第四節 ― 未記名症例
三枝コウヤが隔離回復室へ運ばれてから、十分ほどが過ぎた。
処置室には、さっきまで使っていた器具がそのまま残っている。銀のペンライト。透明なシート。薄青い薬瓶。《AVIS-Med》の白い画面には、三枝の診療記録がまだ開かれていた。
《対象:三枝コウヤ》
《現在名反応:低下》
《プレイヤーネーム反応:優位》
《Mirror Score β残留反応》
《外部評価情報:自己認識と混線》
《診断名:保留》
病名は書かれていない。
けれど、何も分かっていないわけでもない。
ユウリはその表示を見ながら、妙な感覚を覚えていた。
三枝コウヤ。
Koya_Score17。
神格適性不足。
敗北状態。
再挑戦可能。
ひとりの人間に、いくつもの言葉が重なっている。
「未記名、か」
レンがぽつりと言った。
壁際の椅子に座り、包帯を巻かれた右腕を左手で押さえている。
「病名がないから?」
「病名をまだ決めていない、が正確です」
イツキが訂正した。
診療記録へ何かを書き込みながら続ける。
「症状はあります。対応も始めています。ただ、現時点で一つの診断名へまとめる根拠がない」
「でも、さっき色々出てたじゃん。プレイヤーネーム依存とか」
「それは観測結果です」
イツキは顔を上げた。
「観測した事実と、患者につける診断名は同じではありません」
レンは眉を寄せる。
「細かいな」
「細かくない医者は怖いですよ」
「先生が言うと説得力あるの腹立つな」
ミオが、小さく笑った。
けれど、その手にはまだ薄青い記録水の瓶が握られている。
ユウリは、《AVIS-Med》へ視線を戻した。
「三枝くんは、戻るんですか」
「戻す、とは言いません」
イツキの返答は静かだった。
「現在名への反応が回復する可能性はあります。まず、何と何が混ざっているのかを分ける。その後で本人に確認します」
「本人に?」
「Koya_Score17を残すかどうかも、です」
ユウリは少し意外だった。
「危ない名前なのに?」
「今は危険な反応と結びついています。ただ、そのプレイヤーネーム自体は三枝さんが自分で使っていたものでしょう」
イツキはカルテを指先で送る。
「症状が乗ったからといって、本人が使っていたものまでこちらで勝手に消す必要はありません」
レンが顔を上げた。
何か言いかけて、やめる。
神話板へ投稿したログ。
公開された情報。
危険だから閉じるのか。
危険でも全部残すのか。
昨日から続いている問いと、少し似ている。
ただ、今度は情報ではなく、人の名前だった。
イツキは机の上に三枚の紙を置いた。
一枚目に、
《三枝コウヤ》
二枚目に、
《Koya_Score17》
三枚目に、
《神格適性不足/敗北状態/再挑戦可能》
と書く。
「一枚目が、現時点で確認できている現在名」
二枚目を軽く叩く。
「本人がゲームで使用していた名前」
三枚目。
「外部システムが与えた評価です」
紙を離して並べる。
「今の三枝さんの中では、これらが近づきすぎています」
ミオが紙を見た。
「違うものなのに」
「ええ」
「でも、本人には同じように感じられている」
「その可能性が高い」
イツキは断定しない。
それが、ユウリには少しだけ信用できた。
分からないことを、分かったふりで埋めない。
少なくとも診察中のイツキは、その線を守っている。
処置室の奥から、短い電子音が鳴った。
《AVIS-Med》の表示が更新される。
《隔離回復室:三枝コウヤ》
《現在名呼名反応:微弱》
《プレイヤーネーム呼名反応:高》
《外部評価表示遮断後:不安反応上昇》
レンが身を乗り出す。
「悪くなってる?」
「違います」
イツキはすぐに答えた。
「ゲーム側の表示を見えなくしたことで、不安が出ている。依存していた情報を急に外せば、こうなることもあります」
「じゃあ戻すの?」
