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第四節 ― 未記名症例

 処置室のカルテが、いっせいに開いた。


 紙の音が、壁から、棚から、机の上から、天井の奥から降ってくる。


 かさり。

 かさり。

 かさり。


 まるで、この部屋そのものが巨大なカルテ棚で、今この瞬間、何か一つの症例を探すために、何百枚もの記録をめくっているようだった。


 未記名症例は、その中心に立っていた。


 白いカルテの束でできた人型。


 顔は空白だった。

 目もない。

 口もない。

 鼻もない。


 ただ、紙を重ねて人の輪郭だけを作ったような姿で、胸のあたりに四角い欄がある。


 病名欄。


 そこだけが、妙にはっきりしていた。


 ユウリは、無意識に息を止めていた。


 怪物、と呼ぶには静かすぎる。


 これまで見てきた異変は、もっと分かりやすく危険だった。


 無番線の車掌は、ミオへ切符を差し出した。

 七不思議の出席係は、名前を欠席へ変えようとした。

 偽日輪は、神の名を騙って世界を白く塗り替えようとした。

 白環補正体は、記憶を整えすぎた。

 断絶眷属は、記録の縁を切ろうとした。

 ミラー・ランカーは、名前をスコアに変えた。


 けれど、目の前のこれは違う。


 襲ってくるのではない。


 診断しようとしている。


 誰かを傷つけるためではなく、誰かを何者かに決めるために、そこに立っている。


 未記名症例は、三枝コウヤの眠るベッドへ一歩近づいた。


 足音はしない。


 紙の端だけが床に触れて、かすかな摩擦音を立てる。


 三枝の皮膚に浮かんだ文字が、弱々しく点滅した。


《神格適性:不足》

《契約相解放率:17%》

《敗北状態》

《再挑戦可能》


 三枝はうわごとのように呟く。


「まだ……できる……まだ、コンティニュー……」


 未記名症例の胸の病名欄に、文字が浮かんだ。


《神格適性不足者》


 その文字は、病名欄の中で黒く濃くなっていく。


 次に、塗り替わる。


《契約失敗者》


 さらに。


《再挑戦待機者》


 その一語一語が、三枝の身体へ向かって伸びていく。


 まるで、白い紙から黒いインクが糸になって垂れ、患者の皮膚へ染み込もうとしているようだった。


「やめろ!」


 レンが叫んだ。


 だが、動こうとした瞬間、右腕に痛みが走ったのだろう。彼は歯を食いしばり、机の縁を掴んだ。


 包帯の下から、青白い雷紋が漏れる。


 イツキが鋭く言う。


「久遠さん、展開しないでください」


「分かってるよ!」


 レンの声は荒かった。


「でも、あいつ、このままだと――」


「分かっています」


 イツキは未記名症例から目を離さない。


 その手にある銀のペンライトが、いつの間にか細いメスの形へ変わっていた。刃ではない。光そのものを薄く研いだような器具だった。


 《AVIS-Med》の画面が白く染まる。


 通常のAVISの羽根アイコンとは違う、蛇のように曲がった羽根が開いた。


《AVIS-Med 接続》

《契約神:メディカ=ヴェルム》

《契約相:白紙診神》

《白紙診断、開始》


 診察室の白が、変わった。


 マシロの白環管理区域で見た白とは違う。


 あの白は、整っていた。

 清潔で、無駄がなく、間違いを許さない白。

 人間の記憶や不安や余分な傷を、全部きれいに塗りつぶすための白。


 けれど、今ここに広がる白は、空欄の白だった。


 書かれていない紙の白。

 まだ病名が決まっていないカルテの白。

 消すためではなく、読み取るために残された余白の白。


 イツキの背後に、白い長衣をまとった影が立ち上がった。


 医神相。


 人の形をしているが、人間ではない。顔は薄い布のような白で半ば隠れ、その奥に銀青色の目だけが静かに光っている。肩から腕にかけて、白い蛇が絡んでいた。蛇は生きているように首をもたげ、空気を嗅ぐように舌を出す。


