第三節 ― 病名のない患者
急患として運び込まれてきたのは、制服姿の男子生徒だった。
星綴高等学園のブレザー。
一年生の学年章。
ネクタイは緩み、シャツの襟元には汗が滲んでいる。顔色は悪い。けれど、意識はあるようだった。目は開いているし、手足も動いている。
ただ、その目が、どこも見ていなかった。
待合室の空気が、静かに変わる。
消えない火を抱えていた年配の女性が、弁当箱を抱く手に力を入れた。
靴紐から羽根の光を漏らしていた配達員の青年が、足を引いた。
背中に白い線を浮かべた中学生の少女は、布をかぶったまま、怯えた目で処置室の入口を見つめている。
ここにいる人たちは、異常に慣れている。
それでも、急患には反応する。
神話構文障害も、病気なのだ。
誰かが悪いことをしたからではなく、誰かが選ばれたからでもなく、ある日突然、身体や名前や記録に異常が出る。
そういう場所なのだと、ユウリは改めて思い知らされた。
「処置室へ」
イツキの声は短かった。
さっきまでの穏やかな調子は消えている。冷たいわけではない。ただ、迷いがなかった。
看護師らしき女性が、簡易ベッドを処置室へ押し込む。ユウリたちも、イツキに促されるままその後に続いた。
処置室は、診察室よりも実用的だった。
中央にベッド。
壁際に薬品棚。
天井から下がる処置灯。
脇の台には、銀色の器具と、白い紙束が積まれている。
普通の病院の処置室に見える。
だが、壁には見慣れない細いスリットがいくつもあり、そこから白い紙片のようなものが少しだけ覗いていた。カルテが壁そのものに収納されているようにも見える。
ベッドの上で、男子生徒が小さく呻いた。
「スコア……下がった……」
レンの顔色が変わった。
「おい」
ユウリも息を呑んだ。
聞き覚えがある言葉だった。
昨日、ゲームセンター《コンティニュー》で、生徒たちはスコアを見ていた。
名前を入力し、適性値を測られ、ランキングへ載せられ、契約相体験版という言葉に釣られていた。
ミラー・スコア。
砕いたはずの異常。
けれど、完全には消えていなかった。
イツキは生徒の瞳孔を確認し、首元へ指を当てる。
「名前は」
看護師が手元の端末を見る。
「三枝コウヤさん。星綴高等学園一年C組。昨日、《コンティニュー》に居合わせています。保護者とは連絡中です」
ユウリは思わず一歩前に出た。
「星綴の生徒……」
ミオが小さく呟く。
「一年生……」
レンは、まるで自分の喉を押さえるように右手を握った。
その右手首で、雷紋が淡く光る。
「三枝くん」
看護師が呼びかけた。
「三枝コウヤくん、聞こえますか?」
男子生徒は、反応しなかった。
目は開いている。
耳に届いていないわけではないはずだ。
けれど、その名前は彼の中へ入っていかない。
「三枝くん」
もう一度。
反応しない。
イツキは、眉を少しだけ動かした。
「現在名への反応が鈍い」
そして、看護師へ短く言う。
「AVIS一般版の画面は?」
看護師が、男子生徒のスマホを透明な袋に入れたまま見せた。
画面には、まだ消えていない表示が残っていた。
《Koya_Score17》
《神格適性:不足》
《契約相解放率:17%》
《敗北状態》
《再挑戦可能》
レンの唇が白くなる。
「……昨日のやつだ」
イツキは、スマホの画面に表示されたプレイヤーネームを静かに読み上げた。
「Koya_Score17」
その瞬間、ベッドの上の男子生徒が顔を動かした。
反応した。
ゆっくりと、声の方を見る。
目の焦点が、イツキではなく、スマホの画面へ合っている。
「……はい」
かすれた声だった。
ユウリの胸が冷たくなる。
自分の名前ではなく、プレイヤーネームに反応した。
三枝コウヤではなく、Koya_Score17として。
三枝は、唇を小さく動かした。
「スコア、下がった……。まだ契約できる。コンティニューしないと……」
「三枝くん」
ユウリが思わず呼んだ。
けれど、三枝は反応しない。
「三枝コウヤ!」
少し強く呼んでも、届かない。
その代わり、三枝の首筋から手首にかけて、薄い文字が浮かび上がった。
皮膚の上に、ステータス画面のような文字列が出る。
《神格適性:不足》
《契約相解放率:17%》
《敗北状態》
《再挑戦可能》
《契約しますか?》
ミオが口元を押さえる。
「名前より、スコアの方が強くなっている……?」
アヴィがユウリのスマホに表示を出した。
