第一節 ― 星宮ミオ
星綴高等学園は、神狭駅から坂道を上った先にある。
駅前の商業ビルを背にして、住宅街の細い道を抜け、古い石垣の横を通り、ゆるやかな坂を登っていくと、やがて白と灰色を基調にした校舎が見えてくる。校門の向こうには中庭の桜があり、その奥に本校舎、さらに奥まった場所に、今はほとんど使われていない旧校舎の屋根が少しだけ覗いていた。
朝の光を受けた校舎は、いつも通りだった。
自転車置き場で慌てて鍵をかける生徒。
昇降口で友人を待つ生徒。
下駄箱の前でプリントを落として騒ぐ一年生。
廊下の奥から聞こえる教師の声。
どこかの教室で流れている、朝練後の吹奏楽部の半端な音階。
いつもの学校。
いつもの朝。
神話とも、都市伝説とも、世界の危機とも、まるで関係のない場所。
そのはずなのに、ユウリは昇降口の前で一度、足を止めてしまった。
スマホは、ポケットの中でまだ熱を持っていた。
駅から学校までの間、何度も確認した。画面を閉じても、再起動しても、あの白い円環は消えなかった。ただ、しばらくすると通常のホーム画面に戻り、神話辞典アプリのアイコンだけが見慣れない黒い円環へ変わっていた。
アプリ名は、もう神話辞典ではない。
《AVIS》
たった四文字。
削除しようとしても、長押ししても、アイコンは震えるだけで、削除の表示が出てこなかった。
「まだ気にしてる?」
隣で、レンが上履きに履き替えながら言った。
「気にするだろ、普通」
「まあ、気にするなって方が無理か。でもさ、考えようによってはラッキーじゃん」
「何が」
「都市伝説の当たり個体、引いたんだぞ」
「ガチャみたいに言うな」
「いや、でも本当にさ。俺のAVISと違うの、だいぶ面白いって。あとで見せて。中身、調べる」
「嫌だ」
「即答すんなよ」
「お前に渡したら、絶対余計なことする」
「余計なことじゃない。解析」
「同じだよ」
レンは笑ったが、ユウリは笑えなかった。
レンの軽さには、いつも救われるところがある。何でも深刻に受け取りすぎるユウリにとって、レンの「面白そうじゃん」の一言は、世界を少しだけ軽くしてくれる。
けれど今朝は、その軽さが少し怖かった。
ユウリの手元で起きたことは、面白いで済ませていいものなのだろうか。
《物語は、すでにあなたを読んでいます》
あの一文が、頭の奥に張りついて離れない。
読むものだったはずの物語が、こちらを読んでいる。
そんな感覚は、考えれば考えるほど気味が悪かった。
教室に入ると、すでに半分以上の生徒が席についていた。
二年三組。
窓側の席では、女子たちが週末に行く予定のカフェの話をしている。廊下側では、男子がスマホの画面を囲んでゲームの結果に騒いでいる。黒板には、日直が書いた日付と、今日の提出物の一覧が残っていた。
ユウリの席は、窓際から二列目の後ろ寄りだった。
鞄を机の横にかけ、椅子に座る。
窓の外には、神狭市の街が見えた。
星綴高等学園は少し高台にあるため、教室の窓から駅前の再開発ビルの上部が見える。天気のいい日には、その向こうに白環管理区域のデータセンターらしき白い建物群も見えた。さらに右手には、古い森のような濃い緑があり、その奥に天御柱神宮の鳥居があると聞いたことがある。
街全体を見下ろしているようでいて、どこにも届かない。
ユウリは、机に頬杖をつきながら、ぼんやりと外を見た。
そのとき、スマホが震えた気がして、思わずポケットに手を伸ばす。
画面には何も出ていなかった。
ただの錯覚。
そう思おうとしたとき、レンが後ろの席から身を乗り出してきた。
「ユウリ、今日転校生来るって知ってた?」
「転校生?」
「さっき廊下で聞いた。女子らしい」
「へえ」
「反応うす」
「朝からアプリに呪われてる人間に、転校生イベントを楽しむ余裕はない」
「呪われてるって認めるんだ」
「言葉の綾」
レンはにやにやしていたが、そこでチャイムが鳴った。
教室のざわめきが少しずつ収まっていく。扉が開き、担任の小野寺先生が出席簿を片手に入ってきた。
四十代半ばの、穏やかだが妙に逃げ場のない目をした教師だ。国語担当で、授業中に生徒の感想文を容赦なく読み上げることがあるため、一部の生徒からは静かに恐れられている。
「はい、席について。ホームルーム始めるぞ」
まだ立っていた生徒が慌てて席に戻る。
