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現代神話構文黙示録 〜スマホアプリ《AVIS》と未定義の神々〜  作者: 秋月キアラ
第8話 ― カフェ《ノーネーム》の名なし客
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第1節 ― 誰も覚えていない客

 入口の鈴の音は、しばらく店内に残っていた。


 からん、と鳴ったはずの一音が、木の床と曇り硝子と古い本棚のあいだを、ゆっくり往復しているようだった。

 けれど、扉はもう閉まっている。

 外の路地から入り込んだ夕方の空気も、すぐにカフェの琥珀色の灯りへ溶けてしまった。


 入口には、誰もいない。


 ただ、傘が一本だけ立てかけられていた。


 黒い傘だった。

 けれど、完全な黒ではない。濡れた夜道のような、光を吸い込む灰色がかった黒。閉じた布の端から、雨粒が一滴、木の床へ落ちる。


 ぽたり。


 店の中に雨の匂いがした。


 ユウリは反射的に窓の方を見た。


 外は降っていない。

 路地の石畳も乾いている。

 さっきまで三人で歩いてきた旧北口商店街にも、雨の気配などなかった。


「……降ってたっけ?」


 レンが、ユウリの横で同じことを考えたらしく、低く呟いた。


「降ってない」


 ユウリは答えた。

 自分の声が、少し小さくなっているのが分かった。


 ミオは、入口の方を見つめている。

 傘ではない。

 傘の横に、誰かが立っていたはずの空間を見ている。


 そこには、誰もいない。


 けれど、ミオの瞳だけが、何かの輪郭を追っていた。


 マスターは、何事もなかったようにカウンターの向こうでカップを磨いている。白い布で磁器の縁を拭く指先は、先ほどとまったく同じ速さで、同じ優雅さを保っていた。


 それが余計に不気味だった。


「店主さん」


 ユウリは、カウンターの上のレシートから視線を外さずに言った。


「今の、誰ですか」


 マスターは、カップを磨く手を止めなかった。


「お客様でございます」


「見えてるんですか」


「見えている、という言い方が正しいかは、少々難しいところでございますな」


 レンが眉をひそめた。


「そういうの、今はいいんで。分かる範囲で教えてください」


「では、分かる範囲で」


 マスターは磨き終えたカップを棚に戻した。


「そのお客様は、一週間ほど前から当店にいらっしゃるようになりました」


「一週間前?」


「はい。来店時刻は、おおむね夕方。日が落ちきる前、けれど昼とは言い難い時刻でございます」


 マスターは、まるで常連客の好みを説明するような穏やかな口調だった。


「座席は毎回異なります。窓際の日もあれば、壁際の日もある。カウンターに座られたこともございました。注文も一定ではございません。珈琲、紅茶、水、時には何も頼まれないこともございます」


「何も頼まない客にもレシート出るんですか」


 レンが怪訝そうに言う。


「本来は出ません」


「じゃあ、あれは?」


 レンがカウンターのレシートを指さした。


 白い紙の上に、黒い印字が浮かんでいる。

 普通の会計記録の形式をしているのに、どこかがずれている。店名の欄は空白。客名欄も空白。注文内容は、目を離すたびに違う文字へ変わっているように見えた。


 ブレンドコーヒー。

 ミルクティー。

 水。

 空欄。

 何も注文していない。


 同じ場所に、別々の記録が重なっている。


 ユウリの目が疲れているわけではない。

 そう思いたかったけれど、AVISの画面はすでに小さく震えている。


 マスターは言った。


「お客様が残されたもの、と申し上げるべきでしょうな」


「残されたもの?」


「ええ。人は、席に座れば椅子をわずかに軋ませます。カップを持てば温度が移ります。言葉を発すれば、空気が震えます。たとえ名が残らずとも、来たという事実までは完全には消えません」


