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第一節 ― 神話板

 レンは、画面を閉じられなかった。


 夜の部屋は静かだった。


 窓の外では、遠くを走る車の音が薄く流れている。机の横に積んだ漫画の背表紙も、床に転がった充電ケーブルも、飲みかけの炭酸飲料も、いつも通りのもののはずだった。


 けれど、ノートパソコンの画面だけが違っていた。


 そこには、神話が流れていた。


 神話、というにはあまりにも軽い。


 匿名のハンドルネーム。

 短い投稿。

 雑な考察。

 煽り混じりの返信。

 出所不明の画像。

 削除済み動画の断片。

 そして、誰かが面白半分で作ったとしか思えないまとめ画像。


 だが、その中に本物が混じっている。


 本物の欠片がある。


 レンはそれが分かってしまう。


【神狭駅】存在しないホームを見た人いる?

【星綴】放課後の欠席者、再発か

【天御柱】白い太陽の削除済み動画まとめ

【白環】旧北口商店街の白線について

【欠落街区】黒い踏切の向こうで忘れたもの

【AVIS】契約通知を拒否できない場合の対処

【検証】神格適性診断の裏パラメータ

【噂】星宮ミオって誰?


 その最後の一行を、レンはもう一度見た。


 見なければいい。


 そう思うのに、視線が離れない。


 スレッドは、まだ大きく伸びてはいなかった。書き込みの大半は、いい加減な噂と憶測だった。


 星綴に最近転校してきたらしい。

 神狭駅の騒動の日にいたらしい。

 天御柱神宮の白い光の現場にもいたという目撃情報。

 AVISの照応値が異常だったとか。

 女神候補。

 依代。

 神狭の女神。

 月神型。

 未定義核。

 白い水面の少女。


 レンの指が、マウスの上で止まる。


「違うだろ」


 声が漏れた。


 それは、ミオではない。


 ミオは、転校初日に好きな飲み物を聞かれて少し困った顔をした少女だ。

 空が近いですね、と言った少女だ。

 自分の名前が薄れていくことを怖がった少女だ。

 灰谷をかばって手を伸ばした少女だ。

 自分で「星宮ミオです」と言おうとしている少女だ。


 女神候補でも、依代でも、未定義核でもない。


 なのに画面の中では、もう別の名前を貼られ始めている。


 レンは歯を食いしばった。


 投稿欄を開く。


個人名を出すな。

確定してない一般人を神話素材にするな。


 書いて、送信する。


 すぐに返信がついた。


だったら情報出せよ。

隠すから妄想が増えるんだろ。


 レンは画面を睨んだ。


 その通りだ。


 認めたくないのに、その通りだった。


 空白は埋められる。


 記録が消されれば、そこに勝手な物語が入る。

 名前が伏せられれば、そこに神の名が貼られる。

 動画が削除されれば、誰かが復元し、補完し、再構成する。


 マシロの管理が白く塗りつぶした隙間に。

 トウマの断絶が切り落とした断面に。

 レイジたちが表に出さない神社の記録の外側に。


 人は、勝手に神話を作る。


 だったら、どうすればいい。


 全部隠すのか。


 それとも全部出すのか。


 レンは、新規投稿画面を開いた。


 カーソルが白い空欄で点滅している。


 少し前なら、迷わなかったかもしれない。


 見たものは残す。

 消されたものは復元する。

 隠されたものは暴く。


 それが正しいと思っていた。


 今でも、間違っているとは思えない。


 ただ、ミオの名前が画面に出ているだけで、こんなにも腹の底が冷えるとは思わなかった。


 レンは、文章を打ち始めた。


 神狭駅で発生した無番線ホームらしき現象。

 星綴高等学園で確認された出席簿異常。

 天御柱神宮における白色日輪反応。

 旧北口商店街に展開された白環状の認識補正。

 欠落街区で確認された記録破断現象。


 淡々と書く。


 感情を入れない。

 誰かを特定できる情報は削る。

 時間はぼかす。

 場所は広めに書く。

 個人名は出さない。

 星宮ミオに関わる部分は、削る。


 それでも、投稿は長くなった。


 レンは一度読み返した。


 足りない。


