序節 ― 放課後のノーネーム
放課後の神狭市は、昼と夜のあいだに置き忘れられたような色をしていた。
駅前の大型ビジョンには、いつものように新作ゲームの広告と、学習塾の合格実績と、駅ビルのセール告知が順番に流れている。通学鞄を肩にかけた高校生たちが、笑い声とスマホの通知音を混ぜながら改札へ吸い込まれていく。会社員らしき人々は、夕方のまだ浅い疲労を顔に貼りつけて、足早にバス停へ向かっていた。
世界は、何事もなかったような顔をしている。
それが、ユウリには少しだけ不思議だった。
ついこのあいだまで、神話なんてものは、動画で見るものだった。辞典で調べるものだった。ゲームや漫画や小説の設定を深読みして、レンとああでもないこうでもないと話すためのものだった。
それが今では、スマホの画面越しに現実へ滲み出す。
名前を奪う。
神を呼ぶ。
記録を裂く。
人を、別のものとして分類する。
そういう言葉を、ユウリはもう、空想の比喩としてだけは受け取れなくなっていた。
「……ユウリ?」
呼ばれて、ユウリは足を止めた。
横を歩いていたミオが、少し心配そうにこちらを見ている。制服のリボンが、夕方の風でかすかに揺れていた。ミオの表情は普段どおり静かだったけれど、目の奥に、まだどこか遠い水面のような光が残っている。
「大丈夫?」
「うん。ごめん。ちょっと考えてた」
「それ、いつものことじゃん」
後ろからレンが言った。
レンは両手を頭の後ろで組み、いかにも退屈そうな歩き方をしている。けれど、その目は何度もスマホへ落ちていた。画面には、いつものSNSではなく、AVISのログが開かれている。
白紙カルテ診療所での一件から、まだ日が経っていない。
三枝コウヤは、隔離回復室で眠っている。
白羽根イツキは「経過観察」と言った。
烏丸マシロは「記録提出」と言った。
そしてユウリたちは、そのどちらの言葉にも、完全には安心できなかった。
助けたのだと思う。
少なくとも、あの場では。
あの瞬間には。
ユウリはそう信じたい。
けれど、助けた人間が、その後どこへ連れていかれるのか。どんな記録に分類されるのか。どんな名前で呼ばれるのか。そこまで考えると、胸の奥に小さな棘が残る。
ミオが、そっとユウリの歩調に合わせた。
「今日は、調査じゃないんだよね」
「うん。ただの寄り道」
「ほんとに?」
ミオが念を押すように聞く。
ユウリは少し笑った。
「ほんとに。……たぶん」
「たぶんって言った」
「いや、だって、最近ほんとに何も起きない日がないから」
「フラグ立てるなよ、ユウリ」
レンがすかさず言った。
「こういう時に『今日は何も起きないよね』とか言うと、大体起きるんだよ。学校七不思議でも、駅の無番線でも、白紙カルテでも学んだだろ」
「じゃあ、なんて言えばいいんだよ」
「『今日は何か起きてもコーヒーだけは飲む』」
「それ、覚悟の方向がおかしくない?」
ミオが小さく笑った。
その笑い方が、あまりに普通だったので、ユウリは少しだけ息をつけた。
ミオは、ここにいる。
女神でも、器でも、理に触れた何かでもなく、星宮ミオとして。
隣を歩いて、少し苦いものが苦手で、たまに言葉の端に不思議な静けさを宿す、同じ学校の生徒として。
ユウリは、そのことを確かめるように名前を呼んだ。
「ミオ」
「うん?」
すぐに返事があった。
それだけで、少し安心する。
ほんの少し前なら、名前を呼んで返事があることが、こんなに大事だなんて思わなかった。
駅前の人波を抜け、三人は北口側へ回った。
再開発された南側とは違い、旧北口商店街には古い空気が残っている。チェーン店の明るい看板は少なく、代わりに色褪せた庇、手書きの値札、閉じたシャッター、煤けた電飾、誰が置いたのか分からない植木鉢が道の端に並んでいた。
夕方になると、ここは少しだけ時間の流れが遅くなる。
駅前の騒音はまだ聞こえるのに、路地へ一歩入ると、音が薄い膜の向こう側へ押しやられる。
