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第五節 ― 裂け目に残る現在名

 黒い紙片の群れは、音もなくあふれ出した。


 最初は、破れた紙が風に舞っているだけに見えた。


 だが違う。


 一枚一枚が、何かの記録だった。


 裂けた出席簿。

 破れた卒業証書。

 半分だけ残った名札。

 顔の部分だけが黒く抜けた写真。

 途中で文面が終わっている契約書。

 誰かの名前が書かれるはずだった空欄。

 日付だけが残り、出来事の方が欠けた報告書。


 それらが第零保管庫の裂け目から流れ出し、地下通路の空気を黒く染めていく。


 紙片は床に落ちない。


 空中で折れ、曲がり、重なり、関節のようなものを作る。頭部のない人型。腕の長すぎる人型。胸に名札の欠片を貼りつけた人型。背中から破れたページを翼のように垂らした人型。


 顔はない。


 声もない。


 それでも、何をしようとしているのかは分かった。


 切りに来ている。


 ユウリたちが現在につながっている線を。


「下がれ」


 トウマが前に出た。


 背後で《裂頁の黒鋏》が開く。


 黒い余白でできた巨大な鋏が、地下通路の薄い非常灯を呑み込むように広がった。刃が開いた瞬間、裂頁眷属たちの体から伸びる細い記録線が見える。


 廃校の床へ。

 欠落街区の地図へ。

 灰谷ユズルの学生証へ。

 ユウリたちのスマホへ。

 そして、第零保管庫のさらに奥へ。


 トウマは迷わず手を振った。


 鋏が閉じる。


 音はしない。


 先頭の眷属が、途中で終わった。


 倒れたのではない。壊れたのでもない。最初からその先の頁が存在しなかったかのように、胴体の途中で黒く切れ、紙片へ戻る。


 続けて二体目、三体目。


 トウマの動きは速い。


 派手な光も、轟音も、爆発もない。

 ただ、彼が指を振るたびに、何かが途中で終わる。


 断絶。


 それは戦闘というより、文を途中で打ち切る行為に似ていた。


 レンが息を呑む。


「強すぎだろ……」


 だが、ユウリはすぐに気づいた。


 眷属が切られるたびに、周囲も欠けている。


 地下通路の壁に貼られていた警告文の一部が消える。

 非常灯の番号が飛ぶ。

 床に描かれていた避難経路の矢印が途中で途切れる。

 レンの端末に残っていたログファイル名が、さらに短くなる。


 そして、灰谷ユズルの学生証。


 彼が両手で握っているそのカードの端に、黒い裂け目が走った。


「灰谷!」


 ユウリが叫ぶと、灰谷は学生証を胸に抱え込んだ。


「何だよ、これ。俺、もう助かったんじゃないのかよ!」


 その声は、子どもみたいに震えていた。


 トウマは振り返らずに言う。


「動くな。お前の切断面に寄ってきている」


「切断面って何だよ!」


「神話との線を切った跡だ」


「そんなの知らねえよ!」


 灰谷の叫びが、地下通路に吸い込まれる。


 その声に反応したように、裂頁眷属の一体が灰谷へ腕を伸ばした。腕は破れた契約書でできている。そこには、同じ文面が何度も書かれていた。


 《許可する》


 《許可する》


 《許可する》


 灰谷が顔を引きつらせる。


 ユウリは咄嗟に前へ出た。


 だが、その前にトウマの鋏が閉じる。


 契約書の腕は黒い紙片になって散った。


 同時に、灰谷の学生証の緊急連絡先欄が、さらに薄くなる。


「トウマ!」


 ユウリは叫んだ。


「切れば切るほど、灰谷の記録まで裂けてる!」


「放っておけば食われる」


「でも、このままじゃ――」


「なら、お前が止めるのか」


 トウマが初めて振り返った。


 その目は冷たい。


 けれど、怒っているだけではない。


 本気で問いかけている。


「呼んで戻すのか。名前をつなぐのか。苦しみも、契約通知も、存在しない神の残響も、全部一緒に戻るかもしれない。それでもやるのか」


 ユウリは答えられない。


 その一瞬の沈黙を、裂頁眷属たちは待ってくれなかった。


 地下通路の奥から、さらに紙片があふれ出す。


 破れた写真の眷属が、レンへ向かう。


 レンのスマホ画面に、保存されたはずの画像が次々と黒く抜けていく。


「くそっ!」


 レンは端末をかざし、必死にログを別フォルダへ移そうとする。


 だが、フォルダ名そのものが裂ける。


《log_ha》

《log_》

《――》


「ふざけんな。残れよ。消えるな!」


 レンの声に焦りが滲む。


 彼にとって、記録は抵抗だ。

 見たものを、なかったことにさせないための武器だ。


 その武器が、今まさに削られている。


 ミオの方でも異変が起きていた。


 裂頁眷属の一体が、彼女へ手を伸ばす前に、彼女の周囲の空気が白く揺れた。


 月のような輪。

 夜のような影。

 水面のような光。

 母の腕に似た輪郭。

 死者の帳に似た薄布。

 境界を示す白い線。


 いくつもの女神の影が、ミオの背後に重なった。


 ミオが苦しそうに息を詰める。


「やめて……私は……」


 声が揺らぐ。


 彼女の学生証が白く光り、名前欄の上で文字が何度もぶれる。


 星宮ミオ。


 別の神名。


 星宮ミオ。


 女神の名。


 星宮ミオ。


