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第五節 ― 白紙診神と未署名の観測翼

 ユウリが手を伸ばした先で、白い紙片が乱れた。


 空中に浮かんだ病名たちは、まるで獲物を見つけた虫の群れのように向きを変える。三枝コウヤのベッドへ伸びていたカルテ片の一部が、ユウリたちへ向き直った。


 まず、レンへ。


《拡散加害者》

《荒神反動患者》

《開放依存》

《情報災害源》


「……っ」


 レンの喉が詰まった。


 紙片は、ただの文字ではない。


 それはレン自身が、昨日から胸の奥で見ないようにしていた言葉だった。


 自分がログを流した。

 自分が神話板へ断片を渡した。

 自分が閉じられたものを開けた。

 自分がヴァルガ=ライオスの力で、閉じていた危険な機能までこじ開けた。


 だから、三枝がこうなった。


 その思考の隙間へ、病名が入り込もうとしている。


 紙片はレンの胸元へ貼りつきかけた。


「レン!」


 ユウリが叫ぶ。


 だが、レンは動けなかった。


 右腕に巻かれた包帯の下で、雷紋が青白く脈打っている。ヴァルガ=ライオスの荒い熱が、まだ身体の奥に残っているのだろう。彼が力を使おうとすればするほど、神経が悲鳴を上げる。


