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第五節 ― 名前を取り返しただけ

 地下連絡通路を抜け、駅前へ出た瞬間、ユウリは世界の音が一気に戻ってくるのを感じた。


 電車の発車メロディ。


 改札を抜ける人々の足音。


 駅前ロータリーで唸るバスのエンジン。


 信号が青に変わる電子音。


 コンビニの自動ドアが開き、揚げ物の匂いと冷えた空気が、春の夕方へ吐き出される。


 全部、いつもの神狭駅だった。


 何も壊れていない。


 誰も倒れていない。


 誰も叫んでいない。


 さっきまで駅の底にあったはずの無番線ホームは、どこにもなかった。


 ユウリは、階段を上りきったところで立ち止まった。


 いや、正確には、足が止まってしまった。


 身体の奥が遅れて震え始めている。地下では感じる暇もなかった恐怖が、地上の光と人の声に触れた瞬間、いきなり背中へ追いついてきた。


 怖かった。


 今さら、そう思った。


 怖かったのだ。


 名前が消える。


 人が消える。


 そして、そのことを世界が何事もなかったように上書きする。


 そんなものに、自分たちは今、触れてしまった。


「……戻ってる」


 レンが隣で呟いた。


 その声には、安堵よりも困惑が濃かった。


 レンは駅前の雑踏を見回している。人の多さ、明かりの強さ、流れている広告、改札前の行列。そのすべてが普通すぎて、逆に信じられないという顔だった。


「誰も、気づいてないのかよ」


「たぶん」


 ユウリは答えたが、自分の声もひどく頼りなかった。


 ミオは、少し後ろで立ち止まっていた。


 階段の手すりに片手を添え、もう片方の手で胸元を押さえている。息はまだ浅い。顔色も悪い。けれど、さっき地下で見たような、輪郭が世界から剥がれかける感じはもうなかった。


