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現代神話構文黙示録 〜スマホアプリ《AVIS》と未定義の神々〜  作者: 秋月キアラ
第8話 ― カフェ《ノーネーム》の名なし客
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序節 ― 放課後のノーネーム

 放課後の神狭市は、昼と夜のあいだに置き忘れられたような色をしていた。


 駅前の大型ビジョンには、いつものように新作ゲームの広告と、学習塾の合格実績と、駅ビルのセール告知が順番に流れている。通学鞄を肩にかけた高校生たちが、笑い声とスマホの通知音を混ぜながら改札へ吸い込まれていく。会社員らしき人々は、夕方のまだ浅い疲労を顔に貼りつけて、足早にバス停へ向かっていた。


 世界は、何事もなかったような顔をしている。


 それが、ユウリには少しだけ不思議だった。


 ついこのあいだまで、神話なんてものは、動画で見るものだった。辞典で調べるものだった。ゲームや漫画や小説の設定を深読みして、レンとああでもないこうでもないと話すためのものだった。


 それが今では、スマホの画面越しに現実へ滲み出す。


 名前を奪う。

 神を呼ぶ。

 記録を裂く。

 人を、別のものとして分類する。


 そういう言葉を、ユウリはもう、空想の比喩としてだけは受け取れなくなっていた。


「……ユウリ?」


 呼ばれて、ユウリは足を止めた。


 横を歩いていたミオが、少し心配そうにこちらを見ている。制服のリボンが、夕方の風でかすかに揺れていた。ミオの表情は普段どおり静かだったけれど、目の奥に、まだどこか遠い水面のような光が残っている。


「大丈夫?」


「うん。ごめん。ちょっと考えてた」


「それ、いつものことじゃん」


 後ろからレンが言った。


 レンは両手を頭の後ろで組み、いかにも退屈そうな歩き方をしている。けれど、その目は何度もスマホへ落ちていた。画面には、いつものSNSではなく、AVISのログが開かれている。


 白紙カルテ診療所での一件から、まだ日が経っていない。


 三枝コウヤは、隔離回復室で眠っている。

 白羽根イツキは「経過観察」と言った。

 烏丸マシロは「記録提出」と言った。

 そしてユウリたちは、そのどちらの言葉にも、完全には安心できなかった。


 助けたのだと思う。


 少なくとも、あの場では。

 あの瞬間には。

 ユウリはそう信じたい。


 けれど、助けた人間が、その後どこへ連れていかれるのか。どんな記録に分類されるのか。どんな名前で呼ばれるのか。そこまで考えると、胸の奥に小さな棘が残る。


 ミオが、そっとユウリの歩調に合わせた。


「今日は、調査じゃないんだよね」


「うん。ただの寄り道」


「ほんとに?」


 ミオが念を押すように聞く。


 ユウリは少し笑った。


「ほんとに。……たぶん」


「たぶんって言った」


「いや、だって、最近ほんとに何も起きない日がないから」


「フラグ立てるなよ、ユウリ」


 レンがすかさず言った。


「こういう時に『今日は何も起きないよね』とか言うと、大体起きるんだよ。学校七不思議でも、駅の無番線でも、白紙カルテでも学んだだろ」


「じゃあ、なんて言えばいいんだよ」


「『今日は何か起きてもコーヒーだけは飲む』」


「それ、覚悟の方向がおかしくない?」


 ミオが小さく笑った。


 その笑い方が、あまりに普通だったので、ユウリは少しだけ息をつけた。


 ミオは、ここにいる。


 女神でも、器でも、理に触れた何かでもなく、星宮ミオとして。

 隣を歩いて、少し苦いものが苦手で、たまに言葉の端に不思議な静けさを宿す、同じ学校の生徒として。


 ユウリは、そのことを確かめるように名前を呼んだ。


「ミオ」


「うん?」


 すぐに返事があった。


 それだけで、少し安心する。


 ほんの少し前なら、名前を呼んで返事があることが、こんなに大事だなんて思わなかった。


 駅前の人波を抜け、三人は北口側へ回った。


 再開発された南側とは違い、旧北口商店街には古い空気が残っている。チェーン店の明るい看板は少なく、代わりに色褪せた庇、手書きの値札、閉じたシャッター、煤けた電飾、誰が置いたのか分からない植木鉢が道の端に並んでいた。


