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第一節 ― 待合室には神がいる

 白紙カルテ診療所の待合室は、拍子抜けするほど普通だった。


 正面に受付がある。

 木目調のカウンター。古い診察券入れ。小さな呼び鈴。手書きの案内札には「初診の方は保険証をご用意ください」とだけ書かれている。


 壁には、予防接種のお知らせが貼られていた。

 インフルエンザ。風疹。高齢者肺炎球菌。

 その隣には、子ども向けの歯みがき啓発ポスターがある。色褪せた動物のイラストが、にこにこと歯ブラシを持っていた。


 長椅子は古いが、よく磨かれている。

 棚には絵本と週刊誌。

 隅には血圧計。

 空気清浄機が静かに唸っている。


 ここだけ見れば、少し古い町医者だった。


 けれど、ユウリは一歩入った瞬間に、背中の奥がざわつくのを感じた。


 病院の匂いがする。


 消毒液。

 アルコール。

 古い紙。

 薬品棚にしまわれたガラス瓶の匂い。

 それに混じって、ほんのかすかに、焦げた羽根のような匂いがした。


 レンが小さく鼻を鳴らす。


「……何か、普通っぽいのが逆に怖いな」


「普通の病院に見える」


「見えるだけだろ、絶対」


 レンは右手首を袖の中に隠したまま、待合室を見回した。


 その視線が、長椅子に座っている人々のところで止まる。


 配達員らしい青年がいた。


 制服の上着を着たまま、膝の上にヘルメットを置いている。まだ二十代前半くらいだろうか。どこか眠そうな顔をして、足元を気にしている。


 靴紐の先から、小さな羽根のような光が漏れていた。


 白い羽根ではない。

 透明に近い、風の形をした光。


 青年はそれを指で押さえようとしているが、押さえるたびに靴紐の結び目からふわりと浮かぶ。まるで、走り出したがっているみたいだった。


 その隣には、年配の女性が座っていた。


 膝の上に、布で包んだ弁当箱を抱えている。買い物帰りのような服装で、髪はきちんとまとめられていた。見た目だけなら、近所の内科へ薬をもらいに来た人にしか見えない。


 だが、弁当箱の隙間から、小さな火が見えていた。


 赤く、暖かい火。

 炎なのに、布を燃やしていない。

 女性は困ったように両手で包み込み、時々「しずかにね」と子どもをあやすように呟いている。


 別の長椅子には、中学生くらいの少女が座っていた。


 制服姿。

 膝の上に通学鞄。

 俯いたまま、背中を気にしている。


 肩甲骨のあたりに、白い線が浮いていた。


 服の上からでも見える。細い光の筋が二本、背中の内側から押し出されるように滲んでいる。羽根、と言うにはまだ形がない。けれど、そう呼ばれてしまえば、たぶん羽根になる。