 彼女の影は、夕方の光を受けて、ちゃんと足元に落ちている。


 ユウリは、それを確認してから、ようやく呼んだ。


「ミオ」


 ミオの睫毛が震えた。


「……うん」


 返事があった。


 たったそれだけで、胸の奥が痛いほど緩んだ。


 ユウリはもう一度その名前を呼びそうになって、唇を閉じた。


 呼びたいから呼ぶ。

 確認したいから呼ぶ。

 そこにいるか不安だから呼ぶ。


 今までは、名前なんてそれくらい気軽なものだと思っていた。


 けれど今は違う。


 名前を呼ぶことが、誰かをこの世界へ繋ぎ止める行為なのだと知ってしまった。


 知ってしまった以上、もう以前と同じ重さでは呼べない。


 レンが、ぎこちない動作でスマホを取り出した。


「待って。録画。俺、ホームに入る前からずっと回してたはず」


 いつものレンなら、ここで「スクープだ」とか「神狭駅怪異映像、再生数いける」とか言いそうなものだった。


 けれど、今は違った。


 指が震えている。


 画面のロックを一度失敗し、舌打ちして、もう一度解除する。動画アプリを開き、さっき撮影したはずのファイルを探す。


「あった」


 レンは再生ボタンを押した。


 三人は、自然と画面を覗き込んだ。


 映像には、地下連絡通路が映っていた。


 蛍光灯。


 壁の広告。


 夕方にしては少し人通りの少ない、けれどどこにでもある駅の通路。


 画面の中で、レンがカメラへ向かって何か喋っている。ユウリがそれを押しのけ、ミオが少し困ったように笑っている。


 それだけだった。


 無番線ホームは映っていない。


 黒い制服の車掌も映っていない。


 白い切符も、名前の薄れた学生証も、崩れ落ちるホームも、線路の奥から迫ってきた見えない電車の気配も。


 何もない。


 映像の中の三人は、ただ地下通路で少し悪ふざけをしている高校生にしか見えなかった。


「……は?」


 レンの声が掠れた。


 彼は動画を巻き戻した。


 もう一度再生する。


 何も変わらない。


 さらに戻す。


 地下通路。

 壁。

 広告。

 ふざける自分。

 呆れた顔のユウリ。

 少し笑うミオ。


 それだけ。


「違う」


 レンが呟いた。


「違うだろ。俺、こんなことしてない。ここでミオが変な表示見て、ユウリが止めて、階段があって……俺、ちゃんと撮ってた。絶対撮ってた。なのに、何で」


 レンは何度も動画を擦った。


 指先が焦って画面を滑り、再生位置が飛ぶ。


 それでも、出てくるのは普通の日常だけだった。


 記録は、現実を裏切っていた。


 いや。


 ユウリは、喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 違う。


 記録が裏切ったのではない。


 記録の方が、世界に合わせて修正されたのだ。


 あの無番線ホームは、記録されない場所だった。


 あるいは、記録されてはいけない場所だった。


 だから、映像には残らない。


 残るのは、編集された日常。


 世界が「何も起きなかった」と言い張るための証拠だけ。


「……ふざけんなよ」


 レンの声が震えた。


 怒っているのか、怖がっているのか、本人にも分からないような声だった。


「じゃあ、俺たちが見たものは何なんだよ」


 ユウリは答えられなかった。


 駅前の雑踏が、いつも通り流れている。


 会社員が改札へ向かう。


 高校生たちが笑いながらファストフード店へ入っていく。


 買い物袋を下げた女性が、自転車の後ろに乗せた子どもに「落とさないでよ」と言っている。


 その全部が、本物の日常に見える。


 けれど、その下に薄い膜が一枚ある。


 少し指で引っかけば、また別の何かが覗いてしまう。


 そんな気がした。


「ミオ、学生証」


 ユウリが言うと、ミオははっとしたように鞄を開いた。


 透明なカードケースを取り出す。


 指先が、ひどく慎重だった。


 まるで、そこに何も書かれていなかったら、その瞬間に自分自身まで消えてしまうと恐れているように。


 学生証には、名前があった。


 星宮ミオ。


 白いカードの上に、黒い文字で、ちゃんと印字されている。


 ミオはそれを見つめたまま、息を詰めた。


 そして、小さく言った。


「……ある」


 声が震えていた。


「私の名前、ある」


 その言葉を聞いた瞬間、ユウリの胸の奥に、何か熱いものが込み上げてきた。


 安堵だった。


 けれど、それだけではなかった。


 悔しさにも近かった。


 名前がある。


 ただ、それだけのことを、こんなにも必死で確認しなければならない。


 そんな状況に巻き込まれたことが、たまらなく腹立たしかった。


 レンも長く息を吐いた。


「よかった……」


 それは、いつもの軽い言葉ではなかった。


 本当に、心の底から漏れた声だった。


 ミオは学生証を胸に抱えた。


