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第四節 ― 選択肢の外側

 ミオの指先が、白い切符に触れる。


 その直前。


 ユウリのポケットの中で、スマホが光った。


 光は布越しにも分かるほど強かった。黒い制服のポケットの内側から、白い輪が焼きつくように浮かび上がる。ユウリは動かない足を引き剥がすようにして、震える手でスマホを取り出した。


 画面は黒かった。


 その中央で、白い円環が回っている。


 さっきまでの警告表示ではない。


 もっと深い場所から浮かび上がってくるような、重い文字。


《契約候補を検出》

《対象:天瀬ユウリ》

《接続先:未確定》


《許可する》

《拒否する》

《保留する》


 三つの選択肢が、画面に並んでいた。


 許可する。


 拒否する。


 保留する。


 ユウリは、その文字を見つめたまま、一瞬、何も考えられなくなった。


 契約。


 その単語だけが、妙に現実離れしていた。


 契約とは何だ。

 誰と。

 何を。

 何のために。


 神と契約する。

 力を得る。

 代償を払う。


 そういう言葉なら、物語の中にいくらでもあった。ゲームにも、漫画にも、小説にも、神話にもある。人間が禁じられた知恵を得るとき。悪魔に魂を売るとき。神の加護を受けるとき。英雄が剣を取るとき。


 でも、それは画面の中の話だった。


 読む側の話だった。


 自分の親指が、その選択肢の上で止まるなんて、考えたこともなかった。


「ユウリ!」


 レンの声が聞こえた。


 遠い。


 ホームの空気が、音を吸っている。


 ミオの指先は、まだ切符へ伸びている。時間が引き延ばされたように、動きだけが遅く見えた。けれど、止まっているわけではない。あと少しで触れる。


 車掌は待っている。


 顔のない影を、ミオへ向けたまま。


 切符に印字された文字は、さらに濃くなっていく。


 星宮ミオ。


 その文字が濃くなるたびに、彼女の学生証の名前が薄くなる。

 今ここにいる少女の名前が、別の紙片に移されていく。


 ユウリは画面を握りしめた。


 許可する。


 これを押せば、何かが起きるのかもしれない。


 足を止めている影を破れるのかもしれない。車掌を倒せるのかもしれない。ミオを助けられるのかもしれない。


 けれど、何と契約するのか分からない。


 接続先:未確定。


 そんな状態で、許可していいのか。


 自分の中へ、何を入れることになるのか。

 自分の名前は、そのまま残るのか。

 ミオを助けるために、別の何かへ自分を渡すことにならないのか。


 拒否する。


 押せば、きっと安全なのかもしれない。


 自分だけは。


 この異常から手を引けるのかもしれない。知らなかったことにできるかもしれない。駅前に戻って、教師を呼んで、警察に連絡して、これは自分たちの手に負えるものではないと言えるかもしれない。


