終節 ― 空欄のカルテ
三枝コウヤは、隔離回復室で眠っていた。
処置室の隣にある小さな部屋だった。壁も天井も白いが、処置室ほど鋭い白ではない。窓には薄いカーテンが引かれ、ベッドの脇では小さな機械が静かな電子音を刻んでいる。
画面には、脈拍の波形と一緒に数行の文字が流れていた。
《現在名反応:回復傾向》
《プレイヤーネーム反応:保持》
《外部評価ラベルとの自己同一化:低下》
《契約通知反応:鎮静中》
《診断名:保留》
三枝は静かに呼吸している。
首筋や手首に浮かんでいたステータス表示は、もう見えない。ただ、肌には薄い跡が残っていた。日焼けの境目にも、剥がした絆創膏の跡にも見える程度の、頼りない痕跡だった。
レンはガラス越しに三枝を見ていた。
廊下の壁へ背中を預け、包帯を巻いた右手首を左手で押さえている。雷紋の光は弱くなっていたが、完全には消えていない。
「……寝てるだけ、だよな」
誰に聞いたのか分からない声だった。
ユウリは少し考えてから答えた。
「先生は、今は安定してるって」
「便利な言葉だな。安定って」
「医者っぽい」
「医者だからな。やばいけど」
レンは軽く笑おうとした。
今度は、少しだけ笑えた。
三枝は治ったわけではない。
Mirror Score βの残留反応もある。Koya_Score17への反応も強い。これから診断名がつく可能性もある。
それでも、三枝コウヤと呼べば返事をするところまでは戻った。
そして、Koya_Score17を勝手に消すこともしなかった。
本人が使っていた名前と、ゲームから押しつけられた評価を分けた。
今は、それで十分なのだと思う。
ミオは廊下の反対側で、自分の手首を見ていた。
薄青い記録水を落としたところに、もう光はない。
それでも、彼女は小さく唇を動かす。
「星宮ミオ」
一度。
少し間を空けて、もう一度。
「星宮ミオ」
さっきより自然だった。
ユウリは何も言わなかった。
できた、と褒めるのも少し違う気がした。
だから、ただ隣にいた。
その時、診療所の入口側から靴音が聞こえた。
静かで、乱れのない足音。
待合室の話し声が少しだけ小さくなる。
ユウリが振り返る。
白いブラウス。黒いジャケット。整った髪。
烏丸マシロが廊下の奥に立っていた。
彼女の後ろには、《アーカイヴ・ノア》の職員らしい男性が二人いる。二人とも薄い端末を持ち、周囲へ余計な視線を向けない。
マシロはユウリたちへ一度目を向け、それからガラス越しの三枝を見る。
「三枝コウヤさんですね」
声は穏やかだった。
「星綴高等学園一年C組。AVIS一般版β機能およびMirror Score βの残留反応。現在名反応低下、プレイヤーネーム反応優位、契約通知反応あり」
端末へ視線を落とす。
「エデン・セルの回復区画へ移送します」
レンが顔を上げた。
「今?」
ユウリも一歩前へ出る。
「やっと落ち着いたところです」
「だからです」
マシロは静かに返した。
「再発時に対応できる環境へ移した方が安全です。この診療所より、エデン・セルの方が長期監視設備は整っています」
「監視って」
レンの顔が険しくなる。
「患者の状態を追うという意味です」
「言い方でマシになってない」
マシロはレンへ視線を向けた。
「久遠さん。あなたも現在、契約相使用後の神経負荷があります。無理に興奮しないでください」
「感情まで管理されんの?」
「管理しません。右腕への負荷を心配しています」
レンは言葉に詰まった。
その時、診察室側の扉が開いた。
白羽根イツキが出てくる。
白衣の袖を整えながら、いつもの穏やかな表情をしていた。
「烏丸さん」
「白羽根先生」
二人の声が廊下でぶつかる。
大きな声ではない。
けれど、空気ははっきり変わった。
「三枝コウヤさんは、今夜一晩こちらで経過を見ます」
イツキが言った。
「移送を推奨します」
「推奨なら、お断りします」
「理由を」
「現在名とプレイヤーネーム、外部評価の混線を分離した直後です。場所、人、端末環境を一度に変える必要はありません」
「エデン・セルにも対応設備があります」
「設備の問題だけではないんですよ」
イツキはガラス越しの三枝を見る。
「三枝さんは、今ここで《三枝コウヤ》へ反応を戻し始めています。担当者も部屋も変えず、一晩その反応を追った方がいい」
マシロは黙った。
イツキは続ける。
「明朝、移送が必要なら本人と保護者へ説明します」
「再発した場合は?」
「治療します」
「拡散が起きた場合は?」
「隔離します。必要ならあなた方を呼びます」
短いやり取りだった。
どちらも譲っていない。
ただ、どちらも三枝を放っておこうとしているわけではなかった。
守り方が違う。
マシロは、起こり得る危険を先に閉じ込めようとする。
イツキは、今いる患者の状態を見ながら処置を変えようとする。