 周囲には、空欄のカルテが何枚も浮かんでいる。


 そのどれにも、まだ病名は書かれていない。


 医神相の右手には、銀のメス。

 左手には、薄青い薬瓶。

 足元には、罫線だけの紙片が円を描くように回っていた。


 レンが息を呑む。


「これが……契約相か」


 レイジの《日輪神将》は、荘厳だった。

 トウマの《裂頁の黒鋏》は、音を消した。

 レン自身の《雷吼の荒冠》は、荒々しく、うるさく、速かった。


 イツキの《白紙診神》は、そのどれとも違った。


 静かだ。


 だが、怖い。


 手術前の静けさに似ている。

 検査結果を告げられる直前の沈黙に似ている。

 まだ何も決まっていないのに、次に言われる言葉で、自分の未来が決まってしまうような怖さ。


 イツキは未記名症例へ向けて、メスを振り下ろさなかった。


 攻撃しない。


 代わりに、白蛇が動いた。


 イツキの肩から離れた蛇は、空中を泳ぐように未記名症例の周囲を巡る。音もなく、しかし確かにそこにある気配で、紙の人型を一周した。


 未記名症例は動かない。


 ただ、胸の病名欄に文字を浮かべ続けている。


《神格適性不足者》

《契約失敗者》

《再挑戦待機者》


 白蛇がその文字の周囲をなぞった。


 《AVIS-Med》の画面に診断ログが流れる。


《白紙診断》

《症例:外部スコア依存》

《症例:仮名固定未遂》

《症例:契約通知内在化》

《症例:病名欄自己侵入》

《診断名:保留》


「保留?」


 レンが叫んだ。


「何で保留なんだよ! 早く治せよ!」


 その声には、苛立ちだけではなく、焦りがあった。


 三枝の苦しみが、自分のせいだと思っている。

 だから、今すぐ解決してほしい。

 今すぐ、治ったと言ってほしい。


 イツキは、振り返らなかった。


 ただ、静かに答える。


「病名をつけた瞬間、固定される。これは、そういう種類の異常です」


「じゃあ、何もしないのかよ!」


「違います」


 イツキの声は低かった。


「診断名をつけずに、症状だけを読む。病名に閉じ込めず、反応を分ける。それが今できる治療です」


 レンは歯を食いしばった。


「分かんねえよ、そんなの」


「分からなくていい。今は動かないでください」


 その言葉は厳しかった。


 レンは悔しそうに拳を握る。

 包帯の下の雷紋が、また強く光った。


 ユウリはレンの前に半歩出た。


「レン、今は先生に任せよう」


「任せて大丈夫なのかよ」


「分からない」


 ユウリは正直に言った。


「でも、今の俺たちが無理にやったら、たぶん三枝くんまで巻き込む」


 レンは何も言えなかった。


 その間にも、未記名症例は三枝へ近づいていく。


 イツキの白蛇が病名欄を囲んでいるため、文字の転写は遅くなっている。だが、完全には止まらない。


 三枝の首元に、黒い文字が浮かびかけた。


《契約失敗――》


 イツキは銀のメスを横へ滑らせた。


 切る、というより、線を引く動作だった。


 空中に白い罫線が現れる。


 その罫線が三枝の身体と病名欄の間に挟まり、文字の転写を遮った。


 イツキが言う。


「病名と現在名の間に、空欄を置きます」


 ユウリはその言葉に反応した。


 空欄。


 未署名の観測翼が扱ってきたものと似ている。


 名前を消すのではない。

 決定を遅らせる。

 確定させる前に、一拍の余白を置く。


 医療としての空欄。


 イツキは続ける。


「三枝コウヤさんは、今《Koya_Score17》という仮名と、《神格適性不足者》という病名候補に挟まれています。どちらも彼自身ではない」


 ミオが小さく言った。


「名前と、病名と、仮名……」


「ええ」


 イツキは頷く。


「どれも必要になることがあります。仮名は、時に人を守る。病名は、治療への道を開く。ですが、どちらも現在名を飲み込んではいけない」


 その言葉は、処置室に重く響いた。


 ユウリは、自分たちがこれまで見てきたものを思い出す。


 ミオは、女神と呼ばれかけた。

 管理機構は、彼女を未定義核と分類しかけた。

 トウマは、神話ごと切れと言った。

 レンのログは、誰かの名前をスコアへ変えかけた。


