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序節 ― 神は検索欄に現れる

 神狭駅(かみはざまえき)の朝は、いつも少しだけ急いでいる。


 改札前の床を、革靴とローファーとスニーカーが絶え間なく叩いていた。会社員の黒い鞄が揺れ、制服姿の学生たちが改札機の前で列を作り、誰かのイヤホンから漏れた音楽が、発車ベルと駅員のアナウンスに薄く溶けていく。


 駅前ビジョンには、新しくできたショッピングモールの広告が流れていた。


 白い背景に、笑顔のモデル。

 春限定のスイーツ。

 英会話教室の入会キャンペーン。

 市内循環バスの運行案内。


 どこにでもある朝だった。


 神狭市は、東京から電車で四十分ほどの場所にある、ありふれた郊外都市だ。


 駅前には再開発ビルがあり、少し歩けば古い商店街が残っていて、坂の上には学校と神社がある。都心ほど騒がしくはないが、田舎というほど静かでもない。住むには便利で、遊ぶには少し足りない。そんな街。


 天瀬ユウリは、改札を抜ける人の流れから少し外れた柱のそばで、スマホの画面を見ていた。


 画面に表示されているのは、神話考察系の動画だった。


 タイトルには、こうある。


 ――ロキとルシファーは同じ存在なのか? 神話に隠された“反逆者”の構造。


 サムネイルには、北欧風の角飾りをつけた男の横顔と、黒い翼を広げた天使らしきシルエットが並んでいる。いかにも再生数を稼ぎそうな、派手で少し胡散臭い画像だった。


 ユウリはイヤホンを片耳だけにつけ、もう片方は外していた。


 動画の語り手は、妙に熱のこもった声で言っている。


『ロキ、ルシファー、プロメテウス。彼らは文化圏こそ違えど、人類に知恵や火を与え、神々の秩序に反逆した存在として描かれています。つまり彼らは、同一存在が各地に分岐したものではないか――』


「……同一、って言い切るのは違うと思うけどな」


 ユウリは小さく呟いた。


 似ている。


 それは分かる。


 神話には、離れた土地なのに妙に似た役割の存在がいる。太陽を運ぶ神。月を司る女神。冥界へ下る者。禁じられた知恵を与える者。世界の終わりを告げる戦い。眠った姫。海に声を奪われた娘。


 けれど、似ているから同じ、という言い方にはいつも少し引っかかる。


 同じなのではない。


 たぶん、どこかで同じ形の問いに触れているだけだ。


 人間が違う言葉で、違う時代に、違う恐怖や願いを抱えながら、それでも似た輪郭の物語を呼んでしまう。そういうことなのだと思う。


 ユウリはそういうことを考えるのが好きだった。


 神を信じているわけではない。


 祈りを捧げる習慣もない。


 ただ、神話や都市伝説、物語の裏側にある「なぜ似てしまうのか」を考えるのが好きだった。学校の授業で扱う古典や世界史より、ネットの考察動画や古い本の端に載っている異説の方が、ずっと生きている感じがした。


 けれど、それはあくまで趣味だ。


 読むもの。

 調べるもの。

 考えるもの。

 ノートに書いて、あとで自分だけが見返すもの。


 現実とは、ちゃんと別の場所にある。


 そのはずだった。


「おーい、ユウリ」


 背後から声がした。


 振り返ると、久遠レンが人混みを縫うようにして近づいてきた。少し跳ねた髪、着崩した制服、片手にはコンビニの袋。朝から妙に元気そうな顔をしている。


「また神話動画? 朝から重いな、お前」


「レンにだけは言われたくない。昨日の夜中に送ってきた都市伝説スレ、何時だと思ってるんだよ」


「二時四十七分」


「即答するな」


「いや、あれは鮮度が大事だったんだって。三時になったら消えるって書いてあったし」


「消えたの?」


「消えなかった」


「じゃあ普通に寝かせてくれ」


 レンは悪びれもせず笑った。


 彼はそういうやつだった。


 ネットの噂、怪しいアプリ、都市伝説、未確認のリーク、誰かが作った神話考察まとめ。そういうものを見つけるのが異様に早い。しかも、ただ見るだけではなく、すぐに中身を開きたがる。


