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第二節 ― AVIS一般版

 放課後の校舎には、昼間とは違う音が残る。


 授業中の整った静けさでも、昼休みの雑然とした賑わいでもない。部活動へ向かう生徒たちの足音、階段を駆け下りる笑い声、どこかの教室で机を動かす音、グラウンドから聞こえる掛け声。そういう音が、廊下の壁や窓ガラスに薄く反響していた。


 西日の差し込む廊下を歩きながら、ユウリは何度目か分からないため息をついた。


「……なんで僕まで」


「そりゃ当事者だからだろ」


 前を歩くレンは、振り返りもせずに言った。


 彼の足取りは軽い。授業が終わった解放感と、これから怪しいものを調べられる高揚感が、背中だけで分かる。


「当事者になった覚えはない」


「朝の時点でなってる。ユウリのスマホ、明らかに俺のよりヤバいやつだったし」


「だから、そういうのを調べるために情報処理室に行くのが嫌なんだよ」


「大丈夫。学校の端末に変なことはしない」


「その言い方がもう不安なんだけど」


「変なことじゃなくて、確認。調査。解析。社会に貢献する高校生の健全な探究活動」


「先生に聞かれたらそのまま言えよ」


「先生に聞かれないようにやる」


「最悪だ」


 レンは肩越しに親指を立てた。


 ユウリはもう一度ため息をついたが、足を止めることはできなかった。


 昼休み以降、スマホは目立った反応を示していない。授業中に何度か画面を確認したが、《AVIS》のアイコンはただ黒い円環としてホーム画面に収まっているだけだった。


 だからこそ、かえって気味が悪い。


 何も起きていないのではなく、起きるべき時を待っているような感じがした。


 放課後になってすぐ、レンは当然のように言った。


「情報処理室B、行くぞ」


 ユウリは断ろうとした。


 断ろうとしたのだが、その前にミオが小さく言った。


「私も、行ってもいいですか」


 それで、断る理由を失った。


 昼休みに自販機の場所を案内する流れになり、そのまま少し話す時間があった。ミオはまだ校舎の構造をよく分かっていないらしく、二階の渡り廊下、図書室、職員室、保健室の場所を一つずつ確認していた。


 その途中で、ミオのスマホにも《AVIS》が入っているらしいことが分かった。


 彼女が自分から言ったのだ。


「朝から、知らないアプリが消えなくて」


 その言葉を聞いた瞬間、ユウリの胸が嫌なふうに沈んだ。


 自分だけではなかった。


 けれど、同じでもなかった。


 ミオは、何も知らないようだった。少なくとも、何かを隠しているようには見えなかった。見知らぬ街に来て、見知らぬ学校に転入して、その初日にスマホに消えないアプリが入っている。そういう不安を、誰かに言うべきか迷っていた顔だった。


 それを見てしまうと、ユウリには、もう「僕は関係ない」とは言えなかった。


 情報処理室Bは、特別棟の二階にある。


 通常の情報処理室より少し狭く、授業というより探究学習やプログラミング演習、動画編集、文化祭の準備などに使われる部屋だった。壁際にはデスクトップPCが並び、中央には可動式の長机が置かれている。天井にはプロジェクターが設置され、正面の白いスクリーンは少し黄ばんでいた。