 夕方になると、ここは少しだけ時間の流れが遅くなる。


 駅前の騒音はまだ聞こえるのに、路地へ一歩入ると、音が薄い膜の向こう側へ押しやられる。

 古い喫茶店の扉。

 使われなくなった写真館の看板。

 店先に吊るされたままの風鈴。

 いつから閉まっているのか分からない時計店。


 神狭市は普通の街だ。


 けれど、その普通の街の隙間には、時々、何かが座っている。


 名前を忘れられたもの。

 誰かが昔、祈ったもの。

 もう誰も信じていないのに、形だけ残ったもの。


 ユウリのスマホが、ポケットの中でわずかに震えた。


 反射的に取り出す。


 AVISの画面には、まだ何も表示されていない。けれど、画面の端で、小さな青白い輪が一瞬だけ回った。


「反応?」


 レンが覗き込む。


「いや、たぶん違う。ノイズみたいなもの」


 画面の中で、アヴィ=シグルが眠そうな顔を出した。小さな精霊のような姿で、ウィンドウの縁に肘をついている。


『ノイズというより、店の癖だな』


「店の癖?」


『この辺りはログの残り方が悪い。位置情報も、会話記録も、照応候補も、ところどころ抜ける。普通のアプリならバグ。AVIS的には、すごく性格の悪い空白』


「それ、危険ってこと?」


『危険じゃない空白なんてあると思うか?』


 アヴィはそう言ってから、ちらりと前方を見た。


『ただ、今すぐ噛みついてくる類いじゃない。たぶん』


「たぶんって言った」


 ミオが、さっきのユウリと同じ言い方をした。


 アヴィは肩をすくめる。


『神狭市で断言するやつは信用するな。僕も含めて』


「自分で言うなよ」


 レンが呆れた声を出す。


 やがて、三人は一本の細い路地へ入った。


 そこに、その店はあった。


 カフェ《ノーネーム》。


 とはいえ、店名を大きく掲げた看板はない。軒先に吊るされた木製の小さなプレートには、何も書かれていなかった。白く塗られたその札は、文字を待っているようにも、文字を拒んでいるようにも見える。


 窓は曇り硝子。

 扉は古い木製。

 取っ手だけが、長く使い込まれて鈍く光っている。


 初めて来たとき、ユウリはこの店を少し怪しいと思った。

 二度目に来たとき、やっぱり怪しいと思った。

 そして三度目になる今日も、怪しいという印象は変わらない。


 ただ、その怪しさが不思議と嫌ではなかった。


 レンが扉の前で腕を組んだ。


「なあ、今さらだけどさ。この店、ほんとに普通のカフェで合ってる?」


「普通ではないと思う」


 ユウリは正直に答えた。


「じゃあ入っていいのか?」


「普通じゃないけど、入っていい場所ではあると思う」


「その判断基準、だいぶAVISに毒されてきてるぞ」


 ミオが扉の白い札を見上げる。


「名前がないお店」


「うん」


「でも、ここに来るって決めたら、ちゃんと見つかるんだね」


 その言葉に、ユウリは少しだけ引っかかった。


 見つかる。

 見つけるのではなく。

 呼ばれるのでもなく。


 ここに来ようと思えば、ちゃんと辿り着ける。

 けれど、何となく歩いていても、たぶん見つからない。


 そういう店なのかもしれなかった。


 ユウリが扉を押すと、からん、と鈴が鳴った。


 店内には、外の夕方とは違う、やわらかい琥珀色の光が満ちていた。


 木の床。

 古い丸テーブル。

 壁際に並ぶ本棚。

 小さな観葉植物。

 磨かれたカウンター。

 奥で静かに湯気を上げるコーヒーサーバー。


 客は数人いた。けれど、誰も大きな声を出していない。新聞を読んでいる老人。窓際でノートに何かを書いている女性。眠っているのか考え込んでいるのか分からない学生風の人物。