 ユウリが考える側なら、レンは触る側だった。


 危ない橋を前にして、ユウリが「本当に渡っていいのか」と立ち止まると、レンはもう真ん中くらいまで走っている。


「で、入れた?」


「何を」


「AVIS」


 レンは待ってましたとばかりにスマホを差し出した。


 画面には、黒地に白い円環のようなアイコンが表示されている。円環の中心には、小さな目にも、鳥にも、鍵穴にも見える記号があった。


「なにそれ」


「知らない? 今、神狭の高校生界隈でちょっと流行ってるやつ」


「高校生界隈って範囲せまくない?」


「せまい流行の方が怖いんだよ。拡散前の都市伝説って感じで」


 レンは画面を操作しながら、妙に楽しそうに説明した。


「AVIS。神が見えるアプリ」


「見えるわけないだろ」


「出た、ユウリの現実主義」


「神話好きと、何でも信じるのは別だよ」


「でも、こういうの好きだろ? 神格診断、守護神タイプ、近くの怪異反応、AR神話紋表示。あと、夜中の三時に通知が来るらしい」


「怪しい機能の詰め合わせだな」


「さらに噂によると、契約を許可すると願いが叶う」


「課金アプリ?」


「違う違う。もっとヤバいやつ。拒否すると名前が消えるらしい」


 レンは最後の一文を、怪談番組のナレーションみたいに低い声で言った。


 ユウリはため息をついた。


「名前が消えるって、具体的にどうなるんだよ」


「さあ? アカウント名がバグるとか、LINEの表示が空白になるとか、出席簿から消えるとか」


「だんだん学校怪談になってきたな」


「場所が学校だからじゃね?」


 レンは軽く言う。


 その軽さが、かえって妙に現代的だった。


 昔なら、怪談は古い校舎や墓地や神社にあったのかもしれない。けれど今は、スマホの通知欄にも、アプリの利用規約にも、検索欄にも、いくらでも怪談は生まれる。


 神様だって、いまさら祠や神棚だけにいるとは限らない。


 もし本当に現れるなら、たぶん広告の隙間や、動画の関連欄や、誰かの投稿のタグから出てくる。


 そんなことを考えてしまって、ユウリは少しだけ嫌な気分になった。


「ユウリ?」


「いや……なんでもない」


「で、入れないの?」


「入れない」


「即答かよ」


「怪しいアプリを入れるなって、情報の授業で習っただろ」


「習ったけど、守ったら青春が減る」


「減らしていい青春だと思う」


 レンは大げさに肩を落とした。


 そのとき、ユウリのスマホが震えた。


 短い通知音。


 画面の上に、見慣れたアプリの更新通知が表示されている。


 ――神話辞典アプリ:更新が完了しました。


「あれ」


 ユウリは眉をひそめた。


 その神話辞典アプリは、かなり前から入れているものだった。世界各地の神話名や神々の系譜を検索できる、少し古いデザインの辞典アプリ。創作メモ代わりに使うこともある。


 最近は更新も止まっていたはずだ。


「どうした?」


「いや、このアプリ、まだ更新あったんだ」


 ユウリがアイコンをタップする。


 次の瞬間、画面が黒く反転した。


 いつものトップページではない。


 神名検索の欄も、カテゴリ一覧も、広告バナーも消えている。


 代わりに、黒い画面の中央で、白い円環がゆっくり回転していた。


 レンのスマホに表示されていたAVISのアイコンと、よく似ている。


「……レン」


「ん?」


「お前、僕のスマホに何かした?」


「してないけど」


「本当に?」


「してたらもっと面白いタイミングでバラす」


「それは信用していいのか分からない」


 画面に文字が浮かんだ。


《AVIS-System 起動》

《人工残滓照合を開始します》

《端末所有者名:天瀬ユウリ》

《照応深度:未確定》