小野寺先生は教卓に出席簿を置き、いつも通り教室を見回した。だが、その視線が少しだけ柔らかくなる。
「今日は先に紹介がある。知っている者もいるかもしれないが、今日からこのクラスに転入生が入る」
教室が、分かりやすくざわついた。
「マジで?」
「女子?」
「どこから?」
「この時期に?」
レンが後ろから、ユウリの肩を軽くつつく。
「ほら、来た。転校生イベント」
「だからイベントじゃないって」
小野寺先生が軽く咳払いをした。
「静かに。……入っていいぞ」
教室の前の扉が、ゆっくり開いた。
入ってきたのは、ひとりの少女だった。
最初に目に入ったのは、髪だった。
黒に近い、けれど光を受けるとわずかに青みを帯びる長い髪。肩より少し下まで落ちたそれは、派手に整えられているわけではないのに、歩くたびに音もなく揺れた。
制服は星綴のものだったが、まだ着慣れていないのか、襟元が少しだけ硬い。白いシャツ、紺のブレザー、落ち着いた色のリボン。どこにでもいる高校生の服装なのに、その少女が着ると、教室の明るさがほんの少し変わったように見えた。
特別に目立つ容姿というわけではない。
背が高すぎるわけでもない。
派手な美人というわけでもない。
視線を奪うような笑顔を浮かべているわけでもない。
むしろ、表情は静かだった。
ただ、その静けさが不思議だった。
騒がしい教室に入ってきたのに、彼女の周囲だけ、音が一段薄くなるような気がした。窓の外の空が、教室の中に少しだけ近づいたような。
ユウリは、自分が息を止めていたことに気づいた。
小野寺先生が黒板に名前を書いた。
星宮 ミオ
「星宮ミオさんだ。家庭の事情で、今日からこのクラスに入ることになった。しばらく分からないことも多いだろうから、みんな助けてやってくれ」
先生に促され、少女が一歩前に出る。
教室中の視線が集まる。
少女は少しだけ頭を下げ、それから顔を上げた。
声は、思ったよりも澄んでいた。
「星宮ミオです。よろしくお願いします」
その瞬間。
ユウリのスマホが震えた。
ポケットの中で、短く、しかし確かに。
反射的に手を入れる。
見てはいけない気がした。
でも、見ずにはいられなかった。
机の下で、そっと画面を点ける。
黒い背景。
白い円環。
そして、流れる文字。
《照応候補:過多》
《太陽/月/夜/母性/境界/死/記録外祈祷》
《解析不能》
《現在名:星宮ミオ》
《現在名を保持してください》
心臓が跳ねた。
太陽。
月。
夜。
母性。
境界。
死。
記録外祈祷。
単語の意味は分かる。けれど、それが一人の転校生に向けて並ぶ意味が分からなかった。
解析不能。
現在名を保持してください。
ユウリは慌ててスマホを伏せた。
机に当たった音が、思ったより大きく響いた気がした。
小野寺先生が一瞬こちらを見る。
ユウリは何でもないふりをして、視線を黒板へ戻す。
そのとき、星宮ミオと目が合った。
ほんの一瞬だった。
彼女は、黒板の前に立ったまま、教室を見回している途中だったのかもしれない。偶然、ユウリの方に視線が向いただけかもしれない。
けれど、その目はまっすぐユウリを見ていた。
驚いたような。
懐かしいものを見つけたような。
それでいて、何も分かっていないような。
そんな目だった。
ユウリの背筋に、冷たいものが走る。
彼女は、いまの通知を知っているのか。
それとも、知らないのか。
星宮ミオはすぐに視線を外した。小野寺先生が空いている席を示す。
「席は、窓側の後ろから二番目。佐伯の隣だな」
教室の中ほどで、佐伯という女子が小さく手を振る。
ミオは「はい」と答えて、指定された席へ向かった。
その歩き方も、ごく普通だった。
鞄を机にかける。
椅子を引く。
隣の佐伯に小さく会釈する。
ノートを取り出す。
何ひとつ、おかしなところはない。
なのに、ユウリのスマホには、まだ最後の一文が残っていた。
《現在名を保持してください》
ユウリは画面を消した。
その日、午前の授業はほとんど頭に入らなかった。
数学の問題は数字の並びにしか見えず、世界史の年号はただの記号に見えた。英語の長文を追っていても、途中で《照応候補:過多》という文字が頭の中に浮かんでくる。
何度も、ユウリは星宮ミオの方を見てしまった。
彼女は普通に授業を受けていた。
