第2節 ― 空欄のレシート
空欄は、文字がないだけの場所ではなかった。
ユウリは、カウンターの上に置かれたレシートを見下ろしながら、そう思った。
白い紙。
黒い印字。
ありふれた感熱紙の薄さ。
指で触れれば、少しだけ熱の名残がある。
けれど、そこに空いた名前の欄だけは、紙よりも深く見えた。
何かが書かれていないのではない。
何かを書こうとした痕跡ごと、くり抜かれている。
カフェ《ノーネーム》の中は、まだ穏やかだった。古いランプの灯りは揺れず、窓際の客はまたノートへ目を戻し、新聞の老人も紙面を開き直している。日常の続きに戻ろうとしているのは、たぶん人間の本能なのだと思う。
見なかったことにする。
聞かなかったことにする。
覚えていられないなら、最初から気にしない。
けれど、ユウリたちはもう、そういうふうには戻れなかった。
空席のテーブルには、白いカップがある。
さっきまでなかったはずのカップ。
マスターが運び、誰もいない席に置いたもの。
中身は少しだけ減っている。
湯気が細く上がっていた。
その湯気の向こう側に、誰かがいる。
そう思った瞬間だけ、輪郭が見えそうになる。
けれど、視線を正面から向けると、消える。
見ようとすればするほど、何もいなかったことになる。
ユウリは、自分の目が信用できなくなっていく感覚に、奥歯を噛んだ。
「……そこに、いるんだよな」
レンが低く言った。
さっきまで伏せていたスマホを、もう一度そっと持ち上げる。
「レン」
ユウリが呼ぶと、レンは画面から目を離さないまま言った。
「分かってる。録画はしない。ログも保存しない。ただ、画面越しに見えるか確認するだけ」
「それでも――」
「見るだけだ」
レンの声は、いつもより硬かった。
ユウリはそれ以上止められなかった。
レンがスマホのカメラを起動する。
画面には、店内が映った。
カウンター。
ランプ。
本棚。
白いカップ。
そして、その向かいの椅子に、薄い人影。
ユウリは息を呑んだ。
肉眼では見えない。
けれど画面越しには、確かに何かが映っていた。
それは人に見えた。
たぶん、座っている。
肩を丸め、両手を膝の上か、テーブルの下に置いている。
髪の色は分からない。服の色も分からない。顔は、やはり結ばれない。
画面の中だけで、人影は砂嵐のように揺れていた。
レンは無言で数秒だけ画面を見つめ、それから録画ボタンには触れず、スクリーンショットだけを試みた。
カシャ、という音はしなかった。
けれど画面が一瞬だけ白く瞬く。
「保存された?」
ユウリが聞く。
「された。……はず」
レンは写真フォルダを開いた。
今撮った画像が一番上にある。サムネイルでは、確かに空席の向こうに人影があった。けれど、画像を開いた瞬間、その影だけがざらついたノイズへ変わった。
白と黒の粒が、そこに座っていたものの形を真似ている。
顔の位置だけが、特にひどく乱れていた。
レンは画像を拡大する。
ノイズの中に、一瞬だけ文字のようなものが浮かんだ。
名前ではない。
あるいは、名前だったのかもしれない。
しかし、ユウリが読もうとした瞬間、文字は潰れた。
「……だめだ。写ってるけど、残らない」
レンは奥歯を噛んだ。
「録画なら?」
「やめよう」
「でも、映像なら時間軸で――」
「レン」
ユウリは、今度は強く呼んだ。
レンの指が止まる。
その横顔に、苛立ちが浮かんでいた。自分が止められたことへの苛立ちではない。分からないものを分からないまま置いておかなければならないことへの、レンらしい苛立ちだった。
「分かってるよ」
レンは小さく吐き捨てるように言った。
「分かってる。けどさ、目の前で起きてるのに、記録できないの、すげえ気持ち悪いんだよ」
「うん」
「記録できないってことは、あとで誰かに説明できないってことだ。証明もできない。対策も立てづらい。これがAVIS一般版のバグなのか、管理機構のやらかしなのか、神話残滓なのか、それとも――」
レンは一瞬、マスターの方を見た。
マスターは、まるで自分の名前が会話に出るのを待っていたかのように、静かに微笑んだ。何も言わない。その沈黙が、かえって答えのようにも、挑発のようにも見える。
レンは視線を戻した。
「分からないまま放っておくの、危ないだろ」
「分からないまま触る方が、もっと危ないこともある」
ユウリが言うと、レンは口を閉じた。
その時、ユウリのスマホが震えた。
AVISの画面が開く。
アヴィ=シグルは、画面の中で眉間にしわを寄せていた。いつもの偉そうな態度は残っているが、その翼のような光の輪郭が不安定に揺れている。
