序節 ― 白紙カルテへの紹介
翌朝、星綴高等学園の廊下は、いつも通りに騒がしかった。
昇降口では、上履きに履き替える生徒たちが列を作っている。廊下の奥からは、誰かが笑いながら走ってくる足音がした。教室の前では、昨日出た数学の課題について文句を言う声が重なり、窓際では女子生徒たちがスマホを見せ合っている。
普通の朝だった。
少なくとも、そう見えた。
「……普通すぎるだろ」
ユウリは、階段の踊り場で足を止めた。
昨日、旧北口商店街のゲームセンター《コンティニュー》で、あれだけのことがあった。
ランキングボードが生徒たちの名前を吸い上げ、AVIS一般版のβ機能が解放され、レンがヴァルガ=ライオスの契約相を展開し、ミラー・ランカーという集合観測型神話残滓を砕いた。
なのに、学校は普通に始まっている。
誰も、ゲームセンターの中で自分の名前がスコアに変えられかけたことを真剣に話していない。
何人かは「昨日の通信障害やばかったよな」と笑っている。
何人かは「AVISの新機能残ってるんだけど」と面白がっている。
何人かは、ただ疲れているように見えるだけだ。
世界は、何もなかった顔で続く。
それが、かえって怖かった。
「まあ、普通って便利だからな」
隣で、レンが言った。
いつも通りの軽い声に聞こえた。
だが、ユウリはすぐに気づいた。
レンの顔色が悪い。
目の下には薄い隈があり、唇の色も少し白い。階段を数段上がっただけなのに、呼吸が乱れている。本人は笑ってごまかしているが、肩の上下がいつもより大きい。
右手は、制服の袖の中に隠されていた。
「レン」
「何」
「手、見せろ」
「やだ」
「即答するな」
「人には見せられない秘密の右腕なんだよ。中二的に」
「中二で済むならいいけど」
ユウリがじっと見ると、レンは視線を逸らした。
「……大したことねえって」
「だったら見せられるだろ」
「論破してくんな」
レンは渋々、右手を袖から出した。
手首の内側に、薄い雷のような紋が残っていた。
昨日よりは薄い。けれど、消えていない。皮膚の下に青白い線が一本走っていて、心拍に合わせるようにわずかに明滅している。
レンは慌てて袖を下ろした。
「ほら、ちょっと残ってるだけ。タトゥーシールみたいなもん」
「タトゥーシールは脈打たない」
「最近のは高性能かもしれないだろ」
「ない」
「夢がないな、お前」
レンは笑った。
だが、その笑いは短く、すぐに咳のような息に変わった。
ユウリは眉を寄せる。
「保健室行くか」
「行かねえよ。昨日ゲーセンで雷出しましたって言うのか?」
「言わなくていいだろ」
「じゃあ何て言うんだよ。夜更かしで右腕に神紋出ました?」
「それも言わなくていい」
「病院向いてない会話だな、俺たち」
そう言って、レンは階段を上がろうとした。
その瞬間、膝が少し揺れた。
「レン!」
ユウリが腕を掴む。
レンはすぐに踏ん張った。
「大丈夫」
反射的に言う。
その言葉の速さが、逆に大丈夫ではないことを示していた。
少し離れたところで、ミオが立ち止まっていた。
彼女は、昨日よりさらに静かに見えた。表情は普段と変わらない。けれど、どこか輪郭が薄い。朝の光を受けているはずなのに、彼女の影だけが床に少し遅れて落ちているような錯覚があった。
「ミオ」
ユウリが呼ぶと、ミオはすぐに顔を上げた。
「はい」
返事は自然だった。
けれど、次に彼女が自分で言おうとした時、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。
「私は……」
その先が、出てこなかった。
ミオは胸元を押さえる。
ユウリは小さく息を呑んだ。
「無理しなくていい」
「いえ。大丈夫です」
ミオはゆっくり息を吸った。
そして、少しだけ時間をかけて言った。
「私は、星宮ミオです」
名前は言えた。
だが、言葉の途中に、薄い空白が挟まったように聞こえた。
名前を呼ばれれば反応できる。
けれど、自分で名乗る時に、一瞬だけ詰まる。
第5話で、トウマがミオの女神照応を一部切った。
その後、現在名安定率は一時的に上がった。
だが、内部照応欠落という警告は消えていない。
安定しているように見えて、何かが遠い。
ミオ自身も、それを感じているのだろう。
彼女は困ったように微笑んだ。
「変ですね。呼ばれると、ちゃんと分かるんです。でも、自分で言おうとすると、少しだけ……遠回りしている感じがします」