 放課後の情報処理室Bには、すでに数人の生徒がいた。


 動画編集をしている男子二人。

 生徒会のポスターを作っている女子。

 端の席では、ゲーム研究同好会のメンバーらしい生徒が、何かの画面を見て騒いでいる。


 その中に、見覚えのあるクラスメイトがいた。


「お、久遠。お前もAVIS?」


 声をかけてきたのは、クラスの男子、倉持だった。軽音部で、いつも髪型にだけ異様な気合いが入っている。


 レンはすぐに反応した。


「倉持も入れたのか」


「入れた入れた。これ、守護神タイプ出るやつだろ。俺、雷神系だった。見ろ、かっこよくね?」


 倉持がスマホ画面を見せてくる。


 黒い背景に、金色っぽいエフェクト。中央にはいかにもゲーム風の文字で、


 ――守護神タイプ:雷鳴の戦士


 と表示されていた。


 下には短い説明文がある。


 勇敢。直感型。衝動的。仲間思い。ただし怒ると周囲を巻き込む。


「それ、ただの性格診断じゃないの?」


 ユウリが言うと、倉持は心外そうに眉を上げた。


「ロマンがないな、天瀬。神格診断だぞ」


「診断結果がだいぶふんわりしてる」


「ふんわりしてるから当たるんだよ」


 別の女子が笑いながらスマホを掲げた。


「私、月の巫女だった。今日の神話相性は海神系が吉だって」


「何に使うの、それ」


「知らない。でも画面かわいい」


 生徒たちは、思ったよりも気軽にAVISを使っていた。


 神が見えるアプリ。

 契約すると願いが叶う。

 拒否すると名前が消える。


 朝、レンが言っていた噂は、確かに不気味だった。けれど実際の画面は、よくある診断アプリやARカメラ、占いアプリを混ぜたようなものに見える。


 神格診断。

 守護神タイプ。

 今日の神話相性。

 近くの怪異反応。

 ARで神話紋を見る。


 名前だけなら怪しいが、見た目は軽い。少し中二病っぽく、少しおしゃれで、少しSNSに載せやすい。


 だからこそ、広がるのだと思った。


 怖いからではなく、面白いから。


 危ないからではなく、話題になるから。


 神話は、今はもう神殿や書物からではなく、こういう形で人の手の中に入ってくる。


 画面をスクロールしながら笑うクラスメイトたちを見て、ユウリは背中に小さな寒気を覚えた。


 レンは一台のPCの前に座り、自分のスマホをケーブルで繋いだ。


「よし。まずは一般版から見るか」


「本当に大丈夫なんだろうな」


「大丈夫。俺のスマホだし」


「スマホの問題じゃなくて、学校の端末に変なログ残したら怒られるって話」


「残らないようにする」


「だから言い方」


 ミオは少し離れたところに立ち、情報処理室の中を見回していた。彼女にはこの部屋自体が初めてなのだろう。壁に貼られた情報セキュリティ標語や、古いプリンター、ケーブルの絡まった棚を、少し珍しそうに見ている。


「星宮さん、こっち座る?」


 レンが隣の椅子を引いた。


「あ、はい。ありがとうございます」


 ミオは丁寧に礼を言って腰かけた。仕草の一つ一つに、まだこの場所に慣れていない硬さがある。


 ユウリはその向かい側に座った。


 レンはキーボードを叩きながら、画面をのぞき込む。普段の軽い表情が少し薄れ、代わりに妙に集中した顔になっていた。


「見た目は普通のアプリなんだよな」


 PC画面には、スマホの中身に関する情報が並んでいる。ユウリには詳しいことは分からないが、アプリ名、権限、通信先、更新日時らしきものが表示されているのは分かった。


「カメラ、マイク、位置情報、通知、写真フォルダ……まあ、このへんはAR系アプリなら要求してもおかしくない。検索履歴連携、クリップボード監視……これはちょっと嫌。あと、バックグラウンド通信が多すぎる」


「どこに送ってるんだ?」


「それが変なんだよ」


 レンの声が少し低くなった。


「通信はしてる。でも、相手先が普通のサーバーっぽくない。ドメインがない。IPも見え方がおかしい。なんか、端末内で処理してるように見えるのに、通信量だけ増えてる」


「どういうこと?」


「分かりやすく言うと、誰かと会話してる形跡はあるのに、相手の住所がない」


 倉持たちの笑い声が、部屋の端から聞こえた。


「うわ、見て。AR神話紋、手に出た」

「写真撮ろ」

「これ、加工じゃなくて?」


 軽い騒ぎ。


 その横で、レンの表情だけが少しずつ真剣になっていく。


「しかも、ログの種類が妙だ。位置情報だけじゃない。どの画面を見たか、どの単語で検索したか、カメラに何が映ったか、周囲の音声にどういう言葉が含まれていたか……いや、これ、普通にアウトだろ」


