第二節 ― 白羽根イツキ
診察室は、待合室よりもさらに白かった。
けれど、病院特有の無機質な白ではない。
壁は白。机も白。カーテンも白。診察台に敷かれた紙も白。
それでも、そこには温度があった。棚には薄青い薬瓶が並び、古い木製のカルテ棚が壁一面を占めている。医療機器のそばには、見慣れない装置がいくつも置かれていた。小型の心電計に似たもの。銀色のペン型ライト。細い透明な管。古い万年筆のような器具。そして、診察机の中央には、白いタブレット端末が置かれている。
ただのタブレットではなかった。
画面の端に、AVISの羽根型アイコンがある。
だが、ユウリたちのスマホに入っているものとは少し違う。羽根の形が蛇のように細く曲がり、その下に、薄い青色の十字にも似た記号が刻まれていた。
イツキはそれを軽く指で叩く。
「医療用に調整したAVISです。こちらでは《AVIS-Med》と呼んでいます」
「医療用って……そんなのあるんですか」
ユウリが聞くと、イツキは椅子に座りながら答えた。
「一般向けには出ていません」
「また一般向けじゃないやつ」
レンがぼそっと言う。
イツキは気にした様子もない。
「神話構文障害は、通常の検査だけでは拾えないものが多い。脳波、心拍、血液検査だけでは不十分です。名前への反応、契約線の残留、神格照応の揺れ、記録負荷、観測痕。そうしたものを身体所見と一緒に見ます」
「説明されても、やばさしか分からないんですけど」
「分かりやすく言えば、あなた方の身体が神話にどれだけ無茶をされたかを診ます」
「さらに嫌になった」
レンは診察椅子に座らされて、あからさまに顔をしかめた。
イツキは薄い手袋をはめ直す。手袋の表面に、細かな罫線のような模様が走った。カルテの紙面に引かれた線のようにも、蛇の鱗のようにも見える。
「久遠さん。右腕を出してください」
「拒否権は?」
「あります。拒否する場合、今日は鎮痛処置だけして帰っていただきます。ただし、右腕の雷風反応が再燃する可能性については確認できません」
「……脅しじゃん」
「説明です」
「医者の説明って怖いな」
レンは渋々、右腕を机の上に置いた。
袖を捲る。
手首から肘にかけて、薄い雷紋が浮いていた。
学校で見た時よりも濃い。青白い線が皮膚の下を走り、時折、小さく跳ねる。そのたびにレンの指先がぴくりと震えた。
イツキは顔色ひとつ変えず、銀のペンライトを取り出した。
光を当てる。
雷紋が反応して淡く輝いた。
レンが顔を歪める。
「っ……!」
「痛みますか」
「痛いっていうか、熱い。いや、痺れる。……何だこれ、全部」
「痛覚が遅れて戻っていますね」
イツキは《AVIS-Med》を起動した。
画面に白いカルテが開く。
文字が、ひとりでに浮かび上がった。
《白紙診断開始》
《対象:久遠レン》
《現在名:保持》
《契約神照応:ヴァルガ=ライオス》
《契約相:雷吼の荒冠》
《症状候補:神格反動熱》
《症状候補:雷風神経負荷》
《症状候補:荒神性筋繊維過負荷》
《症状候補:契約相使用後の痛覚遅延》
「うわ、長い」
レンが嫌そうに画面を睨む。
「神格反動熱って何。名前からして発熱してんじゃん」
「発熱だけではありません。神格の権能が身体を通過した際に、神経、筋肉、記録野へ残る負荷です。あなたの場合は雷風系が強い。身体がまだ戦闘状態を解除しきれていません」
「だから体がだるいのか」
「ええ。無理に動けば、契約相の反応がもう一度立ち上がる可能性があります」
「身体が勝手に?」
「初回の大規模展開では珍しくありません」
イツキは、レンの手首に小さな透明シートを貼った。
シートには細い青い線が入っている。貼られた瞬間、雷紋の明滅が少し弱まった。
レンが驚いたように手を見る。
「……ちょっと楽になった」
「仮の鎮静です。根本的な治療ではありません」
「いや、充分すげえけど」
「ありがとうございます。では、診療記録を残します」
「勝手に人の体をログにすんな」
レンはすぐに顔をしかめた。
イツキは平然と答える。
「治療には記録が必要です」
「その言い方がもう嫌なんだよ。俺、昨日も情報流して失敗してんだぞ」
レンの声が少しだけ低くなった。
ユウリは、その横顔を見る。