 少女はそれを知っているのか、知らないのか、何度も背筋を丸めて隠そうとしていた。


 さらに奥には、スーツ姿の男がいた。


 清潔なシャツ。整えられた髪。膝の上には黒い鞄。社会人らしい落ち着きがある。だが、耳元につけた小型端末に、ほんの一瞬だけ文字が流れた。


《白環管理局》


 ユウリは目を細める。


 男はすぐに端末を指で押さえた。


 こちらを見た。


 目が合う。


 男は、何も言わずに視線を逸らした。


 知らないふりをした。

 それが、かえって知っている証拠のように見えた。


 ユウリは小声で呟く。


「……ここ、普通の病院じゃない」


 ポケットの中で、AVISが震えた。


 画面を開くと、アヴィがすぐに表示を出す。


《神格権能使用者反応:複数》

《AVIS非経由接続者:推定二名》

《管理機構関係者:一名》

《未分類神話構文障害:待合室内に六件》


 レンが顔を引きつらせた。


「六件って、待合室で?」


 声が大きくなりかけたので、ユウリは肘で軽く小突いた。


「声」


「いや、だって六件だぞ。普通、待合室でそんな数字出るか?」


「普通の待合室じゃないからだろ」


「納得したくねえな、それ」


 ミオは、待合室の人々をじっと見ていた。


 怖がっているというより、不思議そうだった。


 彼女は、小さな声で言う。


「みんな、普通に座ってますね」


 ユウリは、その言葉に少しだけ息を止めた。


 そうだ。


 彼らは怪物ではない。

 敵でもない。

 誰かを襲おうとしているわけでも、街を壊そうとしているわけでもない。


 配達員の青年は、自分の靴紐から出る羽根の光に困っているだけだ。

 年配の女性は、消えない火を弁当箱の中に収めようとしているだけだ。

 中学生の少女は、背中の違和感を誰にも見られたくなくて縮こまっているだけだ。

 スーツ姿の男でさえ、何かを管理する側でありながら、今は患者としてここに座っている。


 順番を待っている。


 診てもらうために。


 治してほしいのか。

 名前をつけてほしいのか。

 あるいは、自分が何になりかけているのかを知りたいのか。


 ユウリは、待合室に満ちる静けさを聞いた。


 それは神殿の静けさではなかった。

 戦場の緊張でもなかった。

 怪異の気配でもない。


 病院の静けさだった。


 咳を我慢する音。

 椅子が軋む音。

 受付の奥で紙をめくる音。

 誰かが自分の症状を抱えながら、呼ばれるのを待つ音。


 神話構文災害は、もう事件だけではない。


 無番線ホームで起きる異変。

 旧校舎の七不思議。

 神社の偽日輪。

 商店街の白環。

 欠落街区の断絶。

 ゲームセンターのミラー・スコア。


 それらは、ユウリたちにとっては一つ一つの事件だった。


 けれど、この待合室では違う。


 症状だ。


 街の裏側で、すでに病気のように扱われている。


 誰かが権能を使いすぎた後遺症。

 誰かが契約しかけた傷。

 誰かが神名に触れた反動。

 誰かが祈りでもAVISでもない古い経路で神とつながってしまった名残。


 それらを抱えた人々が、普通の顔をして順番を待っている。


 ユウリは、背筋が冷えるのを感じた。


 自分たちは、特別な物語の主人公になったのではない。


 すでにある裏側へ、ようやく足を踏み入れただけなのだ。


 受付の奥で、扉が開く音がした。


 白衣の男が出てきた。


 背は高すぎず、低すぎない。三十代後半から四十代前半ほどに見える。髪は黒に近いが、光の当たり方によって灰色が混じる。清潔な白衣。襟元はきちんとしていて、首から聴診器を下げている。


 薄い手袋をしていた。


 医療用の手袋に似ているが、素材が少し違う。紙のようにも、薄い皮膜のようにも見える。


 胸ポケットには、銀のペンライトと、薄青い薬瓶。

 白衣の内側からは、細い銀の鎖が一瞬だけ見えた。先端に何がついているのかは分からない。


 彼は穏やかに微笑んだ。


 優しそうだった。


 それだけなら、町医者として信用できる笑顔だった。


 けれど、ユウリはすぐに分かった。


 この人は、見ている。


 患者を見る目だ。

 同時に、症例を見る目でもある。


 体温。顔色。呼吸。歩き方。名前に反応するまでの間。手首の神紋。ミオの輪郭の遅れ。ユウリの視界に残る白い欠け。


 すべてを、静かに読んでいる。


 白衣の男は、三人の前で立ち止まった。


「天瀬ユウリさん、星宮ミオさん、久遠レンさんですね」


 穏やかな声だった。


「お待ちしていました」


 レンが一歩引いた。


「待たれてた。やっぱり帰らないか?」


「ここまで来て?」


「ここまで来たからこそ、引き返す勇気ってあるだろ」


 ユウリはレンを軽く睨み、それから白衣の男へ向き直る。


「どうして名前を?」


 少し強い声になった。


 この数日で、名前を知られていることの怖さを知りすぎた。


 名前を呼ばれることは、救いにもなる。

 だが、奪われる入口にもなる。

 分類され、登録され、契約され、管理される始まりにもなる。


 白衣の男は、その警戒を不快がる様子もなく受け止めた。


 むしろ、当然の反応だと言うように、少しだけ目を細める。


「患者さんの名前を把握していない医者は、あまり信用できないでしょう?」


「俺たちは、まだ患者になるって決めたわけじゃありません」


「ええ。ですから、診察の前に説明します」


 男は軽く会釈した。


「白羽根イツキです。この診療所の院長をしています。表向きは内科、小児科、簡易外科、心療相談。裏向きには、神話構文障害、AVIS契約者の肉体反応、神格権能使用後の後遺症を診ています」