 マスターの声は静かだった。


「このレシートは、その痕跡でございます」


 ユウリは、白い紙を見つめた。


 痕跡。


 そこに誰かがいた。

 座って、何かを注文して、何かを飲んだ。

 けれど、名前だけがない。

 顔もない。

 声も残らない。


 いるのに、いない。


 その感覚が、胸の奥に冷たい指を差し入れてくる。


「他の人も、覚えてないんですか」


 ミオが小さく聞いた。


 マスターは、店内をゆっくり見渡した。


「そうですな。尋ねてみるのが早うございます」


 そう言って、彼はカウンターの脇を出た。


 その動きに合わせて、店内の静けさが少しだけ揺れる。新聞を読んでいた老人が顔を上げ、窓際の女性がペンを止め、奥の席で眠っていたように見えた学生風の人物がまばたきをした。


 マスターはまず、新聞の老人の前へ立った。


「失礼いたします。ここ一週間ほど、夕方にいらっしゃるお客様をご存じでしょうか」


 老人は新聞を少し下ろした。


「ああ……あの人かい」


 ユウリたちは息を呑んだ。


 覚えているのか。

 そう思った次の瞬間、老人は眉間にしわを寄せた。


「あの人……いや、誰だったかな。いたような気はするんだがね。若い人だったか」


「男性でしたか。女性でしたか」


 マスターが穏やかに聞く。


「男……いや、女の人だったかもしれん。いや、そもそも若かったかな。帽子をかぶっていたような気もするが、髪が長かったような……」


 老人の声が、言葉を重ねるごとに頼りなくなっていく。


 最後には、困ったように笑った。


「すまんね。毎日来てるような気もするし、今日初めて聞いた話のような気もする」


「ありがとうございます」


 マスターは礼を言い、次に窓際の女性へ向かった。


 彼女はノートを閉じ、少し考え込むように視線を落とした。


「覚えているか、と聞かれると……困りますね」


「困る?」


 ユウリが思わず口を挟む。


 女性はユウリの方を見た。

 その表情には、怖がっているというより、自分の記憶が信用できなくなった時の戸惑いが浮かんでいた。


「その席に、誰かが座っていた気配は覚えています。カップの置き方とか、椅子の引き方とか。でも、顔を思い出そうとすると、そこだけ曇るんです」


「声は?」


 レンが聞いた。


「聞いたような気はします。けれど、どんな声かは……」


 女性は唇を閉じた。

 それから、ゆっくり首を振った。


「忘れたというより、最初から聞いていなかったことにされているみたい」


 その表現に、ユウリの背筋が少し冷えた。


 忘れるのではない。


 最初から、なかったことにされる。


 それは、ただの記憶違いとは違う。

 もっと深い場所で、記録の糸を抜き取られるような感覚だった。


 マスターは、さらに奥の席の学生風の人物にも尋ねた。


 その人物は眠そうな目をこすりながら、曖昧に答えた。


「いた、ような……いなかったような。すみません、よく分からないです。でも」


「でも?」


「その人が帰った後、なぜか椅子だけ冷たくなってるんです。冬でもないのに」


 レンが小さく舌打ちした。


「全員、記憶が抜けてる。でも物理的な痕跡は残ってる」


 ユウリはうなずいた。


「完全に消えてるわけじゃない」


「だな。存在はしてる。けど、個人として認識できない。顔、声、名前、性別、年齢、全部が固定されない」


 レンの目が、少しだけ輝いた。


 それは好奇心の光だった。

 危険なものを見つけた時の、レンらしい光。


「……面白い」


「レン」


 ユウリは思わず名前を呼んだ。


 レンは一瞬きょとんとして、それから「あ」と気づいたように口を閉じた。


「悪い。面白がる言い方じゃなかった」


「うん」


「でも、現象としてはかなり特殊だ。管理機構のログにも残らないなら、これ、匿名性どころじゃない。存在のトラッキング自体をすり抜けてる」


 レンはスマホを取り出した。


「店内の写真、撮っていいですか」