 そして今、病名が三枝を閉じ込めようとしている。


 名前ではないものが、人を定義する。


 それは、どれも少しずつ似ていた。


 未記名症例の胸の病名欄が、再び強く光る。


《神格適性不足者》


 今度は、三枝だけではなく、処置室の中にいる者たちへ向かって、紙片が伸びた。


 最初に向かったのはレンだった。


 細いカルテ片が、レンの胸元へ貼りつこうとする。


《拡散加害者》

《開放依存》

《荒神反動患者》


 レンの表情が凍った。


 その言葉は、彼を刺した。


 特に、拡散加害者。


 レン自身が、心のどこかでそう思っている言葉だった。


 だからこそ、入り込みやすい。


 ユウリはレンの前に出た。


「レンは、そんな名前じゃない!」


 叫んだ瞬間、カルテ片の動きが少しだけ鈍った。


 だが、剥がれない。


 未記名症例の力は、ただ外から名前を貼っているのではない。


 本人の内側にある不安や罪悪感を、病名として引き出している。


 ミオの方にも、紙片が伸びる。


《理触者》

《女神残滓保持体》

《未定義核》

《依代候補》


 ミオの顔が青ざめた。


 彼女は後ずさる。


 その足元に、薄い水面のような光が一瞬だけ広がった。


 ユウリが呼ぶ。


「ミオ!」


 その声に、ミオは反応した。


 だが、自分で言おうとした時、喉が詰まる。


「私は……」


 続かない。


 カルテ片が、彼女の肩へ触れかけた。


 イツキが白蛇を飛ばす。


 白蛇がカルテ片に巻きつき、病名候補を一時的に遮断した。


「星宮さん、自分の名前を」


 イツキが言う。


 ミオは震えながら、薄青い薬瓶を握った。


 瓶の蓋を開け、手首へ一滴落とす。


 小さな水滴が、皮膚の上で淡く光った。


 ミオは息を吸う。


「私は……星宮ミオです」


 今度は、言えた。


 カルテ片が一歩、退いた。


 ユウリは胸を撫で下ろす。


 だが、その隙を突くように、別の紙片がユウリへ伸びた。


 そこには、文字が浮かんでいる。


《未署名観測者》

《診断不能》

《余白構文反応》

《病名欄:空白》


 ユウリは思わず動きを止めた。


 他の二人とは違う。


 そこには、攻撃的な言葉がない。

 責める言葉でも、神話化する言葉でもない。


 ただ、診断できないことそのものが、病名のように差し出されている。


 空白。


 それさえも、名前にされかけている。


 イツキの声が飛ぶ。


「天瀬さん、受け取らないでください」


「受け取るって、どうすれば――」


「自分の異常を、病名として納得しないでください」


 ユウリは、伸びてくるカルテ片を見た。


 未署名観測者。

 余白構文反応。

 病名欄:空白。


 その言葉は、確かに自分に近い。


 近いからこそ、危険だった。


 これが自分だと思ってしまえば、そこで固定される。


 ユウリは歯を食いしばる。


「俺は……」


 言葉を探す。


 英雄ではない。

 神の使徒でもない。

 管理対象でもない。

 断絶者でもない。

 解放者でもない。

 病名でもない。


 何者か分からない。


 でも、だからこそ。


「俺は、まだ決めてない」


 その言葉と同時に、ポケットのスマホが震えた。


 アヴィの表示が浮かぶ。


《未定義選択肢を確認》

《病名固定を拒否》

《現在名保持:天瀬ユウリ》


 カルテ片の先端が、わずかに白く溶けた。


 イツキが、興味深そうに目を細める。


「なるほど」


「先生、今それ言う場面ですか」


 ユウリが睨むと、イツキは少しだけ口元を緩めた。


「失礼。非常に参考になる反応でした」


「だからそういうところが信用できないんです!」


「後で謝ります。今は続けます」


 イツキは《白紙診神》の前へ一歩出た。


 背後の医神相が、銀のメスを構える。


 だが、やはり斬らない。


 メスの先で、空中に線を引く。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 処置室に浮かぶカルテ片と、未記名症例の病名欄と、三枝の皮膚に浮かぶステータス表示の間に、細い白い罫線が挟まっていく。