 世界の理。


 星宮ミオ。


《星宮ミオ:現在名安定率 51%》

《女神照応過多》

《欠落街区内の空白に反応》

《複数残滓が現在名を補填しようとしています》

《警告:現在名上書きの危険》


「ミオ!」


 ユウリが駆け寄る。


 ミオは膝をついた。


 顔が青い。額には汗が浮かび、指先が震えている。


「空いているところに……入ってくるんです」


「何が」


「名前じゃないもの。祈りみたいなもの。私じゃないものが、私の空いているところを埋めようとして……」


 彼女の声の後ろに、いくつもの声が重なって聞こえた。


 優しい声。

 冷たい声。

 母のような声。

 夜のような声。

 月のような声。

 死者を呼ぶような声。


 どれも美しい。


 だからこそ怖い。


 それらはミオを傷つけようとしているわけではない。


 むしろ、欠けた場所を埋めようとしている。彼女を安定させようとしている。何者でもない不安から、女神や依代や境界者という意味を与えようとしている。


 だが、それはミオ本人の名前ではない。


 星宮ミオではない。


 トウマがミオの前に立った。


「切る」


 ユウリは反射的に彼の腕を掴んだ。


「待て!」


「待てば上書きされる」


「でも、ミオの中のものまで切るかもしれないだろ!」


「まとわりついている神話だけを切る」


「本当に区別できるのかよ!」


 トウマは答えなかった。


 その沈黙で、ユウリは分かってしまう。


 完全には、できない。


 トウマは強い。

 断絶は効く。

 だが、切るべきものと残すべきものを、必ず正確に分けられるわけではない。


 ミオが、震える手でユウリの袖を掴んだ。


「ユウリくん」


「ミオ?」


「少しだけ……遠ざけてください」


 ユウリの心臓が止まりそうになる。


「でも」


「怖いです。私が、私じゃないものに埋まっていくのが……怖い」


 彼女は苦しそうに息を吸った。


「全部は嫌です。でも、今だけ……少しだけ、静かにしたいです」


 その言葉に、ユウリは何も言えなくなった。


 ミオ自身が望んでいる。


 神話を切られることを、完全にではなく、一時的にでも望んでいる。


 ユウリが止め続けることは、彼女の苦しみを長引かせることでもある。


 トウマはミオの周囲に伸びる光の線を見ていた。


「深い線は切らない。表層だけだ」


「本当に?」


「約束はしない」


 冷たい答えだった。


 でも、嘘ではなかった。


 ユウリは拳を握る。


「ミオの名前は切るな」


「名前は狙わない」


「もし切ったら」


「その前にお前が止めろ」


 トウマはそう言って、《裂頁の黒鋏》を細く開いた。


 今までのように大きく断ち切る動きではない。


 針に糸を通すように、ミオの背後に絡む光の線のうち、外側のものだけを見極める。


 月の影。

 夜の帳。

 母性の輪郭。

 境界の白線。

 記録外の祈り。


 その一部が、ミオの現在名へ絡みついている。


 トウマの指が、静かに動く。


 鋏が閉じた。


 ミオの背後で、いくつかの女神影が遠ざかる。


 完全に消えたわけではない。

 ただ、声が遠くなる。


 ミオは大きく息を吸った。


 地下通路の空気が、少しだけ軽くなる。


 AVISが表示する。


《星宮ミオ:現在名安定率 72%》

《女神照応:一時低下》

《現在名干渉:軽減》


 数字だけなら改善だ。


 ユウリは安堵しかけた。


 だが、ミオは胸に手を当てたまま、静かに言った。


「……静かです」


 彼女の声は、安心しているようには聞こえなかった。


「でも、私の中の何かまで、遠くなった気がします」


 ユウリは息を呑む。


「ミオ」


「怖い声も遠くなりました。でも……大事だったかもしれないものも、遠くなった気がします」


 彼女の瞳が揺れる。


「それが何だったのか、もう分からないんです」


 その言葉は、灰谷の「雨宮? 誰?」と重なった。


 切れば楽になる。


 苦しみは遠ざかる。


 でも、その苦しみの中に、本人の一部が混ざっていたら。


 切ったものが、恐怖だけではなかったら。


 ユウリは、ようやく理解した。


 トウマの力は救いだ。


 だが、救いの形をした喪失でもある。


   *


 裂頁眷属たちは、まだ止まっていなかった。


 むしろ、トウマがミオの線を切ったことで、さらに反応したように見えた。


 地下通路の壁が裂ける。


 廃校の床へ、欠落街区の路地へ、無音団地の廊下へ、黒い紙片が広がっていく。


 ここだけの異変ではなくなっている。


 欠落街区全体へ、断絶眷属が広がっている。


 レンが画面を見ながら叫ぶ。


「街区全体のログが欠け始めてる! このままだと灰谷の記録だけじゃなくて、この辺り一帯の住所も、建物名も、全部飛ぶぞ!」


「切れば止まる」


 トウマが言う。


「切りすぎたら、何が残るんだ!」


 ユウリは叫んだ。


 その声に、トウマの動きが一瞬止まる。


 裂頁眷属の一体が、灰谷へ伸びる。


 灰谷は学生証を握りしめたまま、床に座り込んでいた。目の焦点が揺れている。自分の家の場所も、相談所にいたことも、雨宮のことも曖昧なまま、ただ恐怖だけが戻ってきている。


