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終節 ― 神話ごと切れ

 第零保管庫の裂け目は、完全には閉じなかった。


 裂頁眷属たちが奥へ引いていったあとも、扉の向こうには黒い断面が残っていた。そこから風は吹いていない。音もない。だが、ユウリには、その奥でまだ何かがこちらを見ているように思えた。


 見られているのではない。


 見たことにされかけている。


 あるいは、見なかったことにされかけている。


「出るぞ」


 トウマが言った。


 彼の声はいつも通り平坦だった。だが、ほんの少しだけ息が乱れている。第零保管庫の裂頁眷属を切り、ミオの女神照応を一部だけ断ち、さらにユウリが残した縁を避けて眷属を処理した。その負荷がまったくないわけではないのだろう。


 それでも、彼は弱みを見せなかった。


 黒い紙片が足元に集まり、地下施設から廃校の廊下へ戻るための階段を作る。


 灰谷ユズルは、その階段を見て明らかに怯えた。


「これ、乗って平気なのかよ」


「平気ではない」


 トウマは即答した。


 灰谷の顔が引きつる。


「じゃあ何で乗せるんだよ」


「ほかに道がない」


「そういうの、もう少し言い方ないのかよ……」


 灰谷は泣きそうな顔で文句を言いながらも、学生証を握りしめて立ち上がった。足元はふらついている。ユウリが支えようとしたが、その前にミオがそっと手を差し出した。


「ゆっくりで大丈夫です」


「……あ、ありがとう」


 灰谷はミオの手を取った。


 その瞬間、ミオの指先がほんの少し震えた。


 ユウリは見逃さなかった。


「ミオ?」


「大丈夫です」


 ミオは笑おうとした。


 だが、その笑みは薄い。


 さっきトウマに表層の女神照応を切られてから、彼女の周囲の空気は確かに静かになっている。けれど、その静けさは安心とは違った。嵐が過ぎたあとではなく、音の一部だけがなくなった部屋のような静けさ。


 ユウリのAVISが、彼女の状態を表示する。


《星宮ミオ:現在名安定率 72%》

《補足:安定率上昇》

《女神照応:一時低下》

《警告:内部照応欠落あり》


 数字は上がっている。


 けれど、警告は残っている。


 ユウリは画面を見つめたまま、胸の奥が冷えるのを感じた。


 助かったのか。


 それとも、何かを失って安定しただけなのか。


 今は、まだ分からない。


   *


 廃校の廊下に戻ると、窓の外には黒い空き地が広がっていた。


 しかし、来た時よりも景色が少し変わっている。


 砕けたアスファルトの先に、古いフェンスが見えた。フェンスの向こうには、欠落街区の路地と団地がある。無音団地。記録裂けの路地。黒い踏切。


 現実の街が、少しずつ戻ってきている。


 完全ではない。


 だが、第零保管庫の反応が退いたことで、街区全体に広がりかけていた断絶は一時的に収まったようだった。


 レンは歩きながら、何度も端末を確認していた。


「ログ、少し残ってる」


「本当か」


「断片だけどな。灰谷、雨宮、白環相談所、第零保管庫……名前だけは残った。画像はほぼ壊滅。音声はノイズだらけ。でもゼロじゃない」


 その言い方には、疲労と同じくらい強い執着があった。


 ユウリは小さく頷く。


「ゼロじゃないなら、後でつなげる」


「お前、簡単に言うなよ」


 レンは苦笑した。


「でも、まあ……そうだな。ゼロじゃないなら、まだやれる」


 灰谷が、ぽつりと言った。


「雨宮ってやつに、俺、会った方がいいのかな」


 ユウリたちは足を止めた。


 灰谷は自分の学生証を見ていた。


 名前欄は残っている。住所欄はまだ薄い。緊急連絡先は黒く裂けたままだ。だが、その下に、AVISが補助表示のように出した小さな関連名だけは残っていた。


《関連名:雨宮ソウタ》


「思い出したわけじゃないんだ」


 灰谷は言った。


「顔も分からない。声も……さっき聞こえたのが本物じゃないってのは、何となく分かる。でも、その名前を見てると、胸のあたりが変な感じになる」


「怖い?」


 ミオが聞いた。


 灰谷はしばらく考えてから、首を横に振った。


「怖い、とは違うかも。申し訳ない、みたいな。たぶん、俺、そいつに何か心配かけたんだろ」


 ユウリは胸が詰まった。


 全部は戻っていない。


 でも、雨宮ソウタという名前だけは、灰谷の内側に小さく残った。


 それが救いなのかどうかは分からない。


 けれど、少なくとも完全な断絶ではなかった。


 トウマは何も言わずに先を歩いている。


 その背中は細く、冷たく、どこか遠い。


 ユウリは、その背中を見ながら思った。


 トウマは灰谷を救った。


 ユウリだけでは、灰谷をあの白い通知から助けられなかったかもしれない。


 でも、トウマだけだったら、雨宮の名前は戻らなかったかもしれない。


 どちらが正しいのか。


 たぶん、まだ答えは出ない。


   *


 黒い踏切の手前まで戻ると、そこにはマシロがいた。


 白いブラウスに黒いジャケット。いつもの落ち着いた立ち姿。だが、表情はいつもより硬い。彼女の後ろには、白環管理機構の職員らしき者が二名立っている。いずれも白い端末を持っていたが、踏切より内側へは入ってこない。