「表示そのものは戻しません。ただ、本人が何に不安を感じているか確認します」
イツキは立ち上がった。
「来ますか?」
「え」
「三枝さんは同じ学校の生徒でしょう。顔を知っている人間がいた方が、現在名への反応を確認しやすい」
ユウリはレンを見る。
レンは少し迷ってから立ち上がった。
「行く」
「右腕は使わないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「先生、俺への信用ゼロじゃん」
「患者の自己申告だけを信用する医者はいません」
「正論で刺すなよ」
三人はイツキの後について、隔離回復室へ向かった。
*
回復室は小さかった。
白いベッドが一つ。窓には薄いカーテン。壁際にはモニターと《AVIS-Med》の補助端末がある。
三枝は横になっていた。
眠ってはいない。
目は開いている。
けれど、天井に向けた視線はぼんやりしていた。
スマートフォンは見えない場所へ移されている。
皮膚に浮かんでいた数値表示も、さっきより薄い。
看護師が記録を読み上げた。
「《Koya_Score17》には即時反応。《三枝コウヤ》には三回に一回程度。契約通知を模した文言には心拍上昇があります」
「分かりました」
イツキはベッド脇へ座る。
「三枝さん」
反応はない。
「Koya_Score17」
三枝の目が動く。
「……はい」
「ここがどこか分かりますか」
「……ゲーム……?」
「違います。診療所です」
三枝の眉がわずかに寄る。
「スコアは?」
「ここでは測りません」
三枝の呼吸が少し速くなった。
「でも……上げないと……」
「何を?」
「スコア」
「上げないと、どうなりますか」
「契約……できない」
「契約できないと?」
三枝の口が止まった。
答えが出ない。
イツキは急かさない。
ユウリも黙って待った。
やがて、三枝は掠れた声で言った。
「……負ける」
「誰に?」
また沈黙。
「……分からない」
イツキは頷いた。
「では、今は勝たなくていい」
三枝の瞳がわずかに揺れた。
レンの指が動く。
何か言いたそうだった。
イツキが視線だけで促す。
レンは一度息を吸った。
「三枝」
反応は弱い。
「俺、久遠レン。二年」
三枝の目が少しだけ動いた。
「昨日、《コンティニュー》にいただろ」
その単語には反応した。
肩が強張る。
レンはすぐに続けた。
「でも、今日はゲーセンじゃない。ランキングもない。お前のスコア見るやつもいない」
三枝の唇が震える。
「……下がった」
「下がっていい」
三枝が初めて、レンの顔を見た。
「……いい?」
「いい。俺なんかランキング二位だったけど、全然嬉しくなかったぞ」
ユウリは思わずレンを見る。
こんな時でも、少しだけいつもの調子が戻っている。
レンは三枝から目を逸らさなかった。
「ていうか、あれゲームじゃなかった。だからノーカン」
「……ノーカン」
「そう。店側のバグ。イベント中止。運営のお詫び案件」
「誰が運営だよ」とユウリは言いかけて、やめた。
三枝の口元が、ほんの少しだけ動いたからだ。
笑ったわけではない。
でも、さっきまでなかった反応だった。
《AVIS-Med》が短く鳴る。
《現在名呼名反応:微弱上昇》
イツキは表示を見ても、褒めるようなことは言わなかった。
「三枝さん」
もう一度、名前を呼ぶ。
三枝の視線が、少し遅れてイツキへ向く。
「……はい」
ユウリは息を呑んだ。
今度は、三枝コウヤに反応した。
完全ではない。
それでも、届いた。
レンの肩から、わずかに力が抜ける。
「よかった……」
三枝の皮膚に、また文字が浮いた。
《敗北状態》
レンの顔がこわばる。
だが、イツキは文字そのものを消そうとはしなかった。
「三枝さん。これは何ですか」
皮膚を指す。
「……負け」
「誰が書いた?」
「ゲーム」
「三枝コウヤさんが、自分で決めた?」
三枝は長い時間をかけて、首を横に動かした。