「そんなアプリ、みんな入れてるのか」


「入れてる。だって面白いから」


 レンは画面を睨みながら言った。


 その言い方には、いつもの軽さがなかった。


「これ、ただの診断アプリじゃない。位置情報、カメラ、音声、検索履歴……妙なログ拾ってる」


 ユウリは喉の奥が乾くのを感じた。


 朝からずっと、AVISは得体の知れないものだった。けれど、どこかでまだ「変なアプリ」「悪質な都市伝説」「手の込んだイタズラ」の範囲に押し込めようとしていた。


 でも、レンの顔を見て分かった。


 彼は面白がりだ。

 危険なものにも首を突っ込む。

 けれど、分からないものを分かったふりはしない。


 そのレンが、本気で警戒し始めている。


「……星宮さんのは?」


 ユウリはミオの方を見た。


 ミオは、自分のスマホを両手で持っていた。


 指先が少し強張っている。


「見てもらっても、いいですか」


「もちろん。嫌なら無理に見ないけど」


 レンが、今度は珍しく慎重に言った。


 ミオは首を横に振る。


「大丈夫です。私も、分からないままの方が怖いので」


 その言葉は静かだったが、芯があった。


 レンがケーブルを差し替える。


 だが、PCは何も認識しなかった。


「あれ?」


 レンが接続を確認する。ケーブルを抜き、もう一度差す。別の端子に変える。スマホ側の設定を見る。


 反応しない。


「認識されない。充電はされてるのに、データが見えない」


「故障?」


「いや、普通に使えてるだろ?」


 ミオは頷いた。


「連絡も、写真も、地図も使えます。ただ、このアプリだけ……」


 ミオが画面を点ける。


 ユウリとレンは、同時に息を止めた。


 ミオのスマホ画面は、真っ白だった。


 ユウリの黒い円環とも、レンたちの診断アプリ風の画面とも違う。


 白。


 ただ白いだけの画面。


 アイコンも、メニューも、文字もない。


 まるで、まだ何も書かれていない紙のようだった。


「……何これ」


 レンが呟く。


 ミオは小さく首を振った。


「分かりません。朝から、ずっとこうです」


 その時、白い画面の中央に、薄い文字が浮かんだ。


《現在名が不安定です》


 それだけだった。


 たった一文。


 けれど、その一文が表示された瞬間、情報処理室の空気が変わった。


 音が遠ざかる。


 部屋の端で騒いでいた倉持たちの声が、薄い布の向こう側へ沈んだように聞こえる。キーボードの音、廊下の足音、グラウンドの掛け声。すべてが一段遠くなった。


 ミオは画面を見つめていた。


 自分のことなのに、どこか他人の診断結果を見ているような顔だった。


「現在名って……」


 ユウリの声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 朝、彼のスマホにも出た言葉。


 現在名を保持してください。


 そして今、ミオの画面には、


 現在名が不安定です。


 ユウリはミオを見た。


 ミオは顔を上げない。


 ただ、指先でスマホの縁を押さえている。その指が、わずかに震えていた。


「星宮さん」


 ユウリは呼びかけた。


 ミオが、ゆっくり顔を上げる。


「今の表示、前にも出た?」


「……いえ」


「本当に?」


「はい。こんなふうに文字が出たのは、初めてです」


 嘘をついているようには見えなかった。


 むしろ、彼女自身が一番困惑している。


 レンが椅子を引き寄せ、画面を覗き込む。


「現在名が不安定……名前が不安定って何だよ。アカウント名? 端末名? 本名?」


「たぶん、そういう意味じゃない」


 ユウリは、ほとんど反射的に言っていた。


 レンが見る。


「分かるのか?」


「分からない。でも……たぶん、ただの表示名じゃない」


 ミオの名前。


 星宮ミオ。


 黒板に書かれ、出席簿に載り、彼女自身が名乗った名前。


 それをAVISは「現在名」と呼んだ。


 現在、という言葉が引っかかる。


 今の名前。

 今ここにある名前。

 もしかすると、変わりうる名前。


 ユウリは、朝の通知を思い出す。


 《照応候補:過多》

 《解析不能》

 《現在名:星宮ミオ》

 《現在名を保持してください》


 ミオは、神の名ではない。

 たぶん、それより前に、今この場所にいる一人の少女の名前だ。


 だが、その名前が不安定だと表示されている。


 それはつまり。


 何かが、彼女を別の名前で呼ぼうとしているのではないか。


 そう考えた瞬間、ユウリは自分の想像にぞっとした。


 そのときだった。


 正面のプロジェクターが、勝手に起動した。


 天井から短い機械音が鳴り、白いスクリーンに光が落ちる。


 室内にいた生徒たちが、いっせいに顔を上げた。


「え、誰か使ってる?」

「先生来た?」

「待って、何も押してない」


 レンがキーボードから手を離す。


「俺じゃない」


 スクリーンには、最初、何も映っていなかった。


 白い光だけ。


 だがすぐに、細い線が走り始める。


 線は道路になり、川になり、鉄道路線になった。


 神狭市の地図だった。


 駅前地区。

 星綴高等学園。

 旧北口商店街。

 天御柱神域。

 白環管理区域。

 西側の欠落街区。


 ユウリは、息を呑んだ。


 ただの地図ではない。


 普段見慣れた神狭市の地図の上に、別の線が重なっている。古い血管のような赤い線。星座を結ぶような白い点。読めない文字。神社や古い道や、現在の地図には載っていないはずの小さな印。


