終節 ― 隠すな、でも流しすぎるな
ゲームセンター《コンティニュー》は、少しずつ普通の店に戻っていった。
最初に戻ったのは、照明だった。
白く反転していた天井灯が、蛍光灯特有の少し疲れた色に戻る。非常灯の赤が壁際に細く残り、停止していた筐体の画面には、順番に再起動中のロゴが浮かび始めた。
音ゲーのスピーカーから、短い起動音が鳴る。
対戦ゲームの筐体には、メーカー名とエラーコード。
プリクラ機は「メンテナンス中」の文字を出し、クレーンゲームのアームはぬいぐるみの上で頼りなく揺れていた。
さっきまで、ここに神話がいた。
名前をスコアに変え、プレイヤーネームと現在名をつなぎ、生徒たちを契約へ誘導しようとした何かが、確かにいた。
けれど、今の店内を見ただけなら、ただの機械トラブルにしか見えない。
「停電?」
「通信障害じゃね?」
「イベント演出……にしては怖すぎたんだけど」
「何か、めっちゃ疲れた」
「俺、何で床に座ってんの?」
生徒たちは、口々にそう言いながら立ち上がっていく。
何が起きたのかを、はっきり覚えている者は少ない。
だが、何かが起きたという疲労だけは残っている。
肩をさする者。スマホを見て首を傾げる者。友人の名前を確かめるように呼ぶ者。
倉持ハルトは、しばらく自分の手のひらを見つめていた。
それから、ふと思い出したように言った。
「倉持ハルト」
自分の声で、自分の名前を確認する。
ユウリが見ると、倉持は照れ隠しのように笑った。
「いや、念のため」
「うん」
「笑うなよ」
「笑ってない」
「顔が笑いそうだった」
「悪い」
ユウリが素直に謝ると、倉持は少しだけ肩の力を抜いた。
そのスマホには、もう《契約しますか?》の表示はない。
《HARUTO_Gt》と《倉持ハルト》を結んでいた危険な線も、ユウリの視界からは消えていた。
ただし、完全に元へ戻ったわけではない。
倉持のAVIS一般版には、まだ見慣れない項目が一つ残っている。
《β機能:一部利用可能》
《神格適性測定:制限中》
倉持は画面を見て、顔をしかめた。
「これ、消した方がいいやつ?」
「今は触らない方がいい」
「触らない方がいいアプリが、勝手に入って勝手に機能増やすの、普通にホラーじゃね?」
「だから触るなって」
「はいはい」
軽口は戻っている。
けれど、倉持の指は、画面から少し距離を置いていた。
怖さを覚えている。
細部は忘れても、押してはいけないものがあった感覚だけは残っている。
それだけでも、まだましなのかもしれない。
店内の奥では、店員が困り果てた顔でブレーカーを確認していた。生徒たちは「今日はもう営業無理っぽい」と言いながら、少しずつ外へ出ていく。誰かが「ミラー・スコア、結局何だったんだよ」と言い、別の誰かが「バグイベントじゃね」と答える。
その言葉は、普通の日常に戻ろうとするための仮の札だった。
設備トラブル。
通信障害。
変なイベント。
バグ。
そう呼べば、怖くなくなる。
ユウリは、それを責められなかった。
人は、理解できないものに名前をつけて安心する。
ただ、その名前が誰かを傷つけることもあるのだと、今はもう知っている。
*
店の外に出ると、旧北口商店街の空気は冷たかった。
アーケードの灯りが、雨上がりのように濡れた舗道を薄く照らしている。実際には雨など降っていないのに、地面はどこか光を含んでいて、さっきまでの雷と画面の白さがまだ残っているように見えた。
《コンティニュー》の入口脇には、短い階段がある。
レンはそこに座っていた。
膝に肘を置き、右手をだらりと下げている。手首には、まだ薄く雷の紋が残っていた。青白い線はもう激しく光っていないが、皮膚の下に細く焼きついたように見える。
本人は平気な顔をしようとしていた。
だが、顔色は悪い。
唇の色も薄い。
呼吸も少し荒い。
いつもなら余計な一言を先に言うはずなのに、今は黙って空を見ている。
ユウリは、隣に腰を下ろした。
階段のコンクリートは冷たかった。
少し離れて、ミオが立っている。彼女は二人の会話に入るでもなく、離れるでもなく、見守る距離を選んでいた。
レンはしばらく何も言わなかった。
それから、ぽつりと呟いた。
「隠して守るのは違うって、思ってた」
「うん」
「今でも、思ってる。マシロさんみたいに、全部白くして、知らなかったことにするのは違う。トウマみたいに、危ないから切るっていうのも、やっぱ怖い」
レンは右手首の雷紋を見る。
「でも、俺が流したせいで、誰かが危険になるのも分かった」
その声は、いつものレンより少し低かった。
後悔している。
けれど、自分を全否定しているわけでもない。
だから、ユウリはすぐに慰めなかった。
軽く「お前のせいじゃない」と言えば、楽かもしれない。