 あまりにも自然に言った。


 まるで、風邪や腹痛の診療科目を説明するように。


 レンが顔をしかめる。


「裏向きって自分で言う医者、初めて見た」


「隠す必要がある相手には言いません」


「俺たちは言っていい相手なんですか」


「もう知っているでしょう?」


 イツキは、レンの右手首へ視線を落とした。


「久遠さん。右手を無理に隠すと、神経反応が余計に強くなります。袖の圧迫は避けてください」


 レンがぎくりとした。


「見ただけで分かんのかよ」


「かなり分かりやすい症状です」


「症状って言うな」


「では、反応と呼びましょう」


「それも嫌だな」


 イツキは穏やかに微笑む。


 相手の拒絶に、いちいち傷つかない。

 それは医者としての余裕にも見えるし、感情の距離にも見えた。


 次に、イツキはミオを見た。


 その視線は、レンの時より少しだけ深かった。


「星宮さんは、立っているだけで疲れませんか」


 ミオは瞬きをした。


「少しだけ」


「床が遠く感じることは?」


「……あります」


「自分の名前を言う時、一拍遅れる」


 ミオは答えなかった。


 代わりに、胸元をそっと押さえる。


 ユウリは思わず前に出た。


「先生」


 イツキはすぐに視線を戻した。


「失礼。診察前に踏み込みすぎました」


 謝罪は早かった。


 ただ、その目の奥には、消えない興味が残っている。


 ユウリは、それが嫌だった。


 ミオを見る目。


 理触者。

 未定義核。

 依代候補。

 女神残滓保持者。


 そういう言葉をつける前の目。


 イツキは、ユウリへ向き直る。


「天瀬さん」


「はい」


「あなたは、頭痛がありますね」


 ユウリは言葉に詰まった。


「……あります」


「視界の端が白く欠ける?」


 ユウリは、答える前に少しだけ警戒した。


 けれど、隠しても無駄だと思った。


「はい」


「契約相を使った後に、情報の輪郭が残る。特に名前、ログ、選択肢、空欄に反応しやすい」


「そこまで分かるんですか」


「分かるというより、似た症例を見たことがあります」


 その一言が、ユウリの胸に引っかかった。


 似た症例。


 自分と似た誰かが、前にもいたのか。


 聞こうとした時、待合室の奥で中学生の少女が小さく呻いた。背中の白い線が強く光る。


 イツキはすぐにそちらを見た。


「三番の方、少し姿勢を変えましょう。肩を閉じすぎると、羽根ではなく痛みとして固定されます」


 少女が怯えた顔で頷く。


 看護師らしき女性が奥から出てきて、少女の背中に薄い布をかけた。その布には、肉眼では見えにくい細かな罫線が入っている。カルテの罫線のようだった。


 ユウリは、その様子を見て言葉を失った。


 ここでは、そういうことが当たり前に行われている。


 火を押さえる女性。

 羽根を漏らす配達員。

 白環管理局の端末を隠す男。

 背中に痛みを抱える少女。


 そして、自分たち。


 イツキは三人に向かって、静かに言った。


「驚くのは当然です。ですが、ここでは皆さん、患者です。神格権能使用者でも、AVIS契約者でも、理触疑いでも、管理対象でも、観測者でもありません」


 ユウリは少しだけ息を緩めた。


 だが、次の言葉でまた身構えることになる。


「ただし、患者である以上、記録は取ります」


 レンが即座に言った。


「ほら出た」


 イツキは笑みを崩さない。


「治療には記録が必要です」


「人を症例って見るんだろ」


「見ます」


 あまりにあっさり認めたので、レンが黙った。


 イツキは続ける。


「ですが、症例であることと、人間であることは矛盾しません。少なくとも、この診療所では」


 ユウリは、イツキの目を見た。


 嘘をついているようには見えない。


 けれど、安心できる言葉でもなかった。


 この人は助ける。

 たぶん、本当に治療する。

 だが、記録も取る。

 興味も持つ。

 必要なら、身体だけでなく名前や反応まで読む。


 マシロとは違う。

 トウマとも違う。

 レイジとも、レンとも違う。


 また一人、新しい種類の大人が現れた。


 イツキは受付の奥へ手を向けた。


「では、順番に診ましょう。まずは久遠さん。神格反動が強い。放置すると、右腕だけ再展開を起こす可能性があります」


「右腕だけ再展開って何だよ、怖すぎるだろ」


「怖いから診ます」


「言い方」


 レンは文句を言いながらも、もう逃げようとはしなかった。


 右手の震えが、少し強くなっている。


 イツキは診察室の扉を開けた。


 中から、さらに濃い消毒液と古い紙の匂いが流れてくる。


 そして、何かが擦れる音。


 紙の上を、蛇が這うような音。


 アヴィが、ユウリのスマホに短く表示した。


《契約神照応:メディカ=ヴェルム》

《白紙の医神》

《カルテの神》

《病名を待つ神》


 ユウリは画面を見た。


 病名を待つ神。


 その言葉が、ひどく不吉に思えた。


 イツキは振り返る。


「どうしました?」


 ユウリはスマホを伏せた。


「いえ」


「大丈夫です。今日は、すぐに病名をつけたりはしません」


 イツキは穏やかに言った。


「まずは、どこを空欄のまま残すべきかを診ます」


 そう言って、彼は診察室の中へ入った。


 レンが小さく呟く。


「やっぱり、やばい医者じゃん」


 ユウリは答えなかった。


 否定できなかったからだ。


 それでも、三人は診察室へ向かった。


 待合室では、消えない火を抱えた女性が小さく会釈した。

 配達員の青年の靴紐から、羽根の光がまた一枚こぼれた。

 中学生の少女は、背中に布をかけられたまま、少しだけ楽そうに息を吐いている。


 神は、待合室にいた。


 だがそれは、祈られる神ではなかった。


 人の身体に残った熱。

 名前の奥に刺さった棘。

 日常の中で隠されている小さな異常。


 それらが、順番待ちの札を持って、静かに座っていた。

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