 マスターは微笑んだ。


「お客様のご迷惑にならない範囲であれば」


「迷惑をかける相手が写らないんだけどな」


 レンはそう言いながら、店内を数枚撮影した。


 入口。

 カウンター。

 空席。

 本棚の横。

 窓際。

 誰もいないテーブル。


 シャッター音は鳴らない設定にしているはずなのに、ユウリには一枚撮るごとに、何か薄い膜が破れるような気配がした。


 レンは撮影した画像をすぐに確認する。


「……ん?」


「どうした?」


 ユウリが覗き込む。


 画面には、さっき撮った店内の写真が映っていた。


 最初の写真は入口。

 白い札。

 濡れた黒い傘。


 次はカウンター。

 マスターがカップを磨いている。


 次は本棚の横の席。

 誰も座っていない。

 ただ、テーブルの上に白いカップが置かれていた。


「これ、さっきなかったよな」


 レンの声が少し低くなる。


 ユウリは実際の席を見た。


 本棚の横。

 丸いテーブル。

 椅子が一脚、わずかに引かれている。


 けれど、カップは置かれていない。


 写真の中にだけ、白いカップがある。


 しかも、飲みかけだった。


 縁に、かすかな口紅の跡のようなものがある。

 いや、口紅ではないかもしれない。影かもしれない。カップの白に滲んだ、誰かの体温の名残のようなもの。


「写真には写ってる。でも現物にはない」


 レンは画面を拡大した。


「いや、違う。カップの位置が写真ごとに違う」


 彼は続けて数枚を表示する。


 同じ席。

 誰もいない。

 でも、ある写真にはカップがある。

 別の写真にはグラスがある。

 さらに別の写真には、何もない代わりに、テーブルの木目だけが濡れている。


 水滴の輪。

 カップの底が残した丸い跡。


 そこに誰かがいた、という証拠だけが、記録の隙間に残っている。


「……ユウリ」


 ミオの声がした。


 振り向くと、ミオは本棚の横の席を見つめていた。


 顔色が少し悪い。

 唇から血の気が引いている。


「ミオ?」


 ユウリが呼ぶと、ミオは返事をしなかった。


 彼女の視線は、空席に固定されている。


 そこには誰もいない。


 少なくとも、ユウリにはそう見える。


 けれど、ミオには違うものが見えているのだと、すぐに分かった。


 ミオの瞳が、見えない誰かの動きを追っている。

 椅子の高さより少し上。

 テーブルの向こう側。

 白いカップを持つ位置。


 ミオの指先が、かすかに震えた。


「……手が」


「手?」


「細い指。カップを持ってる。でも、すぐ消える」


 ミオは、ゆっくり呼吸をした。


「何か言おうとしてる。口が動いてる。でも、声が出ない。名前を言おうとして……言えない」


 ユウリは空席を見た。


 やはり、誰もいない。


 けれど、ミオの言葉を聞いた瞬間、ユウリの頭の中にも、一瞬だけ像が浮かんだ。


 白いカップを両手で包む細い指。

 少し俯いた顔。

 髪が頬にかかっているのかもしれない。

 けれど、その顔の中心だけがどうしても結ばれない。


 目も、鼻も、口もあるはずなのに、思い出そうとした瞬間、白い紙で覆われる。


 いや。


 思い出す以前に、見た記憶そのものが作られない。


「ミオ」


 ユウリはもう一度、少し強く呼んだ。


「ミオ」


 ミオの肩が、びくりと揺れた。


 それから、遅れてユウリの方を見る。


 焦点が戻るまでに、ほんの一拍あった。


「……うん」


 ミオは小さく息を吸った。


「大丈夫」


「本当に?」


「うん。今、呼んでくれたから」


 その言葉が、ユウリの胸に刺さった。


 今、呼んでくれたから。


 ミオは、そう言った。


 名前を呼ばれて、戻ってきた。

 まるで、さっきまで何かに引かれていたみたいに。


「ごめん」


 ユウリは、反射的にそう言った。


 ミオは首を振る。


「謝らないで。呼んでくれたから、戻れた」


 レンが黙って二人を見ていた。