 イツキが静かに告げる。


「診断名、保留。症状、分離。現在名、保持」


 白蛇が三枝のベッドを一周する。


 三枝の皮膚に浮かんでいた《契約しますか?》の文字が、少し薄くなった。


 だが、未記名症例は消えない。


 胸の病名欄に、今度は新しい文字が浮かぶ。


《未分類》


 それは、一見安全な言葉に見えた。


 だが、イツキの表情がさらに険しくなる。


「まずい」


「未分類もだめなんですか?」


 ユウリが聞く。


「未分類のまま固定されると、治療対象から外れます」


 イツキは答えた。


「分類できないものとして、放置される。あるいは、管理機構なら隔離判断に回すでしょう」


 ユウリはマシロの顔を思い出した。


 危険なら隔離する。

 分からないものは、管理する。

 守るために預かる。


 それもまた、正しい部分がある。


 けれど、三枝は今、目の前にいる。


 放置していい患者ではない。

 隔離名で終わらせていい人間でもない。


 レンが低く言った。


「……三枝コウヤだ」


 ユウリが振り向く。


 レンは、震える右腕を左手で押さえながら、三枝を見ていた。


「そいつ、三枝コウヤだろ。スコアじゃない。失敗者でもない。未分類でもない」


 レンの声がかすれる。


「昨日、ゲーセンにいただけだ。遊んでただけだ。俺たちと同じで……ただ、巻き込まれただけだ」


 その言葉に、三枝のまぶたがわずかに揺れた。


 未記名症例の病名欄が乱れる。


 イツキがすぐに言う。


「現在名反応、微弱に回復」


 レンはさらに言おうとして、咳き込んだ。


 右腕の雷紋が強く光る。


 ユウリが支える。


「もういい、レン」


「よくねえよ」


 レンは息を荒げながら言う。


「俺が開けたせいで残ったなら、せめて……名前くらい、戻せよ」


 その言葉は、誰に向けたものか分からなかった。


 三枝へ。

 イツキへ。

 ユウリへ。

 それとも、自分自身へ。


 未記名症例が動く。


 今度は、三枝だけでなく、処置室全体へ病名欄を広げようとしていた。


 壁のカルテが一斉にめくれる。


 浮かぶ言葉。


《患者》

《症例》

《未分類》

《契約者》

《依代》

《管理対象》

《加害者》

《被害者》

《失敗者》

《治療不能》


 その言葉たちが、空中を埋める。


 ユウリは、圧迫されるような感覚を覚えた。


 言葉が多すぎる。


 どれも、何かを説明するための言葉だ。

 だが、増えすぎると、人が見えなくなる。


 イツキの《白紙診神》が、静かに前へ出た。


 白い長衣が揺れる。

 白蛇が低く身をくねらせる。

 銀のメスが光る。


 イツキは言った。


「白紙診断は、病名を与えるためだけのものではありません」


 その声は、処置室の紙音を押しのけるように響いた。


「病名を、まだ与えないためにもある」


 医神相が、銀のメスを横に引いた。


 未記名症例そのものを斬るのではない。

 その胸の病名欄と、周囲に散らばる言葉たちの間に、一本の空白を引いた。


 白い線。


 余白。


 言葉と言葉の間に、まだ何も書かれていない場所が生まれる。


 未記名症例が、初めて揺れた。


 顔のない頭部が、ほんの少し傾く。


 まるで、病名をつけられないことに戸惑っているようだった。


 しかし、すぐにまた紙片が集まる。


 病名欄が広がる。


 イツキの額に、うっすら汗が浮かんだ。


 レンが低く言う。


「先生でも、止めきれねえのか」


 イツキは否定しなかった。


「診断名を保留することはできます。ですが、現在名を戻すには、本人につながる記録が必要です」


 ユウリはその言葉に反応した。


 第二話の旧校舎。

 出席簿の空席。

 倉持ハルトを戻した時と同じだ。


 名前だけでは足りなかった。

 今ここにいる証明が必要だった。


 イツキは、ユウリを見る。


「天瀬さん。あなたの力は、病名と現在名の間に余白を作れるかもしれない」


 アヴィが同時に表示を出す。


《未署名の観測翼:展開候補》

《用途:病名固定の余白化》

《現在名と診断名の分離》

《警告:医療記録領域への干渉》


 ユウリはスマホを握る。


 頭痛が、また視界の端を白く欠けさせた。


 それでも、目を逸らさなかった。


 三枝はまだ、ベッドの上で呟いている。


「コンティニュー……まだ……」


 未記名症例は、病名欄を空白のまま開いている。


 そこに何かを書き込めと迫っている。


 イツキは、静かに言った。


「治療には、記録が必要です」


 ユウリは答えた。


「でも、記録で決めつけたらだめなんですよね」


「ええ」


 イツキの目が、わずかに細まる。


「だから、あなたの出番です」


 処置室の白い紙片が、再び舞い上がった。


 病名が迫る。


 現在名が薄れる。


 その間に残された細い空欄へ、ユウリは手を伸ばした。

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