序節 ― 隠されたログ
第二図書準備室には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
古いガラス窓は少し曇っていて、外の校庭をぼんやりと滲ませている。部活へ向かう生徒たちの声、ボールの跳ねる音、吹奏楽部の音出し、廊下を走る誰かの足音。それらは全部、いつもの星綴高等学園の音だった。
けれど、ユウリには、その日常の薄い膜の下で、何か別のものが蠢いているように感じられた。
神狭駅の無番線ホーム。
旧校舎の七不思議。
天御柱神宮を覆った偽日輪。
旧北口商店街に引かれた白い管理線。
そして、玻璃川トウマが一人で戻ろうとしていた欠落街区。
どれも終わったはずなのに、終わっていない。
解決したはずなのに、傷跡だけが取り残されている。
しかも、その傷跡から先に、記録の方が消えていく。
「……また消えてる」
準備室の奥で、久遠レンが低く呟いた。
彼の前には、ノートパソコンが一台、スマホが二台、古い学校新聞の切り抜き、印刷された地図、神狭市の交通案内、そしていくつものスクリーンショットを貼った紙が広げられている。
いつものレンなら、こういう作業をしている時はどこか楽しそうだった。
新しい抜け道を見つけた時。削除済みのページをキャッシュから引っ張り出した時。学校のネットワークの妙な癖を見抜いた時。
そういう時のレンは、少し得意げに笑う。自分だけが見つけた隠し扉を、友達に見せびらかす子どもみたいに。
でも今のレンは笑っていなかった。
目の下に薄い影がある。机の上のエナジードリンクは、半分以上残ったまま温くなっている。キーボードを叩く指先は速いのに、何度も同じキーを叩き直していた。
「何が?」
ユウリが尋ねると、レンは画面をこちらへ向けた。
そこには、フォルダがいくつも並んでいる。
《無番線ホーム》
《星綴七不思議》
《偽日輪》
《白環管理区域》
《欠落街区》
《第零保管庫》
《灰谷ユズル》
《雨宮ソウタ》
《玻璃川トウマ》
だが、フォルダの中身はほとんど空だった。
動画ファイルは破損している。画像は真っ白か、黒い裂け目だけが写っている。音声ファイルにはノイズしか残っていない。テキストログは、肝心な名詞だけが抜けていた。
「これ、神狭駅のやつ。最初は地下通路の案内板が変わる瞬間まで撮れてたんだよ」
レンはファイルを開いた。
画面には、神狭駅の地下通路が映る。
人通り。広告ポスター。改札へ向かう階段。
そこまでは普通だった。
次の瞬間、画面が乱れる。
音だけが残った。
カン、と古い切符鋏のような音。
しかし映像には何もない。
「ここ、本当は《無番線》って出たはずだろ」
レンは画面を指で叩いた。
「俺のスマホに保存した時には残ってた。バックアップも取った。それなのに、翌朝にはこれだ」
次のファイル。
旧校舎の黒板。
そこには本来、《本日の欠席者》と書かれていたはずだった。
だが画像に残っているのは、ただの黒板だけだ。白いチョークの跡も、名前もない。
「これが出席簿の異常。倉持の名前も、綴白ナナセも、全部消えてる」
続いて、天御柱神宮の鏡池。
夜なのに白い日輪が浮かび、偽日輪が顕現した場所。
けれど映っているのは、ただの暗い池だった。水面には街灯が揺れているだけで、あの白昼のような光も、レイジの契約相も、ユウリが神名偽装を剥がした瞬間も残っていない。
「これもだ。SNSに上がってた動画も、ほとんど“通信障害”扱いで消されてる。残ってるのは『妙に明るかった気がする』とか『神社イベント中止?』みたいな曖昧な投稿だけ」
レンの声に苛立ちが混ざる。
ユウリは何も言えなかった。
あの時の光を覚えている。