 レンは歯を食いしばった。


「違う、って……言い切れねえんだよ」


 その声は、普段の軽さを失っていた。


「俺が、開けたんだ。俺が、流した。俺が――」


 紙片の文字が、さらに濃くなる。


《拡散加害者》


 その瞬間、ユウリの胸の奥が熱くなった。


 怒りだった。


 レンに対してではない。

 レンの罪悪感を、診断名のように貼りつけようとするものに対して。


「違う!」


 ユウリはレンの前へ出た。


「レンは、三枝くんを傷つけたくてログを流したんじゃない!」


 紙片が一瞬だけ止まる。


 だが、完全には消えない。


 次に、ミオへ向かう。


《理触者》

《女神残滓保持体》

《未定義核》

《依代候補》

《神話接続点》


 ミオの顔から血の気が引いた。


 その言葉たちは、彼女をずっと追いかけてきたものだった。


 再臨派は、彼女を女神の器として見ようとする。

 管理機構は、未定義核として隔離しようとする。

 断絶派は、神話接続点として切ろうとする。

 構文解放派は、公開すべき神話価値として扱おうとする。


 誰も、最初から彼女を星宮ミオとして見ていない。


 紙片がミオの肩へ触れかけた。


 ミオは、反射的に身を縮める。


 彼女の足元に、薄い水面のような光が広がった。白く、静かで、底の見えない水面。まだ開いてはいけない場所の気配が、処置室の床に一瞬だけ滲む。


 イツキの白蛇が素早く動いた。


 蛇はミオの周囲を一周し、紙片との間に白い輪を作る。カルテ片はその輪に触れて、かすかに焼けるように縮んだ。


「星宮さん」


 イツキの声が飛ぶ。


「名前を」


 ミオは震える手で、薄青い薬瓶を握った。


 瓶の口から一滴、手首へ落とす。


 小さな水滴が、肌の上で淡い光を作った。


 ミオは目を閉じる。


 ほんの一拍。


 その一拍が、とても長く感じられた。


「私は……」


 言葉が詰まる。


 紙片の文字が、また強くなる。


《未定義核》


 ミオの唇が震えた。


 ユウリは、彼女の名を呼びそうになった。


 けれど、寸前で止めた。


 呼べば、ミオは反応できる。

 ユウリが呼べば、彼女は戻ってこられるかもしれない。


 でも、それだけでは足りない。


 イツキが言った通りだ。


 呼ばれるだけではなく、自分で名乗ること。


 ミオ自身の声で、星宮ミオへ戻ること。


 ユウリは、喉まで出かかった声を押し戻した。


 代わりに、ただ見ていた。


 ミオはもう一度、息を吸う。


「私は、星宮ミオです」


 今度は、言えた。


 弱い声だった。

 けれど、確かに彼女自身の声だった。


 ミオへ伸びていた紙片が、少しだけ後退する。


 その時、最後の紙片がユウリへ向かった。


《未署名観測者》

《余白構文反応》

《診断不能》

《病名欄:空白》


 言葉が、ユウリの視界の端で白く欠けた。


 それは責める言葉ではなかった。


 むしろ、今のユウリに近い。


 未署名。

 余白。

 診断不能。

 空白。


 何者でもないこと。

 決められないこと。

 確定しないこと。


 それはユウリがここまで選んできたものでもある。


 だからこそ、危険だった。


 この言葉を受け入れれば、ユウリは「未署名の観測者」という病名に閉じ込められる。


 自分はそういう存在なのだと、決まってしまう。


 ユウリの頭痛が強くなった。


 視界の端が白く欠ける。

 処置室の壁が、紙のように薄く見える。

 イツキの白衣も、ミオの輪郭も、レンの包帯も、すべてが病名欄の中へ押し込まれそうになる。


 アヴィの声が、スマホから響いた。


「ユウリ、受け取るな」


「分かってる……!」


「いや、分かってない。近い言葉ほど危ない。自分に似た名前は、呪いになりやすい」


 ユウリは歯を食いしばった。


 近いから危ない。


 それは、この数日で何度も見てきた。


 偽日輪は、本物の太陽神に似ていたから人々を惹きつけた。

 白環管理区域は、保護に似ていたから拒みにくかった。

 断絶は、救いに似ていたから怖かった。

 構文解放は、自由に似ていたから危うかった。


 病名も同じだ。


 自分に近い言葉ほど、人を閉じ込める。


 ユウリは、伸びてくる紙片を見据えた。


「俺は……」


 紙片が迫る。


《未署名観測者》


「俺は、それで決まりじゃない」


 言葉にした瞬間、ポケットのスマホが震えた。


 画面が勝手に開く。


《契約相展開候補》

《用途:病名固定の余白化》

《現在名と診断名の分離を開始しますか?》


 選択肢が出る。


《許可する》

《拒否する》

《保留する》


 ユウリは画面を見つめた。


 いつもなら、ここで選択肢の外側を探す。


 だが、今回は少し違った。


 医療行為。

 診断。

 患者。

 病名。

 現在名。


 すべてを拒否すれば、治療できない。

 すべてを許可すれば、病名に固定される。

 保留するだけでは、三枝は飲み込まれる。


 ユウリは、震える指で画面に触れた。


 選んだのは、三つのどれでもなかった。


 空白の部分。


 選択肢と選択肢の間にある、何も書かれていないわずかな余白。


 画面が乱れる。


《未定義操作を検出》

《医療記録領域への限定接続》

《契約相:未署名の観測翼》

《用途:病名固定の余白化》

《現在名と診断名の分離を開始》


 ユウリの背後に、白い羽根が開いた。


 以前よりも、はっきりしている。


 けれど、翼と呼ぶにはまだ不完全だった。白い羽根の間に、黒い文字片が混じっている。鍵の輪郭が浮かび、未署名の契約線が細く揺れる。羽ばたくたびに、空気中の文字が一瞬だけほどけた。


