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第四節 ― 第零保管庫の裂け目

 黒い紙片は、廊下の空気をゆっくり泳いでいた。


 紙でも、影でもない。


 そこに文字があるから紙に見えるだけで、実際には記録の破片なのだとユウリは直感した。


 ――保管庫。


 その文字だけが、欠けた紙片の中央に残っている。


 紙片は一度、灰谷ユズルの前で止まった。


 灰谷は息を呑み、後ずさる。


「な、何だよ、これ」


 彼の声は震えていた。


 さっきまで存在しない神の救済通知に囚われていたことを、彼はもうほとんど覚えていない。だが、怖いという感覚だけは身体に残っているのだろう。記憶がなくても、恐怖の形だけが骨に染みついている。


 ミオが彼の前に立った。


「見ないでください」


「え?」


「見すぎると、引っ張られます」


 ミオ自身も顔色が悪い。それでも灰谷をかばうように手を伸ばした。


 ユウリは、その背中を見て胸が詰まる。


 彼女もずっと引っ張られている。別の名前へ。女神へ。依代へ。未定義核へ。

 それでも、誰かが引っ張られそうになると前に出る。


 トウマは廊下へ出て、黒い紙片を指で摘んだ。


 指先に触れた瞬間、紙片の文字がかすかに震える。


 ――保管庫。


 その下に、もう一行が浮かびかけた。


 ――第零。


 トウマは目を細める。


「起きたな」


「起きたって、何が」


 ユウリが問うと、トウマは紙片を放した。


 紙片は床に落ちる前に、音もなく裂けて消えた。


「ここで切ったせいで、奥の記録が反応した」


「灰谷を助けたから?」


「助けたからじゃない。切ったからだ」


 トウマの声には、責める響きも、後悔もない。


 ただ事実を述べているだけだった。


 レンが廊下の奥を見た。


「奥って……第零保管庫跡か?」


 トウマは答えない。


 その沈黙が肯定だった。


 アヴィの表示が、ユウリのスマホに浮かぶ。


《欠落街区深部反応》

《第零保管庫跡:接続浮上》

《断絶神格関連記録:部分開示》

《警告:対象区域への侵入は推奨されません》


「また非推奨かよ」


 レンが言った。


 アヴィはすぐに返す。


《今回は本当に非推奨だ》

《補足:毎回本当に非推奨ではある》


「余計な補足やめろ」


 そう言いながらも、レンの顔は強張っていた。


 廊下の奥から、冷たい風が吹いてくる。


 団地の廊下のはずなのに、その風には土とコンクリートと古い紙の匂いが混ざっていた。地下室の匂い。誰にも開かれない書庫の匂い。封じたものを、封じたまま忘れようとした場所の匂い。