古い喫茶店の扉。
使われなくなった写真館の看板。
店先に吊るされたままの風鈴。
いつから閉まっているのか分からない時計店。
神狭市は普通の街だ。
けれど、その普通の街の隙間には、時々、何かが座っている。
名前を忘れられたもの。
誰かが昔、祈ったもの。
もう誰も信じていないのに、形だけ残ったもの。
ユウリのスマホが、ポケットの中でわずかに震えた。
反射的に取り出す。
AVISの画面には、まだ何も表示されていない。けれど、画面の端で、小さな青白い輪が一瞬だけ回った。
「反応?」
レンが覗き込む。
「いや、たぶん違う。ノイズみたいなもの」
画面の中で、アヴィ=シグルが眠そうな顔を出した。小さな精霊のような姿で、ウィンドウの縁に肘をついている。
『ノイズというより、店の癖だな』
「店の癖?」
『この辺りはログの残り方が悪い。位置情報も、会話記録も、照応候補も、ところどころ抜ける。普通のアプリならバグ。AVIS的には、すごく性格の悪い空白』
「それ、危険ってこと?」
『危険じゃない空白なんてあると思うか?』
アヴィはそう言ってから、ちらりと前方を見た。
『ただ、今すぐ噛みついてくる類いじゃない。たぶん』
「たぶんって言った」
ミオが、さっきのユウリと同じ言い方をした。
アヴィは肩をすくめる。
『神狭市で断言するやつは信用するな。僕も含めて』
「自分で言うなよ」
レンが呆れた声を出す。
やがて、三人は一本の細い路地へ入った。
そこに、その店はあった。
カフェ《ノーネーム》。
とはいえ、店名を大きく掲げた看板はない。軒先に吊るされた木製の小さなプレートには、何も書かれていなかった。白く塗られたその札は、文字を待っているようにも、文字を拒んでいるようにも見える。
窓は曇り硝子。
扉は古い木製。
取っ手だけが、長く使い込まれて鈍く光っている。
初めて来たとき、ユウリはこの店を少し怪しいと思った。
二度目に来たとき、やっぱり怪しいと思った。
そして三度目になる今日も、怪しいという印象は変わらない。
ただ、その怪しさが不思議と嫌ではなかった。
レンが扉の前で腕を組んだ。
「なあ、今さらだけどさ。この店、ほんとに普通のカフェで合ってる?」
「普通ではないと思う」
ユウリは正直に答えた。
「じゃあ入っていいのか?」
「普通じゃないけど、入っていい場所ではあると思う」
「その判断基準、だいぶAVISに毒されてきてるぞ」
ミオが扉の白い札を見上げる。
「名前がないお店」
「うん」
「でも、ここに来るって決めたら、ちゃんと見つかるんだね」
その言葉に、ユウリは少しだけ引っかかった。
見つかる。
見つけるのではなく。
呼ばれるのでもなく。
ここに来ようと思えば、ちゃんと辿り着ける。
けれど、何となく歩いていても、たぶん見つからない。
そういう店なのかもしれなかった。
ユウリが扉を押すと、からん、と鈴が鳴った。
店内には、外の夕方とは違う、やわらかい琥珀色の光が満ちていた。
木の床。
古い丸テーブル。
壁際に並ぶ本棚。
小さな観葉植物。
磨かれたカウンター。
奥で静かに湯気を上げるコーヒーサーバー。
客は数人いた。けれど、誰も大きな声を出していない。新聞を読んでいる老人。窓際でノートに何かを書いている女性。眠っているのか考え込んでいるのか分からない学生風の人物。
誰も、こちらを不自然には見ない。
そのことに、ユウリは逆に少しほっとした。
カウンターの奥で、老紳士が静かに顔を上げる。
白髪。
整えられた口髭。
古風なベスト。
細い銀縁の眼鏡。
そして、まるで舞台の上から客席を眺める役者のような、穏やかで底の知れない目。
「いらっしゃいませ」
マスターは、柔らかく頭を下げた。
「お席はいつものあたりでよろしいでしょうか」
「いつものっていうほど来てないですけど」
ユウリが言うと、マスターは微笑む。