しばらくして、マシロが端末を下ろした。
「一晩だけです」
「ええ」
「明朝、状態を共有してください」
「本人と保護者へ説明した上で、必要な医療情報を共有します」
マシロの目が少し細くなる。
「今回の記録は、必ず提出してください」
「必要な範囲で」
「判断材料が不足すれば、次の患者を守れません」
「だからこそ、何を渡すかを患者抜きで決めたくないんです」
廊下が静かになる。
レンも、ミオも、ユウリも黙っていた。
イツキは続ける。
「治療経過。再発条件。危険なβ機能。必要なら共有します」
「個人名は?」
「必要性を説明してください」
「照応履歴は?」
「同じです」
マシロはイツキを見る。
「白羽根先生。記録を絞りすぎれば、見落とします」
「烏丸さん。記録を集めすぎれば、患者本人より記録の方が大きくなる」
二人とも声を荒らげない。
それでも、譲れない場所だけははっきりしていた。
ユウリは、少し前の自分を思い出した。
《コンティニュー》から流れ出したログ。
全部消すのではなく。
全部流すのでもなく。
そこから人の名前へ直接届く線だけを外した。
今の二人が話していることは、どこか似ている。
けれど、同じではない。
ユウリはまだ、それを一つの答えにまとめられなかった。
マシロが三枝の眠る部屋を見る。
その横顔に、冷たさだけがあるわけではなかった。
彼女も救おうとしている。
被害を増やさないために。
三枝本人を、再発から守るために。
その事実まで否定する気にはなれなかった。
「……分かりました」
マシロが言った。
「今夜はここで経過観察。ただし、症状が再燃した場合はすぐに連絡してください」
「もちろん」
彼女は職員たちへ小さく頷いた。
それからユウリたちを見る。
「あなたたちも、今日はもう休んでください」
レンが少し意外そうな顔をする。
「独自行動を控えろ、とかじゃなく?」
「それも含みます」
「やっぱり」
「久遠さん。あなたは特に右腕を休ませてください」
「はいはい」
「返事は一度で十分です」
「先生より細かいな……」
マシロは最後にミオを見る。
一瞬だけ。
「星宮さん」
「はい」
「自分で名乗れましたか」
ミオは少し驚いた。
それから、ゆっくり答える。
「はい。まだ少し時間はかかりますけど」
「そうですか」
それだけだった。
マシロは何か診断を加えることも、評価を口にすることもなく、小さく会釈した。
入口の扉が閉じる。
鈴がかすかに鳴った。
*
「では、あなた方のカルテも整えておきましょう」
マシロが帰ってすぐ、イツキが言った。
レンが顔をしかめる。
「今の流れで?」
「今の流れだからです」
「絶対嫌な予感しかしねえ」
「倒れた時に何も分からない方が困るでしょう」
「……それはそう」
三人は診察室へ戻った。
机の上には、三枚のカルテが並んでいる。
もう白紙ではない。
イツキは一枚目を手に取った。
「久遠レンさん」
《現在名:久遠レン》
《契約神照応:ヴァルガ=ライオス》
《契約相:雷吼の荒冠》
《神格反動熱》
《雷風神経負荷》
《契約相使用後の痛覚遅延》
《再展開:制限推奨》
レンが最後の行を見る。
「これならさっきよりマシ」
「何と比べているんです?」
「先生の心の中のカルテ」
「そんなものは診ません」
「絶対あるだろ」
イツキは無視して二枚目を取る。
「星宮ミオさん」
《現在名:星宮ミオ》
《現在名:保持》
《内部照応欠落》
《外部切断痕》
《複数神格残滓:低活性》
《構文分類:保留》
《自発名乗り時反応:経過観察》
ミオはカルテを見つめた。
少し長く。
「私の名前が、最初にあるんですね」
「あなたのカルテですから」
「《理触者》とか、《未定義核》じゃなくて」
「それらを診断名として確定した覚えはありません」
イツキは淡々と言った。
「確認できたことだけを書いています」
ミオは小さく息を吐いた。
「……はい」
最後に、ユウリのカルテ。
《現在名:天瀬ユウリ》
《契約相:未署名の観測翼》
《契約相使用後反応:頭痛》
《一過性視野欠損》
《記録負荷:中度》
《医療記録領域への限定干渉歴》
《処理:診断名/現在名分離》
《診断名:保留》
ユウリは最後の行を見た。
「まだ保留なんですね」
「症状ごとの処置で足りています」
「《診断不能》じゃなくて?」
「診断できないのと、今は診断名を決めないのは別です」
イツキはカルテを机へ置いた。
「頭痛も視野欠損もあります。契約相使用後の負荷も確認した。それぞれ処置できます」
「じゃあ病名は」
「必要になったら考えます」
あっさりした答えだった。
ユウリは、少しだけ安心した。
病名がないこと自体に、特別な意味はない。
何か秘密が隠れているわけでもない。
今は一つへまとめる必要がない。
それだけだ。
「記録していいです」