 けれど、安堵しきった顔ではない。


 名前が戻ったこと。


 名前が消えかけたこと。


 どちらも本当なのだ。


 その二つを同時に抱えるには、彼女はまだあまりにも普通の高校生だった。


 ユウリも同じだった。


 普通の高校生だったはずだ。


 今朝までは。


 制服のポケットで、スマホが震えた。


 ユウリの肩が跳ねる。


 ただの通知音ではない。


 画面を見なくても分かった。


 《AVIS》だ。


 ユウリはスマホを取り出した。


 画面は勝手に点灯していた。黒い背景に、白い円環が浮かんでいる。中心には、目にも鳥にも鍵穴にも見える小さな記号。さっき地下で声を発した存在の印。


 細い文字が、上から順に流れていく。


《神話構文災害:未収束》

《無番線ホーム:一時消失》

《星宮ミオ:現在名保持》

《天瀬ユウリ:未確定名の観測者として仮登録》


 未収束。


 一時消失。


 現在名保持。


 未確定名の観測者。


 どの単語も理解できる。


 けれど、受け入れられない。


 ユウリはスマホを握りしめた。


「……なんだよ、これ」


 声が震えた。


 レンが横から画面を覗き込む。


「また出たのか」


「出た」


「未収束って……終わってないってことか」


 ユウリは答えられなかった。


 答えたくなかった。


 だが、画面の中の小さな記号が、まるでこちらの沈黙を笑うように瞬いた。


「終わってない」


 スマホから声がした。


 レンが顔を強張らせる。


 ミオも息を呑んだ。


 アヴィ=シグル。


 さっき、画面に表示された名前。


 本人はそれを名前ではなく「呼び名」と言った存在。


 その声は、軽く、少し鼻にかかっていて、妙に偉そうだった。


「正確に言えば、今回は閉じただけだ。無番線ホームは一時消失。車掌も消滅していない。切符の受領は阻止した。星宮ミオの現在名は保持された。以上」


 あまりにも淡々とした言い方だった。


 ユウリの中で、恐怖とは別の感情が湧き上がる。


 怒りだった。


「以上、じゃないだろ」


「何がだ」


「ミオの名前が消えかけたんだぞ」


「だから取り返した」


「取り返しただけで済む話じゃない」


「済まない。だから未収束と表示している」


「お前……!」


 言い返そうとして、言葉が詰まった。


 何を怒ればいいのか、自分でも分からなかった。


 アヴィが悪いのか。


 無番線ホームが悪いのか。


 AVISが悪いのか。


 それとも、何も知らずに駅へ行った自分たちが悪いのか。


 胸の中がぐちゃぐちゃだった。


 そんなユウリを見透かしたように、アヴィは言った。


「勘違いするな、天瀬ユウリ」


 その声から、少しだけ軽さが消えた。


「お前は神を倒したんじゃない。名前を取り返しただけだ」


 ユウリは黙った。


 その言葉は、地下でも聞いた。


 けれど地上で、日常の音の中で聞くと、重さが変わる。


 名前を取り返しただけ。


 確かにそうだ。


 車掌は倒していない。

 無番線ホームの正体も分からない。

 AVISが何なのかも分からない。

 ミオの名前がなぜ狙われたのかも分からない。


 分からないことだらけだ。


 ただ、消えかけた名前を、剥がれきる前に押さえただけ。


「それでも」


 ユウリは小さく言った。


 アヴィが黙る。


「それでも、取り返せたなら……今は、それでいいだろ」


 ミオが、ユウリを見た。


 レンも、少しだけ目を細めた。


 アヴィは数秒、何も言わなかった。


 駅前の雑踏だけが、三人の周囲を通り過ぎていく。


 やがて、画面の記号が小さく揺れた。


「今日のところはな」


「今日のところは、って何だよ」


「そのままの意味だ。お前らは今日、たまたま戻ってきただけだ。状況も、相手も、条件も、まだ何も理解していない。勝ったと思えば、次で消える」


「言い方」


 レンが顔をしかめる。


「もうちょっと初心者向けチュートリアルみたいに言えないのか」


「初回イベントクリアおめでとう。報酬として、次回以降の生存率がわずかに上昇しました」


「急にゲームっぽくするな。余計怖い」


「注文の多い動画猿だな」


「誰が動画猿だ!」


 レンが怒鳴る。


 そのやりとりに、ミオが小さく笑った。


 本当に小さな笑いだった。


 けれど、笑いだった。


 ユウリはそれを見て、喉の奥が詰まる。


 ミオが笑った。


 名前を取り戻した。

 そこにいる。

 くだらない会話に反応して、ちゃんと笑っている。


 それだけで、泣きそうになるくらい安心した。


 ミオは自分でもそのことに気づいたのか、学生証を少しだけ緩く握り直した。


「アヴィさん、でいいんですか」


「さん付けは不要だ。むず痒い」


「じゃあ、アヴィ」


「それでいい」


 ミオは少し迷ってから、言った。


「ありがとう」


 アヴィの記号が止まった。


 ほんの一瞬。