でも、レンはそれを望んでいない気がした。
たぶん、レン自身も分かっている。
全部が自分のせいではない。
それでも、自分が開けた扉があった。
その両方を見なければいけない。
「たぶん」
ユウリは言った。
「全部を閉じるのも、全部を開けるのも違う」
レンは、横目でユウリを見る。
「お前、ほんと保留ばっかだな」
「そうかも」
「そこは否定しろよ」
「でも、保留しないと見えないものもある」
レンは少し黙った。
それから、疲れたように笑った。
「何か、今のちょっと主人公っぽい」
「茶化すな」
「茶化してねえよ。半分くらい」
「半分は茶化してるだろ」
「バレたか」
やり取りは軽かった。
けれど、以前と同じではない。
二人の間には、今日のことがある。
レンが神話板へログを流したこと。
ミラー・スコアが暴走したこと。
レンがヴァルガ=ライオスと照応し、《雷吼の荒冠》を展開したこと。
ユウリが、公開情報の余白化で人の名前を守ったこと。
それらを、なかったことにはできない。
それでも、友情が壊れたわけではなかった。
むしろ、少しだけ重くなった。
軽口だけで済ませられない分だけ、簡単には切れないものになった気がした。
ミオが、そっと近づいてきた。
「レンくん」
「ん?」
「さっき、名前を守ってくれて、ありがとうございました」
レンは困ったように笑った。
「いや、俺が危なくしたんだけど」
「それでも、最後は守ろうとしてくれました」
「……そう言われると、逆に刺さる」
ミオは小さく首を傾げた。
「刺すつもりはありません」
「ミオって、たまに天然で強いよな」
その言葉に、ミオは少しだけ笑った。
薄い笑みだったが、確かに笑った。
ユウリは、その表情を見て少し安心する。
ミオの学生証には、まだ名前が残っている。
星宮ミオ。
それだけで、今は十分だった。
レンのスマホが震えた。
短い通知音。
レンの表情が、ほんのわずかに変わった。
彼は反射的に画面を見て、それからすぐに伏せようとした。
ユウリは気づいた。
見えてしまったわけではない。
だが、レンの手の動きが早すぎた。
「レン?」
「何でもない」
レンはそう言った。
あまりにも早く。
ユウリは、そこで追及しなかった。
けれど、伏せられる前の画面に、わずかに白い文字が映っていた。
《Mirror Score β:観測完了》
《雷吼の荒冠:記録》
《久遠レンを構文解放候補として認識》
《次の扉は、地下にあります》
《Club MISLEAD》
Club MISLEAD。
その名前だけが、ユウリの頭に引っかかった。
地下。
次の扉。
構文解放候補。
レンはスマホをポケットにしまう。
視線を合わせない。
ユウリも、今は何も言わなかった。
言えば、レンはきっと誤魔化す。
あるいは、話す準備ができていないまま話すことになる。
それは、今のレンに必要なことではない気がした。
ただ、覚えておく。
それだけにした。
*
同じ頃。
旧北口商店街から少し離れた路地に、白い車が一台停まっていた。
外から見れば、医療相談車か、行政の巡回車のようにも見える。目立つロゴはない。窓には薄いスモークがかかっており、中の様子は見えない。
その車内で、烏丸マシロは端末を見ていた。
白い画面に、神狭市の簡略地図が表示されている。旧北口商店街の一点が、薄く点滅していた。
マシロの表情は、いつも通り静かだった。
怒っているようにも、驚いているようにも見えない。
ただ、目だけがひどく冷静だった。
《ゲームセンター《コンティニュー》異常収束》
《Mirror Score β:停止》
《ミラー・ランカー本体崩壊》
《残存ログ:拡散》
《神狭市内AVIS一般版:β機能拡散中》
マシロは指先で画面を送る。
《久遠レン:情報拡散リスク上昇》
《契約相展開を確認》
《契約神照応:ヴァルガ=ライオス》
《分類:封鎖解除型/高拡散リスク》
次の項目。
《天瀬ユウリ:公開情報余白化を確認》
《契約相:未署名の観測翼》
《第三用途:個人名保護》
《評価:管理機構方式とは異なる抑制処理》
《要監視》
さらに次。
《星宮ミオ:公開観測リスク増大》
《現在名保持:継続》
《内部照応欠落:未解消》
《隔離推奨レベル:再評価中》
マシロは、そこで指を止めた。
星宮ミオ。
未定義核。
依代候補。
理触疑い。
複数女神残滓流入。
分類はできる。
危険度も測れる。
だが、天瀬ユウリは今日、その分類へ白い余白を挟んだ。
完全に隠したわけではない。
完全に流したわけでもない。
個人名だけを神話の素材から外した。
それは、管理機構の方法ではない。
効率が悪い。
再現性が低い。
担当者の判断に依存する。
大規模災害には向かない。