軽口の下に、まだ《コンティニュー》で起きたことが残っている。
神話板へ流したログ。
開けすぎた接続。
ミラー・ランカー。
AVIS一般版へ残ったβ機能。
レンは、笑っているだけではない。
イツキもそれを見ていた。
「記録は、流すためだけにあるのではありません」
彼は静かに言った。
「治療のために閉じる記録もあります。患者本人の許可なしに外へ出さない情報もある」
「本当に?」
「少なくとも、この診療所ではそうしています」
「《アーカイヴ・ノア》には?」
「必要な範囲で」
「必要な範囲って誰が決めるんだよ」
「まず患者本人と私です。法的・緊急的な例外がある場合は説明します」
レンは少し黙った。
完全には信用していない顔だった。
けれど、さっきよりは強く拒絶していない。
イツキはカルテに数行、手書きのような文字を加えた。
《治療方針:過剰展開抑制》
《神格反動:経過観察》
《段階的使用制限を推奨》
イツキはレンの腕からシートを剥がさず、その上から細い包帯のようなものを巻いた。
「今日明日は、契約相の再展開を避けてください」
「避けろって言われて避けられるものなんですか」
「避けてください」
「避けます」
レンは即答した。
そのあまりの早さに、ユウリは少し笑いそうになる。
「今、笑ったろ」
「笑ってない」
「顔が笑いそうだった」
「さっきの仕返しだ」
レンは不満そうにしたが、少しだけ表情が緩んでいた。
腕の痛みが軽くなったのだろう。
それだけで、ユウリも少し安心した。
けれど、その安心は長く続かなかった。
「では、次は星宮さん」
イツキがそう言った瞬間、診察室の空気が変わった。
ミオは椅子へ座った。
姿勢はいつも通り静かだ。けれど、膝の上で重ねた手が、わずかに強く握られている。
イツキは、さっきよりも慎重な動作で《AVIS-Med》を操作した。
白いカルテが開く。
ミオの名前が表示される。
《対象:星宮ミオ》
《現在名:星宮ミオ》
《現在名:保持中》
そこまでは、すぐに出た。
次の表示まで、数秒かかった。
《内部照応欠落あり》
《複数神格残滓:低活性》
《外部切断痕:確認》
《構文分類:保留》
《診断名:保留》
イツキの目つきが変わった。
ほんの一瞬。
医師の目ではある。
患者を心配する目。
症状を見逃すまいとする目。
だが、そこにもう一つ混ざった。
研究者としての興味。
見慣れない反応へ、無意識に視線が深くなる。
ミオが、少しだけ身を引いた。
ユウリはその動きを見逃さなかった。
「先生」
気づけば、ユウリは一歩前に出ていた。
「ミオを、そんな目で見ないでください」
診察室が静かになる。
レンも、口を挟まずにイツキを見る。
イツキは数秒、ユウリを見つめた。
怒りはしなかった。
むしろ、自分の視線の意味を自覚したように、ゆっくり瞬きをした。
「失礼」
彼は静かに言った。
「見慣れない反応でした」
「だからって、ミオが珍しいものになるわけじゃないです」
「ええ」
イツキはすぐに認めた。
「患者です。そして星宮ミオさんです。そこを取り違えれば、医療側の失敗です」
イツキは《AVIS-Med》の画面を少し伏せた。
ミオ本人へ向き直る。
「星宮さん。今の表示は診断ではありません。確認できた状態を並べただけです」
ミオは静かに聞いていた。
「治りますか」
その質問は、小さかった。
だが、診察室の空気をまっすぐ切った。
イツキはすぐには答えなかった。
安易に大丈夫とは言わない。
「以前とまったく同じ状態へ戻す、という意味なら、今は約束できません」
イツキは言った。
「欠落している照応があります。切断痕もある。そこへ無理に何かをつなぎ直せば、別の負荷が出る可能性があります」
ユウリの胸に、欠落街区でトウマが《裂頁の黒鋏》を振るった光景が蘇る。
女神照応の一部は切れた。
ミオの現在名は安定した。
けれど、内側には欠けた場所が残った。
「ですが」
イツキは続ける。
「今のあなたが、星宮ミオとして日常を保つための補助はできます。欠けているものを勝手に埋めず、外から入ってくる照応を必要以上に増やさず、自分で自分の名前へ戻れる状態を保つ」
ミオは少しだけ目を伏せた。