 イツキの《白紙診神》が、ユウリの背後の契約相を見た。


 銀青色の目が、静かに細まる。


「なるほど。診断名を拒むだけではなく、診断名と現在名の間に空白を差し込む」


 イツキの声に、わずかな興奮が混ざった。


「先生!」


 ユウリが睨む。


「今、観察してる場合じゃないですよね!」


「ええ。ですが、観察しなければ治療できません」


「そういうところが本当に――」


「信用できない、でしょう?」


 イツキは微笑んだ。


 だが、その手は止まっていなかった。


 《白紙診神》の白蛇が、未記名症例の胸にある病名欄へ向かう。


 未記名症例は、初めて抵抗するように身体を広げた。


 白紙のカルテが四方へ伸びる。

 壁の記録紙が舞い、処置室の床を覆う。

 病名欄がいくつも増殖する。


《敗北者》

《契約失敗者》

《神格適性不足者》

《再挑戦待機者》

《未分類》


 それらの言葉が、三枝の身体へ降り注ぐ。


 三枝は苦しげに息を吐いた。


「まだ……契約……しないと……」


 ユウリは、未署名の鍵を握った。


 鍵と言っても、実体はない。

 スマホの画面から伸びる細い白い線。

 その先端が、文字と文字の間に差し込まれる。


 ユウリは叫んだ。


「三枝コウヤは、スコアじゃない!」


 羽根が震え、空中の《Koya_Score17》という仮名が一瞬止まった。


「契約できなかったやつでもない!」


 《神格適性不足者》の文字が、病名欄から剥がれかける。


「病名で決めるな!」


 その声と同時に、《未署名の観測翼》から白い羽根が何枚も舞った。


 羽根は文字を消さない。


 隠しもしない。


 ただ、その文字と三枝の名前の間に挟まっていく。


 病名が、彼を直接掴めないように。


 診断が、現在名を飲み込まないように。


 レンが、壁に手をつきながら前へ出た。


「三枝!」


 今度は、名字だけではなかった。


 レンは、自分の右手首を押さえながら、声を張った。


「三枝コウヤ! 聞こえろ!」


 ベッドの上の男子生徒の瞼が揺れた。


 レンは苦しそうに息を吐き、それでも続ける。


「そいつは、俺たちと同じ店にいただけだ。ゲームしてただけだ。神様の素材じゃねえ!」


 レンの声は震えていた。


 けれど、その震えは逃げではなかった。


「俺が流したログで巻き込まれたなら、俺が言う。三枝コウヤは、スコアじゃない。契約候補でもない。ランキングの数字でもない!」


 レンの右手首から、雷紋が淡く光った。


 イツキがすぐに注意する。


「久遠さん、展開はしないでください」


「しねえよ!」


 レンは叫んだ。


「今日は、声だけだ!」


 その言葉に、ユウリは少しだけ笑いそうになった。


 こんな状況なのに。


 レンらしいと思った。


 ミオも一歩前へ出る。


 まだ顔色は悪い。

 けれど、手首に落とした記録水の光が、彼女の声を支えていた。


「名前を、病名にしないでください」


 ミオの声は静かだった。


 でも、処置室に確かに届いた。


「病名は、必要かもしれません。治すために、知るために。でも、それがその人の名前になってしまったら……きっと、戻れなくなります」


 彼女は胸元を押さえながら、続ける。


「私は、星宮ミオです。理触者でも、未定義核でも、女神の器でもなくて……まず、星宮ミオです」


 その言葉に、ユウリの《未署名の観測翼》が強く光った。


 レンの言葉。

 ミオの言葉。

 ユウリの余白。

 イツキの診断。


 それらが、三枝コウヤの周囲で重なっていく。


 未記名症例の病名欄が激しく揺れた。


 イツキが動く。


「今です」


 《白紙診神》の白蛇が、未記名症例の胸の病名欄へ巻きついた。


 白蛇の身体には、細い銀の文字が浮かんでいる。薬名にも、祈りにも、診断コードにも見える文字列だった。


 銀のメスが、空中に糸を引く。


 切るのではない。


 縫う。


 いや、綴じる。


 白いカルテの胸元にある病名欄を、空白のまま閉じていく。


 銀の綴じ糸が、病名欄の四隅を結ぶ。


《診断名:保留》

《病名欄:空白保持》

《現在名:三枝コウヤ》

《仮名:Koya_Score17 分離》

《契約通知:鎮静》


 三枝の皮膚に浮かんでいた文字が、薄れていく。


《神格適性:不足》


 消える。


《契約相解放率:17%》


 消える。


《敗北状態》


 消える。


《再挑戦可能》


 最後まで残った。


 三枝が苦しげに喉を鳴らす。


「コン……ティニュー……」


 ユウリは、ベッドの横へ歩み寄った。


 頭痛が強い。

 視界の端が白く欠ける。

 それでも、三枝の顔を見た。


「三枝コウヤ」


 今度は、ゆっくり呼んだ。


「もう、続けなくていい」


 三枝の目が、わずかに動いた。


「……だれ」


 かすかな声。


 ユウリは答えた。


「同じ学校の先輩。天瀬ユウリ」


 レンが続ける。


「久遠レン。昨日、ゲーセンにいたやつ」


 ミオも静かに言う。


「星宮ミオです」


 三枝の唇が震えた。


「……げーせん」


 その言葉と同時に、《再挑戦可能》の文字が薄くなった。


 完全には消えない。


 けれど、皮膚から剥がれるように淡くなる。


 イツキが銀の綴じ糸を最後に引いた。


