第二節 ― ゲームセンター《コンティニュー》
放課後の旧北口商店街は、昼と夜のあいだに沈んでいた。
アーケードの透明な屋根には、夕方の光が薄く残っている。シャッターの下りた店の前を、自転車に乗った中学生が通り過ぎる。古い総菜屋からは揚げ油の匂いがして、時計店のショーケースには止まったままの腕時計がいくつも並んでいた。
その中で、ゲームセンター《コンティニュー》だけは、妙に明るかった。
入口の上にあるネオン看板は、ところどころ文字が欠けている。
《CONTINUE》の最後のEだけが少し暗く、代わりに日本語の小さな看板が貼られていた。
ゲームセンター《コンティニュー》。
もう一度、続けますか?
そんなふうに読めて、ユウリは足を止めた。
「どうした?」
レンが振り返る。
「いや……名前が、ちょっと嫌だなって」
「ゲーセンの名前に文句つけんなよ。昔からこれだぞ」
レンはいつもの調子で言った。
けれど、その声は軽くない。
朝からずっと、レンは無理に普段通りでいようとしている。笑い方も、歩き方も、言葉の速さも、全部いつも通りに寄せている。だが、ふとした瞬間に目が沈む。
神話板。
Mirror Score β。
Rai_404。
その言葉が、彼の背中に貼りついているようだった。
ミオは入口のガラス扉を見上げていた。
ガラスには、三人の姿が映っている。
ユウリ。
レン。
ミオ。
けれど、一瞬だけ、ミオの輪郭の周りに白いノイズのようなものが走った。
「ミオ?」
「大丈夫です」
ミオはすぐに頷いた。
「ただ……人の声が多いところに入ると、少しだけざわざわします」
彼女は胸元に手を当てた。
「私の名前じゃないものが、遠くで呼ばれているみたいで」
ユウリは何も言えなかった。
昨日までなら、「じゃあ戻ろう」と言ったかもしれない。
でも、もう戻るだけでは済まない。
神話板にミオの名前が出ている。
誰かが彼女を“神狭の女神”として描いている。
ゲームセンターでは、Mirror Score βが稼働しようとしている。
ここに来なければ、何が始まるのか分からない。
分からないまま広がることが、一番怖い。
「入ろう」
ユウリが言うと、レンは短く頷いた。
自動ドアが開く。
音が、溢れた。
クレーンゲームの軽い電子音。
音ゲーの激しいリズム。
対戦ゲームの勝利ボイス。
プリクラ機から流れる明るすぎる案内音声。
ガチャガチャのカプセルが落ちる音。
誰かの笑い声。
誰かの悔しがる声。
そこは、あまりにも日常だった。
神話も、管理も、断絶も、理もない。
ただの放課後の遊び場。
部活帰りの生徒たちが鞄を床に置き、スマホを片手に画面を覗き込んでいる。制服姿の女子たちがプリクラ機の前でポーズを相談している。クレーンゲームの前では、一年生らしい男子がぬいぐるみの位置を真剣に見つめていた。
その光景を見て、ユウリは一瞬だけ気が緩みそうになった。
ここでは何も起きていない。
そう思いたかった。
「お、天瀬」
声をかけてきたのは、倉持ハルトだった。
彼は音ゲー筐体の横に立っていた。首からイヤホンをぶら下げ、片手には炭酸飲料のペットボトルを持っている。
第2話で、名前を奪われかけた生徒。
綴白ナナセという空白の名前に上書きされ、旧校舎の補講教室に取り込まれかけた生徒。
今は、そこにいる。
倉持ハルトとして。
それだけで、ユウリは少しほっとした。
「倉持。来てたのか」
「来てたのかって、ここ地味にたまり場だろ。軽音部のやつらもたまに来るし」
倉持はレンを見る。
「久遠もいるじゃん。お前、今日は顔死んでるぞ」
「寝不足」
「いつものことじゃん」
「今日は高級な寝不足」
「何だそれ」
倉持は笑い、それから少しだけ声を低くした。
「なあ、今日は大丈夫なやつだよな?」
ユウリは眉を寄せる。