『対象、解析中』
青白い文字が、画面を走る。
《対象名:未登録》
《対象名:削除済》
《対象名:保留》
《対象名:――》
《対象名:未登録》
《対象名:削除済》
《対象名:》
《対象名:》
表示が定まらない。
未登録。
削除済。
保留。
空欄。
そのどれもが、同じ対象を指しているはずなのに、どれひとつとして留まらない。
アヴィが小さく舌打ちした。
『ちょっと待て。対象名がログの中で逃げてる』
「逃げてる?」
『比喩じゃない。こっちが“対象”として固定しようとすると、直前のログから滑り落ちる。未登録として扱えば削除済みになる。削除済みとして扱えば保留になる。保留にすれば空欄になる。空欄を確定しようとすると、対象そのものが一瞬、画面外へ逃げる』
「画面外?」
『AVISの解析範囲の外側だ。普通はそんな場所、ない』
アヴィは顔をしかめた。
『この店、ほんとに嫌いだ』
「それも何度目だよ」
レンが言う。けれど声には笑いがなかった。
ミオは、さっきからずっと空席を見つめていた。
ただ、今度は目を凝らしているのではない。
まるで、音のない音を聞いているようだった。
ユウリはミオの横顔を見た。
「ミオ?」
呼ぶと、ミオはすぐには返事をしなかった。
けれど、さっきのように遠くへ引かれているわけではない。意識はここにある。ただ、どこか別の層に触れている。
やがてミオは、胸元に手を当てた。
「怖がってる」
小さな声だった。
「誰が?」
「あの人」
ミオは空席を見たまま言う。
「怖い。でも……戻りたくない」
その言葉に、ユウリは眉を寄せた。
「戻りたくない?」
「うん。見つけてほしいって思ってる。でも、名前を呼ばれたくない。気づいてほしいのに、探されたくない。ここにいるって分かってほしいのに、連れていかれたくない」
矛盾した感情。
けれど、ミオの声には確信があった。
ユウリは、空席を見た。
白いカップ。
揺れる湯気。
誰もいない椅子。
そこにいる人は、確かに助けを求めている。
けれど、普通の助け方をされたら壊れてしまう。
そんなふうに思えた。
「……近づいても、大丈夫かな」
ユウリが呟く。
アヴィが即座に言った。
『無理に触るなよ』
「分かってる」
『分かってなさそうだから言ってる』
「分かってるって」
ユウリはゆっくり立ち上がった。
レンが何か言いかけて、やめる。
ミオも止めなかった。
マスターだけが、静かにユウリを見ていた。
その目には、やはり答えがない。
ただ、問いだけがある。
あなたは、どうするのか。
ユウリは空席へ向かった。
一歩近づくたび、見えない輪郭が少しだけ揺れる。近づけば見えるわけではない。むしろ、近づくほど、脳が勝手に補正しようとして失敗する。
誰かがいる。
でも、いない。
いないことにされている。
けれど、そこにいることだけは消せない。
テーブルの向かい側に、もう一脚椅子があった。
ユウリは、そこへ座らなかった。
真正面に座れば、相手を問い詰める形になる気がした。
近すぎると、逃げ場を塞ぐ気がした。
だから、同じテーブルの少し斜め。
視線がぶつからない距離に、もう一脚の椅子を静かに引いた。
木の脚が床を擦る音が、小さく響く。
ユウリは腰を下ろした。
白いカップの湯気が、少しだけこちらへ流れた。
「話したくなかったら、話さなくていいです」
ユウリは、空席に向かって言った。
自分でも、変な言い方だと思った。
話したくなかったら、話さなくていい。
けれど、自分はここに座る。
見えていなくても、いると思っている。
名前がなくても、相手がいることを前提にする。
沈黙が落ちた。
店内の時計の音が、聞こえた気がした。
でも、この店に時計などあっただろうか。
白いカップの湯気が、また揺れる。
そして、声がした。
「……名前を」
ひどく小さな声だった。
若いようにも聞こえた。
年老いているようにも聞こえた。
少女のようにも、少年のようにも、大人のようにも。
音としては聞こえているのに、聞いた直後から印象が削られていく。
ユウリは、息を止めた。
声を逃がさないように。
「名前を、聞かないんですか」
その言葉だけは、なぜか残った。
名前を聞かないのか。
ユウリは少し考えてから、静かに答えた。
「聞いたら、困りますか」
空席は黙った。
カップの湯気が細くなる。
ユウリは続けた。
「名前を聞いた方がいいなら、聞きます。でも、聞かない方がいいなら、聞きません」
「……変な人」
声が言った。
ユウリは少しだけ笑った。
