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第三節 ― 無番線ホーム

 星綴高等学園から神狭駅までは、歩いて十五分もかからない。


 それは、朝なら何でもない距離だった。


 坂道を下り、住宅街を抜け、コンビニの角を曲がり、駅前の大きな交差点を渡る。何度も通った道だ。考えなくても足が覚えている。友人と話しながら歩けば、あっという間に着く。


 けれど、その日の放課後だけは違った。


 坂道の途中で振り返ると、星綴高等学園の校舎が夕方の光を受けていた。窓ガラスが橙色に反射し、屋上庭園のフェンスが細い影を落としている。そこにはまだ、普通の日常が残っているように見えた。


 グラウンドでは部活の声が続いている。

 校門の前では、生徒たちが笑いながら別れている。

 誰かが「また明日」と言っている。


 そのすべてが、ユウリには妙に遠く感じられた。


 レンは先頭を歩いていた。


 スマホを片手に、時々画面を確認している。足取りは速い。普段のようにふざけた軽さではなく、焦りと好奇心が混ざった速さだった。


 ミオは、その少し後ろを歩いている。


 顔色はよくない。けれど、立ち止まろうとはしなかった。自分でも理由が分からないまま、呼ばれている場所へ向かう人の足取りだった。


 ユウリは、二人のあいだを少し遅れて歩いた。


 何度もスマホを見た。


《無番線ホーム、開通まで:十一分四十秒》

《対象:星宮ミオ》

《現在名消失率:5%》

《警告:名喪失反応継続》


 五パーセント。


 情報処理室を出た時より、増えている。


 駅へ近づくたびに、数字がじわじわと上がっていた。


「レン」


「分かってる」


 レンは振り返らずに答えた。


「数字、上がってるんだろ」


「……見えてるのか?」


「俺のAVISにも出てる。ただ、ユウリのとは表示が違う」


 レンはスマホ画面をこちらに向けた。


 そこには、ゲームのイベント通知のような軽いデザインで、こう表示されていた。


《近隣怪異イベント発生中!》

《神狭駅周辺でレア反応を検知》

《推奨:ARカメラを起動してください》


 ユウリはぞっとした。


「何だよ、それ」


「一般版は、たぶん危険度をまともに出してない。というか、見せ方を変えてる。イベント扱いだ」


「イベントって……」


「だからヤバいんだよ。これ、知らないやつが見たら普通に行くぞ。レア反応とか言われたら、撮りに行くやついる」


 レンの声には、苛立ちが混ざっていた。


 さっきまで面白がっていた本人だからこそ、その危うさが分かったのかもしれない。


 ミオが小さく言った。


「私の画面は、ずっと白いままです」


 ユウリはミオを見る。


「文字は?」


「今は……」


 ミオはスマホを胸の前で開いた。


 白い画面。

 その中央に、細い文字が浮かんでいる。


《呼び出し中》


 ユウリは息を呑んだ。


 レンも立ち止まりかけた。


「呼び出し中って、誰が誰を」


「分かりません」


 ミオの声は震えていた。


 だが、泣きそうな震えではない。


 もっと深い場所で、自分の知らない何かが自分を揺らしているような震えだった。


「でも、さっきから……駅の方から、何か聞こえるんです」


「音?」


「はい。音というより……名前を呼ばれているような」


「ミオって?」


 ユウリが聞くと、ミオは少しだけ困った顔をした。


「いいえ」


 胸の奥が冷えた。


「じゃあ、何て」


「分かりません。知らない名前です。でも、私を呼んでいる気がするんです」


 知らない名前で、自分が呼ばれる。


 ユウリはその感覚を想像しようとして、すぐにやめた。


 怖すぎる。


 もし、自分の名前ではないものに反応してしまったら。

 もし、その名前が本当は自分のものだったとしたら。

 もし、「天瀬ユウリ」という名前の方が、ただの仮の札だったとしたら。


 考えた瞬間、足元が少し揺れた気がした。


「急ごう」


 ユウリは言った。


 自分でも驚くくらい、声が硬かった。


 神狭駅前は、いつも通り人で溢れていた。


 夕方から夜へ変わる時間帯。


 学校帰りの生徒、会社帰りの人々、買い物袋を下げた主婦、塾へ向かう小学生。駅前ビジョンには飲食店の広告が流れ、バスロータリーには列ができている。街灯が点き始め、ビルのガラス面には夕焼けとネオンが重なっていた。