 誰も、こちらを不自然には見ない。


 そのことに、ユウリは逆に少しほっとした。


 カウンターの奥で、老紳士が静かに顔を上げる。


 白髪。

 整えられた口髭。

 古風なベスト。

 細い銀縁の眼鏡。

 そして、まるで舞台の上から客席を眺める役者のような、穏やかで底の知れない目。


「いらっしゃいませ」


 マスターは、柔らかく頭を下げた。


「お席はいつものあたりでよろしいでしょうか」


「いつものっていうほど来てないですけど」


 ユウリが言うと、マスターは微笑む。


「一度でも戻ってきた場所は、もう少しだけ“いつも”に近づくものです」


「相変わらず、言い方がいちいち怪しいな……」


 レンが小声で呟く。


 マスターは聞こえているはずなのに、何も言わなかった。ただ、カウンターの端に置かれた小さなベルを軽く鳴らす。


「当店では、お名前は伺いません。必要ございませんので」


「喫茶店で名前聞かれる方が珍しくないですか?」


 レンがすぐに返す。


「それは幸いでございます」


「何が?」


「世の中には、名を求められすぎる場所が多うございますから」


 マスターはそれだけ言って、三人を奥のテーブルへ案内した。


 そこは本棚に近い席だった。横には古いランプが置かれていて、淡い光がテーブルの木目を浮かび上がらせている。棚には、神話辞典、民俗学の本、古い詩集、外国語の聖典らしき本、そして背表紙の文字が消えた何冊もの本が並んでいた。