 けれど、拒否した瞬間に。


 ミオの指は、切符に触れる。


 それだけは分かった。


 保留する。


 いちばん無難な選択肢に見えた。


 選ばない。

 決めない。

 もう少し考える。


 けれど、今は考える時間がない。


 保留している間に、名前が消える。


 選択肢があることそのものが、ひどく残酷だった。


 どれを選んでも、何かを間違える気がした。


 ユウリは奥歯を噛みしめる。


 画面の向こうで、白い円環が回り続けている。


 まるで急かしているように。

 まるで試しているように。


 お前はどうする。


 何を選ぶ。


 誰の名を、どこへ渡す。


 そんな問いが、画面の奥から見つめてくる。


「くそ……!」


 ユウリは息を吐いた。


 神話の中の英雄なら、ここで迷わないのかもしれない。


 神を信じる者なら、許可を押せるのかもしれない。

 世界を拒む者なら、拒否を押せるのかもしれない。

 賢い者なら、保留して状況を観察できるのかもしれない。


 けれど、ユウリはそのどれでもなかった。


 ただの高校生だった。


 神話が好きなだけ。

 都市伝説を調べるのが好きなだけ。

 考察動画に文句を言いながら見るのが好きなだけ。


 誰かを救うための力なんて、持っていない。


 それでも。


 ミオの指先が、切符に近づいていく。


 彼女の顔は、どこかぼんやりしていた。


 自分が何をしようとしているのか、分かっていないように見えた。

 あるいは、分かっているのに止められないように見えた。


 昼休みに聞いた声が、ユウリの耳に蘇る。


「温かいミルクティーが好きです」


「駅から学校までの道も、今朝は地図を見ながら来ました」


「ここ、空が近いですね」


 あれは神の言葉ではない。


 伝説の台詞でもない。


 ただの転校生の、普通の会話だった。


 あの名前を、今ここで、切符にされてたまるか。


 その瞬間、スマホの画面が大きく乱れた。


 白い円環にノイズが走る。


 三つの選択肢が歪み、文字が崩れ、黒い画面の奥から別の表示が浮かび上がった。


《未定義の選択肢を検出しました》

《表示しますか?》


 ユウリは息を呑んだ。


 未定義。


 選択肢の外側。


 朝、駅前で表示された言葉を思い出す。


 《選択肢表示機能:未定義》


 許可でもない。

 拒否でもない。

 保留でもない。


 まだ名前のついていない選択。


 迷う時間はなかった。


 ユウリは親指で、画面を押した。


 表示が切り替わる。


《現在名を呼称してください》


 たった一文。


 それだけだった。


 力の使い方も、契約条件も、攻撃方法も表示されない。


 ただ、名前を呼べと。


 現在名を。


 ユウリは顔を上げた。


 ミオの指が、切符に触れた。


 ほんのかすかに。


 紙の端が、彼女の指先に吸いつくように震える。


 切符の文字が、黒く濃く染まった。


 星宮ミオ。


 その名前が、もう一度、紙の上で確定しようとした。


 ユウリは叫んだ。


「ミオ!」


 初めて呼んだ。


 星宮さん、ではなく。


 星宮ミオというフルネームでもなく。


 ミオ。


 昼休みに、まだそう呼んでいい距離ではなかった名前。

 転校初日の相手に、いきなり呼ぶには近すぎる名前。

 けれど今、この場所では、最も確かな名前。


 声は、ホームに響いた。


 吸い取られなかった。


 鋏の音も、車掌の影も、線路の奥の暗闇も、その声だけは消せなかった。


 ミオの肩が震える。


 閉じかけていた瞳が、はっと開いた。


 切符の文字が揺らいだ。


 星宮ミオ。


 その四文字のうち、最後の「ミオ」が、紙から浮き上がるように剥がれた。


 黒いインクがほどけ、細い光の糸になって、ミオの指先へ戻っていく。


 ミオが息を吸った。


 深く、苦しそうに。


 まるで、長い間水の底に沈んでいて、ようやく水面へ出た人のように。


「……ユウリ、くん?」


 声が戻った。


 その瞬間、ユウリの足元を縛っていた影が少し緩む。


 完全には解けない。


 けれど、動ける。


 ユウリは踏み出そうとした。


 だが、それより先に、車掌が動いた。


 顔のない影が、初めてユウリを見た。


 見た、と分かった。


 帽子の下の黒い空洞が、まっすぐこちらへ向く。


 その奥で、無数の鋏の音が鳴った。


 チン。

 チン。

 チン。

 チン。

 チン。


 一つではない。


 数えきれないほどの改札鋏が、暗闇の奥で一斉に鳴っている。切符を切る音。名前を切る音。記録を切る音。誰かがどこかへ行くことを許可する音。誰かがここから消えることを承認する音。