 肝心な部分を削っているから、何が起きたのか伝わりきらない。


 でも、削らなければ危険だ。


 レンは舌打ちした。


「めんどくせえ……」


 それは愚痴だった。


 けれど、その面倒くささこそが、たぶん必要なのだと頭のどこかでは分かっていた。


 情報は、ただ流せばいいものではない。

 けれど、閉じれば安全になるものでもない。


 レンは投稿ボタンを押した。


 数秒。


 画面が更新される。


情報提供感謝。

欠損箇所を補完中。


「……は?」


 レンは眉をひそめた。


 次の返信が、ほとんど同時に並ぶ。


神狭駅ログと照合。

駅構内カメラ稼働時刻を確認。

星綴高校七不思議スレと接続。

天御柱の削除動画キャッシュ確認。

白環目撃投稿と位置情報を照合。

欠落街区座標候補を取得。

関連人物を推定中。


 レンの背筋が冷えた。


「速すぎるだろ」


 これは掲示板の反応ではない。


 人間が文章を読んで返している速度ではない。裏側で何かが動いている。複数のボットか、自動解析か、あるいはAVIS一般版のログを吸っているのか。


 投稿した断片が、勝手につながれていく。


 レンが伏せた時間が、誰かの投稿した写真のタイムスタンプで補われる。

 ぼかした場所が、削除済み動画の背景と照合される。

 消した個人名が、星綴高等学園の噂と結びつけられていく。


 レンは慌てて削除操作をした。


 だが、すでに引用されていた。


 転載されていた。

 スクリーンショットが貼られていた。

 別スレにまとめられていた。


 さらに、誰かが画像を投稿した。


 白い水面に立つ少女。

 背後に月輪。

 足元に駅のホーム。

 手には出席簿。

 頭上に白い日輪。

 キャプションには、こうあった。


神狭の女神イメージ。

目撃情報から生成。


「やめろ」


 レンは低く言った。


 自分の部屋にいるのに、声が届くはずもないのに。


「そういうことじゃねえだろ」


 その少女はミオではない。


 違う。


 けれど、素材がミオの周囲の出来事から作られているのが分かる。

 無番線ホーム。

 出席簿。

 偽日輪。

 水面。

 白い空白。


 全部、現実に起きたことの断片だ。


 断片だから、誰かが勝手に組み合わせる。


 レンは初めて、自分の怒りが少しだけ戻ってくるのを感じた。


 マシロが隠す理由。

 トウマが切る理由。

 レイジが正しい神名にこだわる理由。


 分かりたくないのに、分かってしまう。


 それでも、レンは画面を閉じられない。


 掲示板の上部に、新しい告知が表示された。


《神格適性ランキング実験》

《Mirror Score β》

《会場:ゲームセンター《コンティニュー》》

《今夜、解放》

《あなたの神話を、スコア化します》


 その下に、レンの投稿IDが紐づけられている。


《貢献ログを検出》

《Rai_404》

《構文解放率:上昇》


 レンは椅子の背にもたれた。


 天井を見上げる。


 蛍光灯の丸い光が、妙に遠い。


「……やっちまったか」


 誰も答えない。


 スマホだけが震える。


 通知は、神話板からだった。


《Mirror Score β 参加ログを同期中》

《あなたの開示は、扉を開きました》


 レンはしばらくその文字を見つめた。


 扉。


 その言葉に、なぜか胸の奥がざわついた。


 開けたい。


 閉じられたものを開けたい。

 隠されたものを暴きたい。

 誰かが勝手にしまいこんだ記録を、もう一度表に出したい。


 それは怒りであり、好奇心であり、正義感でもあった。


 けれど、その扉の向こうにいるものが、必ず人間に優しいとは限らない。


 レンは、ようやくノートパソコンを閉じた。


 部屋が暗くなる。


 だが、瞼の裏にはまだ掲示板の白い文字が残っていた。


   *


 翌朝。


 星綴高等学園は、いつもより少し浮ついていた。


 朝の教室には、制服の袖をまくった生徒たちの声が飛び交っている。机の上にはスマホ。画面を覗き込みながら笑っている者、友人に結果を見せている者、通知を待って何度も画面を更新している者。