 その中心の一つ、神狭駅に赤い点が灯った。


 画面の下に文字が流れる。


《神話構文濃度:上昇》

《神狭駅地下連絡通路に異常反応》

《無番線ホームを検出》

《名喪失反応あり》


 情報処理室が静まり返った。


 だが、それは完全な沈黙ではなかった。


 倉持が、恐る恐る笑った。


「……何これ。演出? AVISのイベント?」


 誰かがスマホを向ける。


「撮ろ撮ろ」

「え、すご。プロジェクター連動?」

「ARじゃなくてリアルに出るの?」


 数人はまだ面白がっていた。


 無理もない。


 この段階では、派手なホラー演出にしか見えない。都市伝説アプリのプロモーションか、誰かの悪ふざけか、文化祭の仕込みか。


 けれど、ユウリには笑えなかった。


 ミオのスマホの白い画面が、まだ光っている。


 《現在名が不安定です》


 そしてスクリーンには、


 《名喪失反応あり》


 レンが低く呟く。


「無番線ホーム……神狭駅にそんなのないよな」


「ない」


 ユウリは即答した。


 神狭駅は、何度も使っている。ホームの数も、地下連絡通路の構造も知っている。無番線なんてものは存在しない。


 存在してはいけない。


 レンの目が、興奮と緊張で光っていた。


「やばい。これ、本物かもしれない」


「本物って何だよ」


「分からない。でも、位置が出てる。神狭駅。今から行けば確認できる」


「行くわけないだろ」


 ユウリの声は、自分で思ったより強く出た。


 レンが驚いたように見る。


「ユウリ?」


「行かない。明らかにおかしい。先生呼ぶか、せめて誰か大人に――」


「大人に何て言うんだよ。プロジェクターに変な地図が出ました、スマホに現在名が不安定って出ました、神狭駅に存在しないホームがありますって?」


「だからって、僕たちだけで行く理由にはならない」


「でも、今起きてるんだぞ」


「だから危ないんだろ!」


 ユウリの声が、情報処理室に響いた。


 周囲の生徒たちがこちらを見る。


 ユウリはすぐに口を閉じた。


 自分でも驚いていた。


 こんなふうに声を荒げるつもりはなかった。


 けれど、胸の中で何かが強く警鐘を鳴らしていた。


 行ってはいけない。


 これは、面白い都市伝説ではない。


 確認しに行って「すごかった」で済むものではない。


 何かが、ミオの名前に触れている。


 そう感じた。


 スクリーンの赤い点が、ゆっくり明滅する。


 まるで、心臓の鼓動のように。


 ミオが、静かに立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る音が、妙にはっきり聞こえた。


「星宮さん?」


 ユウリが呼ぶ。


 ミオはスクリーンを見ていた。


 顔色は悪い。けれど、その目は恐怖だけではなかった。何かを思い出そうとしているような、あるいは、呼ばれている声を聞き分けようとしているような目だった。


「……行かなきゃいけない気がします」


 彼女はそう言った。


 小さな声だった。


 だが、はっきりと聞こえた。


 ユウリの胸が、冷たくなる。


「どうして」


「分かりません」


 ミオは正直に首を振った。


「分からないんです。でも……あそこに、何かあります」


「何かって」


「私の名前を、呼んでいるもの」


 その瞬間、ミオのスマホ画面が一度だけ強く白く光った。


 スクリーンの地図に、新しい文字が浮かぶ。


《対象名:星宮ミオ》

《現在名消失率:3%》

《無番線ホーム、開通準備中》


 消失率。


 その言葉を見た瞬間、ユウリは息が止まりそうになった。


 三パーセント。


 小さな数字だ。


 数学のテストなら誤差のような数字。

 バッテリー残量ならまだ気にしなくていい数字。

 だけど、名前の消失率として表示されると、まるで命の残量のように見えた。


 レンも、さすがに黙っていた。


 軽口が出ない。

 興奮は残っているが、その下に恐怖が混ざっている。


 ユウリは、ミオの横顔を見た。


 昼休み、彼女は温かいミルクティーが好きだと言った。

 神狭市の坂道にまだ慣れていないと言った。

 この学校は空が近いと言った。


 普通のことを、普通に話していた。


 その彼女の名前が、いま、画面の中で数値化されている。