 いつもの軽口はなかった。

 スマホを持つ手だけが、少し強く握られている。


 ユウリのポケットの中で、スマホが震えた。


 AVISの画面が自動で立ち上がる。


 青白い円環UIが、黒い背景の上で不安定に回転していた。

 文字列が一度表示されては消え、別の候補に置き換わる。


《微弱神話構文反応》

《識別対象:空欄》

《分類:人間/残滓/記録欠損》

《判定不能》

《呼称固定に失敗》

《現在名:未検出》


 アヴィ=シグルが画面の中に現れた。


 いつものように偉そうに腕を組んでいるが、顔はあまり余裕がない。


『この店、やっぱり嫌いだ』


「さっきも言ってた」


『何度でも言う。ログが残らないくせに、反応だけは濃い。しかも、対象が逃げる。名前も、輪郭も、分類も、こっちが掴もうとすると全部ずれる』


「人間なの?」


 ユウリは聞いた。


 アヴィは少し黙った。


『候補には入ってる』


「候補?」


『人間、神話残滓、記録欠損、都市伝説型の半顕現、あとは……マスター系の悪戯』


 アヴィはちらりとカウンターのマスターを見た。


 マスターは、まるで視線に気づいていないふりをして、穏やかにカップを並べている。


『どれも少し当たっていて、どれも決定打じゃない。こういうのが一番面倒だ』


「分類できないってこと?」


『分類すると壊れる可能性があるってこと』


 その言い方に、ユウリは息を止めた。


「壊れる?」


『名前も分類も、対象を固定する。固定できる状態なら便利だ。でも今の対象は、固定されないことで何かから逃げているように見える』


 アヴィの声が、少しだけ低くなる。


『無理に呼ぶな。無理に記録するな。たぶん、引っかかる』


「引っかかるって、何に」


『それが分かれば苦労しない』


 レンが、スマホの画面を見つめたまま言った。


「でも、ログを取らないと何も分からない」


 ユウリはレンを見る。


 レンの表情は真剣だった。

 軽い好奇心だけではない。怖さもある。責任感もある。それでも、目の奥には、何かを解析しようとする熱が残っていた。


「記録しないと、また同じことが起きるかもしれない。AVIS一般版か、管理機構の監視漏れか、あるいは再臨派の実験か。原因があるなら拾わないと」


「でも、アヴィは無理に記録するなって」


「無理に名前を取るわけじゃない。現象ログだけ残す」


 レンは自分のスマホを操作した。


 画面に、録画アプリとAVIS一般版の解析補助ツールが並んでいる。

 レンが自分で組んだらしい簡易ログ保存画面も見えた。


「映像、音声、位置情報、温度、電波の揺らぎ。個人情報に触れない範囲なら――」


「それ、本当に触れないって言い切れる?」


 ユウリの声が、思ったより強く出た。


 レンが指を止める。


 店内の空気が、わずかに固まった。


 ユウリは、すぐに言い過ぎたかもしれないと思った。

 レンは悪意でやっているわけではない。

 むしろ、助けるために、知るために、繰り返さないために記録しようとしている。


 でも。


 さっきの白いレシート。

 空欄の客名。

 ミオの「今、呼んでくれたから」という声。


 それらが、ユウリの中で引っかかっていた。


「ごめん」


 ユウリは言った。


「ログが必要なのは分かる。でも、この人……人なのかどうかも分からないけど、もしかしたら、記録されないことで助かってるのかもしれない」


 レンは黙った。


 ミオも、空席を見たまま小さくうなずく。


「私も、そう思う」


 レンは唇を噛んだ。


「……分かった。録画はしない。スクショも一旦やめる」


 そう言って、スマホを伏せた。


 けれど、完全に納得した顔ではなかった。


 ユウリは、その表情を見逃せなかった。


 レンは間違っていない。

 ユウリも、正しいと言い切れるわけではない。

 記録しないことで、救えなくなるものもある。

 記録することで、壊してしまうものもある。


 どちらか一つで片づく話ではない。


