名前を戻したら見つかる。戻さなかったら、誰にも覚えてもらえない。どっちも、救いには見えない」


 マスターは、すぐには答えなかった。


 コーヒーの湯気が、ゆっくり薄れていく。


 窓の外では、白いノイズがさらに強まっている。

 AVISの警告は止まらない。


《管理機構索引との照合継続》

《分類候補:保護対象》

《分類候補:隔離対象》

《分類候補:削除候補》

《対象名:未検出》

《対象名:未検出》


 その画面の光が、ユウリの手元を青白く照らしていた。


 マスターは、ようやく言った。


「わたくしが答えを申し上げたなら、それはあなたの選択ではなくなります」


「こんな時に、選択とか」


「こんな時だからこそ、でございます」


 マスターの声は、柔らかい。


「誰かに正解を渡されれば、人はその正解に従えます。従えば、迷わずに済む。責任も少し軽くなる。ですが、あなたは先ほど、そちらのお客様におっしゃいましたな」


 ユウリは、息を止める。


「話したくなかったら、話さなくていい、と」


 マスターの視線が、空席へ向く。


「ならば、次に問うべきことも、あなたが決めるのではございません」


 その言葉は、ユウリの中にゆっくり沈んだ。


 名前を戻す。

 管理機構に渡す。

 断絶する。

 ログを公開する。


 どれも、こちら側の選択だ。


 助ける側が、相手をどう扱うか決める選択。


 けれど、この人はまだ、何も選ばせてもらっていない。


 役割を受け入れるか、拒否するか。

 その二択を突きつけられ、拒否したら追われた。

 名前を呼ばれるか、忘れられるか。

 その二択に追い込まれて、今ここにいる。


 ならば、ユウリがするべきことは、新しい答えを押しつけることではない。


 選べる余地を作ること。


 どちらかではない場所を、少しだけ開けること。


 ミオが、静かに空席へ近づいた。


 ユウリは振り向く。


「ミオ?」


「大丈夫」


 ミオは、かすかに微笑んだ。


 けれど、その顔色はまだ白い。彼女自身も、さっきから何かに触れ続けているのだろう。名なし客の感情なのか、自分の中の理の水面なのか、あるいはその両方か。


 ミオは、ユウリが座っていた席の少し後ろに立った。近づきすぎない。けれど、離れすぎもしない。


 彼女は、空席に向かって言った。


「私も、別の名前で呼ばれそうになることがある」


 白いカップの湯気が揺れた。


 名なし客が、ミオを見たのだと分かった。


 ミオの声は、静かだった。


「私の名前は、星宮ミオ。でも、そうじゃない名前で見られることがある。女神とか、器とか、照応候補とか。たぶん、これからもっと増える」


 ユウリは胸が詰まった。


 ミオが、自分でそれを言うのを聞くのは、思っていたより苦しかった。


 ミオは、少しだけ自分の胸元を押さえる。


「そういう名前で呼ばれると、私が私じゃなくなる気がする。みんなが見ているものが、私の顔じゃなくなっていくみたいで、少し怖い」


 空席の気配が、微かに震える。


「でも」


 ミオは、ユウリを見た。


「ユウリが呼ぶと、戻ってこられる。星宮ミオって。そう呼ばれると、私は私だったって思い出せる」


 ユウリは何も言えなかった。


 それは、自分がしていたことの意味を、ミオ本人から渡されたような感覚だった。


 ただ名前を呼んでいただけ。

 でも、それが彼女をこの場所に留めるものになっていた。


 ミオは、また空席へ視線を戻した。


「だから……本当の名前じゃなくても、戻ってこられる呼び方があればいいのかもしれない」


 店内の空気が、ほんの少しだけ温かさを取り戻した気がした。


 外のノイズはまだ消えない。

 AVISの警告も続いている。

 管理機構の索引は、今もこの場所を探っている。


 けれど、空席の向こうから伝わる怯えに、別の感情が混ざった。


 迷い。


 それから、ほんのわずかな期待。