「大丈夫って」
「俺、もう名前消える系は勘弁なんだけど」
冗談めかした口調だった。
けれど、その目は笑っていなかった。
倉持自身、あの日のことを完全には覚えていない。けれど、忘れたはずの恐怖だけがどこかに残っているのだろう。自分の名前を誰も呼べなくなる感覚。机があって、持ち物があって、自分だけが欠席扱いになる感覚。
ユウリはすぐに「大丈夫」とは言えなかった。
その代わりに、できるだけはっきり言った。
「危なくなったら、すぐ離れて」
倉持は一瞬だけ真顔になり、それから肩をすくめた。
「その言い方、全然大丈夫じゃないやつじゃん」
「だから先に言ってる」
「正直でよろしい」
倉持はペットボトルを振った。
「俺、今日はランキングだけ見に来たんだよ。ミラーなんとか。神格適性スコアだっけ」
レンの表情が硬くなる。
「もう出てるのか」
「ん? ああ、さっきからみんな見てるぞ。まだ本格稼働前っぽいけど」
倉持は店の奥を指した。
そこには、大型ランキングボードがあった。
壁一面に据え付けられた横長の液晶パネル。普段は対戦ゲームの週間ランキングや音ゲーのハイスコア、クレーンゲームのイベント告知が流れている場所だ。
上部には、古びた金色の文字で名前がついている。
《Hall of Names》
名を刻む場所。
ユウリは、その名前を見た瞬間、嫌な感覚を覚えた。
ゲームセンターなら、ただの洒落だ。
ランキングに名前を載せる場所。
プレイヤーネームを競う場所。
でも、今の神狭市では、名前はただの表示ではない。
名は、現実に触れる。
ユウリのスマホが震えた。
《周辺筐体群に異常同期反応》
《AVIS一般版:複数端末接続中》
《神話板由来外部ログを検出》
《注意:ランキングボードは記録媒体として機能しています》
アヴィの声が、イヤホン越しではなく、スマホの小さな振動の中から聞こえた。
「ユウリ、嫌な場所だ」
「分かってる」
「いや、たぶん君が思っているより嫌な場所だ。ここは名前を遊びとして扱う。遊びは悪くない。だが、遊びは人の警戒心を下げる」
ユウリはランキングボードを見つめた。
画面には、通常のハイスコア一覧が流れている。
プレイヤーネーム。
得点。
達成率。
称号。
連勝数。
生徒たちは、それを当たり前のように眺めている。
自分で名前を入力し、誰かに見られ、順位を競う。
それは楽しい。
でも、もしその名前が本名に触れたら。
もしその順位が神話照応に接続されたら。
もし「上位者」という言葉が、依代や契約者の選別へ変わったら。
「レン」
ユウリが呼ぶと、レンはもうスマホを操作していた。
画面には、接続先のログが高速で流れている。
「店のシステムじゃない」
レンが言った。
「《Hall of Names》の表示システムに、外から何か噛んでる。AVIS一般版の端末を踏み台にして、店内の筐体群と同期してる」
「止められる?」
「今は無理。構造が分からない。ていうか、これ……」
レンの声が詰まる。
「これ、神話板のデータ使ってる」
ミオが小さく息を吸う。
「昨日の……?」
「俺の投稿だけじゃない。掲示板全体のログ、削除動画、考察画像、AVIS診断の公開値、たぶんSNSの検索履歴まで食ってる」
レンは唇を噛んだ。
「遊び用のランキングに見せて、実際は神話照応のスコア化をしてる」
その時だった。
店内の音が、一瞬だけ落ちた。
完全な無音ではない。
ただ、音の芯が抜けた。
音ゲーのリズムが一拍遅れ、対戦ゲームの勝利ボイスが途中で引き伸ばされる。クレーンゲームのアームがぴたりと止まり、プリクラ機の画面が白く瞬いた。
そして、《Hall of Names》の表示が切り替わった。
通常のランキングが消える。
黒い背景。
白い文字。
《Mirror Score β》