「仮綴じ完了」


 白蛇が病名欄を一周し、口を閉じる。


 未記名症例の身体がほどけ始めた。


 人型だった紙束が崩れる。

 腕が紙に戻り、脚が紙に戻り、空白の顔が薄くなっていく。


 最後に残ったのは、胸の病名欄だけだった。


 そこには、何も書かれていない。


 空白のまま。


 銀の糸で、静かに閉じられている。


 それは一枚の白紙カルテになった。


 ひらりと落ちる。


 イツキがそれを受け止めた。


 処置室の紙音が、少しずつ収まっていく。


 壁の記録紙がスリットへ戻り、空中に浮かんでいた病名たちは消えていった。


 三枝の呼吸が、少し落ち着く。


 看護師がすぐに脈と呼吸を確認する。


「反応、安定しています」


 イツキは頷いた。


「現在名は?」


 看護師が三枝の耳元で呼ぶ。


「三枝コウヤさん」


 三枝の瞼がわずかに動いた。


「……はい」


 とても小さな返事だった。


 でも、確かに反応した。


 レンが大きく息を吐いた。


 そのまま床に座り込みそうになり、ユウリが肩を支える。


「無理するなって言っただろ」


「声だけって言ったろ」


「声だけでも無理してる」


「うるせえ」


 レンは顔をしかめたが、その目は少しだけ潤んでいた。


 ミオは、胸元に手を置いたまま、三枝を見ている。


「戻ったんですか」


 ユウリが聞くと、イツキは白紙カルテを見つめたまま答えた。


「いいえ」


 その言葉に、ユウリたちは一斉にイツキを見た。


 イツキは落ち着いていた。


「治したんじゃない」


 彼は、銀の糸で閉じられた空白のカルテを掲げた。


「まだ読めるように、ページを仮留めしただけだ」


 処置室に、静かな沈黙が落ちる。


「三枝コウヤさんは、一時的に現在名へ反応できる状態に戻りました。ですが、ミラー・スコアの残留と仮名依存は完全には抜けていません。病名も、まだつけられない。しばらく経過観察が必要です」


「つまり、またあれが出るかもしれないってことですか」


 レンが聞く。


「あります」


 イツキは隠さなかった。


「ただし、今度は読める。何が三枝さんを固定しようとしているのか、どこで現在名と病名が混ざりかけるのか。それが分かれば、次はもっと早く止められる」


「……そういうもんなんですか」


「医療は、だいたいそういうものです。一度で奇跡的に治ることもありますが、多くは観察と処置の繰り返しです」


 レンは黙った。


 派手な勝利ではなかった。


 未記名症例は完全に倒したわけではない。

 三枝の症状も、治ったわけではない。

 ただ、病名に閉じ込められることを防いだ。

 まだ読めるようにした。

 まだ戻れるようにした。


 それは、これまでの戦いとは違う勝利だった。


 ユウリは、自分の背後を見る。


 《未署名の観測翼》は、もう消えかけていた。白い羽根がほどけ、黒い文字片がスマホの画面へ吸い込まれていく。だが、完全に消える直前、翼の先に一枚だけ白紙の羽根が残った。


 何も書かれていない羽根。


 それは、病名欄の空白に少し似ていた。


 アヴィが表示する。


《未署名の観測翼:医療記録領域への限定干渉を終了》

《用途記録:病名固定の余白化》

《注意:連続使用による負荷あり》

《天瀬ユウリ:軽度から中度へ変動》


 ユウリは、こめかみを押さえた。


「……また増えた」


 レンが顔を上げる。


「お前も診てもらえよ」


「今、診てもらったばっかなんだけど」


「追加診療だな」


「嫌な言葉だ」


 ミオが少し笑った。


 その笑みは、まだ弱かったけれど、確かにそこにあった。


 イツキは白紙カルテを専用の透明ケースへ入れた。


 ケースの表面には、何も書かれていない。


 患者名も、病名も、番号も。


 ただ、銀の糸が中で静かに光っている。


 ユウリはそれを見て聞いた。


「そのカルテ、どうするんですか」


「保管します」


「名前を書かずに?」


「今は書きません。書けば、また固定される可能性があります」


「じゃあ、どうやって分かるんですか」


 イツキは微笑んだ。


「医者ですから」


「答えになってないです」


「では、こう言い換えましょう」


 イツキはケースを棚へ収めた。


「読めば分かります」


 レンが小さく呟く。


「やっぱ、やばい医者だな」


 今度は、ユウリも少しだけ同意した。


 けれど、そのやばい医者がいなければ、三枝は病名に閉じ込められていたかもしれない。


 イツキは危うい。

 研究者としての目を持っている。

 症例を見る。

 記録を取る。

 読もうとする。


 でも、彼は治療する。


 その事実もまた、否定できなかった。


 処置室の扉の向こうで、待合室の時計が時刻を刻んだ。


 普通の町医者のような音。


 けれど、ここでは神も、病も、名前も、カルテの上に並べられる。


 ユウリは、三枝の落ち着いた呼吸を聞きながら思った。


 神話構文災害は、倒せば終わる敵ばかりではない。


 時には、病名をつけないまま抱えるしかない傷もある。


 そして、その傷を読む大人たちが、すでに街の裏側にいる。


 自分たちは今日、その一端を見たのだ。

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