「自分の名前へ……」
「誰かに呼ばれて反応するだけではなく、あなた自身が、自分の名前を口にする。その時の身体反応を確認します」
ユウリは隣でミオを見る。
ミオは小さく頷いた。
「分かりました」
イツキは薄青い薬瓶を一本取り出した。
「これは反応確認用の記録水です。飲むものではありません。名乗る前に手首へ一滴だけ。脈と照応の変化を《AVIS-Med》で追います」
「治療薬ではないんですね」
「ええ。これ自体が何かを埋めることはありません」
ミオは薬瓶を両手で受け取った。
その小さな瓶の中で、薄青い液体が静かに揺れている。
ユウリは一瞬だけ、水面を思った。
だが、それ以上の像にはならなかった。
「天瀬さん」
イツキの声で、ユウリは顔を上げた。
「次はあなたです」
ユウリは診察椅子に座った。
座った瞬間、妙な緊張があった。
レンやミオを診られている時は、警戒しながらも見ていられた。だが、自分が診られる番になると、急に落ち着かない。
何と診断されるのか。
自分の異常を、どういう言葉で記録されるのか。
他人がつけた名前に、自分まで引っ張られるのではないか。
イツキは《AVIS-Med》を再び起動する。
白いカルテが開いた。
《白紙診断開始》
《対象:天瀬ユウリ》
《現在名:保持》
《契約相:未署名の観測翼》
《契約相使用後反応:頭痛》
《契約相使用後反応:一過性視野欠損》
《記録負荷:軽度》
続いて、表示が一度止まった。
イツキが画面を確認する。
《構文分類:――》
《分類不能》
《診断名:保留》
「……保留?」
ユウリが聞く。
「今のところは」
イツキは画面を指で送った。
「症状そのものはあります。ですが、頭痛、視野の欠け、記録負荷を、一つの病名でまとめる根拠がまだありません」
「異常じゃないってことですか」
「それも違います」
イツキは即答した。
「分からないものを、分かったことにしないというだけです」
レンが横から画面を覗き込む。
「お前だけ診断名なしじゃん」
「嬉しくはない」
「俺は長々と書かれたのに」
「張り合うところか?」
「病院では勝てるものが少ないから」
「勝たなくていい」
レンの軽口に、ユウリの肩から少しだけ力が抜けた。
イツキは、ユウリの《AVIS-Med》表示とスマホ側AVISを見比べている。
「《未署名の観測翼》についても、現状の記録だけでは一つの系統へまとめられません」
「一つの系統?」
「神格由来なのか、AVIS由来なのか、両方なのか。それ以外が混ざっているのか。候補は出せますが、確定する材料が足りない」
ユウリは自分の手を見る。
何の変哲もない手だった。
この手で、神狭駅でミオの名前を呼んだ。
天御柱神宮では、偽日輪に重ねられた神名を剥がした。
旧北口商店街では、白い管理線の中から現在名を探した。
欠落街区では、切れた接続の先を見た。
《コンティニュー》では、公開された記録を消さず、そこから本人の名前へ直接届く線だけを外した。
似ているようで、それぞれ違う。
ユウリ自身にも、それを一つの言葉へまとめることはできなかった。
「じゃあ、僕はどうすれば」
「症状ごとに対処します」
イツキの答えは、拍子抜けするほど普通だった。
「頭痛が出れば休む。視界が欠けたら契約相を止める。記録負荷が強ければAVISとの同期時間を短くする。それでも悪化するなら再診」
「病名がなくても?」
「治せる症状まで放置する理由にはなりません」
イツキはカルテへ書き込む。
《診断名:保留》
《契約相使用負荷として経過観察》
《再診条件:視野欠損持続/意識障害/現在名認識異常》
「病名が決まるまで何もしない方が、医者としては問題です」
ユウリは画面を見つめた。
病名はない。
だからといって、特別な何かだと決まったわけでもない。
ただ、今は分からない。
それだけだった。
「先生は、僕の契約相が何なのか知りたいんですか」
「知りたいですよ」
イツキは隠さなかった。
「医者としても、研究者としても」
ユウリの眉が寄る。
イツキは、その反応を見て続けた。
「ですが、知りたいことと、勝手に決めていいことは別です」
少し間を置く。
「検査を増やす時も、記録を研究へ使う時も、あなたの許可を取ります。少なくとも私は、その順番を変えるつもりはありません」