偽日輪の熱。ミオの名前が薄れていく恐怖。レイジの光の太刀。そして、《未署名の観測翼》が初めて背後に立ち上がった時の、身体の奥を引かれるような感覚。
自分には残っている。
でも、記録には残っていない。
レンはさらにファイルを開いた。
旧北口商店街。
舗道に浮かんだ白い円環。白環相談所。マシロの端末。《管理対象》の文字。看板から名前が消され、整えられていった通り。
そこも、記録には残っていなかった。
画像には、ただの商店街が映っている。
シャッター。古い時計店。看板の薄れた薬局。
カフェ《ノーネーム》の入口だけが、なぜか妙にはっきり写っていた。
レンは唇を歪める。
「白環のログは、たぶんマシロさん側が処理してる。消したっていうより、補正してる。こっちの端末に残ってる画像まで、後から普通の景色に置き換わってる」
「そんなことまでできるのか」
「できるからやってんだろ」
レンは乱暴に次のフォルダを開いた。
欠落街区。
そこに入ると、さらにひどかった。
画像そのものが保存されていない。
フォルダ名だけが残り、中身は空。いくつかのファイルは容量だけ存在しているのに、開けば真っ黒だった。
《第零保管庫》のフォルダには、文字化けしたテキストが一つだけ残っている。
開くと、そこには断片だけがあった。
《ザイン=トゥ――》
《禁忌名:ザイン=ロ――》
《表示を中断しました》
《記録そのものが――》
その先は、黒く裂けている。
ユウリの背中に冷たいものが走った。
あの地下の空気を思い出す。
半分だけ残った金属扉。破れた警告文。裂頁眷属。トウマの《裂頁の黒鋏》。
そして、言いかけただけでアヴィが止めた禁忌名。
記録そのものが失われる危険。
あの途切れた文字だけは、今も頭から離れなかった。
ミオは机の端に立って、静かに画面を見ていた。
顔色は、ここ数日の中では悪くない。
欠落街区でトウマが女神照応の一部だけを切ったことで、現在名安定率は上がっている。けれどユウリは、彼女が時々、自分の声を確かめるように小さく息を吸うのを知っていた。
前より楽。
でも、自分の中の何かが遠くなった。
あの言葉は、まだユウリの胸に残っている。
ミオは、黒く裂けたログを見つめながら言った。
「消されたものって、本当に何もなくなるわけじゃないんですね」
レンが顔を上げる。
「どういう意味?」
「消えたところだけ、形が残っています」
ミオは指先で、画面の黒い裂け目を示した。
「何があったかは分からない。でも、何かがあった場所だけは分かる。名前が消えたあとに、名前が書かれていた場所だけ残るみたいに」
ユウリは黙って頷いた。
それは、灰谷ユズルの記憶にも似ていた。
雨宮ソウタのことを完全には思い出せない。
でも、その名前を聞けば胸が反応する。
ゼロにはならなかった。
けれど、完全に戻ったわけでもない。
「でも」
ミオは続ける。
「残った形だけでは、何があったのか分からなくなる」
その言葉に、レンの表情が変わった。
怒りではない。
もっと深いところに、刺さった顔だった。
「……だろ」
レンは小さく言った。
「そうなんだよ」
椅子にもたれ、天井を見上げる。
「消されたら分からない。分からなかったら、次に同じことが起きても止められない。駅で何が起きたのか、学校で何が起きたのか、神社で何が起きたのか、商店街で何が起きたのか、欠落街区で何が起きたのか。誰かが勝手に隠して、勝手に補正して、勝手に切って、それで『安全です』って顔する」
レンの手が、机の上のマウスを強く握る。
「ふざけんなよ」
低い声が、古い本棚に響いた。
「誰もかれも、勝手に隠すなよ」
ユウリはレンを見る。
その怒りは、分かる。
レンは最初から、隠されることを嫌っていた。