《ミラー・スコア残留反応》
《プレイヤーネーム依存》
《現在名反応低下》
《危険:仮名が現在名を上書き中》
レンは、処置室の壁に背中をつけた。
ふらついたのだ。
ユウリが支えようとすると、レンは首を振った。
「違う」
声が震えていた。
「これ、俺のせいかよ」
誰もすぐには答えられなかった。
ユウリは、言いたかった。
全部がレンのせいじゃない。
神話板にログを流したのはレンだけではない。
ミラー・スコアを作ったのもレンではない。
AVIS一般版を拡散したのも、構文解放派の実験を仕掛けたのも、彼一人ではない。
でも、レンが開けた扉はあった。
昨日、レン自身もそれを分かってしまった。
だから、軽く否定できなかった。
レンは、自分で自分を許す場所にまだ立っていない。
イツキが言った。
「責任の所在は後で考えましょう」
その声は、静かだが強かった。
「今は患者を読みます」
読みます。
治します、ではない。
助けます、でもない。
まず読む。
その言い方に、ユウリはイツキという医師の性質を見た気がした。
症状を読んで、構文を読み、名前と病名のずれを見る。
人間を紙のように扱っているわけではない。
けれど、彼にとって治療は、たぶん読解に近い。
イツキは《AVIS-Med》を処置台へ置いた。
白いカルテが開く。
同時に、壁のスリットから数枚の記録紙が滑り出した。風もないのに、紙が自動的に机の上へ並ぶ。
薄い手袋をしたイツキの指が、その上をなぞった。
《白紙診断開始》
《対象:三枝コウヤ》
《現在名反応:低下》
《仮名反応:優位》
《未分類神話熱》
《ミラー・スコア残留》
《仮名依存反応》
《契約通知内在化》
三枝の呼吸が少し荒くなる。
「再挑戦……できる……まだ……」
皮膚の表示が明滅する。
《契約しますか?》
ユウリはその表示を見た瞬間、嫌な記憶が蘇った。
無番線ホーム。
白い切符。
偽日輪。
ミラー・ランカー。
そして、選択肢が一つしかない画面。
《許可する》しかない契約通知。
今、三枝の身体の中に、それが入り込んでいる。
スマホの画面ではなく、皮膚に。
外部通知ではなく、本人の反応として。
「内在化って……」
ユウリが呟くと、イツキは処置を続けながら答えた。
「契約通知が、外部アプリの表示ではなく、本人の身体反応として残っています。簡単に言えば、頭ではなく身体が《契約しなければならない》と誤認している」
「そんなこと、あるんですか」
「あります。特に神話構文は、強い言葉を身体へ残す。誓い、契約、名乗り、敗北、救済。繰り返し表示され、観測され、本人が受け入れかけたものは、症状として定着することがある」
レンが低く呟いた。
「俺たち、昨日それを壊したはずだろ」
「本体は砕けたのでしょう」
イツキは言う。
「ですが、砕けた破片が患者に残ることはあります」
レンは何も言えなくなった。
イツキは三枝の手首に指を当て、銀のペンライトを照らす。
薄青い光が、三枝の皮膚に浮かぶ文字を一つ一つ照らしていく。
白紙カルテには、さらに文字が浮かぶ。
《処置候補:仮名分離》
《処置候補:契約通知鎮静》
《処置候補:現在名再導入》
《病名欄:未確定》
その時だった。
カルテの病名欄が、勝手に揺れた。
イツキの指が止まる。
白紙だった病名欄に、別の文字が浮かび始めた。
《敗北者》
ユウリは息を呑んだ。
文字はすぐに塗り替わる。
《未契約者》
さらに変わる。
《神格適性不足》
また変わる。
《再挑戦可能》
最後に、見慣れた一文。
《契約しますか?》
イツキの表情が険しくなる。
「カルテ側へ侵入したか」
「侵入?」
レンが顔を上げる。
イツキは、手元の白紙カルテを押さえた。
「症状が、診断欄を利用して自己固定しようとしています」
「何言ってるか分かんねえけど、やばいってことは分かる」
「ええ。やばいです」
イツキがそう言った瞬間、処置室の壁がざわめいた。
壁のスリットに収められていた記録紙が、一斉に震え出す。
かさかさ。
かさかさ。
かさかさ。
乾いた音。
紙が紙を擦る音。
カルテがめくられる音。
誰かが病名を探す音。
処置灯が一瞬だけ点滅した。
ミオが胸元を押さえる。
「……紙の音が、声みたいです」
ユウリにも聞こえた。
紙が何かを言っている。
病名を。
診断を。
分類を。
誰かを何者かに決めるための言葉を。
壁の記録紙が、次々とスリットから飛び出した。
処置室の空中へ舞い上がる。