 灰谷が小さく言う。


「俺、帰っていい?」


 その声に、ユウリは振り返った。


 当然だと思った。


 彼はもう十分巻き込まれている。何を覚えているかも曖昧で、自分の家の一部すら思い出せない。これ以上連れていくべきではない。


 だが、トウマが言った。


「一人で戻れば、また拾われる」


「拾われるって……」


「今のお前は、切断面が開いたままだ。存在しない神の残響も、白環の追跡も、欠落街区の奥も、お前を見つけやすい」


 灰谷の顔から血の気が引いた。


「じゃあ、どうすればいいんだよ」


 トウマは短く答える。


「俺の後ろを歩け。名前を呼ばれても返事をするな。知ってる声でも、振り向くな」


「知ってる声って、誰の」


 灰谷が聞いた時、廊下の奥から声がした。


 かすかな声。


『灰谷』


 灰谷の体が硬直する。


 ユウリも反射的に身構えた。


 それは、雨宮ソウタの声に似ていた。


 けれど、ユウリはすぐに違和感を覚えた。


 似ているだけだ。


 声の温度がない。心配している声の形だけを真似ている。第4話で雨宮が必死に灰谷の存在を証言した、あの切実さがない。


『灰谷、いたよな』


『一緒に相談所にいたよな』


『思い出せよ』


 灰谷の唇が震える。


「雨宮……?」


 トウマが言った。


「返事をするな」


 声は続く。


『思い出せば、戻れる』


『思い出せば、助かる』


『こっちだ』


 レンが歯を食いしばった。


「あれ、雨宮の言葉を使ってるのか」


 アヴィが表示する。


《切断面残響》

《既存記憶音声の模倣》

《目的:現在名接続の再誘導》

《注意:本人の声ではありません》


 灰谷は両耳を塞いだ。


「やめろよ……知らない。俺、知らないんだって」


 知らない。


 そう言わなければ耐えられないのだろう。


 けれど、その「知らない」は彼を守る壁であると同時に、雨宮とのつながりをさらに遠ざける。


 ユウリは何も言えなかった。


 今ここで「思い出せ」と言えば、灰谷はまた引っ張られるかもしれない。


 でも、思い出さないままでいいのか。


 その答えは、まだ出ない。


「行くぞ」


 トウマが歩き出した。


 ユウリたちは、灰谷を間に挟むようにして、その後に続いた。


   *


 廊下を曲がると、そこはもう団地ではなかった。


 コンクリートの壁が、いつの間にか学校の廊下の壁に変わっている。


 剥がれかけた掲示板。割れた防火扉。古い水飲み場。窓ガラスの向こうには校庭が見えるはずなのに、そこには黒い空き地が広がっていた。


 レンが息を呑む。


「玻璃川廃校……?」


 アヴィが表示する。


《ロケーション照合》

《玻璃川廃校》

《廃校記録:不完全》

《所在地記録:複数矛盾》

《第零保管庫跡との空間重複を検出》


「廃校と保管庫が重なってるのか」


「違う」


 トウマが言った。


「廃校の下に、保管庫の半分が残っている」


「半分?」


「もう半分は、記録ごと切れている」


 その言葉が終わるのと同時に、廊下の床が途切れた。


 物理的に崩れているわけではない。


 床の続きが、そこだけ存在していない。


 廊下の中央に、黒い断面がある。まるで建物を巨大な刃で斜めに切断し、その切断面の向こう側だけを世界から外したようだった。


 ユウリは断面を覗き込んだ。


 下に、地下施設が見える。


 白い壁。


 古い金属扉。


 薄緑色の非常灯。


 学校の廃校とは明らかに違う構造だった。


 管理機構の白とは少し違う。もっと古い。もっと無機質で、もっと祈りから遠い白。神話を信じないためではなく、神話を危険物として保管するための白。


 その地下施設が、廃校の床の下に半分だけめり込んでいる。


 階段はない。


 だが、トウマは何も言わず、黒い紙片を数枚浮かべた。


 紙片が空中に並び、階段のような形になる。


「足元だけ見ろ。壁の文字は読むな」


 レンが眉をひそめる。


「読むなって言われると読みたくなるんだけど」


「読めば欠ける」


「何が」


「読んだものが」


 レンは口を閉じた。


 ユウリたちは、黒い紙片の階段を慎重に降りた。


 一歩踏むたびに、紙片は足裏でわずかに軋む。紙の感触ではない。何かの記録を踏んでいるような、嫌な抵抗があった。


 地下へ降りると、空気がさらに冷たくなった。


 壁には古い警告文が貼られている。


 トウマは読むなと言った。


 だが、読まないようにしても、文字の方から目に入ってくる。


《断絶神格封印記録》

《ザイン=トゥル》

《深層禁忌名――》

《照合禁止》

《喪失反応確認》

《記録そのものが失われる危険あり》


 ユウリは途中で視線を逸らした。


 それでも、文字の一部が頭に残る。


 記録そのものが失われる危険あり。


 記憶ではない。名前でもない。記録そのもの。


 何かを忘れるのではない。


 忘れたことすら残らない。


 ミオが足を止めた。


「ここ、すごく……冷たいです」


 彼女の声は細かった。