 いや、入れないのだろう。


 黒い踏切の赤い警報灯が、無音で点滅している。


 その境界の手前で、マシロは待っていた。


「灰谷ユズルさん」


 彼女は、まず灰谷の名前を呼んだ。


 管理番号ではない。


 保護対象でもない。


 灰谷ユズル。


 ユウリは、その一点だけで少しだけ息を吐いた。


 マシロも学んでいる。


 彼女のやり方を完全には信じられない。だが、昨日の白環管理区域での対立が、何も残さなかったわけではない。


 灰谷は戸惑いながら返事をした。


「……はい」


「保護します。身体検査と記録安定処理が必要です。ただし、強制的な記憶補正は行いません。現在名と関連名の保持を優先します」


 関連名。


 それは、おそらく雨宮ソウタのことだ。


 灰谷は不安そうにユウリたちを見た。


「行って、大丈夫なのか」


 ユウリはマシロを見る。


 マシロの目は静かだった。


 嘘は言っていない。だが、すべてを任せてよいとも言いきれない。


「俺たちも後で確認する」


 ユウリはそう言った。


「雨宮にも、ちゃんと伝える」


 灰谷は小さく頷いた。


「……頼む」


 その声には、まだ記憶の裏打ちはない。


 でも、名前に対する反応だけはあった。


 灰谷ユズルは、完全には戻っていない。


 それでも、自分の名前で返事をした。


 職員の一人が灰谷を支え、踏切の外側へ連れていく。灰谷が境界を越える瞬間、赤い警報灯が一度だけ強く光った。


 だが、彼の名前は消えなかった。


 ユウリは心の中で、もう一度その名を確かめた。


 灰谷ユズル。


 雨宮ソウタ。


 消さない。


 全部は戻せなくても、ゼロにはしない。


   *


 マシロの視線が、トウマへ向いた。


「玻璃川トウマさん」


 トウマは返事をしない。


 マシロは続けた。


「あなたの断絶処理により、灰谷さんの仮信徒化は停止しました。その点については認めます」


「礼ならいらない」


「礼ではありません」


 マシロの声が少しだけ冷たくなる。


「断絶処理は、管理よりも取り返しがつきません」


 空気が硬くなった。


 レンが息を呑む。


 ミオはユウリの隣で静かに立っている。


 トウマは、まるで予想していた言葉を聞いたかのように、わずかに目を細めた。


「管理しても救えなかったから、ここに来たんだろ」


 マシロは、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、何より雄弁だった。


 白環相談所で保護されたはずの灰谷は、記録から裂け、欠落街区へ落ちた。管理は間に合わなかった。あるいは、管理の線が混ざったことで、余計に記録を裂いた。


 トウマの言葉は乱暴だ。


 だが、完全な誤りではない。


「それでも」


 マシロは静かに言った。


「人の記憶、関係、現在名につながる記録を、本人の同意なく切断することは許容できません」


「同意を取っている間に、神話に食われる」


「だからといって、切断後に何が残るか確認しないまま処理してよい理由にはなりません」


「確認している間に、救えない」


「救うことと、残すことは両立させるべきです」


「両立できるなら、最初から誰も欠けない」


 短い応酬だった。


 だが、その一つ一つが重かった。


 ユウリは二人の間に立っている自分に気づいた。


 マシロは守るために預かる。


 危険を封じ、記憶を整え、日常へ戻す。

 それはきっと、必要なことだ。

 危険な神話を何も知らない人々が、そのまま巻き込まれれば、偽日輪のような事件は何度でも起きる。


 トウマは救うために切る。


 神話との接続を断ち、苦しみを止め、神々や残滓が届かない場所へ逃がす。

 それもまた、必要なのかもしれない。

 灰谷は、トウマの断絶がなければ、存在しない神の信徒になっていたかもしれない。


 どちらも正しい部分がある。


 そして、どちらも怖い。


 マシロの白は、人の記憶を日常へ戻す代わりに、名前の輪郭まで白く塗る。


 トウマの黒は、苦しみを断つ代わりに、つながりまで切る。


 ユウリは拳を握った。


「二人とも、間違ってるって言えない」


 マシロとトウマが同時にユウリを見る。


 ユウリは続けた。


「でも、どっちかだけに任せたら、何かが消える」


 マシロは目を伏せた。


 トウマは何も言わない。


「俺はまだ、答えを出せない」


 ユウリの声は小さかった。


 でも、逃げるための言葉にはしたくなかった。