「……違う」
表示が一度揺れる。
消えない。
だが、文字の輪郭が少し薄くなった。
ユウリはそれを見ていた。
外からつけられた言葉だと本人が認識する。
それだけで、身体への食い込み方が変わる。
イツキはその反応を記録する。
《外部評価ラベル:自己認識から分離可能性あり》
「先生」
ミオが静かに尋ねた。
「名前も、同じように分けられるんですか」
「試します」
イツキは一枚の紙を三枝の目の前に置く。
そこには二つだけ書かれていた。
《三枝コウヤ》
《Koya_Score17》
「どちらを呼ばれても、自分だと思いますか」
三枝は紙を見つめる。
「……分からない」
「では、どちらかを消しますか」
三枝の目が少し大きくなった。
すぐに答えた。
「やだ」
今までで一番はっきりした声だった。
レンが息を止める。
「どっちも?」
三枝は頷いた。
「Koya……俺がつけた」
その言葉に、ユウリの胸が動いた。
そうだった。
Koya_Score17は、Mirror Score βが勝手に作った名前ではない。
三枝がゲームをする時に使った名前だ。
そこへスコアや契約通知が絡みついただけだ。
危険になったからといって、本人が選んだものまで全部消せばいいわけではない。
イツキが確認する。
「三枝コウヤも残したい?」
三枝は、今度は少し迷った。
それから頷いた。
「……俺の名前だから」
《AVIS-Med》が更新される。
《現在名:三枝コウヤ》
《本人確認:部分成立》
《プレイヤーネーム:Koya_Score17》
《本人使用歴:確認》
《両者の同一化処理:不要》
レンが画面を見る。
「同一化、しない?」
「別の用途の名前ですから」
イツキは答える。
「三枝コウヤとKoya_Score17を、どちらか一方へまとめる必要はない」
「じゃあ、何を治すんですか」
ユウリが聞いた。
イツキは皮膚に残る文字を見る。
《神格適性:不足》
《敗北状態》
《再挑戦可能》
《契約しますか?》
「本人が選んでいない評価と、強制された契約反応です」
答えは簡潔だった。
名前ではない。
プレイヤーネームでもない。
勝手につけられた評価と、押しつけられた接続。
そこを分ける。
イツキは《AVIS-Med》へ入力する。
《処置方針更新》
《現在名:保持》
《プレイヤーネーム:保持》
《外部評価ラベル:分離》
《契約通知反応:鎮静対象》
《診断名:保留》
三枝は、その表示を見てはいない。
ただ、呼吸が少しずつ落ち着いていく。
ユウリは画面を見つめた。
「診断名は、まだ保留なんですね」
「ええ」
「ここまで分かっても?」
「症状の処置に、今すぐ病名が必要ですか?」
ユウリは答えられなかった。
イツキは続ける。
「必要になればつけます。今は、本人へ何が起きているのかを分けられている。それで治療を進められる」
三枝のカルテには、まだ《診断名:保留》とある。
それでいいのかもしれない。
決まっていないことと、何もしていないことは違う。
*
処置室へ戻る途中、ユウリは足を止めた。
「先生」
先を歩いていたイツキが振り返る。
「僕の《未署名の観測翼》でも、今みたいなことができますか」
「今みたいなこと?」
「名前と、外からつけられたものを分ける」
イツキはすぐには答えなかった。
代わりにユウリを見る。
目。
手。
スマートフォン。
観察している。
「《コンティニュー》で、公開された記録から個人名へ直接届く参照だけを外したそうですね」
「はい」
「それなら、似た処理ができる可能性はあります」
ユウリは少し身構えた。
「可能性?」
「医療記録へ使ったことはないでしょう」
「ありません」
「なら、できると決めつけない」
イツキは淡々と言った。
そして、《AVIS-Med》へユウリの契約相記録を表示する。
《契約相:未署名の観測翼》
《既知処理:参照先観測》