 ユウリは彼を見る。


 名前だけでは足りない。


 でも、全部戻せばまた苦しむかもしれない。


 なら。


 全部ではなく、残すべきものを探す。


 切られた断面の中に、まだ残っている縁を見つける。


 ユウリはスマホを握った。


 画面の表示はまだ裂けている。


《契約相――》

《未署――》

《観測――》

《――》


 選択肢は完全ではない。


 許可するも、拒否するも、保留するも、途中で切れている。


 けれど、完全に消えてはいない。


 ユウリは画面に触れた。


「アヴィ」


「無理に展開すれば、君の契約線も裂かれる」


「なら、全部出さない」


「何?」


「倒すためじゃない。見るために使う」


 一瞬、アヴィが黙った。


 そして、笑うような声がした。


「……そう来るか。未署名らしいな」


 画面に黒い羽根が浮かぶ。


 羽根は途中で裂けかけ、白い文字片がこぼれる。だが、こぼれた文字片が完全に消える前に、ユウリの左手へ集まった。


 剣ではない。

 鍵でもない。

 今回は、細い輪郭だけの翼だった。


 片翼。


 しかも、羽根の何枚かは欠けている。


 それでも、ユウリの背後に白と黒の文字片でできた小さな翼が立ち上がった。


《契約相:未署名の観測翼》

《第二展開応用》

《切断面観測》

《現在名の残存縁を検索》


 世界の見え方が変わった。


 裂頁眷属たちは黒い紙片の塊ではなく、無数の切断面として見えた。


 トウマの《裂頁の黒鋏》が切った跡。


 白環補正が途中で断たれた跡。


 灰谷ユズルと存在しない神を結んでいた契約線の切断面。


 ミオの女神照応が遠ざけられた跡。


 その中で、ユウリは探した。


 灰谷ユズルを、今に留めているもの。


 学生証の名前ではない。


 AVISのログでもない。


 管理機構の保護番号でもない。


 もっと細く、もっと弱く、でもまだ切れきっていないもの。


 見えた。


 灰谷の胸元から、ほとんど消えかけた糸が一本伸びている。


 その先は、白環相談所。


 昨日の旧北口商店街。


 白い椅子。

 緊張した生徒たち。

 マシロの端末。

 管理番号。

 そして、雨宮ソウタの声。


 いたよ。灰谷。俺と一緒に相談所にいた。


 その言葉だけが残っていた。


 ほとんど切れている。


 だが、まだゼロではない。


 ユウリは息を吸った。


 トウマが気づく。


「やめろ」


「まだ残ってる」


「戻せば、また苦しむ」


「全部は戻さない!」


 ユウリは叫んだ。


 観測翼の欠けた羽根が、切断面へ伸びる。


「でも、全部切るな!」


 その声が、地下通路に響いた。


 裂頁眷属たちが一斉にこちらを向く。


 灰谷が顔を上げる。


 トウマの目が、初めて大きく揺れた。


 ユウリは残った糸を掴むように左手を伸ばした。


「灰谷ユズルは、雨宮ソウタと一緒に白環相談所にいた!」


 声が、切断面へ届く。


 黒い紙片が一斉に震えた。


 存在しない神の残響が、灰谷へ再び伸びようとする。


 だが、ユウリはそれを戻さない。


 契約通知も、救済誘導も、仮信徒化の痛みも、全部ではない。


 雨宮の名前だけ。


 灰谷を心配した誰かがいたという事実だけ。


 その細い縁だけを、切断面のこちら側へ引き戻す。


 灰谷が頭を抱えた。


「う……」


 ミオが駆け寄ろうとするが、ユウリは叫ぶ。


「灰谷! 全部思い出さなくていい!」


 自分で言っていて、胸が痛かった。


 でも、それが今できる精一杯だった。


「でも、一人じゃなかったことだけは、忘れるな!」


 灰谷の唇が震える。


「一人……じゃ」


「雨宮ソウタが言ってた! お前はいたって! 一緒にいたって!」


 雨宮の声が、今度は偽物ではなく、ほんの少しだけ形を取り戻す。