《神格適性スコア測定中》
《プレイヤー名を入力してください》
《上位者には契約相体験版を解放します》
店内が、一瞬静かになった。
次の瞬間、歓声が上がる。
「おお、来た!」
「これか、ミラー・スコア!」
「神格適性って何?」
「やってみようぜ!」
「契約相体験版ってやばくね?」
「AVISの新機能?」
「スコア高かったら動画映えるじゃん」
生徒たちが一斉にスマホを出す。
AVIS一般版のアイコンが、いくつもの画面で光っていた。
ユウリは喉が乾くのを感じた。
軽い。
あまりにも軽い。
でも、自分も少し前なら、同じように面白がったかもしれない。
神格適性。
契約相体験版。
ランキング。
限定機能。
言葉だけなら、ただのゲームイベントだ。
それが人の名前を奪い、神話へ接続し、契約通知を押しつけるものだと、誰が最初から分かるだろう。
倉持もスマホを取り出しかけて、ユウリの顔を見て手を止めた。
「……やめた方がいい感じ?」
「絶対やめて」
ユウリは即答した。
「絶対って言われると逆に気になるんだけど」
「倉持」
ユウリが真顔で名前を呼ぶと、倉持は肩をすくめてスマホをしまった。
「分かったよ。名前消え経験者の勘を信じるわ」
その横で、別の生徒たちはもう入力を始めていた。
「プレイヤーネームでいいんだよな?」
「本名じゃなくてよくね?」
「俺、KAMINARIでいく」
「お前さっき雷神型って出て調子乗ってんだろ」
「ミラーってことは、自分の適性が映るってこと?」
画面に名前が次々と表示される。
《KAMINARI》
《LUNA_22》
《SUN_BOY》
《Mika☆》
《HARUTO_Gt》
《NO_DAMAGE》
《RESTART》
倉持の顔が引きつる。
「おい、俺まだ入れてないぞ」
ランキングボードの下の方に、《HARUTO_Gt》の文字が確かに出ていた。
倉持が普段ゲームで使っている名前だ。
「何で出てんだよ」
彼の声がかすれる。
ユウリのAVISが警告を出す。
《過去筐体ログからプレイヤーネームを自動取得》
《本名との照合を開始》
《注意:プレイヤーネームと現在名の混線リスク》
「レン!」
「見てる!」
レンは画面を睨みつけている。
「店の過去ログまで吸ってる。プレイヤーネーム、スコア履歴、来店記録……いや、そんな権限あるわけないだろ。AVIS一般版が仲介してるのか?」
アヴィが割り込む。
《ゲーム筐体群とAVIS一般版が同期》
《神話板由来の外部ログを検出》
《警告:スコアは遊戯記録ではありません》
《名前入力を推奨しません》
《既入力データの撤回を推奨》
「撤回ってどうやるんだよ」
ユウリが聞く。
アヴィは、少し間を置いた。
《撤回方法:未表示》
《Mirror Score β側が撤回処理を実装していません》
「また選択肢なしかよ……」
ユウリは拳を握った。
第一話の無番線ホーム。
第三話の偽日輪。
いつもそうだ。
向こうは選ばせるふりをする。
でも、本当の選択肢を隠している。
ミオのスマホが白く光った。
彼女は画面を見て、すぐに息を詰める。
「ユウリくん」
画面には、まだランキングに載っていないはずの文字が浮かんでいた。
《観測対象候補》
《星宮ミオ》
《神話照応値:測定準備中》
《公開登録を待機》
ユウリはミオのスマホを覗き込み、体が冷えるのを感じた。
「登録するな」
低く言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。アプリか、ランキングか、神話板か、この場の空気そのものか。
ミオはスマホを胸に抱えた。
「見られてます」
その声は小さい。
「さっきより、近いです。私の名前じゃないものが、ここに集まってきている感じがします」