「一度でも戻ってきた場所は、もう少しだけ“いつも”に近づくものです」
「相変わらず、言い方がいちいち怪しいな……」
レンが小声で呟く。
マスターは聞こえているはずなのに、何も言わなかった。ただ、カウンターの端に置かれた小さなベルを軽く鳴らす。
「当店では、お名前は伺いません。必要ございませんので」
「喫茶店で名前聞かれる方が珍しくないですか?」
レンがすぐに返す。
「それは幸いでございます」
「何が?」
「世の中には、名を求められすぎる場所が多うございますから」
マスターはそれだけ言って、三人を奥のテーブルへ案内した。
そこは本棚に近い席だった。横には古いランプが置かれていて、淡い光がテーブルの木目を浮かび上がらせている。棚には、神話辞典、民俗学の本、古い詩集、外国語の聖典らしき本、そして背表紙の文字が消えた何冊もの本が並んでいた。
レンは席に座るなり、メニューを開いた。
「えーと、今日は甘いやつある?」
「ございます。名を持たぬ菓子でよろしければ」
「なんで菓子まで名前ないんだよ」
「名前をつけた途端、好き嫌いが生まれますので」
「いや、材料は知りたいんだけど」
ユウリは思わず笑った。
ミオも、口元に少しだけ笑みを浮かべている。
その空気が、心地よかった。
戦闘の後の静けさ。
病室の白さではなく、カフェの灯りの中にある静けさ。
何かを審査される場所ではなく、ただ座っていていい場所。
ユウリは、ようやく肩の力が少し抜けるのを感じた。
「ユウリ様は、いつものもので?」
「だから、いつものってほど来てないですって」
「では、これからいつものものになるかもしれないものを」
「それ、注文として成立してます?」
「もちろんでございます」
マスターは楽しげに目を細めた。
ミオにはミルクティー。
レンには甘い菓子とカフェオレ。
ユウリにはブレンドコーヒー。
注文を取り終えると、マスターは音もなくカウンターへ戻っていった。
レンは周囲を見回しながら、声を潜める。
「なあ、やっぱりこの店主、絶対ただ者じゃないよな」
「ただ者じゃないのは、もう分かってるだろ」
「いや、分かってるけどさ。分かってても、普通に接客されると反応に困るんだよ。こっちが警戒してるのがバカみたいになる」
「それが狙いかもしれない」
「やめろよ。コーヒー飲みに来たのに心理戦始めるな」
ミオはカップが運ばれてくる前の空いたテーブルを、じっと見つめていた。
「こういう場所、少し不思議」
「不思議?」
ユウリが聞く。
「うん。誰も、私を見てない」
「それは、普通じゃない?」
「普通なんだけど……最近、普通じゃなかったから」
ミオの声は、静かだった。
ユウリは返事に迷う。
ミオは最近、見られすぎている。
AVISに。
管理機構に。
神話構文に。
レイジたちのような神を信じる者に。
あるいは、もっと深い理の水面に。
星宮ミオという一人の生徒ではなく、何かの器として。
何かが顕れるための場所として。
「ここだと、少し楽かも」
ミオはそう言って、視線を本棚へ移した。
「誰も名前を聞かないから?」
「うん。たぶん」
その言葉に、ユウリは胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。
名前を聞かれないことが、楽。
それは分かる。
けれど、分かってしまうことが少し怖い。
名前は、呼ばれるためにある。
でも、呼ばれすぎれば、役割になる。
ミオ。
星宮ミオ。
女神の器。
理触者。
照応候補、過多。
解析不能。
どれが彼女を守り、どれが彼女を縛るのか。
ユウリには、まだ分からなかった。
やがて、マスターが飲み物を運んできた。
ミオの前に置かれたミルクティーは、白い湯気を立てている。レンのカフェオレには、名前のない菓子が添えられていた。ユウリの前には、深い色のコーヒーが静かに置かれる。
「ごゆっくり」