 いたよ。

 灰谷。

 俺と一緒に相談所にいた。


 灰谷の目から涙が落ちた。


「雨宮……?」


 名前が戻る。


 すべてではない。


 記憶の風景も、会話の細部も、偽日輪事件の恐怖も、白環相談所の空気も、まだ曖昧だ。


 それでも、その名前だけは、灰谷の内側に小さく灯った。


「そうだ……俺、あいつと……一緒にいた気がする」


 その瞬間、灰谷の学生証の黒い裂け目が、ほんのわずかに塞がった。


 緊急連絡先は戻らない。


 住所欄も完全ではない。


 でも、名前欄の下にあった亀裂が止まる。


《灰谷ユズル》

《現在名接続:微弱回復》

《関連名:雨宮ソウタ》

《記憶復元:限定》

《仮信徒化再発:抑制》


 レンが息を吐いた。


「……戻った。少しだけ」


 ミオが胸元を押さえながら、小さく頷く。


「ゼロじゃ、ないです」


 ユウリの観測翼が崩れかける。


 肩に重い痛みが走った。頭の奥で、何かが裂けるような感覚がする。


 アヴィが怒鳴った。


「ユウリ、展開を閉じろ! それ以上見るな!」


 ユウリは歯を食いしばり、左手を下ろした。


 未署名の観測翼が文字片となってほどける。


 視界が普通に戻る。


 裂頁眷属たちは、灰谷へ伸ばしていた腕を失った。


 だが、まだ完全には消えない。


 トウマが無言で前へ出る。


 今度は、大きく切らなかった。


 灰谷やミオにつながる線を避けるように、眷属たちの外側だけを断つ。


 一体、二体、三体。


 黒い紙片が散る。


 地下通路の裂け目が、少しずつ奥へ引いていく。


 第零保管庫の扉の向こうに、紙片の群れが戻っていく。


 トウマの動きは、さっきより慎重だった。


 ユウリはそれに気づいた。


 彼は、切り方を変えた。


 全部を断ち落とすのではなく、残すべき線を見ながら切っている。


 やがて、最後の眷属が黒い紙片へ戻り、扉の奥へ吸い込まれた。


 地下通路に、静けさが戻る。


 ただし、その静けさは最初よりも重い。


 灰谷は床に座り込んだまま、ぼんやりと呟いた。


「雨宮……ソウタ」


 その名前を、確かめるように。


 ミオは壁にもたれ、目を閉じている。


 現在名安定率は上がった。

 けれど、彼女の中の何かは遠ざかったままだ。


 レンは壊れかけたログを必死に確認している。


 何かを残そうとしている。


 ユウリは、息を整えながらトウマを見た。


 トウマもまた、ユウリを見ていた。


 冷たい硝子のような瞳。


 だが、その奥に初めて、はっきりとした感情があった。


 警戒。


 苛立ち。


 そして、理解できないものを見た時の戸惑い。


「中途半端だ」


 トウマが言った。


 ユウリは頷いた。


「そうだと思う」


「戻すなら戻せ。切るなら切れ。半端に残せば、また苦しむ」


「それでも、残ったものがある」


 ユウリは灰谷を見た。


 灰谷は雨宮の名前を何度も小さく繰り返している。


 完全ではない。


 でも、ゼロではない。


「俺は、それを探す」


 トウマは黙った。


 地下通路の非常灯が、じじ、と鳴る。


 その音は、今度は消えなかった。


 トウマは視線を外し、第零保管庫の裂け目を見る。


「そんなことを続けていたら、いつか全員壊れる」


「全部切ったら、壊れたことも分からなくなる」


 ユウリが言うと、トウマの瞳がわずかに揺れた。


 返事はなかった。


 ただ、彼はもう一度、灰谷の学生証を見た。


 そこに残った小さな名前の灯りを。


 そして、何かを言いかけて、やめた。


 その沈黙が、第零保管庫の冷たい空気の中に、しばらく残った。

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