レンが唇を噛む。
彼のスマホにも、通知が出ていた。
《Rai_404》
《貢献ログ:検出》
《構文解放率:上昇》
《Mirror Score βへの開示協力を確認》
《ランキング構築に寄与》
レンの顔から血の気が引いた。
「……俺のログだ」
ユウリはレンを見る。
レンは画面を見つめたまま、動かない。
「俺が出したやつが、使われてる」
店内では、生徒たちの歓声がまだ続いていた。
「うわ、俺、太陽照応だって!」
「月影適性Bって何?」
「契約相解放率三パーって低くね?」
「ランキング上位、誰だよ」
「NO NAMEって出てる!」
大型ボードの表示が更新される。
名前が並ぶ。
スコアがつく。
称号がつく。
その下に、レンのハンドルネームが小さく表示される。
《Rai_404》
《貢献ログ:検出》
《構文解放率:上昇》
まるで、イベント協力者のように。
まるで、彼が扉を開けたことを褒めるように。
レンは一歩後ずさった。
その背中が、対戦ゲームの筐体にぶつかる。
「違う」
彼は呟いた。
「俺は、こんなことをしたかったんじゃない」
ユウリはレンに近づく。
「レン」
「隠すなって思っただけだ。消すなって。勝手になかったことにするなって。誰かが次に巻き込まれる前に、分かるようにしたかっただけで」
レンの声が震える。
怒りではない。
後悔でもない。
その両方が混ざって、うまく形にならない声だった。
「ミオを晒したかったわけじゃない。倉持みたいなやつを遊びに使わせたかったわけじゃない。灰谷みたいな被害者のログを材料にしたかったわけじゃない」
その瞬間、《Hall of Names》がまた点滅した。
中央に、大きな文字が浮かぶ。
《Mirror Score β》
《観測者数:増加》
《神話照応ランキング生成中》
《プレイヤー名と現在名の照合を開始》
店内のスマホが、一斉に震えた。
生徒たちが笑う。
「通知来た!」
「本格スタートだ!」
「やば、俺の本名出そうになったんだけど」
「え、これキャンセルどこ?」
「ちょっと待って、戻れなくね?」
笑い声の中に、少しずつ不安が混じり始める。
クレーンゲームの音楽が、半音ずれて聞こえた。
プリクラ機の画面に、撮影前の案内ではなく、白い選択肢が浮かぶ。
《続けますか?》
音ゲー筐体の譜面に、見慣れない文字が流れ始める。
《契約しますか?》
対戦ゲームの勝敗画面に、赤い文字が重なる。
《敗北時、神格補助を受けますか?》
《許可する》
ユウリの背中に冷たい汗が伝った。
まだ始まりにすぎない。
ここまでは、ただの入口だ。
アヴィが警告する。
《Mirror Score β:第一同期完了》
《名前入力済みプレイヤーの神話構文化を開始》
《星宮ミオ:公開登録まで残り短時間》
《久遠レン:構文解放貢献者として識別済》
《早急な介入を推奨》
レンは、画面を握りしめた。
指先に青白い火花が散る。
今度は、ユウリだけでなくミオも見た。
「レンくん、その手……」
レンは自分の右手を見る。
手首の内側に、細い雷のような紋が浮かんでいた。
それは一瞬だけ光り、すぐに消える。
けれど、完全には消えなかった。
皮膚の下で、何かが目を覚まそうとしている。
レンは笑おうとした。
できなかった。
「……最悪だ」
その声は、ゲームセンターの騒音に飲み込まれかけた。
だが、ユウリには確かに聞こえた。
そして、《Hall of Names》の最上段に、新しい名前が表示される。
《NO NAME》
《神格適性スコア:測定不能》
《契約相解放率:100%》
《全プレイヤーを接続します》
店内の照明が、一瞬だけ白く反転した。
続きますか。
コンティニューしますか。
契約しますか。
その問いが、ゲームセンターのすべての画面に浮かび上がった。