 現在名消失率。


 そんな言葉で。


 ユウリの中で、何かが切り替わった。


 怖い。


 本気で怖い。


 朝のAVIS起動よりも、駅前ビジョンの読めない文字よりも、今の方がずっと怖かった。


 自分に何かが起きているだけなら、まだ分からないで済ませられた。

 レンが面白がっているだけなら、止めればよかった。

 プロジェクターの地図だけなら、悪戯かもしれないと思えた。


 でも、ミオがそこに立っている。


 自分の名前が消えかけているかもしれないのに、それでも呼ばれている場所へ行こうとしている。


 それを見た瞬間、ユウリは逃げられなくなった。


「……行くなら」


 ユウリは、自分の声が震えないように気をつけた。


「一人では行かせない」


 ミオが振り返る。


 少し驚いた顔。


 レンも、すぐに息を吐いた。


「だよな。三人で行こう」


「お前はちょっと嬉しそうにするな」


「嬉しくはない。怖い。でも、見なかったことにする方が無理」


 レンはスマホを抜き取り、ケーブルを乱暴に巻いた。


「場所は神狭駅の地下連絡通路。放課後の混む時間だ。人が多いうちに行った方がいい」


「人が多い方が安全とは限らないだろ」


「じゃあ人が少ない方が安全か?」


 ユウリは答えられなかった。


 スクリーンの赤い点は、まだ明滅している。


《無番線ホーム、開通まで――》


 数字が表示される。


 十七分。


 秒数が減っていく。


 倉持が青ざめた顔で言った。


「な、なあ。これ、ほんとに何なんだよ。久遠、お前ら何か知ってるのか?」


 レンは一瞬迷ったあと、いつもの軽い笑みを作った。


「知らない。だから見てくる」


「いや、普通に先生呼べよ」


「呼んどいて」


「え?」


「先生呼んどいて。俺ら、駅見てくる」


「おい、待てって」


 倉持の声を背に、レンは鞄を掴んだ。


 ユウリもスマホをポケットに入れる。指先が冷たい。


 ミオは自分のスマホを見つめていた。


 白い画面には、まだ一文だけが残っている。


《現在名が不安定です》


 ユウリは言った。


「星宮さん」


 ミオが顔を上げる。


「行く前に、一つだけ確認させて」


「はい」


「今、ここにいるのは、星宮ミオでいいんだよな」


 自分でも、変な質問だと思った。


 けれど、聞かずにはいられなかった。


 ミオは少しだけ目を見開いた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「はい」


 その声は、さっきよりも少しだけ強かった。


「私は、星宮ミオです」


 言葉が、情報処理室の空気に落ちる。


 その瞬間、ユウリのポケットの中でスマホが震えた。


 取り出す。


 黒い画面。

 白い円環。

 そして、新しい表示。


《現在名の自称を確認》

《保持補助:微弱》

《警告:無番線ホームにて名喪失反応継続》

《天瀬ユウリ、同行を推奨》


 命令ではなかった。


 推奨。


 その曖昧な言い方が、かえって腹立たしかった。


「言われなくても行くよ」


 ユウリは小さく呟いた。


 レンが扉を開ける。


 廊下には、まだ放課後の普通の学校が広がっていた。


 部活へ向かう生徒。

 笑い声。

 窓から差す夕方の光。

 誰かが階段で友人の名前を呼ぶ声。


 そのどれもが、いまはひどく遠く感じられた。


 ミオが一歩、廊下へ出る。


 ユウリはその背中を見た。


 細く、頼りなく、けれどどこかで確かに呼ばれている背中。


 胸の奥で、恐怖がじわりと広がる。


 本当に行っていいのか。

 何が待っているのか。

 自分に何ができるのか。


 何も分からない。


 ただ一つだけ、分かっていることがあった。


 名前が消えるかもしれない。


 その言葉だけは、冗談では済まない。


 プロジェクターの光が、三人の背後でまだ瞬いている。


 スクリーンに映った神狭市の地図。


 神狭駅の赤い点。


 そして、減っていく数字。


《開通まで:十五分二十二秒》


 放課後の学校から、いつもの駅へ。


 たったそれだけの距離が、その時のユウリには、現実と神話の境界を越える道のりのように思えた。

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