第五節 ― 白紙診神と未署名の観測翼
ユウリが《未署名の観測翼》を開くと、回復室の景色が少しだけ変わった。
白い壁も、ベッドも、窓際のカーテンも消えない。
代わりに、その上へ細い線が重なる。
三枝コウヤ。
Koya_Score17。
神格適性不足。
敗北状態。
再挑戦可能。
契約候補。
それぞれから伸びる参照線が、三枝の身体と、《AVIS-Med》の診療記録へ複雑に絡んでいた。
ユウリは眉を寄せる。
「……多い」
「何が見える?」
イツキが隣から尋ねた。
「線です。名前とか、スコアとか、昨日つけられた評価とか。全部、三枝くん本人につながってる」
「診療記録は?」
ユウリは視線を動かした。
《AVIS-Med》の白いカルテにも、いくつもの線が集まっている。
現在名。
プレイヤーネーム。
外部評価。
これから記入されるかもしれない診断名。
それぞれ別の欄なのに、三枝の側ではほとんど一本に重なっていた。
「カルテも巻き込まれてます」
「やはり」
イツキの声は落ち着いていた。
彼の背後には、《白紙診神》の輪郭が薄く立ち上がっている。
白い長衣。
肩へ絡む白蛇。
銀のメス。
薄青い薬瓶。
ただし、今度の神影は何かを斬るために現れたようには見えなかった。
白蛇は三枝のベッドの周囲をゆっくり巡り、心拍、呼吸、皮膚に残った表示を確かめるように首を動かしている。
イツキが《AVIS-Med》を操作した。
《本人許諾:確認済》
《医療記録領域への限定接続》
《現在名:三枝コウヤ》
《プレイヤーネーム:Koya_Score17》
《外部評価ラベル:複数》
《診断名:保留》
《処理候補:診断名/現在名分離》
「天瀬さん」
「はい」
「最初に確認します。三枝さんと診断記録の接続そのものは切らないでください」
「切らない?」
「患者とカルテがつながっていなければ、医療記録になりません」
ユウリは一瞬、言葉に詰まる。
「じゃあ、何を外すんですか」
「同一化です」
イツキは白い画面に並ぶ二つの欄を指す。
《現在名》
《診断名》
「診断名は三枝さんについて書かれる情報です。三枝さんそのものではない」
続いて、
《プレイヤーネーム》
《外部評価ラベル》
「これも同じです。本人が使った名前と、外部システムが勝手につけた評価は別物です」
レンが壁際から口を挟んだ。
「でも今は全部混ざってんだろ」
「ええ」
「じゃあ分ければいい」
「言葉にすると簡単ですね」
「先生、その言い方する時だいたい簡単じゃないよな」
「正解です」
「嬉しくない」
レンは包帯を巻いた右腕を抱え直した。
三枝はベッドの上で、二人の会話を聞いている。
まだ反応は鈍い。
けれど、《三枝コウヤ》と呼ばれた時にも目を動かすようになっていた。
ユウリはもう一度、参照線を見る。
一番太いのは、《Koya_Score17》から伸びる線だった。
その線に、
《神格適性不足》
《敗北状態》
《再挑戦可能》
《契約しますか?》
という複数の情報が束になって絡んでいる。
さらに、その束が《三枝コウヤ》へ食い込んでいた。
「アヴィ」
「見えている」
「これ、Koyaって名前ごと外したら?」
「推奨しない」
即答だった。
「それは本人が使っている名前だ。外部評価と一緒に消す理由がない」
三枝の目がわずかに動いた。
聞こえている。
「じゃあ、外すのは評価だけ?」
「まずはね。ただし、それだけで現在名への反応が戻る保証はない」
「保証ばっかないな」
「医療と神話に保証を求めるな。胃が痛くなる」
「AIに胃ないだろ」
「比喩だよ」
いつもの調子だった。
その軽さに、ユウリは少しだけ肩の力を抜く。
イツキが言った。
「天瀬さん。見えているものを、そのまま教えてください」
「三枝コウヤって名前があります。Koya_Score17もある。そこまでは別です」
「はい」
「でも、Koyaの方にスコアとか敗北とか契約通知がくっついて、それごと三枝コウヤへ流れてる」
「診断名欄は?」
「まだ空いてます。ただ……」
ユウリは目を細めた。
「何か書かれたら、同じ束に巻き込まれそうです」
イツキの表情がわずかに厳しくなる。
「そこですね」
《AVIS-Med》へ表示が追加された。