 レンは席に座るなり、メニューを開いた。


「えーと、今日は甘いやつある?」


「ございます。名を持たぬ菓子でよろしければ」


「なんで菓子まで名前ないんだよ」


「名前をつけた途端、好き嫌いが生まれますので」


「いや、材料は知りたいんだけど」


 ユウリは思わず笑った。

 ミオも、口元に少しだけ笑みを浮かべている。


 その空気が、心地よかった。


 戦闘の後の静けさ。

 病室の白さではなく、カフェの灯りの中にある静けさ。

 何かを審査される場所ではなく、ただ座っていていい場所。


 ユウリは、ようやく肩の力が少し抜けるのを感じた。


「ユウリ様は、いつものもので?」


「だから、いつものってほど来てないですって」


「では、これからいつものものになるかもしれないものを」


「それ、注文として成立してます?」


「もちろんでございます」


 マスターは楽しげに目を細めた。


 ミオにはミルクティー。

 レンには甘い菓子とカフェオレ。

 ユウリにはブレンドコーヒー。


 注文を取り終えると、マスターは音もなくカウンターへ戻っていった。


 レンは周囲を見回しながら、声を潜める。


「なあ、やっぱりこの店主、絶対ただ者じゃないよな」


「ただ者じゃないのは、もう分かってるだろ」


「いや、分かってるけどさ。分かってても、普通に接客されると反応に困るんだよ。こっちが警戒してるのがバカみたいになる」


「それが狙いかもしれない」


「やめろよ。コーヒー飲みに来たのに心理戦始めるな」


 ミオはカップが運ばれてくる前の空いたテーブルを、じっと見つめていた。


「こういう場所、少し不思議」


「不思議?」


 ユウリが聞く。


「うん。誰も、私を見てない」


「それは、普通じゃない?」


「普通なんだけど……最近、普通じゃなかったから」


 ミオの声は、静かだった。


 ユウリは返事に迷う。


 ミオは最近、見られすぎている。


 AVISに。

 管理機構に。

 神話構文に。

 レイジたちのような神を信じる者に。

 あるいは、もっと深い理の水面に。


 星宮ミオという一人の生徒ではなく、何かの器として。

 何かが顕れるための場所として。


「ここだと、少し楽かも」


 ミオはそう言って、視線を本棚へ移した。


「誰も名前を聞かないから?」


「うん。たぶん」


 その言葉に、ユウリは胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。


 名前を聞かれないことが、楽。

 それは分かる。

 けれど、分かってしまうことが少し怖い。


 名前は、呼ばれるためにある。

 でも、呼ばれすぎれば、役割になる。


 ミオ。

 星宮ミオ。

 女神の器。

 理触者。

 照応候補、過多。

 解析不能。


 どれが彼女を守り、どれが彼女を縛るのか。

 ユウリには、まだ分からなかった。


 やがて、マスターが飲み物を運んできた。


 ミオの前に置かれたミルクティーは、白い湯気を立てている。レンのカフェオレには、名前のない菓子が添えられていた。ユウリの前には、深い色のコーヒーが静かに置かれる。


「ごゆっくり」


 マスターが去ろうとした時、レンが声をかけた。


「あ、店主さん」


「はい」


「この店、ポイントカードとかないの?」


 ユウリは思わずレンを見る。


「急に何聞いてるんだよ」


「いや、通うならさ」


 マスターは実に真面目な顔で答えた。


「申し訳ございません。当店では、お客様を点数化する仕組みを採用しておりません」


「ポイントカードをそんな怖い言い方する人、初めて見た」


「来たい時に来ていただければ、それで十分でございます」


 レンは肩をすくめた。


「まあ、そういう店ならいいけど」


 マスターはそのままカウンターへ戻りかける。


 その時だった。


 カウンターの奥で、小さな機械音がした。


 ジジ、と紙が擦れる音。

 レシートプリンターの音だ。


 マスターは振り向かない。

 けれど、ユウリはなぜか、その音に意識を引かれた。


 何でもない音のはずだった。

 会計の時に鳴る、ごく普通の印字音。

 けれど今は、誰も会計をしていない。


 ユウリはカウンターの方を見た。


 プリンターから、白いレシートが一枚、ゆっくり吐き出されている。


 マスターがそれを手に取り、ちらりと見る。


 その横顔に、ほんの少しだけ、普段と違う影が落ちたように見えた。


「……何かありました?」


 ユウリが聞く。


 マスターは、いつもの微笑みを戻した。


「いえ。いつものことでございます」


「いつもの?」


「ええ。最近、少し困ったお客様がいらっしゃいまして」


 レンが身を乗り出す。


「クレーマー?」


「いいえ。非常に礼儀正しい方でございます」


「じゃあ何が困るんですか」


 マスターはレシートを指先で整え、カウンターに置いた。


「どなたも、その方を覚えておられないのです」


 店内の空気が、わずかに変わった。


 ミオがカップに伸ばしかけていた手を止める。

 レンの表情から、軽さが消える。

 ユウリは、ゆっくりと立ち上がった。


 カウンターの上のレシートを見せてもらう。


 印字は、途中まで普通だった。


 時刻。

 伝票番号。

 テーブル番号。

 注文内容。


 けれど、注文内容の欄が奇妙に揺れている。


 ブレンドコーヒー。

 ミルクティー。

 水。

 空欄。

 何も注文していない。


 同じ一枚の紙の中で、文字が定まっていないように見えた。


 そして、客名欄だけがぽっかりと白い。


 何も印字されていない。


 そこだけ、初めから文字が存在しない場所のようだった。


「……客名欄なんて、普通あるんですか?」


 ユウリが聞く。


「当店には、ございません」


 マスターは穏やかに答えた。


「では、これは?」


「ですから、困っているのでございます」


 その言葉の直後、ユウリのスマホが震えた。


 AVISが勝手に起動する。


 画面に青白い文字が走った。


《微弱神話構文反応》

《識別対象:空欄》

《対象名:未検出》

《現在名:記録不能》

《警告:呼称処理に失敗しました》


 アヴィ=シグルが、画面の端から顔を出した。


 その表情は、いつもの皮肉げなものではない。


『……ユウリ』


「何?」


『この店、やっぱり嫌いだ』


「理由は?」


『ログが残らないくせに、反応だけは濃い』


 レンが低く息を吐いた。


「ほらな。言っただろ。フラグ立てるなって」


 ミオは、白いレシートを見つめていた。


 その瞳が、ほんの少しだけ揺れている。


「……誰か、いる」


 ミオが呟いた。


「でも、呼べない」


 店の入口で、からん、と鈴が鳴った。


 三人が振り向く。


 扉は、確かに開いた。


 夕方の路地の空気が、店内へ細く流れ込む。

 白い無記名の札が、風に揺れる。


 けれど、入口には誰もいなかった。


 ただ、濡れてもいないはずの傘が一本、扉の横に立てかけられていた。


 ユウリは、それを見た瞬間、なぜか思った。


 誰かが、ここへ来た。


 そしてもう、自分はその人の顔を忘れかけている。


 マスターは、静かにカップを磨きながら言った。


「いらっしゃいませ」


 その声は、誰もいない入口へ向けられていた。


「お名前は、伺いませんので」

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