「見た? ミラー・スコア」


「昨日の夜から出てるやつだろ」


「神格適性ランキングって何だよ」


「俺、雷神型らしい」


「絶対嘘じゃん」


「コンティニュー行くと、契約相体験版できるって」


 その言葉に、ユウリは顔を上げた。


 コンティニュー。


 旧北口商店街にあるゲームセンターの名前だ。


 第6話の事件がまだ起きていない朝の教室は、何も知らない。


 ただ、新しいアプリ連動イベントが来たくらいの軽さで騒いでいる。


 ユウリは胸騒ぎを覚えた。


 ポケットの中でAVISが震える。


《神話板由来の公開ログ拡散を検出》

《Mirror Score β:稼働準備中》

《警告:神格適性スコアは遊戯情報ではありません》


「……またか」


 ユウリは小さく呟いた。


 隣の席で、ミオがスマホを見つめている。


 彼女の画面は白い。


 AVISの表示が静かに浮かんでいた。


《公開観測リスク:上昇》

《現在名:星宮ミオ》

《注意:神話対象化を避けてください》


 ミオは画面を伏せた。


 表情は落ち着いているように見える。けれど、指先が少しだけ強張っている。


「ミオ、大丈夫?」


 ユウリが聞くと、ミオは頷いた。


「はい。ただ……見られている感じがします」


「見られてる?」


「誰かに直接見られているわけじゃないんです。でも、私のことじゃない私の話が、どこかで増えているような」


 ユウリは言葉に詰まった。


 その感覚は、おそらく間違っていない。


 レンがまだ登校していなかった。


 いつもなら、ホームルーム直前に駆け込んできて、適当に謝って席へ滑り込む。だが今日は、チャイムが鳴っても姿が見えなかった。


 担任が出席を取り始めた頃、後ろの扉が開いた。


「すんませーん」


 レンが入ってくる。


 いつもの調子の声だった。


 けれど、ユウリはすぐに気づいた。


 顔色が悪い。


 目の下に薄い影。

 髪も少し乱れている。

 そして、スマホを握る右手に、力が入りすぎている。


 担任が軽く注意する。


「久遠、遅刻ギリギリだぞ」


「いやー、目覚ましが神隠しに遭いまして」


「言い訳が毎回違うな」


 教室が少し笑う。


 レンも笑った。


 だが、その笑いは薄かった。


 ユウリは、昼休みを待たずにレンを廊下へ引っ張り出した。


   *


 階段の踊り場は、人通りが少なかった。


 窓の外には校庭が見える。体育の授業を受ける一年生たちが、準備運動をしている。遠くから教師の笛の音が聞こえた。


 ユウリは、レンの前に立った。


「何かした?」


 レンは一瞬だけ視線を逸らした。


「何かって?」


「ミラー・スコア。神話板。コンティニュー」


 その三つを並べると、レンの顔から冗談が消えた。


 少しの沈黙。


 レンは、手すりにもたれた。


「……見たのか」


「AVISが警告出してる」


「だよな」


 レンは苦笑した。


「昨日、神話板に入った」


 ユウリは息を呑む。


 ミオも、少し離れた場所で立ち止まった。彼女も一緒に来ていた。レンはそれに気づいて、気まずそうに目を伏せる。


「ミオの名前、出てた」


 レンは言った。


 ミオの肩がわずかに揺れる。


「だから、止めようとした。個人名を出すなって。でも、隠すから妄想が増えるって返されて……それで、俺が持ってるログの一部を出した」


 ユウリの胸が冷えた。


「ミオのことは?」


「出してない。個人名も伏せた。場所も時間もぼかした。危ないところは削った。俺なりに、かなり気をつけたつもりだった」


 レンの声が低くなる。


「でも、足りなかった」