 それから、少し不機嫌そうに跳ねる。


「礼を言う相手を間違えるな。呼んだのはユウリだ」


「でも、教えてくれました」


「状況判断の補助をしただけだ」


「それでも、助かりました」


 ミオはまっすぐ画面を見ていた。


 アヴィは黙った。


 ユウリには、それが照れているように見えた。


 そう思った瞬間、画面の記号がこちらを向いた気がした。


「変な解釈をするな」


「何も言ってないだろ」


「顔に出ている」


「スマホ越しに顔を見るな」


「観測範囲内だ」


「その観測、制限できないのか」


「できるが、する理由がない」


「性格悪いな」


「分類を急ぐなと言った」


 レンが呆れたように笑う。


「こいつ、本当に何なんだよ。AIでも悪魔でもないなら、何枠?」


「決めるな」


 アヴィの声が、急に低くなった。


 ユウリは思わず黙る。


「決めた瞬間、俺はその程度のものになる」


 駅前の音が、少しだけ遠ざかった。


 発車メロディも、人の声も、バスのエンジン音も、完全には消えない。


 けれど一瞬だけ、スマホの画面だけが世界の中心になったような感覚があった。


 アヴィは続ける。


「AI。悪魔。精霊。神の残滓。アプリ。ウイルス。ナビゲーター。お前たちは、理解できないものに名前を貼って安心したがる。名前をつければ扱えると思っている。箱に入れれば、もう怖くないと思っている」


 ユウリは、ミオの学生証を見た。


 星宮ミオ。


 戻ってきた名前。


 守れた名前。


 けれど、その名前もまた、何かを固定するものなのだろうか。


 名前は人を守る。


 でも同時に、人を閉じ込める。


 その両方が、今なら少しだけ分かる気がした。


「じゃあ、アヴィって呼び名は何なんだよ」


 ユウリは聞いた。


「呼び名だ」


「名前じゃなくて?」


「今はな」


「今は?」


「恒久的な定義を求めるな。お前はまだ、自分が何に巻き込まれたかも理解していない」


「だったら説明しろよ」


「説明している」


「してない」


「お前が理解できる形に落としてやっている。感謝しろ」


「どこを?」


「まず、神を倒していないと教えた」


 ユウリは、そこで黙った。


 言い返せなかった。


 ほんの一瞬だけ、思ってしまったからだ。


 自分が何か特別なことをしたのではないかと。


 ミオの名前を呼んだ。


 選択肢の外側を押した。


 無番線ホームから戻ってきた。


 自分には何かがあるのかもしれない。


 そんな考えが、確かに頭をよぎった。


 それを、アヴィは見逃さなかった。


「天瀬ユウリ」


 アヴィの声が、少しだけ硬くなる。


「お前がやったのは、剥がれかけた名前を、まだ剥がれきっていないうちに押さえただけだ。破れた紙の端を指で押さえた。それだけだ。紙を裂いた相手を倒したわけじゃない。紙を作り直したわけでもない。ましてや、世界の仕組みを変えたわけでもない」


 ユウリは唇を噛んだ。


「じゃあ、また起きるのか」


「起きる」


 即答だった。


 ミオの顔が青ざめる。


 レンが低く言う。


「おい、少しは言い方考えろよ」


「優しい嘘は状況を悪化させる。特に、何も知らないまま異常へ突っ込むタイプにはな」


「突っ込みたくて突っ込んだわけじゃない」


「だが突っ込んだ。結果がすべてだ、動画猿」


「だからその呼び方やめろ!」


 レンの怒鳴り声に、駅前を歩いていた女子高生が一瞬こちらを見た。


 ユウリは慌てて少し声を落とす。


「アヴィ。今の無番線ホームって、何だったんだ」


「都市伝説化した神話残滓」


「分かるように」


「神狭駅という場所に残っていた古い“名を運ぶ”構文と、現代の駅、切符、改札、乗換案内、通勤情報が混ざって、一時的に怪異の形を取ったものだ」


「つまり?」


「名前を切符にする現象だ。切符を受け取れば、対象の現在名が現実側の記録から剥がれる。改札を通れば、未記録扱いになる。電車に乗れば、おそらく戻れない」


 ミオの肩が震えた。


 ユウリは反射的に言った。


「もう受け取らせない」


「それは方針であって保証ではない」


「分かってる」


「分かっていない。だから言っている」


 アヴィの声は容赦がなかった。


 けれど、冷たいだけではない。


 突き放すようでいて、聞かせようとしている。


 少なくともユウリには、そう感じられた。


「今回の無番線ホームは、完全顕現ではない。神話構文災害としては初期段階だ。だから呼び戻せた。次も同じとは限らない」


「……神話構文災害って、何なんだ」


「今の世界に、神話が現実として接続される異常現象だ」


「神話って、本とかネットの話だろ」


「今はな」


「今は?」


「検索され、拡散され、語られ、描かれ、学習され、混ぜられ、信じられずに消費される。祈りではなく、情報として流通した神話が、構文だけを肥大化させて現実に干渉する。それが現代型の神話構文災害だ」