《未確定名の観測者を確認しました》


 駅の音が、一瞬だけ遠くなった。


 発車ベルも、改札の電子音も、人の足音も、全部が薄い膜の向こう側に沈んだように聞こえた。


 ユウリは思わず息を止める。


 スマホの画面には、さらに文字が流れていく。


《神話構文解析を開始します》

《現在地:神狭駅》

《周辺構文濃度:微弱》

《警告:未登録神名の流入を検出》


「……おい」


 レンの声が、さっきより少しだけ低くなった。


「それ、俺のと違う」


「違うって?」


「俺のAVIS、そんな表示出ない。もっと普通。診断アプリっぽいやつ。なんだよ、未確定名の観測者って」


「知らないよ」


 ユウリは画面を閉じようとした。


 けれど、閉じられない。


 ホームボタンも、電源ボタンも、画面を暗くするだけで、次の瞬間にはまた白い円環が浮かび上がる。


 心臓が、少しずつ早くなっていく。


 悪戯にしては手が込みすぎている。

 ウイルスにしては、表示される言葉が自分の趣味に寄りすぎている。

 都市伝説にしては、今ここで起きている。


 そんなふうに考えたところで、ユウリは自分が本気で怖がり始めていることに気づいた。


 神話は好きだ。


 でも、神話の方から画面越しにこちらを見てくるのは、話が違う。


 駅前ビジョンが、ふっと白く瞬いた。


 ユウリは顔を上げる。


 広告が切り替わる一瞬、画面の端に見慣れない文字が走った気がした。


 アルファベットでもない。

 日本語でもない。

 ただ、なぜかそれが「名前」だと分かった。


 読めないのに、呼ばれているような気がした。


「ユウリ?」


 レンが声をかける。


 ユウリは慌てて瞬きをした。


 駅前ビジョンは、もう普通の広告に戻っている。


 春の新作ドリンク。

 駅ビル二階、期間限定ショップ。

 本日十時オープン。


 何もおかしくない。


 何も起きていない。


 そう思おうとしたとき、スマホがもう一度震えた。


《初期解析完了》

《本端末は通常版AVISではありません》

《選択肢表示機能:未定義》

《現在名を保持してください》


 最後の一文だけ、他の表示よりも強く光った。


《物語は、すでにあなたを読んでいます》


 ユウリは、画面から目を離せなかった。


 朝の人混みが流れていく。


 誰も立ち止まらない。

 誰も画面を覗き込まない。

 誰も、いま自分の手の中で何かが始まったことに気づかない。


 レンだけが、隣で小さく笑った。


 けれどその笑い方は、いつもの軽いものではなかった。


「……なあ、ユウリ」


「何」


「これ、たぶん当たりだ」


「何の」


「都市伝説の」


 ユウリは答えられなかった。


 駅の時計は、いつも通り八時を少し過ぎたところを示している。


 遅刻するほどではない。

 急がなければならない時間ではある。

 学校へ行って、ホームルームを受けて、授業を受けて、昼休みに購買か弁当を食べて、放課後にはまた駅へ戻る。


 いつもの一日が、まだそこにある。


 けれど、ユウリのスマホ画面には、消えない円環が浮かんでいた。


 白い輪の中心で、小さな記号がまばたきのように瞬く。


 目にも、鳥にも、鍵穴にも見える記号。


 そして、その下にもう一行だけ、文字が表示された。


《ようこそ、天瀬ユウリ》

《検索された神話は、まもなく現実へ接続されます》


 ユウリは思った。


 神話は、読むものだったはずだ。


 少なくとも、今朝までは。


 けれど。


 画面の奥で、何かがこちらを読んでいる。


 その感覚だけが、春の朝の光の中で、ひどく冷たく残っていた。

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