それでも、今回に限れば効果があった。
マシロは静かに息を吐いた。
「保護では、足りない」
以前、自分でそう言った。
その認識は変わらない。
ただ、保護以外の方法が存在しないとは、もう言い切れない。
マシロの端末に、新しい通知が浮かぶ。
《アーカイヴ・ノア中央記録》
《白環管理区域再展開の申請準備》
《対象:旧北口商店街/星綴高等学園/AVIS一般版ユーザー群》
《承認待機》
マシロは、それを見つめた。
すぐには承認しなかった。
*
旧北口商店街の階段では、レンがようやく立ち上がろうとして失敗していた。
「うわ、足に来てる」
「無理するなよ」
「いや、立てる。俺は立てる男」
「膝笑ってるけど」
「これは膝が楽しくなってるだけ」
「意味分からない」
ユウリが肩を貸すと、レンは不満そうにしながらも体重を預けた。
「借り一な」
「助けてる側が借り作るのかよ」
「俺のプライド保護費」
「高いな」
ミオが、二人の横で少し笑う。
その時、ユウリのスマホが震えた。
アヴィだ。
画面には、いつもより硬い文字が並んでいた。
《警告》
《契約相連続使用による肉体・記録負荷を検出》
《天瀬ユウリ:軽度》
《久遠レン:中度》
《星宮ミオ:内部照応欠落継続》
《専門診断を推奨》
ユウリは眉を寄せた。
「専門診断?」
レンも画面を覗き込む。
「何それ。病院行けってこと?」
アヴィの表示が更新される。
《通常医療機関では診断困難》
《神話構文障害、契約相負荷、現在名揺らぎ、内部照応欠落を総合的に確認可能な診療所あり》
ユウリは嫌な予感を覚えた。
「それ、まともな場所なんだよな?」
少し間があった。
アヴィが答える。
《白紙カルテ診療所》
《医師:白羽根イツキ》
《契約神照応:メディカ=ヴェルム》
《専門:神話構文障害/AVIS契約者の肉体反応/神格権能使用後の後遺症》
レンが顔をしかめる。
「白紙カルテって、名前からして嫌なんだけど」
「同感」
ミオは小さく呟いた。
「白紙……」
その言葉に、少しだけ不安が混ざる。
名前が書かれていないもの。
空白のままの記録。
書き込まれるのを待つ紙。
今のミオには、あまり優しい響きではなかった。
アヴィの表示は、さらに続いた。
《注意》
《白羽根イツキは治療可能性あり》
《同時に、対象を症例として観察する傾向あり》
《治療対象としてではなく、症例として扱われる可能性があります》
ユウリは画面を見つめた。
「つまり、いい医者だけど、いい人とは限らない?」
《概ね正確》
レンが乾いた笑いを漏らした。
「この街、そんなやつばっかじゃね?」
ユウリは否定できなかった。
神々を信じるレイジ。
守るために管理するマシロ。
救うために切るトウマ。
開くことで危険を広げたレン。
名前を守るために、まだ答えを出せない自分。
そして今度は、治すために観察する医師。
誰も単純な悪人ではない。
だから、厄介だった。
ユウリはスマホを閉じかけて、もう一度画面を見た。
《白紙カルテ診療所》
《所在地:旧北口商店街裏通り》
《診療時間:不定》
《初診受付:要紹介》
《紹介元候補:カフェ《ノーネーム》》
その最後の行を見て、ユウリは思わず顔を上げた。
旧北口商店街の奥に、カフェ《ノーネーム》の灯りが見える。
店名のない入口。
真鍮の札。
名前を聞かない老紳士。
黒いシルクハットと銀の杖。
名を守った者は、次に名を預かりたがる者と出会うものだよ。
老紳士の声が、ふと耳の奥に蘇った。
ユウリは息を吐く。
「……行くしかないか」
レンが隣で呻いた。
「できれば明日以降で。今行ったら、俺たぶん診察台で寝る」
「今日は帰ろう」
ミオが言った。
その声は、柔らかかった。
「今日は、帰ってもいい日だと思います」
ユウリは少し考えて、頷いた。
「うん。帰ろう」
その言葉を言った瞬間、胸の奥に少しだけ日常が戻った気がした。
帰る。
ただ、それだけのことが、今は妙に大切だった。
旧北口商店街の灯りの下を、三人はゆっくり歩き出す。
レンはユウリの肩を借り、ミオはその少し横を歩く。誰も多くは話さない。だが、沈黙は悪くなかった。
その背後で、ゲームセンター《コンティニュー》の看板が、弱々しく点滅している。
もう一度、続けますか。
その問いに、ユウリは振り返らなかった。
今日は続けない。
今日は帰る。
けれど、街のどこかでは、開けすぎた扉の向こうから、まだ誰かがこちらを見ている。
神話板の深層。
地下へ続く次の扉。
Club MISLEAD。
白紙カルテ診療所。
そして、ネットのさらに奥で照合不能のまま残った言葉。
ログ・オリュンポス。
まだ名づけられていない次の災害が、神狭市の夜の下で、静かに読み込まれ始めていた。