神狭駅では、AVIS一般版の裏側を調べた。旧校舎では、消された学校記録を追った。偽日輪が現れた時には、ネット上の拡散速度を調べた。旧北口商店街では、白環の記録補正に苛立った。欠落街区では、残ったログを何とか拾おうとしていた。
レンはずっと、見たものを残そうとしてきた。
なかったことにされるのが嫌だった。
それはきっと、間違っていない。
でも、ユウリは同時にマシロの言葉も思い出していた。
自由な神話など、爆弾を子どもに配るようなものです。
そしてトウマの言葉も。
神話に持っていかれるくらいなら、切る。
隠すには理由がある。
切るにも理由がある。
それが分かってしまうから、ユウリは簡単にレンへ頷けなかった。
「レン」
「何」
「全部見えるようにすれば、本当に安全になるのか?」
レンはすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えの代わりだった。
彼だって分かっている。
全部を流せば、危険なものまで流れる。
ミオの名前が晒されれば、彼女は神話の素材にされるかもしれない。灰谷のような被害者の記録が広がれば、誰かが同じ儀式を真似るかもしれない。偽日輪の映像が拡散されれば、それを見る人間の数だけ、あの神格構文へ接続する経路が増えるかもしれない。
それでも。
レンは低く言った。
「じゃあ、誰が決めんだよ」
ユウリは言葉を失う。
「何を隠して、何を出して、誰が知ってよくて、誰が知らないままでいろって、誰が決めんだよ。マシロさんか? 神楽坂さんか? トウマか? 神様か? 管理機構か?」
レンはユウリを見た。
「それとも、お前が決めんのか?」
鋭い問いだった。
ユウリは息を呑む。
決められない。
まだ、決めたくない。
でも、決めないことで誰かを危険に晒しているのかもしれない。
その事実が、胸の奥へ重く沈んだ。
ミオが静かに言った。
「私は……全部を知られるのは怖いです」
レンの顔に、わずかに痛みが走る。
ミオは続ける。
「でも、何も知らないまま誰かが同じ目に遭うのも、怖いです」
レンを責める声ではなかった。
ユウリを責めてもいない。
ただ、自分が怖いことを、そのまま口にしただけだ。
だからこそ重い。
準備室に沈黙が落ちる。
窓の外では、校庭の照明が一つずつ灯り始めていた。
夕方の空はまだ青い。
けれど、その端から少しずつ夜が滲んでいる。
*
その日の夜。
レンは自室の机に向かっていた。
部屋は散らかっている。
漫画。充電ケーブル。古いゲーム機。分解しかけのキーボード。飲みかけの炭酸飲料。部活で使ったタオル。そして、学校から持ち帰った資料のコピー。
机の中央にはノートパソコン。
画面には、匿名掲示板のログが流れている。
普通の検索では出てこない場所だった。
何度も閉鎖され、何度も別名で立ち上がる掲示板。都市伝説、怪異、神話考察、AVIS一般版の解析情報、削除済み動画の断片、管理機構らしき組織の噂。
レンは数時間かけて、そこへ辿り着いた。
ページタイトルは、飾り気のない白い文字で表示されている。
《神話板》
その下に、細い文字が続く。
《削除された神話を、もう一度読む場所》
レンは無意識に唇を噛んだ。
削除された神話。
今のレンには、あまりにも魅力的な言葉だった。
掲示板にはスレッドが並んでいる。
【神狭駅】存在しないホームを見た人いる?
【星綴】放課後の欠席者、再発か
【天御柱】白い太陽の削除済み動画まとめ
【白環】旧北口商店街の白線について
【欠落街区】黒い踏切の向こうで忘れたもの
【AVIS】契約通知を拒否できない場合の対処
【検証】神格適性診断の裏パラメータ
【噂】星宮ミオって誰?