教科書を開き、教師の説明を聞き、分からない箇所を隣の佐伯に小声で尋ね、ノートに丁寧な字で何かを書いている。休み時間には、女子たちに囲まれて前の学校のことを聞かれていた。
その様子を見るかぎり、彼女自身に異常な自覚があるようには見えない。
むしろ、少し緊張している普通の転校生だった。
それが余計に、ユウリを不安にさせた。
もし、ミオ本人が何も知らないのだとしたら。
あの通知は、ミオの何を見ていたのか。
昼休みになると、教室の空気は一気に緩んだ。
机をくっつける音。
弁当箱を開ける音。
購買へ走っていく生徒の足音。
誰かが流し始めた動画の短い笑い声。
ユウリは購買のパンを机に置いたまま、しばらく手をつけられずにいた。
レンが椅子を反対向きにして、前の席に座る。
「で」
「何」
「行くぞ」
「どこへ」
「転校生のところ」
「なんで」
「なんでって、話すだろ普通。あと、さっきのお前のスマホ、絶対反応してたし」
「声が大きい」
「小さくしてるだろ」
「してない」
レンは少し身を乗り出し、声を落とした。
「なあ、ユウリ。あの子、何か出た?」
「……分からない」
「出たんだな」
「分からないって言った」
「ユウリが分からないって言うとき、大体何かある」
嫌なところを突いてくる。
ユウリはパンの袋を開けながら、小さく息を吐いた。
「変な単語が並んでた。太陽とか月とか、境界とか、死とか」
「うわ、盛りすぎ」
「僕に言うな」
「神話属性全部盛りの転校生か。いいね、ラノベなら表紙確定」
「本人の前で絶対言うなよ」
「言わないって。そこまで無神経じゃない」
レンはそう言いながら、すでにミオの席の方を見ていた。
ミオは佐伯たちと一緒に弁当を食べている。少し緊張しているようだったが、時々小さく笑っていた。その笑い方は控えめで、けれど作りものには見えなかった。
普通の女の子だ。
そう思うほど、画面に出た単語が浮いて見える。
太陽。月。夜。死。
そんな言葉を、本人に重ねること自体が失礼な気がした。
「僕はいいよ」
「え、行かないの?」
「転校初日に、いきなり知らない男子二人が神話アプリ片手に寄ってくるの、普通に怖いだろ」
「神話アプリは隠す」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ俺だけ行く」
「もっと駄目だろ」
止める間もなく、レンは立ち上がった。
そして持ち前の軽さで、ミオたちの輪に入っていく。
「星宮さん、だっけ? 俺、久遠レン。こっち天瀬ユウリ。困ったことあったら聞いて。ユウリ、神狭の変な道に詳しいから」
突然名前を出され、ユウリはパンを喉に詰まらせかけた。
「詳しくない」
レンが手招きする。
逃げる方が不自然だった。
ユウリは仕方なくパンを持ったまま立ち上がり、ミオの席の近くへ行った。
近づいてみると、ミオはやはり普通の転校生に見えた。
弁当箱には、小さなおにぎりと卵焼き、ミニトマトが入っている。机の端には、まだ新品に近い星綴の校章入りクリアファイル。鞄には、通学路のメモらしき紙が挟まっていた。
ミオはユウリを見ると、少しだけ首を傾げた。
「天瀬くん、ですね」
「あ、うん。天瀬ユウリ」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
短い会話。
それだけなのに、なぜか妙に緊張した。
ミオの声は朝の自己紹介の時と同じで、澄んでいる。だが近くで聞くと、硬さもあった。知らない場所で、知らない人に囲まれて、ちゃんと普通に振る舞おうとしている声だった。
レンは遠慮なく話を続ける。
「星宮さん、前はどこ住んでたの?」
「少し遠いところです。県外で……海の近くでした」
「海か。いいな。神狭、海ないからさ」
「川はありますよね。朝、電車から見えました」
「あるけど、あれはまあ、海の代わりにはならないかな」
ミオは小さく笑った。
「そうですね」
佐伯が身を乗り出す。
「星宮さん、部活とか入る予定ある?」
「まだ決めていません。前の学校では、図書委員をしていました」
「運動部じゃないんだ」
「運動は、あまり得意ではなくて」
「分かる。体育って存在がもう無理」
女子たちが笑う。
ユウリは、少しだけ肩の力が抜けた。
普通だ。