 ユウリの全身が強張った。


 怖い。


 顔がないのに、怒っているのが分かった。


 あるいは、怒りではないのかもしれない。


 業務を妨害された駅員のように、ただ淡々と、規則違反を見る目でこちらを見ている。そういう怖さだった。


 ユウリのスマホから、初めて声がした。


 それは機械音声ではなかった。


 少年のようにも、鳥のようにも、耳元で囁く小さな悪魔のようにも聞こえる声。


「いいぞ、ユウリ」


 ユウリは画面を見た。


 黒い画面の中、白い円環の中心で、小さな記号が瞬いている。


 目にも、鳥にも、鍵穴にも見える記号。


 そこから声が続いた。


「神名じゃない。現在名を掴め」


「お前……」


「説明はあとだ。今は呼べ。あいつが切符にする前に、ここにある名を掴み直せ」


 声は生意気で、命令口調で、少しだけ苛立っていた。


 不思議と、怖くはなかった。


 むしろ、その雑な言い方が、ユウリを現実へ引き戻した。


 そうだ。


 神が何かとか、AVISが何かとか、契約が何かとか、考えている場合ではない。


 ミオはまだ、ここにいる。


 切符に全部移ったわけではない。


 なら、呼べる。


 ユウリは息を吸った。


 ホームの空気は冷たい。


 胸の奥が痛む。


 足元の影が、また絡みついてくる。車掌が鋏を上げる。白い切符が、ミオの指に貼りつくように震える。名前が、もう一度紙へ戻ろうとする。


 ユウリは叫んだ。


「星宮ミオは、ここにいる!」


 その言葉は、さっきよりも強く響いた。


 名を呼ぶというより、そこにいることを宣言する声だった。


 神へ祈る声ではない。

 異界に命じる声でもない。

 ただ、目の前の少女を現実へ繋ぎ止める声。


 切符の文字が、激しく揺らいだ。


 星。

 宮。

 ミ。

 オ。


 一文字ずつ、黒いインクが浮き上がる。


 それは細い光の糸になって、ミオの胸元へ、学生証へ、スマホの白い画面へ、彼女自身の呼吸へと戻っていく。


 ミオの学生証に、薄れていた名前がゆっくり濃くなる。


 星宮ミオ。


 まだ完全ではない。


 でも、読める。


 はっきりと。


 ミオが切符から手を離した。


 白い切符が、宙に取り残される。


 その中央にあった名前は、もうない。


 空白。


 ただの白い紙片。


 車掌の鋏が、強く鳴った。


 チン。


 その音で、切符に細い亀裂が入る。


 続いて、二本目。三本目。


 まるで見えない誰かが、紙ではなく空間そのものに鋏を入れているようだった。


 切符が破れた。


 破片が舞い上がる。


 けれど、それは紙吹雪にはならなかった。白い破片は空中で黒く変色し、小さな改札鋏の影のようになって、音もなく崩れていく。


 ホーム全体が軋んだ。


 天井の蛍光灯が一本ずつ点滅する。


 駅名標の《未記録》という文字が滲み、読めなくなる。


 線路の奥から、電車の接近音が聞こえた。


 だが、光は見えない。


 音だけが来る。


 遠くから、重く、ゆっくりと。


 レンが叫んだ。


「ユウリ、やばい! ここ崩れる!」


 言われなくても分かった。


 ホームの端が、砂のように崩れ始めている。床のタイルが黒い粒になり、線路へ落ちていく。広告ポスターの文字が剥がれ、宙で読めない神名のようにほどける。


 車掌はまだ立っていた。


 倒れていない。


 苦しんでもいない。


 ただ、破れた切符の残骸を見下ろし、それからゆっくりユウリへ顔を向けた。


 その影の奥で、鋏の音が一度だけ鳴る。


 チン。


 それは、怒りではなかった。


 約束のように聞こえた。


 また来る。


 そう告げているように。


 ユウリの背筋が冷えた。


 その直後、足元の影が完全にほどけた。


「走れ!」


 レンが叫ぶ。


 今度はユウリも動けた。


 ミオの腕を掴む。さっきより強く、けれど痛くしないように。ミオは一瞬よろめいたが、自分の足で踏みとどまった。


「ミオ、走れる?」


 そう呼んだあとで、ユウリは自分がまた名前で呼んだことに気づいた。


 けれど、今さら言い直さなかった。


 ミオも、驚かなかった。


「はい……!」


 三人は階段へ向かって走った。


 背後でホームが崩れていく。


 蛍光灯が弾ける。線路が黒い霧へ沈む。電車の接近音がどんどん大きくなる。だが、振り返っても何も見えない。ただ、音だけが迫ってくる。


 まるで、記録されなかったものを乗せた電車が、存在しない線路を走ってくるようだった。


 階段を駆け上がる。


 レンが先頭。