最後のスレッドを見て、レンの指が止まった。
画面の白い光が、彼の顔を照らしている。
「……もう名前出てんのかよ」
声が低くなる。
クリックはしたくなかった。
でも、見なければ何が出回っているのか分からない。
分からなければ止められない。
レンは短く息を吐き、スレッドを開いた。
内容は、まだ噂の域を出ていなかった。
星綴高等学園に転校してきた女子生徒。
神狭駅の騒動と同日に目撃。
天御柱神宮の白い光の現場にいたらしい。
AVIS一般版で照応値が異常表示されたという未確認情報。
女神候補。依代。月神型。未定義核。神狭の女神。
そこには、本当のことが少しだけ混ざっていた。
だからこそ気持ち悪い。
レンはすぐにブラウザを閉じかける。
だが、その前に別の投稿が目に入った。
> 個人名は伏せろ。
> 確定してない一般人を神話素材にするな。
それを書き込んだ匿名ユーザーに、すぐ返信がついている。
> だったら情報出せよ。
> 隠すから妄想が増えるんだろ。
レンの手が止まる。
隠すから、妄想が増える。
否定しきれなかった。
何も書かれていない場所があれば、人はそこへ自分の説明を書き込む。
ミオの内部に生じた欠落へ、外から女神名が流れ込んだように。
記録が抜ければ、その抜けた場所へ誰かの勝手な神話が入り込む。
なら、正確な情報を出せばいいのか。
でも正確な情報を出せば、ミオの名前まで晒される。
レンは頭を抱えた。
「あー……くそ」
自分が嫌になる。
マシロの隠蔽を責めるのは簡単だった。トウマの断絶を危ないと言うのも簡単だった。レイジの神々の理に反発するのも簡単だった。
でも、いざ自分が情報を握る側へ回ると、急に分からなくなる。
何を出していいのか。
何を伏せるべきなのか。
伏せることは、隠蔽と何が違うのか。
それでも、レンは指を動かした。
新規投稿画面を開く。
ハンドルネームは、いつも使っているものではない。
Rai_404
本文欄に、彼は書き始める。
神狭駅の無番線について。
星綴高等学園の出席簿異常について。
天御柱神宮の偽日輪について。
白環管理区域について。
欠落街区で記録が裂ける現象について。
ただし、個人名は伏せた。
星宮ミオの名前は出さない。ユウリの契約相も詳しく書かない。灰谷と雨宮の名前も伏せる。場所も時間も少しずつぼかした。
これなら大丈夫だ。
そう思いたかった。
投稿ボタンの上で、指が止まる。
画面に自分の顔がうっすら映っている。
軽口担当。解析役。便利な友達。
自分は本当に、それだけでいいのか。
「隠されるくらいなら」
レンは小さく呟いた。
「こっちから出す」
彼は投稿した。
数秒後。
返信がつく。
> 情報提供感謝。
> 欠損箇所を補完中。
さらに数秒。
> 神狭駅ログと照合。
> 星綴高校七不思議スレと接続。
> 天御柱の削除動画キャッシュ確認。
> 欠落街区の座標候補を取得。
> 関連人物を推定中。
「は?」
レンの背筋が冷えた。
速すぎる。
誰かが手作業で読んでいる速度ではない。
複数のユーザーか、あるいは自動化された解析処理が、彼の投稿した断片を一瞬でつないでいく。
伏せた場所が推測される。
ぼかした時間が補完される。
伏せたはずの個人名に、候補が並び始める。
レンは慌てて削除しようとした。
だが、投稿はもう引用されている。
スクリーンショットが貼られている。別スレへ転載されている。考察画像が作られている。誰かが、生成AIで作ったらしい“神狭の女神”の画像を貼った。
白い少女。
月の輪。
水面。
名前のない後光。
ミオとは違う。
違うのに、どこか似ている。
レンは画面を睨んだ。
「やめろよ」
声が漏れる。
「そういうことじゃねえだろ」
けれど、流れは止まらない。
神話板のトップに、新しい告知が現れた。
《神格適性ランキング実験》
《Mirror Score β》
《会場:ゲームセンター《コンティニュー》》
《今夜、解放》
《あなたの神話を、スコア化します》
レンのスマホが震えた。
AVIS一般版ではない。
ユウリたちが使う特殊なAVISでもない。
神話板からの通知。
《貢献ログを検出》
《Rai_404》
《構文解放率:上昇》
レンはしばらく動けなかった。
自分は、消された記録を開こうとした。
ただ、それだけだった。
それなのに、画面の向こうで、何かがこちらを向いた気がした。
検索される。
貼られる。
語られる。
補完される。
拡散される。
まだ神でも怪異でもない何かが、レンの投稿した断片を足場にして、少しずつ輪郭を持ち始めていた。