《Mirror Score β残留構文》
《新規分類情報への自動参照を確認》
《診断情報混線リスク:高》
「三枝さんの残留反応は、新しい分類を見つけると自分自身についての評価として取り込もうとしている」
イツキは説明する。
「だから今ここで診断名を書けば、それまで《神格適性不足》を受け取っていた場所へ、今度は病院の診断名まで入る可能性がある」
「病名が悪いわけじゃない」
ミオが静かに言った。
「ええ」
イツキが頷く。
「書き方の問題です」
ユウリはその言葉を聞きながら、視界の中の線へ手を伸ばした。
公開ログから個人名への直結を外した時とは違う。
あの時は、出来事の記録を残したまま、その末端から個人名だけを外した。
今度は患者とカルテの接続を残さなければならない。
切ってはいけない。
でも、同じものにもしてはいけない。
「面倒だな……」
「今さら?」
アヴィが言った。
「君はいつも一番面倒な処理を選ぶじゃないか」
「好きで選んでるわけじゃない」
「結果的には毎回そうなってる」
反論できなかった。
ユウリは指先を少し動かす。
一本の線をつまむように。
《三枝コウヤ》から《診断名》へ伸びようとしている線。
完全には切らない。
代わりに、その途中にある接続情報を読み取る。
《EQUAL》
ユウリの眉が動いた。
「これだ」
「何です?」
イツキが尋ねる。
「三枝くんと、カルテに書かれるものを同じものとして扱おうとしてる」
アヴィが解析を走らせる。
《参照関係を確認》
《現在名=外部評価》
《現在名=プレイヤーネーム》
《新規診断名も同一参照へ統合される可能性あり》
レンが顔をしかめる。
「雑すぎるだろ」
「Mirror Score βにとっては、ランキングするために全部同じ対象へ束ねた方が都合がよかったんでしょう」
ミオの言葉に、ユウリは頷いた。
スコアをつけるには、一人を一つのデータとしてまとめた方が楽だ。
名前。
プレイヤーネーム。
適性。
勝敗。
契約率。
全部を一つへ。
だが、人間はそんなに単純ではない。
ユウリは白い線を掴んだ。
「同じじゃない」
小さく言う。
《未署名の観測翼》が揺れる。
背後から白い羽根が一枚ほどけ、ユウリの指先へ重なる。
「三枝コウヤは三枝コウヤ」
線を見る。
「Koya_Score17は、三枝くんがゲームで使った名前」
別の線。
「神格適性不足は、あのゲームが出した評価」
さらに別。
「診断名は、先生が治療のために必要ならつけるもの」
それぞれを一つずつ見る。
「全部、同じじゃない」
ユウリが指を開いた。
絡み合っていた線が、わずかにほどける。
切れない。
消えない。
ただ、重なっていたものが別々の線として見えるようになる。
《処理開始》
《現在名/診断名:分離》
《プレイヤーネーム:独立保持》
《外部評価ラベル:参照解除》
《医療記録との患者照合:維持》
「そのまま」
イツキの声が低くなる。
《白紙診神》の白蛇が動いた。
ほどけた線の間へ入り、それぞれの接続を確認していく。
銀のメスは振るわれない。
代わりに、先端が細いペンのような形へ変わった。
イツキが《AVIS-Med》へ入力する。
《記録関係変更》
《患者:三枝コウヤ》
《診断情報:患者に関する医療記録》
《診断情報≠現在名》
《プレイヤーネーム≠現在名》
《外部評価ラベル:診断根拠から除外》
三枝の身体が、びくりと震えた。
皮膚に文字が浮かぶ。
《敗北状態》
すぐには消えない。
だが、その文字から《三枝コウヤ》へ伸びていた太い線が細くなる。
三枝が掠れた声を出した。
「……負けた」
レンが身体を起こす。
「三枝」
「……負けた、けど」
呼吸をする。
「俺……なの?」
ユウリは返事に迷った。
代わりにレンが言った。
「当たり前だろ」
三枝がレンを見る。
「スコア下がったくらいで別人になるなら、俺なんかゲームするたび人格変わってるわ」
「レン」
「何だよ。事実だろ」
少し乱暴だった。
でも、三枝の口元がほんの少しだけ動いた。
「……弱そう」
「誰がだよ」
「先輩」
「病人に煽られたんだけど」
ミオが小さく笑った。
ユウリも、張り詰めていた息を少し吐く。