白い紙。
空欄のカルテ。
まだ何も書かれていない病名欄。
患者名のない紙束。
それらが、空中で絡み合い始めた。
レンが立ち上がろうとする。
「くそ、またかよ……!」
しかし、右腕に痛みが走ったのか、顔を歪めた。
ユウリが止める。
「レン、無理するな!」
「でも――」
「今のお前が契約相使ったら、余計悪化するって言われただろ!」
レンは悔しそうに歯を食いしばった。
イツキは処置台の前に立った。
「久遠さんは動かないでください。天瀬さん、星宮さん、三枝さんから離れすぎないように」
「先生、これは何ですか」
ユウリが聞く。
答えたのは、イツキではなく、アヴィだった。
ユウリのスマホが震える。
《未分類症例体を検出》
《暫定名:未記名症例》
《分類:未分類神話構文障害体》
《発生源:ミラー・スコア残滓/AVIS一般版β機能/白紙カルテ診断構文》
《注意:病名を与えると固定されます》
「病名を与えると固定……?」
ユウリは画面を見つめる。
その間にも、白紙のカルテ束は形を取り始めていた。
最初はただの紙の渦だった。
だが、やがて腕ができた。
脚ができた。
胴体ができた。
頭らしきものが持ち上がる。
人型。
顔はない。
白い紙が重なってできた、のっぺりとした顔。目も鼻も口もない。ただ、顔の中央に細い罫線だけが走っている。
胸のあたりに、病名欄があった。
四角い空欄。
そこだけが、妙にくっきりと見える。
未記名症例は、音もなく立った。
処置室の床に足をつけているはずなのに、足音がない。
紙の縁だけが、かさりと鳴った。
三枝がベッドの上で小さく呻く。
「まだ……契約……できる……」
未記名症例の胸の病名欄に、文字が浮かぶ。
《神格適性不足者》
その文字が三枝の皮膚へ移ろうとする。
イツキが即座に白い紙片を投げた。
紙片は空中で細い帯になり、三枝の腕に浮かぶ文字を覆う。文字の転写が一瞬止まった。
「病名を受け取らせないでください」
イツキの声は鋭かった。
「受け取ったらどうなるんですか」
「三枝コウヤさんは、その病名に閉じ込められます」
イツキは未記名症例を見据える。
「神格適性不足者。契約失敗者。再挑戦待機者。そういう名前の患者として固定される」
「それって……」
ミオが青ざめる。
「その人自身の名前ではなくなる、ということですか」
「近いです」
イツキは答えた。
「病名は治療の入口ですが、呪いにもなる。特に神話構文においては」
未記名症例が、ゆっくりと腕を上げた。
腕と呼ぶには曖昧な、紙の束。
その先端から、細いカルテ片が伸びる。
それは三枝だけではなく、レンへも向いた。
レンの皮膚に、文字が浮かびかける。
《拡散加害者》
レンの顔がこわばった。
ユウリは反射的に前へ出た。
「違う!」
言葉が出た。
だが、カルテ片は止まらない。
未記名症例は、レンに病名をつけようとしている。
拡散加害者。
レン自身が一番恐れている言葉を。
レンは動けない。
右腕の雷紋が暴れ、包帯の下で青白い光を漏らしている。けれど、今の彼が力を使えば、もっと危ない。
ミオの方にも、別のカルテ片が伸びた。
《理触者》
《未定義核》
《女神残滓保持体》
ミオが一歩下がる。
ユウリの胸に、熱い怒りが込み上げた。
病名。
分類。
診断。
管理名。
役割名。
それらが、またミオを遠ざけようとしている。
今度は神ではない。
管理機構でもない。
断絶派でもない。
ただの白紙のカルテが、彼女に名前をつけようとしている。
イツキが、処置台の前で手を上げる。
その背後で、《AVIS-Med》の画面が白く光った。
「下がってください」
イツキの声が、低く響く。
「ここからは、医療行為です」
白い処置室の空気が、さらに白く変わる。
消毒液と古い紙の匂いの奥から、別の気配が立ち上がった。
白い蛇。
空欄のカルテ。
銀のメス。
薄青い薬瓶。
そして、病名を待つ神。
ユウリのスマホに、アヴィの警告が表示された。
《契約神照応上昇》
《メディカ=ヴェルム》
《契約相展開予兆》
《注意:診断は攻撃ではありません》
《注意:診断は呪いにもなります》
未記名症例の胸の病名欄が、空白のまま輝いた。
まるで、誰かがそこに言葉を書き込むのを待っているように。
イツキは、銀のペンライトをメスのように構えた。
「白紙診断を開始します」
その声と同時に、処置室のすべてのカルテが、いっせいに開いた。