 何もおかしくない。


 少なくとも、駅前広場に立った時点では、そう見えた。


 だからこそ、余計に不気味だった。


「本当に、ここで何か起きてるのか?」


 レンが呟く。


 彼の言葉に答えるように、ユウリのスマホが震えた。


《神狭駅地下連絡通路》

《入口検出》

《注意:周辺認識に差異が発生します》


「地下連絡通路だ」


 ユウリは駅ビルの下へ続く階段を見た。


 通路は、何度も使ったことがある。


 駅の南北を繋ぐ地下道。雨の日や暑い日は便利で、壁には商業施設や学習塾、クリニックの広告が並んでいる。夜でも人通りは多く、怖い場所ではない。


 そのはずだった。


 三人は階段を下りた。


 一段目。


 駅前の音が少し遠ざかる。


 二段目。


 空気が冷える。


 三段目。


 レンがスマホを握り直す。


 四段目。


 ミオの足音が、少しだけ遅れる。


「星宮さん?」


「大丈夫です」


 ミオはそう答えた。


 だが、その声は大丈夫ではなかった。


 地下連絡通路に下りると、蛍光灯の白い光が頭上に続いていた。


 壁には広告ポスターが並んでいる。


 新生活応援フェア。

 春の入会キャンペーン。

 駅前クリニック健康診断。

 神狭市民講座。

 英会話教室。


 どれも、ありふれた広告だった。


 だが、数歩進むと、ユウリは違和感を覚えた。


 ポスターの文字が、少し滲んでいる。


 印刷がぼやけているのではない。

 文字そのものが、意味を変えようとしているように見えた。


 新生活応援。


 その「生活」の部分が、ちらつく。


 生。

 名。

 登録。


 ユウリは立ち止まり、目を凝らした。


 次の瞬間、ポスターの文字はこう見えた。


 ――新名登録。


「……見たか?」


 ユウリが聞くと、レンが頷いた。


「見た。今、変わった」


 ミオは黙っていた。


 彼女は別のポスターを見ている。


 駅前クリニック健康診断。


 その文字も、ゆっくり滲んでいた。


 健康診断。

 姓名診断。

 名簿再登録。


 壁の広告が、一枚ずつ、少しずつ、別の意味へずれていく。


 春の入会キャンペーンは、春の入名キャンペーンへ。

 市民講座は、氏名講座へ。

 英会話教室は、詠名教室へ。


 どれも完全に変わるわけではない。


 見ようとすれば普通の広告に戻る。

 目を逸らすと、また別の文字に見える。


 現実が、間違い探しのようにずれている。


「気持ち悪……」


 レンが吐き捨てた。


 その声が、通路に反響しなかった。


 ユウリはそこで気づいた。


 人の声が遠い。


 地下連絡通路には、確かに人がいる。前を歩く会社員、スマホを見ながら歩く女子高生、改札へ向かう親子連れ。見えてはいる。


 けれど、音がしない。


 靴音も、話し声も、鞄の金具の揺れる音も、全部が薄い。


 まるで、ガラス越しに見ている映像の中にいるようだった。


 代わりに、別の音が聞こえ始める。


 チン。


 金属が鳴る音。


 チン。


 どこか懐かしい、古い鋏の音。


 改札機の電子音が、その音に置き換わっていく。


 ピッ、というICカードの反応音のはずなのに、耳には切符を切る音として届く。


 チン。

 チン。

 チン。


 誰かが、見えない切符を一枚ずつ切っている。


 ミオが両手で耳を押さえた。


「星宮さん!」


「大丈夫……です。でも、近い」


「何が」


「さっきの声」


 ミオは苦しそうに息をした。


「こっちに、来いって」


「聞くな」


 ユウリは反射的に言っていた。


 ミオが顔を上げる。


「聞かなくていい。たぶん、それは星宮さんの名前じゃない」


 自分で言って、自分で確信した。


 声は、彼女を呼んでいる。

 でも、星宮ミオとは呼んでいない。


 だからこそ、聞いてはいけない。


 ミオは唇を噛み、小さく頷いた。


 その時、レンが前方を指差した。


「電光掲示板」


 地下通路の先、駅構内へ続く分岐の上に、案内表示がある。


 通常なら、南口、北口、改札、各ホームへの矢印が表示されている。


 だが、そこに一つ、見慣れない項目が追加されていた。


無番線

終点:未記録


 白い文字だった。


 古い駅の表示板のように、少しだけ掠れた文字。


 矢印は、普段なら閉鎖されているはずの脇道を示していた。


「こんな通路、あったか?」


 レンが言う。


「ない」


 ユウリは答えた。


 だが、矢印の先には通路があった。