《AVIS-Med》が鳴った。
《現在名反応:上昇》
《プレイヤーネーム反応:保持》
《外部評価ラベルとの自己同一化:低下》
成功、とも正解とも表示されない。
ただ、起きた変化だけが並んでいる。
それでよかった。
だが、ユウリの頭痛は強くなっていた。
視界の端が白く欠ける。
「ユウリ」
アヴィが呼ぶ。
「負荷が上がってる」
「あと少し」
「医者の前で無茶する患者って、一番嫌われるやつだよ」
「聞こえてますよ」
イツキが言った。
「すみません」
「謝る前に止めてください」
「あと少しだけ」
「天瀬さん」
「診断名のところだけ」
イツキはユウリを見た。
止めるか迷ったのだろう。
だが、三枝へ視線を移し、短く言った。
「三十秒」
「はい」
「越えたら強制終了します」
「それ医者の言葉ですか」
「医者だから言っています」
ユウリは診断名欄を見る。
そこだけはまだ、
《診断名:保留》
となっている。
問題は、今後そこへ何かが書かれた時だった。
三枝の現在名へ再び直結すれば、同じことが起きる可能性がある。
「アヴィ」
「分かってる」
《処理候補》
《診断名/現在名分離を医療記録へ保持》
《患者照合情報は維持》
《診断変更時も同一化しない》
「それで」
《本人許諾範囲を確認》
《医療記録領域のみ》
《実行可能》
ユウリは三枝を見る。
「三枝くん」
「……はい」
反応した。
「さっき言った処理、もう少しだけ続ける。これから病名がついても、それを君の名前と同じものとして扱わないようにする」
三枝は少し考える。
「病名……消さない?」
「消さない」
「Koyaも?」
「それも消さない」
三枝がゆっくり頷く。
「……お願いします」
アヴィが表示する。
《本人許諾:再確認》
《処理:診断名/現在名分離》
《医療記録領域へ限定》
ユウリは最後の線を外した。
いや、外したというより、結び方を変えた。
《診断名》から《三枝コウヤ》へ伸びていた直結線が、いったん《医療記録》を経由する形へ変わる。
患者本人。
その患者について書かれた記録。
同じではない。
けれど、無関係でもない。
《未署名の観測翼》が大きく震えた。
白い羽根がほどけ、視界に重なっていた線が順番に消えていく。
《処理完了》
《現在名:三枝コウヤ》
《現在名:保持》
《プレイヤーネーム:Koya_Score17》
《本人使用名として保持》
《外部評価ラベル:自己同一化低下》
《診断名:保留》
《診断名/現在名:分離》
《医療記録との患者照合:維持》
ユウリの膝から力が抜けた。
「うわ」
倒れる前に、レンが左手で制服の袖を掴んだ。
「お前まで患者増やすな」
「ごめん」
「俺、右手使えないんだから左で支えさせんなよ」
「そこはありがとうじゃない?」
「俺が言う側じゃねえだろ」
ユウリは壁へ手をつきながら、どうにか姿勢を戻した。
ミオが心配そうに顔を覗き込む。
「ユウリくん、大丈夫ですか」
「頭痛い」
「正直ですね」
「隠しても先生にばれるから」
「よろしい」
イツキが即答した。
「では追加診察です」
「嫌な予感しかしない」
「患者が増えましたからね」
レンが笑う。
「おめでとう」
「全然めでたくない」
張りつめていた回復室に、ほんの少しだけ日常の音が戻った。
*
イツキは三枝のカルテを確認していた。
紙のカルテと《AVIS-Med》。
両方を見比べながら、いくつかの欄を書き直していく。
ユウリは椅子に座らされ、額へ冷却シートを貼られていた。
格好がつかない。
《未署名の観測翼》を展開した直後なのに、今はただの頭痛持ちの高校生だった。
「先生」
ユウリが呼ぶ。
「何ですか」
「これで三枝くんは治ったんですか」
「いいえ」
迷いのない返事だった。
三枝も、その言葉を聞いていた。
けれど、怯えた様子はなかった。
イツキは続ける。
「Mirror Score βの残留反応はまだあります。プレイヤーネームへの反応も強い。契約通知への身体反応も消えていません」
「じゃあ、何が変わったんですか」
「治療できる状態へ少し戻した」
イツキはカルテを指す。
「何を治療するのかと、患者本人が同じものになっていた。それを分けた。それだけです」