会話のテンポも、反応も、困ったように笑うところも、全部普通の高校生だった。
レンが机に肘をつく。
「好きな飲み物は?」
「飲み物、ですか?」
「いや、購買の自販機、当たり外れあるから。転校生への重要情報」
「重要かな、それ」
ユウリが言うと、レンは真顔で返した。
「重要だろ。神狭の高校生活は、自販機選びでかなり変わる」
ミオは少し考えた。
「温かいミルクティーが好きです」
「お、無難に強い」
「でも、今日はまだ場所が分からなくて」
「じゃああとで案内する。ミルクティーは二階の渡り廊下前が一番安定。中庭側のはたまにぬるい」
「そんな違いあるの?」
ミオが本気で少し驚いた顔をする。
レンは得意げに頷いた。
「ある。学校の自販機は、生き物だから」
「それは違うと思う」
ユウリが言うと、ミオがまた笑った。
今度の笑みは、さっきよりも自然だった。
その表情を見た瞬間、ユウリは少しだけ安心した。
画面にどんな単語が出たとしても、目の前にいるのは、やはり星宮ミオなのだと思った。
太陽でも、月でも、夜でも、死でもない。
少なくとも今は、昼休みにミルクティーの場所を知らなくて困っている転校生だ。
「神狭市には、もう慣れた?」
ユウリは自分でも意外なほど自然に聞いていた。
ミオは箸を置き、少し考える。
「まだ、全然です。駅から学校までの道も、今朝は地図を見ながら来ました。坂が多いですね」
「星綴は高台にあるから」
「はい。少し迷いました。途中で、古い鳥居が見えて」
「ああ、商店街の裏の小さいやつかな。今はほとんど誰も使ってないと思う」
「そうなんですね」
ミオは窓の外へ視線を向けた。
昼の光が、彼女の横顔に落ちる。
その目は、街ではなく、もっと上を見ているようだった。
「この学校、空がよく見えますね」
何気ない言葉だった。
けれど、ユウリはなぜかその一言に引っかかった。
「空?」
「はい」
ミオは窓の外を見たまま、少しだけ眩しそうに目を細めた。
「前の学校は、校舎が低くて、周りに建物も多かったので。ここは……空が近いですね」
空が近い。
ただの感想だ。
高台にある学校なら、誰でもそう言うかもしれない。
けれどユウリには、その言葉が普通の風景の話だけには聞こえなかった。
朝、駅前ビジョンに一瞬だけ走った読めない文字。
スマホに表示された《照応候補:過多》。
太陽。月。夜。境界。
そして、星綴高等学園という名前。
星を綴る学校。
ユウリは思わず、自分のスマホに手を伸ばしかけた。
その動きを、ミオが見た。
「……何か?」
「いや」
ユウリは手を引っ込める。
「何でもない」
そう答えたのに、ミオはなぜか少しだけ不安そうな顔をした。
「私、変なことを言いましたか?」
「言ってない。ほんとに」
ユウリは慌てて首を振った。
「ただ、ちょっと……いい表現だなと思って」
「いい表現?」
「空が近いって。あんまり考えたことなかったから」
ミオは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「そうですか」
その笑顔は、本当に普通だった。
普通で、静かで、少しだけ寂しそうだった。
チャイムが鳴った。
昼休みの終わりを告げる音が、教室に広がる。生徒たちが慌てて机を戻し、弁当箱を片付け、次の授業の教科書を取り出す。
レンが席に戻りながら、小声で言った。
「な、普通にいい子じゃん」
「うん」
「でも?」
ユウリは答えなかった。
でも。
そう、でもだ。
普通にいい子だった。
だからこそ、分からない。
あの子の何を、AVISは見ていたのか。
ユウリが自分の席に戻ると、机の下でスマホが一度だけ震えた。
画面を確認する。
通知はなかった。
ただ、《AVIS》のアイコンだけが、ほんの一瞬、淡く白く光ったように見えた。
ユウリは画面を消し、窓の外を見た。
青い空があった。
雲ひとつない、よく晴れた空。
けれど、その青の奥に、何か別のものが薄く重なっているような気がした。
星宮ミオは、前の席で静かに教科書を開いている。
その名前は、黒板にも、出席簿にも、彼女のノートにも、ちゃんと書かれている。
それなのに。
ユウリの中には、消えない一文が残っていた。
現在名を保持してください。
まるでその名前が、いつかどこかへ流れていってしまうもののように。