 地下連絡通路の壁が、そこだけ奥へ引っ込んでいる。薄暗い階段が下へ続き、その先に青白い灯りが漏れている。


 今まで、一度も見たことのない入口。


 けれど、昔からそこにあったような顔をしている。


「撮る」


 レンがスマホを向けた。


 カメラアプリを起動し、画面を覗き込む。


 すぐに眉をひそめた。


「映らない」


「え?」


「見ろ」


 ユウリが覗くと、レンのスマホ画面には、ただの壁が映っていた。


 そこに階段はない。


 無番線の表示もない。


 人通りのある普通の地下通路だけが、何事もなく映っている。


 レンは何度も角度を変えた。動画にも切り替えた。AVISのARカメラも起動した。


 だが、画面の中には何も映らない。


「肉眼では見えてるのに、記録できない……?」


 レンの声が、今度こそ震えた。


「じゃあ、防犯カメラにも映ってないかもしれない」


「そういうこと言うなよ」


「事実だろ」


 レンは舌打ちした。


 それでも、スマホをしまわなかった。怖がっているのに、記録することを諦められない。その姿に、ユウリは一瞬だけ苛立ち、同時に少し救われた。


 レンはまだ、ここを見ようとしている。


 見なかったことにしようとはしていない。


 三人は、階段の前に立った。


 冷たい風が下から吹き上げてくる。


 駅の地下にあるはずなのに、風には鉄と埃、古い紙の匂いが混ざっていた。使われなくなった倉庫か、長い間開けられていなかった改札の奥のような匂い。


 ミオが一歩、階段へ近づく。


 その瞬間、ユウリのスマホが激しく震えた。


《対象:星宮ミオ》

《現在名消失率:12%》

《警告:切符を受領させないでください》

《警告:切符を受領させないでください》

《警告:切符を受領させないでください》


「待って!」


 ユウリはミオの腕を掴んだ。


 細い腕だった。


 掴んだ瞬間、ミオの体がびくりと震える。


「すみません」


 ミオは自分でも驚いたように言った。


「勝手に、足が」


「足が?」


「行こうとしていました」


 ユウリは、掴んだ手を離せなかった。


 ミオの腕は冷えていた。


 人の体温が、少しずつ遠ざかっているように感じた。


「学生証」


 レンが急に言った。


「星宮さん、学生証見せて」


 ミオは戸惑いながら、鞄の外ポケットから学生証を取り出した。


 透明なケースに入った、今日受け取ったばかりの新しい学生証。


 そこには、顔写真と、学年と、名前が印字されているはずだった。


 だが。


 星宮ミオ。


 その文字が、薄い。


 インクが水に溶けたように、輪郭が滲み、かすれている。


 写真の方ははっきりしている。学年も、クラスも、番号も読める。なのに、名前だけが薄くなっている。


 ミオが息を呑んだ。


「私の、名前……」


 声が小さくなる。


 その瞬間、ユウリははっきりと感じた。


 ここで怖がらせてはいけない。


 名前が薄れていることを、本人に「もう消えかけている」と認識させてはいけない。


 認識が、何かを進める気がした。


「まだ読める」


 ユウリは言った。


 ミオがこちらを見る。


「読める。星宮ミオって書いてある」


 実際には、かなり薄い。


 でも読める。


 読める限り、それはまだ消えていない。


 ユウリは自分に言い聞かせるように、もう一度言った。


「大丈夫。まだ読める」


 ミオの目が少し揺れた。


 けれど、彼女は頷いた。


「はい」


 レンが階段の下を覗いた。


「行くしかない。ここまで来て戻っても、数字が下がるとは限らない」


「分かってる」


 ユウリはミオの腕を離した。


「でも、星宮さん。何か渡されても受け取らないで」


「切符、ですか」


「たぶん」


 ミオは少し青ざめた顔で頷いた。


「分かりました」


 階段を下りる。


 一段ごとに、神狭駅の音が遠ざかる。


 最初は人の声。

 次に改札の音。

 次に電車の走行音。

 最後に、自分たちの足音だけが残る。


 階段の壁は、途中から白いタイルではなくなっていた。


 古いコンクリート。

 剥がれかけた塗装。

 錆びた手すり。

 ところどころに貼られた、読めない行き先表示。


 地下へ下りているはずなのに、空気は広くなっていく。


 やがて、視界が開けた。


 ホームだった。


 神狭駅のどのホームとも違う。


 天井は低く、照明は古い蛍光灯のように青白い。線路は一本だけ。向かい側の壁には広告が並んでいるが、どれも色褪せていて、文字が擦れて読めない。