「本当に?」
「疑うのは自由です」
「そういう言い方が信用できないんです」
イツキは少しだけ笑った。
「正直でよろしい」
レンが横から言う。
「先生、患者に信用される気あります?」
「ありますよ。だから、できない約束はしません」
「嘘つかないタイプのやばい人だ」
「その評価は時々いただきます」
「いただくなよ」
ミオが、少しだけ笑った。
その笑みを見て、ユウリの緊張もほんの少し緩む。
イツキは三人のカルテを並べた。
レンのカルテには、雷風系の神格反動。
ミオのカルテには、内部照応欠落と診断保留。
ユウリのカルテには、契約相使用後の症状と診断名保留。
どれも違う。
同じ神話に巻き込まれていても、身体に起きていることは同じではなかった。
イツキは三人を見渡して、静かに言った。
「今日分かった範囲を伝えます」
その声に、ユウリたちは自然と背筋を伸ばした。
「久遠さん。あなたは、封鎖された接続へ強く干渉する契約相を使っています。大きく展開すれば、身体への反動も大きい。何を開くか確認せずに使えば、自分にも周囲にも危険です」
レンは黙って聞いていた。
「星宮さん。現在名は保持できています。ただ、内部照応の欠落と外部から流入した残滓が同時にある。診断名はまだ置きません。まず、自分で名乗った時の反応を記録しましょう」
ミオは小さく頷く。
「天瀬さん」
最後に、イツキがユウリを見る。
「あなたは、複数の候補が残っている状態でも対象を観測できる。少なくとも、すぐ一つの分類へ固定する必要はないようです」
ユウリは黙って聞いた。
「ただし、それを一つの能力名や病名にまとめる段階ではありません。《未署名の観測翼》も含め、今は起きた処理を一つずつ記録した方がいい」
「僕が何者なのかは?」
「診察一回で決めることではありません」
イツキはあっさり言った。
「私は医者です。あなたの人生の分類担当ではない」
ユウリは、一瞬だけ言葉を失った。
イツキはカルテを閉じる。
「今、神狭市では神話構文に由来する症状が増えています。AVIS一般版の拡散。白環補正の残留。断絶処理の痕跡。《コンティニュー》から流出したβ機能。原因は一つではありません」
彼は机の上の三枚のカルテを軽く叩いた。
「同じ名前でまとめれば楽です。でも、治療まで同じにしてしまえば事故になります」
レンが右腕を見る。
ミオは薄青い瓶を握る。
ユウリは、自分の《診断名:保留》を見た。
記録することと、決めきることは同じではない。
その違いを、まだうまく言葉にはできなかった。
「では、応急処置は済みました。もう少し経過を見たいので、三人とも今日は激しい神話接続を避けてください」
「避けたいですけど、向こうから来るんですよ」
レンがぼやく。
イツキはにこりと笑った。
「その場合は、逃げてください」
「医者らしい」
「医者ですから」
その時だった。
受付の方から、慌ただしい足音が聞こえた。
看護師らしき女性の声。
「先生、急患です」
イツキの表情が変わる。
穏やかさは残っている。
だが、目が一瞬で医師のものになった。
「症状は?」
「名前への反応が鈍いです。ただ、ゲームで使っていたプレイヤーネームには反応します。皮膚に数値表示も出ています」
ユウリたちは顔を見合わせた。
レンの顔から血の気が引く。
「……《コンティニュー》のやつか?」
診察室の扉の向こうで、誰かが運び込まれる音がした。
車輪付きの簡易ベッド。
押し殺した声。
若い男子の、うわごとのような呟き。
「スコア……下がった……まだ、コンティニュー……」
イツキは白衣の袖を整えた。
「診察は一旦ここまでです」
そして、ユウリたちを見る。
「廊下へ出てください。個人情報があります」
レンが立ち上がりながら、右手首を見る。
「……止めたつもりだったんだけどな」
ユウリは答えなかった。
《コンティニュー》で消えなかったβ機能の表示を思い出していた。
イツキはすでに急患の方へ向かっている。
机の上には、三人分のカルテだけが残った。
レンの診断。
ミオの保留。
ユウリの保留。
どれも、今ここで確認できたことだけが書かれていた。