「遠回り?」
「はい。自分の名前なのに、どこかを通ってから戻ってくるみたいで」
ユウリは、何も言えなかった。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
AVISだ。
画面を開くと、アヴィの表示が並んでいた。
《契約相連続使用による肉体・記録負荷を検出》
《天瀬ユウリ:軽度》
《久遠レン:中度》
《星宮ミオ:内部照応欠落継続》
《専門診断を推奨》
ユウリは眉間を押さえた。
その動作をした瞬間、視界の端が白く欠けた。
ほんの一瞬。
教室の扉の端が、紙を破ったように白く抜けた。
廊下の掲示物の文字が、途中だけ空欄になる。
すぐに戻った。
だが、頭の奥に鈍い痛みが残る。
「……俺もか」
ユウリは小さく呟いた。
昨日、《未署名の観測翼》で公開情報の余白化を行った。
個人名を守るために、流れ出すログの中へ白い余白を挟み込んだ。
その時は必死だった。
だが、あれも契約相の使用だった。
力を使えば、何かが減る。
今さらのように、その当然のことが身体に返ってきた。
レンが画面を覗き込む。
「専門診断って何だよ。スマホが急に医者行けって言ってくるの怖すぎるだろ」
ユウリは画面に向かって聞いた。
「専門診断って、病院に行けってことか?」
アヴィの表示が切り替わる。
《通常医療機関では診断困難》
《神話構文障害、契約相負荷、現在名揺らぎ、内部照応欠落を総合的に確認可能な診療所あり》
ユウリは嫌な予感を覚えた。
「その言い方、普通の病院じゃないだろ」
《白紙カルテ診療所》
《医師:白羽根イツキ》
《契約神照応:メディカ=ヴェルム》
《専門:神話構文障害/AVIS契約者の肉体反応/神格権能使用後の後遺症》
レンが即座に言った。
「それ、絶対やばい医者だろ」
ミオも画面を見つめる。
「白紙カルテ……」
その声に、わずかな不安が混ざった。
白紙。
名前が書かれていないもの。
病名がまだ決まっていないもの。
何かを書き込まれるのを待つもの。
この数日を経験した後では、その言葉だけでも十分に不穏だった。
ユウリは画面をスクロールする。
さらに注意表示が続いていた。
《注意》
《治療対象としてではなく、症例として観察される可能性があります》
「ほら見ろ!」
レンが声を上げる。
「絶対やばい! 治療対象じゃなくて症例って何だよ。人を実験台みたいに見てるタイプじゃん」
「否定できないのが嫌だな」
「行かない」
レンは即答した。
「俺は行かない。医者嫌いだし、白紙とかカルテとか名前がもう怖いし、何より症例扱いが嫌だ」
「でも、手震えてる」
ミオが静かに言った。
レンは反射的に右手を背中へ隠す。
「震えてねえし」
「震えています」
「ミオ、そういう時だけ容赦ないよな」
「見えているので」
レンは言い返そうとして、やめた。
右手は確かに震えていた。
指先が細かく揺れている。本人が力を入れて止めようとしても、完全には止まらない。手首の雷紋が、淡く光るたびに筋肉が小さく跳ねていた。
ユウリは、昨日のレンを思い出す。
雷吼の荒冠。
ヴァルガ・ブレイク。
ランキングボードを貫いた一撃。
そして、崩れ落ちたレン。
格好よかった。
強かった。
けれど、それは無傷で使える力ではなかった。
「行こう」
ユウリは言った。
レンが顔をしかめる。
「だから俺は――」
「行くだけ行く。嫌なら診察を断ればいい」
「絶対丸め込まれるやつじゃん」
「レンが丸め込まれるとは思えないけど」
「そこは信用されてるんだな」
「うん」
「微妙に嬉しくない」
レンはぶつぶつ言いながらも、強く拒否はしなかった。
ミオが少し安心したように息を吐く。
「私も、診てもらった方がいいと思います」
「怖くないのか?」
ユウリが聞くと、ミオは少し考えた。
「怖いです。でも、分からないままの方が、もっと怖い気がします」
その言葉に、ユウリは頷いた。
分からないまま放っておく。
それが、どれほど危険かはもう知っている。
名前の異変も。
神話の残滓も。
契約相の負荷も。
最初は小さな違和感として始まる。
けれど、見ないふりをしている間に、取り返しがつかない形になる。
「放課後に行くか」
ユウリが言うと、レンは大げさにため息をついた。
「はいはい。白紙カルテツアーね。嫌な観光地だな」