 ホームの端には、古い木製のベンチ。


 駅名標には、何も書かれていない。


 いや。


 よく見ると、白い板の中央に、薄い文字がある。


 未記録


 そう読めた瞬間、ユウリの背中に汗が滲んだ。


 ここは、駅ではない。


 駅の形をした、別の何かだ。


 レンが小さく呟く。


「……マジかよ」


 その声は、さっきよりずっと小さかった。


 彼はスマホを構えていたが、画面にはやはり何も映っていないのだろう。録画ボタンを押したまま、呆然とホームを見ている。


 ミオは、ホームの中央を見つめていた。


 そこに、ひとり立っていた。


 黒い制服の車掌。


 古い時代の駅員のような服装だった。黒い上着、金属のボタン、制帽。白い手袋。片手には、鈍く光る改札鋏。


 顔は見えない。


 帽子の影になっているのではない。


 そこに顔があるべき場所だけ、黒く塗りつぶされたように影になっている。


 影の奥から、鋏の音がした。


 チン。


 車掌が、ゆっくりこちらを向く。


 顔がないのに、見られていると分かった。


 ユウリのスマホが震える。


《無番線の車掌》

《分類:都市伝説化神話残滓》

《能力推定:名の切符化/記録外搬送/現在名剥離》

《警告:接触禁止》


 読んでいる余裕はなかった。


 車掌が、一歩、ミオへ近づいた。


 その動きは滑らかだった。歩いているのに足音がしない。ホームの床を滑るように、距離だけが縮まっていく。


 ミオは動かない。


 ユウリは彼女の前に出ようとした。


 だが、その瞬間、体が重くなった。


 足元に影が絡みついている。


 見ると、自分の影がホームの床に貼りつき、改札の黒いバーのように行く手を塞いでいた。


「ユウリ!」


 レンが叫ぶ。


 彼も動けない。


 レンの足元にも、細い黒い線が絡んでいた。まるで見えない改札に止められているように。


 ミオだけが、止められていなかった。


 いや、違う。


 彼女だけが、通行を許可されている。


 車掌は白い手袋の手を上げた。


 その手には、いつの間にか一枚の切符があった。


 白い切符。


 古い厚紙のような質感。縁には細い黒線が入っている。


 車掌は、ミオへそれを差し出す。


 鋏が、もう片方の手で鳴る。


 チン。


 ミオの瞳が揺れた。


 ユウリは必死に声を出そうとした。


「受け取るな……!」


 声が掠れる。


 ホームの空気が、言葉を吸い取っている。


 車掌の手元の切符に、黒い文字が浮かび上がった。


 最初は滲んでいた。


 けれど、少しずつはっきりしていく。


 星宮ミオ


 その四文字が、切符の中央に印字されている。


 ミオの学生証の名前は、さらに薄くなっていた。


 まるで、名前が学生証から切符へ移っているように。


 ミオが一歩、前へ出た。


「だめだ!」


 ユウリは影を振り払おうとした。


 足は動かない。


 レンがスマホを投げつけるように構えた。


「星宮さん、聞くな! それ、お前のじゃない!」


 ミオは二人の声に反応したように、わずかに瞬きをした。


 けれど、視線は切符から離れない。


 彼女の顔に、恐怖はあった。


 だが、それ以上に、どこか安堵のようなものが浮かんでいた。


 呼ばれていたものに、ようやく辿り着いた人の顔。


 帰る場所を見つけてしまった人の顔。


 ユウリはその表情を見て、ぞっとした。


 違う。


 これは帰る場所ではない。


 ここへ行ってはいけない。


 名前を渡してはいけない。


 ミオの手が、ゆっくり上がる。


 白い指先が、切符へ近づいていく。


 車掌は動かない。


 ただ、差し出している。


 まるで、当然受け取られるものを待っているだけのように。


 ユウリのスマホが、ポケットの中で激しく震えた。


 画面を見なくても分かる。


 警告が出ている。


 切符を受領させないでください。


 現在名消失率が上がっている。


 ミオの名前が、ここから剥がれようとしている。


 ユウリは歯を食いしばった。


 足は動かない。

 手も届かない。

 走れない。

 止められない。


 なら。


 声だけでも。


「星宮さん!」


 叫ぶ。


 だが、ミオの指先は止まらない。


 車掌の鋏が、もう一度鳴った。


 チン。


 切符の文字が、濃くなる。


 星宮ミオ。


 ミオの指が、切符に触れようとした。

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