 そのことが、ユウリには少し苦しかった。


 マスターが、静かに三人のテーブルへ歩いてきた。


 手には、新しいカップがひとつ載ったトレイ。


 誰の注文でもない。

 白いカップ。

 中には、湯気の立つ透明な飲み物が入っている。


「それは?」


 ユウリが聞く。


「お客様のものです」


 マスターはそう言い、空席のテーブルへ向かった。


 本棚の横。

 誰もいない席。


 そこに、マスターは白いカップを置いた。


 カップの底が木のテーブルに触れた瞬間、かすかな音がした。


 ことり。


 その音だけは、はっきり聞こえた。


 ミオが息を呑む。


「……今、手が伸びた」


 ユウリには見えなかった。


 けれど、カップの湯気が一瞬だけ揺れた。

 誰かが、そこに顔を近づけたように。


 レンも無言で見ている。


 アヴィの画面には、文字化けしたログが走っていた。


《対象名:――》

《対象名:未登録》

《対象名:空欄》

《対象名:》

《対象名:》

《対象名:》


 表示されては消える。


 まるで、誰かが自分の名前から逃げているように。


 その時だった。


 入口のベルが、もう一度鳴った。


 からん。


 ユウリたちは一斉に振り向いた。


 扉が開いている。


 今度は、確かに誰かが入ってきた。


 そう思った。


 白い札の向こう、夕方の路地を背に、細い人影が立っていた。

 制服のようにも、私服のようにも見える服。

 濡れていないはずなのに、肩だけが雨を含んだように暗い。

 髪の長さは、分からない。

 顔は、見えたはずだった。


 ユウリは、その人と目が合った気がした。


 ほんの一瞬だけ。


 何かを言いたそうな目。

 助けてほしいような。

 見ないでほしいような。

 名前を呼んでほしいような。

 呼ばれたら終わってしまうような。


 次の瞬間、レンが小さく息を吸った。


「……誰だ?」


 その言葉で、ユウリの中の像が崩れた。


 顔が消える。

 髪の長さが分からなくなる。

 服の色が思い出せなくなる。

 男だったのか、女だったのか。

 若かったのか、大人だったのか。

 立っていたのか、座っていたのか。


 記憶の輪郭が、濡れた紙のインクみたいに滲んでいく。


 ユウリは慌てて目を凝らした。


 けれど、入口にはもう誰もいなかった。


 扉は閉まっている。

 白い札が揺れている。

 その下に、濡れた黒い傘だけが残っていた。


 さっきもあった傘なのか。

 今置かれた傘なのか。

 それすら、分からない。


 ミオが、胸元を押さえていた。


「……いた」


 その声は震えていた。


「今、いたよね」


 ユウリは答えようとした。


 いた。

 確かにいた。


 そう言いたかった。


 けれど、喉の奥で言葉が一瞬止まった。


 本当にいたのか。


 自分は、誰を見たのか。


 その顔を、なぜもう思い出せないのか。


 レンが伏せていたスマホを見た。


 画面は、いつの間にか真っ黒になっていた。

 バッテリーは残っている。電源も入っている。

 なのに、録画も写真も、何も残っていない。


 アヴィ=シグルだけが、ユウリのスマホ画面の中で、珍しく黙っていた。


 マスターは、空席に置かれた白いカップを見つめている。


 カップの中身は、少しだけ減っていた。


 誰かが、確かに飲んだように。


 マスターは静かに頭を下げた。


「ご来店、ありがとうございます」


 誰に向けた言葉なのか、ユウリには分からなかった。


 ただ、カウンターの奥でレシートプリンターが動き出す。


 ジジ、と白い紙が吐き出される。


 マスターがそれを取るより先に、ユウリは印字を見た。


本日の客:


 その後ろには、何もなかった。


 空欄。


 けれど、その空欄だけが、まるで誰かの悲鳴のように見えた。

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