アヴィが画面に一行だけ追加する。
《予約不要》
《ただし、紹介元候補:カフェ《ノーネーム》》
ユウリは、その表示を見て目を細めた。
カフェ《ノーネーム》。
旧北口商店街の奥にある、名前を聞かない店。
老紳士の店主。
黒いシルクハットと銀の杖。
知っているようで何も言わない男。
名を守った者は、次に名を預かりたがる者と出会うものだよ。
あの言葉が、また耳の奥で響いた。
すべてが偶然ではない。
そう思うことには、もう慣れ始めている。
*
放課後、三人は旧北口商店街へ向かった。
空は曇っていた。
雨が降りそうで降らない、白く重い雲が神狭市の上に広がっている。太陽の位置は分かるのに、光は薄い。街全体が、白い紙を一枚かぶせられたように見えた。
旧北口商店街は、いつも通り古かった。
シャッターの下りた店。
看板の文字が薄れた時計店。
昔ながらの薬局。
古書店《紙魚の巣》の暗い窓。
カフェ《ノーネーム》から漏れる、柔らかな灯り。
だが、今日はそこを素通りした。
カフェの扉についた鈴は鳴らない。
老紳士も姿を見せない。
ただ、店の前を通り過ぎる時、ユウリは一瞬だけ視線を感じた。
窓の奥。
カウンターの向こう。
白髪の老紳士が、こちらを見ていたような気がした。
けれど、次の瞬間には誰もいない。
「……今」
「見た?」
レンも同じ方向を見ていた。
ミオは小さく首を振る。
「見えませんでした。でも、誰かが笑った気がします」
「やっぱり嫌な店だな」
レンが言う。
ユウリは否定できなかった。
商店街の外れへ向かうにつれて、人通りは少なくなった。
アーケードが途切れ、古い住宅と空き店舗が混ざる裏通りに入る。街灯はまだついていない。電柱には古い貼り紙が重なり、道端のプランターには枯れかけた花が残っていた。
スマホの地図では、目的地はすぐそこに表示されている。
だが、道は少し分かりにくかった。
普通なら見落としてしまいそうな細い路地。
白いブロック塀。
古い医院のような建物。
その前で、三人は足を止めた。
白い古い建物だった。
新しくはない。
むしろ、かなり年季が入っている。外壁はところどころくすみ、窓枠の塗装も少し剥げていた。けれど、不潔ではない。丁寧に手入れされている。古くても、放置されてはいない。
曇りガラスの扉。
その横に、小さな看板が出ている。
《白紙カルテ診療所》
文字は黒く、細い。
病院の看板にしては、少し静かすぎた。
受付時間も、診療科目も、院長名も書かれていない。
ただ、白い板にその名前だけがある。
白紙カルテ診療所。
ユウリは看板を見上げたまま、喉の奥が乾くのを感じた。
ここは、病院だ。
病気や怪我を診る場所。
それなのに、どこか神社や古書店に近い気配がある。
人の身体だけではなく、記録や名前や祈りまで診る場所。
レンが、無理に軽口を叩く。
「今なら引き返せるぞ」
「言い出した本人が一番帰りたそうだな」
「俺は常に正直者だから」
その右手が、また震えた。
今度は本人も隠しきれなかった。
ミオが静かに見つめる。
レンは観念したように息を吐いた。
「……分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
ユウリは曇りガラスの扉に手をかけた。
冷たい。
扉の奥から、匂いがした。
消毒液の匂い。
そして、古い紙の匂い。
病院の匂いと、図書館の奥にある書庫の匂いが混ざっている。
ユウリは一度だけ振り返った。
レンは嫌そうな顔をしている。
ミオは少し緊張した顔で、自分の胸元を押さえている。
アヴィの画面には、短い表示が出ていた。
《白紙カルテ診療所に到着》
《注意:治療と観察は分離されていません》
ユウリは小さく息を吸った。
名前を守るために戦ってきた。
神名を剥がし、管理を拒み、断絶に抗い、流れすぎる情報に余白を挟んだ。
けれど今度は、診られる。
自分たちの異常に、誰かが名前をつける。
それが治療になるのか。
新しい呪いになるのか。
まだ、分からない。
ユウリは扉を開けた。
奥で、小さなベルが鳴る。
ちりん、と。
それは、カフェ《ノーネーム》の鈴よりも少し乾いた音だった。
白い待合室の奥から、穏やかな男の声がした。
「どうぞ。白紙カルテ診療所へ」
扉の向こうで、紙をめくる音がした。
「あなた方の空欄は、まだ残してあります」