《既知処理:個人名直結経路の未署名化》
《医療記録領域:使用歴なし》
それだけだった。
《余白》という文字はない。
新能力の名前もない。
「試すなら」
イツキが言う。
「診断名を消すためではありません」
「じゃあ、何を?」
「診断名と、患者本人の現在名を同じものとして扱わないために使う」
ユウリは《AVIS-Med》の画面を見る。
「そんなこと、わざわざ力を使わなくても分かるんじゃ」
「人間なら、そう思える」
イツキの目が少し細くなった。
「神話構文は、書かれた関係を現実側へ反映することがあります。特に三枝さんのように、名前と評価情報の境界が崩れている患者では」
ユウリは理解し始めた。
「診断名を書いた時、それがまた名前と混ざる可能性がある?」
「あります」
「だから、最初から分けて記録する」
「その通り」
イツキは《AVIS-Med》に新しい処理候補を表示する。
《処理候補:診断名/現在名分離》
《医療記録領域への限定干渉》
《実行者:未設定》
ユウリは、その表示を見つめた。
新しい力を手に入れたわけではない。
昨日使ったものを、別の場所で使えるか試すだけだ。
公開ログでは、出来事と個人名を分けた。
今度はカルテの中で、診断と本人を分ける。
似ている。
けれど、同じではない。
イツキが言った。
「やりますか?」
ユウリは即答しなかった。
「三枝くんに聞いてからです」
イツキが、一瞬だけ目を細めた。
笑ったようにも見えた。
「正解とは言いませんが、必要な順番です」
「先生が言うと試験みたいで嫌なんですけど」
「職業病です」
レンが後ろから口を挟む。
「医者ってそういう病気なの?」
「診断名をつけますか?」
「やめろ」
少しだけ、空気が軽くなった。
*
三枝は、もう一度名前を呼ばれた。
「三枝コウヤくん」
イツキが言う。
三枝はゆっくり目を開けた。
「……はい」
「診療記録について確認します」
三枝の表情に不安が戻る。
イツキは急がない。
「あなたの症状には、これから診断名がつく可能性があります。ただ、その診断名と《三枝コウヤ》という名前を、記録上で明確に分けておきたい」
三枝は黙って聞いている。
「天瀬さんの契約相を使う可能性があります。嫌なら使いません」
三枝がユウリを見る。
初めて、はっきり目が合った。
「……何するの」
「まだ、できるか分からない」
ユウリは正直に答えた。
「病名を消すわけじゃない。君の名前を変えるわけでもない。カルテに書かれた診断が、そのまま君自身の名前みたいにつながらないようにできるか試す」
三枝はしばらく黙った。
「Koyaは?」
「消さない」
レンが先に答えた。
「それはお前がつけた名前だろ」
三枝の肩から少し力が抜けた。
「……うん」
ユウリは聞く。
「試していい?」
三枝はゆっくり頷いた。
「……お願いします」
その瞬間、ユウリのスマートフォンが震えた。
アヴィが表示する。
《本人許諾を確認》
《医療記録領域への限定接続》
《処理候補:診断名/現在名分離》
《実行:保留》
最後の一行は、まだ保留のままだった。
ユウリはスマートフォンを握った。
視界の端に、三枝へ伸びるいくつかの線が見え始める。
三枝コウヤ。
Koya_Score17。
神格適性不足。
敗北状態。
契約候補。
似ているようで、違う線。
どれを残すのか。
どれを切るのか。
そもそも切る必要があるのか。
まだ分からない。
ただ一つ、ユウリにも分かった。
三枝コウヤという名前と、病院がこれから記す診断名は、最初から同じものではない。
その違いだけは、見失わないようにしなければならない。
アヴィの表示が、静かに更新された。
《契約相展開準備》
《未署名の観測翼》
ユウリは、三枝の許可をもう一度確かめるように顔を見た。
三枝が小さく頷く。
そこで初めて、ユウリは契約相を開いた。