「最近、よく言われます」
「普通は、聞くのに」
「普通は、そうかもしれない」
「誰なのか、確かめたがる。何なのか、決めたがる。名前を呼んで、そこにいるって決める」
その声は、震えていた。
怒っているのかもしれない。
泣いているのかもしれない。
安心しているのかもしれない。
どれも違う気がした。
どれも少しずつ当たっている気もした。
「私も、そうした方がいいのかなって思いました」
ユウリは正直に言った。
「名前を取り戻せば、助かるのかなって。でも、たぶん、それだけじゃないですよね」
また沈黙。
今度の沈黙は、さっきより少し柔らかかった。
遠くの席で、新聞の紙がめくられる音がした。
レンは離れた場所で、スマホを持ったまま動かずにいる。
ミオは両手で自分のカップを包み、ユウリと空席を見守っていた。
やがて、声がゆっくり話し始めた。
「最初は、ただのアプリだった」
ユウリは何も言わずに聞いた。
「みんな入れてた。都市伝説みたいに言われてて。神が見えるとか、契約できるとか、適性診断が当たるとか。怖いけど、面白そうで」
AVIS一般版。
ユウリは、胸の中でその言葉を反芻した。
レンが、少しだけ身じろぎする気配がした。
「最初は、何も起きなかった。ただ、通知が来るだけ。あなたの神話属性は何とか。照応候補は何とか。よくある診断アプリみたいだった」
声はそこで一度止まった。
白いカップの縁に、見えない指が触れたような気がした。
「でも、夜に通知が来た」
ユウリのスマホが、かすかに震えた。
まるで、その通知の残響に反応したみたいに。
空席の前に、薄い青白い文字が一瞬だけ浮かんだ。
ユウリのAVIS画面ではない。
空気そのものに、過去の画面が投影されているようだった。
《あなたに適した神話役割を検出しました》
《役割名を受諾しますか》
《許可する》
《拒否する》
ユウリの背中に冷たいものが走った。
自分のAVISにも、似たような選択肢が出たことがある。
許可する。
拒否する。
保留する。
そして、自分だけが見た未定義の選択肢。
けれど、この人にはたぶん、それがなかった。
「怖くて、拒否した」
声は言った。
「そしたら、世界が私の名前を探し始めた」
店内の灯りが、一瞬だけ暗くなった。
いや、暗くなったのではない。
ユウリの視界に、別の場所の光が重なったのだ。
駅前ビジョン。
白い広告塔。
夜の神狭駅。
大きな画面に、見知らぬ広告の文字が流れている。
その中に、一瞬だけ名前が出る。
誰かの本名。
けれど、ユウリが読もうとすると、黒く塗りつぶされる。
次に、スマホの通知欄。
《――さん、役割受諾が未完了です》
《――さん、供物登録を確認してください》
《――さん、応答してください》
次に、匿名掲示板のスレッド。
【神狭】供物候補、見つけた
名前:――
役割:――
接続地点:――
文字がぐちゃぐちゃに潰れる。
それでも、ユウリには分かった。
その人の名前が、あちこちに書かれていた。
本人の意志とは関係なく。
知らない誰かの画面に。
知らない誰かの投稿に。
知らないシステムの記録に。
「誰かが、私を供物って呼んだ」
声が震えた。
「最初は、冗談だと思った。でも違った。駅で知らない人が振り向いた。スマホが鳴った。広告に名前が出た。アプリを消しても、通知が来た。拒否したのに、拒否したから、もっと探された」
ユウリは拳を握った。
名前が、追跡用のタグになる。
呼ばれるたびに、役割へ近づく。
記録されるたびに、逃げ場がなくなる。
名は、その人を守るものではなかった。
その時だけは、捕まえるための鍵だった。
「逃げて、逃げて……この店に来た」
声が続ける。
「どうやって来たのか、覚えてない。看板もなかった。でも、扉があった。白い札があった。入ったら、誰も名前を聞かなかった」
白いカップの湯気が、静かに揺れる。
「その瞬間、通知が止まった。広告にも出なくなった。掲示板からも消えた。誰も、私の名前を呼ばなくなった」
声は、そこでかすかに笑ったようだった。
けれど、その笑いはすぐに崩れた。
「助かったと思った」
ユウリは、何も言えなかった。
「でも、それから、誰も私を覚えてくれなくなった」
店内のどこかで、古い木が軋んだ。
「ここに来れば座れる。飲み物も出してもらえる。でも、帰ると忘れられる。話しても、次の日には忘れられる。顔も、声も、性別も、年齢も。たぶん、私の方も少しずつ分からなくなってる」
声が小さくなる。
「自分の名前は、まだ覚えてる。たぶん。でも言えない。書けない。打てない。思い出そうとすると、外から見つかる気がする」