三枝コウヤ。
診断名。
症状。
Koya_Score17。
ゲームから受けた評価。
それらはカルテの中に全部残っている。
何もなかったことにはしていない。
「病名は、これからつけるんですか」
「必要なら」
「必要じゃなかったら?」
「保留のまま治療します」
「そんなことあるんですね」
「ありますよ」
イツキはペンを置く。
「医者は病名をつけるのが仕事だと思われがちですが、本当は患者を治療するのが仕事です。名前が先に必要な時もあれば、後でいい時もある」
レンがぼそっと言った。
「まともなこと言うと逆に怖いな、この先生」
「普段からまともです」
「自己評価高いな」
イツキは無視した。
ミオが三枝のカルテを見る。
「診断名がついても、三枝くんは三枝くんのまま?」
「少なくとも、記録上はそう扱います」
イツキは答えた。
「そして本人がどう受け取るかは、本人と話します」
ミオは、その言葉をしばらく聞いていた。
やがて、自分の胸元へ手を置く。
理触者。
未定義核。
複数神格残滓。
そう呼ばれる可能性のある自分。
ユウリには、ミオが何を考えているのか全部は分からない。
けれど、少しだけ表情が柔らかくなったように見えた。
イツキがユウリのカルテを開く。
《対象:天瀬ユウリ》
《契約相使用後反応:頭痛》
《一過性視野欠損》
《記録負荷:中度》
《診断名:保留》
「先生」
「何ですか」
「僕のも保留なんですね」
「症状ごとの処置で足りていますから」
「何かすごいもの扱いじゃなくなった」
「残念ですか?」
「全然」
「では問題ありません」
あっさりしたものだった。
病名がつかないことそのものに、特別な意味はない。
今は必要がない。
それだけだ。
ユウリは、その方が落ち着いた。
イツキが《AVIS-Med》へ今回の処置を記録する。
《契約相:未署名の観測翼》
《医療記録領域への限定干渉》
《処理記録:診断名/現在名分離》
《本人許諾下で実施》
《契約相負荷:中度》
新しい属性名は増えない。
何かが覚醒したとも表示されない。
昨日と同じ契約相を、違う状況で使っただけだった。
アヴィがユウリのスマホで小さく言う。
「よかったね」
「何が」
「《新能力を獲得しました》とか出なくて」
「出たらスマホ投げる」
「壊さないでくれたまえ。僕の家だぞ」
「勝手に住んでるだけだろ」
「家賃は解析で払っている」
レンが横から眉を寄せた。
「お前ら、普段そんな話してんの?」
「だいたい」
「仲良いな」
ユウリは否定しなかった。
アヴィも何も言わなかった。
*
三枝が眠ったあと、イツキはカルテを閉じた。
表紙には、きちんと名前が書かれている。
《三枝コウヤ》
その下に、小さく、
《診断名:保留》
とある。
空白のまま隠したカルテではない。
名前を消したカルテでもない。
誰の記録か分からなくしたわけでもない。
三枝コウヤのカルテだ。
ただ、そのカルテに将来どんな診断名が書き込まれても、それが《三枝コウヤ》そのものを意味することにはしない。
ユウリは表紙を見ながら聞いた。
「これ、普通のカルテとそんなに違わないですね」
「本来は違わない方がいいんです」
イツキは答えた。
「患者名と病名が別欄なのは、普通の医療でも当たり前ですから」
「じゃあ今日やったことって」
「神話構文側が、その当たり前を壊していた。それを戻した」
イツキはカルテ棚へ三枝の一冊を収める。
「大げさな話ではありません」
レンが乾いた笑いを漏らす。
「契約相まで出して大げさじゃないは無理あるだろ」
「処理手段が大げさなだけです」
「やっぱこの街おかしいわ」
「今さらですね」
ユウリもそう思った。
けれど、少しだけ分かったこともある。
診断することは、決めつけることではない。
記録することは、その人を記録の中身だけにすることでもない。
必要な名前は使う。
必要な分類もする。
ただ、それが本人そのものではないと分けておく。
今日は、それだけだった。
その意味を、もっと大きな何かへ結びつける必要はまだなかった。
イツキがカルテ棚を閉じる。
乾いた音がした。
三枝コウヤという名前は、その扉の向こうにきちんと残っていた。