「でも、灰谷の雨宮って名前は、残したかった。ミオの名前も、勝手に預けたくない。切られたくもない」


 ミオが隣で息を呑む。


 ユウリは少しだけ振り返った。


 彼女は何も言わなかった。


 ただ、自分の学生証を両手で握っている。


 星宮ミオ。


 その名前は、まだそこにある。


 けれど、今は少し静かすぎる。


 トウマの視線が、ミオへ向いた。


 ユウリは反射的に身構える。


 トウマはその反応を見ても、表情を変えなかった。


「その子は、もう長くは保たない」


 ミオの肩が小さく震えた。


 ユウリの胸に、熱が走る。


「何でそんなことが分かる」


「見れば分かる」


「またそれかよ」


「神話が絡みすぎてる」


 トウマは淡々と言った。


「女神だろうが、理だろうが、残滓だろうが、全部同じだ。触れている限り、いつか持っていかれる」


「同じじゃない」


 ユウリは即座に言った。


「ミオは女神じゃない。理でも、残滓でも、依代でもない」


「そう呼んでも、向こうはそう見ない」


 トウマの声は冷たい。


 だが、そこには悪意がない。


「向こうは、その子の意思を待たない。空いているところがあれば埋めに来る。名前が揺れれば、別の名前を入れに来る。神話はそういうものだ」


 ユウリは言葉を失った。


 その通りだと思ってしまったからだ。


 無番線ホームも、出席簿の空席も、偽日輪も、白環補正も、欠落街区も。


 すべて、本人の意思を待ってくれなかった。


 ミオは静かに言った。


「私は……持っていかれたくありません」


 声は震えていた。


 それでも、はっきりしていた。


「でも、全部切られるのも怖いです。さっき、少し静かになって……楽になりました。でも、私の中の何かまで遠くなった気がしました」


 彼女はトウマを見る。


「それが本当にいらないものだったのか、私にはまだ分かりません」


 トウマはしばらくミオを見ていた。


 冷たい硝子のような瞳。


 その奥で、何かがほんの少し動く。


「分からないまま持っていれば、いつかそれに飲まれる」


「分からないまま切ったら、何を失ったかも分からなくなります」


 ミオの言葉に、トウマは初めて返事をしなかった。


 ユウリはその沈黙を覚えておこうと思った。


 トウマは怖い。


 けれど、何も感じていないわけではない。


 彼もまた、何かを切りすぎたことがあるのかもしれない。


 何かを残せなかったことがあるのかもしれない。


   *


 黒い踏切の赤い光が、また点滅した。


 トウマは視線を外し、踏切の向こう側へ歩き出した。


「待て」


 ユウリが呼ぶと、彼は足を止めた。


「お前は、どうしたいんだ」


 トウマは振り返らない。


「神話を切る」


「全部?」


「必要なら」


「人の記憶も、つながりも、名前も?」


「神話に奪われるくらいなら」


 ユウリは歯を食いしばった。


「それで残った人は、本当にその人なのか」


 トウマの背中が、ほんの少しだけ揺れた。


 だが、彼は振り向かなかった。


「神話に持っていかれたら、その人ですらいられない」


「だから、切るのか」


「そうだ」


 そして、彼はミオの方を一度だけ見た。


「ミオを助けたいなら、神話ごと切れ」


 その言葉は、黒い踏切の赤い光の中で落ちた。


 重く、冷たく、逃げ場がない。


 ユウリは答えられなかった。


 切れば、ミオは楽になるかもしれない。


 数字も上がった。


 現在名安定率は、確かに改善した。


 でも、彼女の中に欠落が残った。


 ミオ自身が、それを感じている。


 切れば救える。


 しかし、切ったものが本当に不要なものだったのか、誰が決めるのか。


 ユウリには、まだ分からない。


 トウマはそれ以上何も言わず、黒い踏切を越えた。


 赤い灯りが一度、彼の姿を照らす。


 次の瞬間、彼の輪郭が少し薄れる。


 遮断機は下りていない。電車も来ていない。警報音も鳴らない。


 それでも、トウマは踏切の向こう側へ消えていった。


 まるで、街の記録から一行だけ切り取られたように。


 ユウリのAVISが震える。


《玻璃川トウマ》

《契約神:ザイン=トゥル》

《断絶派接触》

《契約相:裂頁の黒鋏》

《警告:彼は敵ではありません》

《追加警告:敵ではないことは、安全を意味しません》


 ユウリはその表示を見つめた。


 敵ではない。


 その言葉が、かえって重い。


 レイジも敵ではなかった。

 マシロも敵ではなかった。

 トウマも敵ではない。