ユウリは言った。
イツキが眉をわずかに上げる。
「ただし」
「はい」
「今日みたいに、新しい検査とか処理を試す時は先に言ってください」
「もちろん」
「研究に使う時も」
「同意を取ります」
「《アーカイヴ・ノア》へ渡す時も」
「必要な範囲を説明します」
ユウリは少し考え、頷いた。
「じゃあ、それで」
イツキは三枚のカルテを重ねた。
「合意成立ですね」
「契約みたいに言わないでください」
「では、診療方針の確認」
「それでお願いします」
レンが笑う。
「細けえ」
「名前で痛い目見てるから」
「それはそう」
ミオも少し笑った。
診察室に、ようやく普通の空気が戻った。
*
診療所を出る頃には、旧北口商店街の夜はすっかり深くなっていた。
シャッターの下りた店が並ぶアーケード。その奥で、カフェ《ノーネーム》の灯りだけがまだ点いている。
レンは入口で大きく伸びをしようとして、右腕の痛みに顔をしかめた。
「痛っ……」
「無理するなって何回言えばいいんだよ」
「つい。体が元気なふりをしたがる」
「それ、今日一番診てもらうべき症状だったんじゃないか」
「性格まで治療されたら困る」
ミオが小さく笑った。
昼より、少しだけ自然な笑い声だった。
ユウリはスマホを確認する。
アヴィが静かに表示を出す。
《白紙カルテ診療所:協力先として記録》
《白羽根イツキ:接触》
《契約神:メディカ=ヴェルム》
《契約相:白紙診神》
《天瀬ユウリ:契約相使用負荷あり》
《久遠レン:神格反動継続》
《星宮ミオ:自発名乗り時反応を経過観察》
それだけだった。
街の未来を予測する文言も、新しい能力名も出ない。
今日確認できたことが並んでいる。
「アヴィ」
「何だい」
「今日はもう何もないよな」
少し間があった。
《未来予測機能はありません》
「知ってる」
《なら聞くな》
「安心したかっただけだよ」
《人使い――いや、AI使いが荒い》
「AIって自分で言った」
《便宜上だ》
レンが横から覗き込む。
「相変わらず仲良いな、お前ら」
「普通」
「その普通、たぶん普通じゃねえぞ」
三人で歩き出す。
旧北口商店街の夜は静かだった。
店じまいした八百屋。
灯りの消えた時計店。
自動販売機の白い光。
遠くを走る電車の音。
大きな神話異変も、ランキングも、白い管理線もない。
ただ、帰り道がある。
「ユウリくん」
ミオが呼んだ。
「何?」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「今日、自分で名前を言えました」
「うん」
「でも、まだ怖かったです。自分の名前なのに、言う前に確かめないといけないみたいで」
ユウリは、すぐには答えなかった。
大丈夫だと言うのは簡単だった。
けれど、それで怖さが消えるわけではない。
「じゃあ、また確かめればいいんじゃないかな」
「何回も?」
「必要なら」
ミオがユウリを見る。
「ユウリくんが呼んでくれるから、じゃなくて?」
「それもするけど」
ユウリは少し考える。
「ミオが自分で言いたい時は、待つ」
ミオの目が少しだけ大きくなる。
それから、静かに頷いた。
「はい」
レンが横から口を挟む。
「じゃあ俺も、しばらく右腕が勝手に雷出さないか確認しながら生きる」
「そこは先生の言うこと聞け」
「聞いてるよ。今日明日は使わない」
「明後日は?」
「様子見」
「成長したな」
「お前に言われたくねえ」
軽口が夜の商店街に溶けていく。
今日、全部が解決したわけではない。
三枝はまだ眠っている。
レンの右腕にも負荷が残っている。
ミオの内部照応欠落も消えていない。
ユウリの頭痛も治ってはいない。
それでも、一度帰ることはできる。
明日、学校へ行くこともできる。
必要なら、また診療所へ来ればいい。
ユウリは振り返った。
白紙カルテ診療所の看板が、細い路地の奥に見える。
あそこには、三枝コウヤのカルテがある。
患者名は書いてある。
症状も書いてある。
診断名だけが、今は《保留》になっている。
何も書かれていないから特別なのではない。
必要なことは記録し、まだ決められないことだけを決めずに置いている。
医療なら、たぶん当たり前のことなのだ。
けれどユウリには、その当たり前が少し新しく見えた。
「帰ろう」
そう言うと、レンが大げさに頷いた。
「賛成。今日はもう神様も病院もお腹いっぱい」
「明日学校だけど」
「現実を出すな」
ミオがまた笑った。
「明日の一時間目、数学ですよ」
「ミオまで敵になった」
「時間割です」
「正論が一番痛い」
三人は並んで歩いていく。
背後で、診療所の扉についた鈴が小さく鳴った。
今度は振り返らなかった。
三枝を診る人がいる。
記録を残す人がいる。
必要なら、また戻ってくればいい。
それだけを知っていれば、今夜は十分だった。