 ミオが真ん中。

 ユウリが最後。


 途中で、壁に貼られた読めない行き先表示が一斉に剥がれ落ちた。紙ではなく、薄い皮膚のようなものがめくれ、その下に普通の白いタイルが現れる。


 上から、駅の音が戻ってくる。


 人の声。

 改札の電子音。

 アナウンス。

 電車の発車ベル。


 それらが一気に流れ込んできた。


 レンが最後の段を駆け上がる。


 ミオが続く。


 ユウリが階段を上りきった瞬間、背後で何かが閉じた。


 振り返る。


 そこに階段はなかった。


 ただの壁。


 広告ポスターが一枚貼られている。


 新生活応援フェア。


 文字は、もう変わらない。


 通路には人がいた。


 会社員が歩いている。学生たちが笑っている。親子連れが改札へ向かっている。誰も、たった今そこに存在しないホームが開いていたことに気づいていない。


 レンは壁に手をつき、荒い息を吐いた。


「……撮れてない」


 スマホの画面を見て、悔しそうに言う。


「全部、普通の壁しか映ってない。音も、ノイズだけ」


「今はそれでいいだろ」


 ユウリも息が切れていた。


 心臓が痛いほど鳴っている。


 ミオは壁の前に立ったまま、自分の学生証を見ていた。


 ユウリは彼女の手元を覗く。


 名前欄には、ちゃんと文字がある。


 星宮ミオ。


 少しだけ印字が薄い気もする。


 けれど、読める。


 ミオはその文字を指先でなぞった。


「戻ってる……」


「うん」


 ユウリは頷いた。


「戻ってる」


 その言葉を口にした瞬間、ようやく膝の力が抜けそうになった。


 倒れそうになるのを、壁に手をついて堪える。


 レンが小さく笑った。


「やば……本当に、やばかった」


「笑うな」


「笑ってないと無理」


 それは本音に聞こえた。


 ユウリも、少しだけ分かった。


 怖すぎると、人は笑うしかなくなることがある。


 ミオがユウリを見た。


 目が少し潤んでいる。


 けれど、泣いてはいなかった。


「あの」


「何?」


「呼んでくれて、ありがとうございます」


 ユウリは、すぐに返事ができなかった。


 呼んだ。


 ただ、それだけだ。


 それだけで何かが戻った。


 それがどういう意味なのか、まだ分からない。


 けれど、ミオの名前はそこにある。


 今は、それでよかった。


「……勝手に呼んで、ごめん」


 ユウリが言うと、ミオは少しだけ目を丸くした。


 それから、ほんのわずかに笑った。


「いいです」


「え?」


「今のは、呼んでもらえてよかったです」


 その言葉に、ユウリは胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。


 何かを言おうとした。


 だが、その前にスマホが震えた。


 三人同時だった。


 レンのAVIS。

 ミオのAVIS。

 ユウリのAVIS。


 ユウリの画面には、黒い背景と白い円環。


《無番線ホーム:一時消失》

《星宮ミオ:現在名保持》

《天瀬ユウリ:未確定名の観測者として仮登録》

《注意:神話構文災害は未収束です》


 未収束。


 その言葉が、勝利の余韻を静かに打ち消した。


 ユウリは壁を見る。


 そこにはもう、階段も、無番線の表示も、車掌もいない。


 けれど、あの鋏の音だけが、耳の奥に残っている。


 チン。


 切符を切る音。


 名前を切る音。


 そして、またいつか開くかもしれない、存在しないホームの音。


 そのとき、スマホからあの声が聞こえた。


「勘違いするなよ、ユウリ」


 レンがぎょっとして画面を見る。


「今の、誰だ?」


 ミオも目を見開く。


 ユウリはスマホを握りしめた。


 白い円環の中心で、小さな記号が瞬いている。


 声は、少しだけ楽しそうだった。


「お前は神を倒したんじゃない。名前を取り返しただけだ」


 ユウリは、乾いた喉で呟いた。


「……それで十分だろ」


「今日のところはな」


 声はそう答えた。


 そして、画面に一行だけ表示が残る。


《AVIS個体名:アヴィ=シグル》

《以後、暫定同行》


 ユウリは、その文字を見つめた。


 世界が戻ったはずの地下連絡通路で、行き交う人々だけが何も知らずに通り過ぎていく。


 日常は、すぐ隣にあった。


 けれど、もう完全には戻れない。


 ユウリはそれを、はっきりと理解した。

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