 でも、誰の正しさにも、何かを失わせる力がある。


 マシロが静かに言った。


「天瀬さん」


 ユウリは振り返る。


「灰谷さんの件は、こちらで引き継ぎます。雨宮さんとの接触については、慎重に進めます」


「補正は?」


「必要最低限にします」


 その言い方に、ユウリは少しだけ眉を寄せた。


 マシロは続けた。


「今の私に約束できるのは、そこまでです」


 正直な言葉だった。


 だからこそ、簡単には頷けない。


 でも、今ここでマシロを拒絶しても、灰谷を安全に保護する手段はユウリたちにはない。


「確認しに行きます」


 ユウリは言った。


「灰谷のことも、雨宮のことも」


「分かりました」


 マシロは頷いた。


 その顔には、疲労が見えた。


 白環管理機構の現場管理官。


 正しい大人。


 でも、彼女もまた完全ではない。


   *


 欠落街区を出る頃には、空が夕方に変わっていた。


 どれくらい中にいたのか分からない。


 レンの端末では、時間記録が一部飛んでいた。ユウリのスマホも、踏切を越えた前後のログが欠けている。ミオの学生証には名前が残っているが、指でなぞると少しだけ冷たかった。


 星綴高等学園へ戻る道で、三人はしばらく黙って歩いた。


 誰もすぐには話せなかった。


 灰谷は助かった。


 でも、完全には戻っていない。


 ミオは安定した。


 でも、何かが遠くなった。


 ユウリは未署名の観測翼を応用できた。


 でも、見えたものの重さに、まだ息が詰まっている。


 レンがようやく口を開いた。


「なあ」


「うん」


「俺、ログを残すの、やめないからな」


 ユウリは少しだけ笑った。


「うん」


「切られても、壊れても、断片だけでも残す。全部残せなくても、残ったやつをつなげる」


「それ、頼りにしてる」


 レンは少しだけ照れたように目を逸らした。


「まあ、俺がやらないと誰もできないしな」


 ミオが小さく笑った。


 その笑みは薄い。


 でも、確かにミオのものだった。


 ユウリはそれを見て、ほんの少しだけ安心する。


「ミオ」


「はい」


「今、どんな感じ?」


 ミオは少し考えた。


「静かです」


 やはり、その言葉が出た。


 ユウリの胸が沈む。


 だが、ミオは続けた。


「でも、ユウリくんとレンくんの声は聞こえます」


 ユウリは顔を上げる。


「それなら、大丈夫です。今は」


 今は。


 その言葉は、希望でもあり、保留でもあった。


 ユウリは頷いた。


「じゃあ、何度でも呼ぶ」


 ミオは少し驚いた顔をして、それから微かに笑った。


「はい」


 彼女は自分の学生証を見た。


「私も、言います」


 そして、小さな声で名乗った。


「星宮ミオです」


 風が吹く。


 神狭市の夕方の音が戻ってくる。


 車の走る音。遠くの店のシャッター。子どもの笑い声。信号機の電子音。


 欠落街区の無音とは違う。


 現実の街の音。


 その中で、ユウリのスマホが最後にもう一度震えた。


《第5話事象記録》

《欠落街区:一時沈静》

《第零保管庫跡:未解決》

《灰谷ユズル:保護移行》

《関連名:雨宮ソウタ 微弱回復》

《星宮ミオ:現在名安定率 72%》

《警告:内部照応欠落あり》

《玻璃川トウマ:断絶派接触済》

《次回予測:構文解放派ネットワーク反応》


 ユウリは画面を閉じた。


 また、次が来る。


 神々の再臨。


 人類管理。


 断絶。


 そして、まだ見えていない別の勢力。


 どれも、ミオを、灰谷を、神狭市を、自分たちの正しさへ引っ張ろうとしている。


 ユウリは空を見上げた。


 夕方の空には、星はまだ見えない。


 それでも、どこかで何かが綴られている気がした。


 切られた頁の端に。


 白く補正された余白の奥に。


 検索され、拡散され、まだ神にも物語にもなりきっていない言葉の群れの中に。


 ユウリは、まだ答えを出せない。


 けれど、ひとつだけ決めた。


 消えかけた名前を、簡単には手放さない。


 切れば終わるものでも、預ければ守られるものでも、祈れば救われるものでもない。


 その間に残る、細い縁を探す。


 たとえそれが、中途半端だと言われても。


 ユウリは歩き出した。


 ミオとレンが、その隣に並ぶ。


 後ろでは、神狭市西部の空が、ほんの少しだけ黒く裂けたままだった。

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