 ユウリは、すぐには理解できなかった。


 けれど、朝に見ていた動画のタイトルが頭をよぎる。


 ロキとルシファーは同じ存在なのか。


 似ているものを、同じだと言い切る。

 別々の神話を、ひとつの構造としてまとめる。

 検索し、比較し、考察し、拡散し、また別の誰かがそれを素材にする。


 それは遊びだった。


 創作だった。


 考察だった。


 けれど、その積み重ねがもし、本当に何かを呼んでしまうのなら。


 ユウリは、指先が冷えるのを感じた。


「俺は……これから、どうなるんだ」


 口にした瞬間、情けない声だと思った。


 けれど、もう取り繕う余裕はなかった。


 アヴィは笑わなかった。


「選ぶことになる」


「何を」


「表示されている選択肢を信じるか、表示されていない余白を探すか」


「意味が分からない」


「今はそれでいい。すぐに分かった気になる奴から順に、神話に食われる」


 神話に食われる。


 その言葉に、ミオが学生証を握る手に力を込めた。


 ユウリはそれを見た。


 自分だけが怖いわけではない。


 ミオも怖い。


 レンも怖い。


 全員が怖い。


 それでも、ここにいる。


 名前を取り返して、ここに戻ってきた。


 ユウリは深く息を吸った。


 駅前の空気は、排気ガスと雨上がりのアスファルトと、コンビニの揚げ物の匂いが混ざっていた。


 どこにでもある夕方の匂い。


 その日常が、さっきよりずっと薄く、壊れやすいものに見えた。


「ミオ」


 ユウリは言った。


 ミオが顔を上げる。


「今日は、もう帰ろう」


「……うん」


「一人で帰れる?」


 ミオは少し迷った。


 それから、正直に首を横に振った。


「駅までは大丈夫です。でも……今日は、家の近くまで来てもらえると、助かります」


「行く」


 ユウリは即答した。


 ミオは少し驚いた顔をしたあと、泣きそうな顔で笑った。


「ありがとう」


 レンが軽く手を上げる。


「俺も行く。証拠は残ってないけど、護衛と記録係ってことで」


「記録、残らないんじゃなかったのか」


 ユウリが言うと、レンはむっとした顔をした。


「次は残す。絶対残す」


「次も編集済みの日常動画が残る可能性は高い」


 アヴィが淡々と言った。


「うるさいな。じゃあ何を撮ればいいんだよ」


「自分の顔でも撮っておけ。恐怖に強張る男子高校生の貴重な記録になる」


「性格悪すぎるだろ、お前!」


「分類を急ぐな」


「性格の話だよ!」


 ミオが、今度はさっきよりはっきり笑った。


 その笑い声は、駅前のざわめきにすぐ紛れた。


 けれど、ユウリにはちゃんと聞こえた。


 名前を取り返しただけ。


 神を倒したわけではない。


 事件が終わったわけでもない。


 世界の仕組みを理解したわけでもない。


 それでも、星宮ミオはここにいる。


 学生証には名前が戻り、影は足元に落ち、彼女はくだらないやりとりで笑った。


 なら、今はそれでいい。


 ユウリはそう思おうとした。


 その時、スマホがもう一度だけ震えた。


 画面の端に、小さなログが浮かぶ。


《現在名保持:安定率 72%》

《観測者接続:継続》

《次回構文揺らぎ予測:星綴高等学園周辺》


 ユウリの足が止まった。


 ミオとレンも、同時にこちらを見る。


 アヴィは、いつものように軽い声で言った。


「ほらな」


 白い円環の中心で、小さな記号が瞬く。


「未収束って、表示されてただろ」


 夕方の駅前に、電車がまた一本、何事もなかったように滑り込んできた。


 その音は、日常そのものだった。


 だからこそユウリには、ひどく不吉に聞こえた。

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