 ユウリは、ゆっくり空席へ向き直った。


 今度は、迷わなかった。


「本当の名前じゃなくていいです」


 声が震えないように、でも強くなりすぎないように、ユウリは言った。


「今、呼ばれてもいい名前はありますか」


 空席は、長く黙った。


 長い沈黙だった。


 外のノイズがまた一段強まる。

 レシートプリンターが、短く呻くような音を立てる。

 カウンターの上の「回収対象」と印字された紙が、風もないのにわずかに動いた。


 レンはじっと拳を握っていた。

 スマホには触れない。

 けれど、目はずっと空席に向けられている。


 ミオは、祈るように両手を重ねていた。

 アヴィは画面の中で、何かを解析し続けている。

 マスターは、カウンターの奥で静かに見守っている。


 誰も答えを急かさなかった。


 名なし客の視線が、ゆっくり動いた気がした。


 白いカップから、本棚へ。


 ユウリも、その視線を追った。


 本棚の中段に、古い本が一冊、少しだけ開いたまま差し込まれている。背表紙の文字は消えかけていて、題名は読めない。ページのあいだには、細長い紙片が挟まれていた。


 栞だった。


 薄い生成り色の紙。

 角は少し丸まり、紐の部分は褪せた青。

 そこには何の文字も書かれていない。


 ただ、ページの途中を示すためだけに、そこにあった。


「……栞」


 声が言った。


 小さく。


 けれど、今度は消えなかった。


 ユウリは、その音を聞いた。


 しおり。


 それは、本名ではない。

 真名でもない。

 誰かが登録した名前でも、システムが割り当てた役割でもない。


 ページの途中に置かれる目印。

 読み終わっていない物語へ、また戻ってくるためのしるし。


 ユウリは、ゆっくり聞き返した。


「栞さん?」


 その瞬間、空席の向こうの輪郭が、ほんの少しだけ結ばれた。


 顔はまだ見えない。

 年齢も、性別も、服装も、はっきりしない。

 でも、そこに座っている誰かが、ほんのわずかに肩の力を抜いたのが分かった。


 カウンターの上で、レシートが一枚、光を帯びる。


 それまで空欄だった紙の上に、黒い文字がじわりと浮かんだ。


本日の客:栞


 店内の誰もが、その文字を見た。


 新聞の老人が目を細める。

 窓際の女性が、思わずノートに手を伸ばしかけ、途中で止める。

 レンが息を呑む。

 ミオが、静かに微笑む。


 ユウリのスマホが震えた。


 AVISの画面に、新しい表示が走る。


《現在名を検出》

《真名ではありません》

《仮名ではありません》

《本人許諾済み呼称》

《現在名:栞》

《呼称固定:一時成功》

《外部索引照合:停止》


 アヴィが、ぽかんとした顔をした。


「……止まった」


 レンが、窓の外を見る。


 白いノイズが薄れていく。

 曇り硝子の向こうに走っていた四角い光が、すっと消える。

 外の路地が、普通の夕方の暗さを取り戻す。


 レシートプリンターも、沈黙した。


 さっきまで吐き出され続けていた白い紙は、カウンターの上で静かに重なっている。


 その一番上にだけ、名前がある。


 本日の客:栞。


 ユウリは、その文字を見つめた。


 これは、本名ではない。

 この人がどこから来たのかも、何から逃げているのかも、まだ分からない。

 管理機構の照合も、完全に消えたわけではない。

 ただ一時的に止まっただけだ。


 でも、今この瞬間。


 空欄ではなくなった。


 回収対象でもなくなった。


 ここに座っている誰かは、少なくともこの店の中で、ユウリたちの前で、栞さんと呼ばれることを選んだ。


「……栞さん」


 ミオが、もう一度呼んだ。


 空席の向こうで、かすかに声がした。


「はい」


 その返事は、まだ薄かった。


 けれど、今度は確かに残った。

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