 彼はスマホを取り出し、画面を見せた。


 神話板のスレッド。

 無数の返信。

 復元された動画のサムネイル。

 推定位置情報。

 そして、“神狭の女神”と題された生成画像。


 ミオはそれを見て、息を止めた。


 画像の少女は、ミオに似ていない。


 だが、ミオを材料にしたものだと分かる。


 ユウリは画面を伏せさせた。


「もういい」


 レンは唇を噛む。


「悪い」


 その言葉は、いつもの軽さを失っていた。


「ごめん、ミオ。俺、出してないつもりだった。でも、つながれた」


 ミオはしばらく黙っていた。


 怒ってもいい場面だった。

 責めてもいい場面だった。


 けれど彼女は、静かに首を横に振った。


「レンくんだけのせいじゃないと思います」


「でも、俺が扉を開けた」


「そうかもしれません」


 その正直な返しに、レンは苦しそうに笑った。


 ミオは続けた。


「でも、私も……何も知られないままでいたいわけではないです。知られないままだと、また誰かが、私ではない名前をつける気がします」


 ユウリはミオを見る。


 その横顔は、まだ少し青白い。


 それでも、彼女は自分の言葉で話していた。


「でも、全部知られるのは怖いです」


 レンは頷いた。


「……だよな」


 階段の下から、生徒たちの声が聞こえる。


「放課後コンティニュー行こうぜ」


「ミラー・スコアやる?」


「契約相体験版って、絶対映えるだろ」


 その軽い声に、三人は同時に視線を向けた。


 もう、広がっている。


 夜の掲示板で始まったものが、朝の学校に届いている。

 ネットの文字列が、生徒たちの日常会話になっている。


 神話が、噂として歩き始めている。


 ユウリのAVISが震えた。


《Mirror Score β》

《稼働予測地点:ゲームセンター《コンティニュー》》

《公開観測者数:増加中》

《警告:イベント開始前に介入してください》


 レンは画面を見て、息を吐いた。


「行く」


 ユウリはすぐに言った。


「俺も行く」


 ミオも頷く。


「私も」


 レンは一瞬、何か言いかけた。


 危ないから来るな、と言いたかったのかもしれない。

 自分のせいだから自分だけで行く、と言いたかったのかもしれない。


 だが、その言葉は飲み込んだ。


 代わりに、いつものように笑おうとした。


 少しだけ、失敗した笑いだった。


「じゃあ、放課後な」


 ユウリは頷く。


 その時、レンのスマホに新しい通知が浮かんだ。


《Mirror Score β》

《今夜、解放》

《会場:ゲームセンター《コンティニュー》》

《あなたの神話を、スコア化します》

《Rai_404:貢献ログ確認済》


 レンは画面を握りしめた。


 指先に、ほんの一瞬、青白い火花が散った。


 ユウリはそれを見た。


「レン、今の」


「静電気だろ」


 レンはそう言って笑った。


 けれど、ユウリのAVISには別の表示が出ていた。


《未契約神格照応:微弱発生》

《雷風系統》

《対象:久遠レン》

《警告:感情反応により接続値上昇》


 レンは気づいていない。


 あるいは、気づかないふりをしている。


 ユウリは胸の奥に、嫌な予感が沈むのを感じた。


 隠されたログを開こうとしたレン。


 開いたログに飲み込まれ始めた神狭市。


 そして、レン自身の中で目を覚まそうとしている何か。


 放課後のゲームセンターで、何かが始まる。


 それはもう、ただの噂でも、ただのアプリイベントでもなかった。

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