「外から?」
「名前を探しているものがある」
その言葉に、アヴィが画面の中で顔を上げた。
『……やっぱり、役割索引か』
「役割索引?」
ユウリが小声で聞く。
『AVIS一般版の正式機能じゃない。少なくとも表向きは。人間の願望や恐怖、神話照応の傾向を読み取って、“適した役割”に接続する裏側の処理だ。普通は診断で終わる。だが、神話構文濃度が高すぎると、診断が契約の前段階になる』
「じゃあ、この人は……」
『拒否した。だが、拒否したことで“未受諾の役割”として残った。役割側が、適合者を取り戻そうとしている可能性がある』
レンが顔を上げた。
「それ、証拠として残した方がよくないか」
声は抑えていたが、言葉には強い力があった。
「AVIS一般版の危険性、これでかなり――」
「残したら」
ユウリは、レンの言葉を遮った。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「この人の名前も一緒に拾われるかもしれない」
レンは言い返しかけて、止まった。
ユウリは続けた。
「ログを取るってことは、この人がここにいるって、どこかに残すってことだよね。役割索引っていうのがまだ探してるなら、そのログから見つけるかもしれない」
「でも、何も残さなかったら――」
「分かってる」
ユウリはレンを見た。
「それじゃ対策できないかもしれない。後で証明できないかもしれない。レンが間違ってるって言いたいんじゃない」
レンの顔が、少し歪んだ。
悔しさ。
焦り。
善意の行き場を失った戸惑い。
「じゃあ、どうすんだよ」
レンは小さく言った。
「記録しなきゃ、助けられないことだってあるだろ」
「うん」
「でも記録したら危ないって言うなら、俺たち、何もできないじゃん」
ユウリは、すぐには答えられなかった。
正論だった。
記録しないことは、優しさだけではない。
忘れることにもなる。
なかったことにすることにもなる。
でも、今この人にとって、記録は刃物に近い。
助けるために差し出した手が、そのまま首輪になることもある。
それを、ユウリは三枝コウヤの件で少しだけ知ってしまった。
保護。
隔離。
観察。
記録提出。
どれも正しい言葉の顔をしている。
けれど、その正しさの中で、人の名前が別の欄に書き換えられることがある。
ユウリは空席へ向き直った。
「今は、残さない」
はっきり言った。
「少なくとも、本人が嫌だって言ってる間は」
空席から、かすかな息の音がした。
それが安堵なのか、恐怖なのか、ユウリには分からなかった。
レンは何も言わなかった。
けれど、スマホの画面を閉じた。
机の上に、伏せて置く。
指先だけが、まだ少し震えている。
「……分かった」
レンは言った。
「今は、残さない」
ミオがほっとしたように息をついた。
その瞬間だった。
カウンターの奥で、レシートプリンターが動き出した。
ジジ。
白い紙が吐き出される。
マスターが手を伸ばすより早く、また一枚。
ジジ。
ジジ。
ジジ。
プリンターは止まらなかった。
静かな店内に、紙を焼くような小さな印字音が連続する。
カウンターの上に、白いレシートが次々と落ちていく。
マスターの表情から、初めて笑みが薄れた。
ユウリは立ち上がった。
レンも、ミオも同時に振り向く。
吐き出されたレシートには、すべて同じ文字が印字されていた。
本日の客:
空欄。
また一枚。
本日の客:
空欄。
また一枚。
本日の客:
空欄。
また一枚。
本日の客:
空欄。
名前のないレシートが、白い舌のように吐き出され続ける。
空席のカップが、小さく震えた。
中の透明な飲み物に、波紋が広がる。
ミオが両手で耳を押さえた。
「呼んでる……」
「誰が?」
「外。外から、呼んでる。でも名前がないから、呼べなくて……だから、欄だけ増やしてる」
アヴィの画面に警告が走る。
《外部索引反応》
《対象照合中》
《対象照合中》
《対象照合中》
《未登録存在を検索しています》
レンが顔を青ざめさせる。
「これ、まさか……今の会話で反応したのか」
『違う』
アヴィが短く言った。
『最初から探してた。店の中に入れなかっただけだ。今、空欄を手がかりにし始めた』
レシートプリンターが、ひときわ強く音を立てた。
ジジジ、と長く紙が吐き出される。
最後の一枚。
それだけ、印字の黒が濃かった。
ユウリは、息を止めてその紙を見た。
本日の客:回収対象
空席の向こうで、見えない誰かが、声にならない悲鳴を上げた気がした。