マスターが去ろうとした時、レンが声をかけた。
「あ、店主さん」
「はい」
「この店、ポイントカードとかないの?」
ユウリは思わずレンを見る。
「急に何聞いてるんだよ」
「いや、通うならさ」
マスターは実に真面目な顔で答えた。
「申し訳ございません。当店では、お客様を点数化する仕組みを採用しておりません」
「ポイントカードをそんな怖い言い方する人、初めて見た」
「来たい時に来ていただければ、それで十分でございます」
レンは肩をすくめた。
「まあ、そういう店ならいいけど」
マスターはそのままカウンターへ戻りかける。
その時だった。
カウンターの奥で、小さな機械音がした。
ジジ、と紙が擦れる音。
レシートプリンターの音だ。
マスターは振り向かない。
けれど、ユウリはなぜか、その音に意識を引かれた。
何でもない音のはずだった。
会計の時に鳴る、ごく普通の印字音。
けれど今は、誰も会計をしていない。
ユウリはカウンターの方を見た。
プリンターから、白いレシートが一枚、ゆっくり吐き出されている。
マスターがそれを手に取り、ちらりと見る。
その横顔に、ほんの少しだけ、普段と違う影が落ちたように見えた。
「……何かありました?」
ユウリが聞く。
マスターは、いつもの微笑みを戻した。
「いえ。いつものことでございます」
「いつもの?」
「ええ。最近、少し困ったお客様がいらっしゃいまして」
レンが身を乗り出す。
「クレーマー?」
「いいえ。非常に礼儀正しい方でございます」
「じゃあ何が困るんですか」
マスターはレシートを指先で整え、カウンターに置いた。
「どなたも、その方を覚えておられないのです」
店内の空気が、わずかに変わった。
ミオがカップに伸ばしかけていた手を止める。
レンの表情から、軽さが消える。
ユウリは、ゆっくりと立ち上がった。
カウンターの上のレシートを見せてもらう。
印字は、途中まで普通だった。
時刻。
伝票番号。
テーブル番号。
注文内容。
けれど、注文内容の欄が奇妙に揺れている。
ブレンドコーヒー。
ミルクティー。
水。
空欄。
何も注文していない。
同じ一枚の紙の中で、文字が定まっていないように見えた。
そして、客名欄だけがぽっかりと白い。
何も印字されていない。
そこだけ、初めから文字が存在しない場所のようだった。
「……客名欄なんて、普通あるんですか?」
ユウリが聞く。
「当店には、ございません」
マスターは穏やかに答えた。
「では、これは?」
「ですから、困っているのでございます」
その言葉の直後、ユウリのスマホが震えた。
AVISが勝手に起動する。
画面に青白い文字が走った。
《微弱神話構文反応》
《識別対象:空欄》
《対象名:未検出》
《現在名:記録不能》
《警告:呼称処理に失敗しました》
アヴィ=シグルが、画面の端から顔を出した。
その表情は、いつもの皮肉げなものではない。
『……ユウリ』
「何?」
『この店、やっぱり嫌いだ』
「理由は?」
『ログが残らないくせに、反応だけは濃い』
レンが低く息を吐いた。
「ほらな。言っただろ。フラグ立てるなって」
ミオは、白いレシートを見つめていた。
その瞳が、ほんの少しだけ揺れている。
「……誰か、いる」
ミオが呟いた。
「でも、呼べない」
店の入口で、からん、と鈴が鳴った。
三人が振り向く。
扉は、確かに開いた。
夕方の路地の空気が、店内へ細く流れ込む。
白い無記名の札が、風に揺れる。
けれど、入口には誰もいなかった。
ただ、濡れてもいないはずの傘が一本、扉の横に立てかけられていた。
ユウリは、それを見た瞬間、なぜか思った。
誰かが、ここへ来た。
そしてもう、自分はその人の顔を忘れかけている。
マスターは、静かにカップを磨きながら言った。
「いらっしゃいませ」
その声は、誰もいない入口へ向けられていた。
「お名前は、伺いませんので」