「神様の場所じゃない。でも、神様を閉じ込めようとした場所でもない。もっと……神様が来られないように、祈りを切った場所」


 トウマが少しだけ彼女を見る。


「よく分かるな」


「分かりたくないです」


 ミオは小さく答えた。


 灰谷はずっと黙っていた。


 両手で自分の学生証を握りしめ、名前欄を何度も確かめている。緊急連絡先はまだ黒く裂けたままだ。


 レンは、壁の警告文を見ないようにしながらも、端末で何かを確認していた。


「ログが取れない。いや、取れてるけど、保存した瞬間にファイル名が欠ける」


 画面には、保存ファイルが並んでいる。


 だが、その名前はどれも途中で切れていた。


 log_

 ha_

 zero_

 ――


「これ、外に出たら全部消えるかもな」


「残すなと言った」


 トウマは前を見たまま言う。


 レンは苛立ったように返した。


「残さなかったら、ここで何が起きたか誰にも分からない」


「分からない方がいいこともある」


「それ、管理機構と同じじゃないか」


 トウマの足が止まった。


 空気が少し硬くなる。


 レンも、自分の言葉が思ったより鋭く刺さったことに気づいたのか、口を閉じた。


 トウマは振り返らないまま言った。


「管理は、危険なものを預かる」


 声は静かだった。


「断絶は、届かないようにする。似ているようで違う」


「でも、どっちもこっちに選ばせない」


 ユウリが言った。


 トウマが、ゆっくりとユウリを見る。


「選ばせた結果が、あれだ」


 彼は灰谷を見た。


 灰谷が怯えたように肩をすくめる。


「AVIS一般版。偽日輪。存在しない神。救済通知。選択肢がひとつしかない契約。あれも選択だと言うのか」


 ユウリは答えられなかった。


 灰谷は選んでいない。


 選ばされかけた。


 そして、その選択肢は最初から一つしかなかった。


 だからトウマは、選択肢が出る前に線を切る。


 それは乱暴だ。


 でも、何もできずに見ているより、ずっと速くて確実だった。


 ユウリのスマホが震える。


 AVISが、勝手に解析を始めていた。


《警告》

《ザイン=トゥル深層貌に接近》

《禁忌名:ザイン=ロ――》

《表示を中断しました》

《これ以上の照合は推奨されません》


 画面が黒く沈む。


 アヴィの声が、低くなった。


「ユウリ。その先は見るな」


「ザイン=ロ……?」


 ユウリが言いかけた瞬間、トウマの手が伸びた。


 彼はユウリのスマホの上に指を置いた。


 画面に出かけていた文字が、細く裂けて消える。


 ユウリは息を呑んだ。


「何するんだ」


「言うな」


 トウマの声は、これまでで一番強かった。


「その名前は、言うな」


「知ってるのか、その名前を」


 トウマはしばらく黙っていた。


 地下施設の非常灯が、じじ、と細く鳴る。


 遠くのどこかで、水滴が落ちたような音がした。だが、次の瞬間には、その音が本当にあったのか分からなくなる。


 やがて、トウマは答えた。


「知らない方がいい」


「知ってるんだな」


「知れば、切りたくなる」


 その言葉に、ユウリは背筋が冷えた。


 切りたくなる。


 危険だから切るのではない。

 怖いから切るのでもない。


 知った者に、切ることを望ませる名前。


 それはもう、神というより、思考そのものに入り込む刃に近い。


 ミオが胸元を押さえた。


「その名前、聞こえません。でも……水面の底が、少し揺れました」


 ユウリは彼女を見る。


「大丈夫?」


「はい。でも、嫌です。私の中の何かが、その名前を知らないふりをしようとしています」


 知らないふり。


 それは、忘れているのとは違う。


 知ってはいけないから、知らないことにしている。


 ミオの内側に流れ込んだ複数の女神残滓。そのどれかが、その禁忌名を避けているのかもしれない。


 アヴィが短く言った。


「ここは長居するな。トウマの言う通りだ。あれは今の段階で照合していい名じゃない」


「ザイン=トゥルの奥に、別の神がいるのか」


「神という言い方が正しいかは分からん。だが、ザイン=トゥルは裂く。奥にあるものは……」


 アヴィの声が、一瞬途切れた。


 画面にノイズが走る。


「失わせる」


 その一語だけが、残った。


 ユウリは口の中が乾くのを感じた。


 裂くなら、まだ切断面がある。

 切られたと分かる。

 そこにあったものが、途中で途切れたと気づける。


 でも、失わせるものは。


 失ったことすら、残らないのではないか。


   *


 地下通路の奥に、重い金属扉があった。


 扉の上半分は存在していなかった。


 正確には、そこだけ世界から切り抜かれている。扉の下半分だけが床に残り、上半分は黒い断面となって、何もない空間へつながっている。


 扉の残った部分に、古い管理プレートが貼られていた。


《第零保管庫》

《断絶神格関連資料》

《開封禁止》

《記録者名:――》

《承認者名:――》

《封印日:――》


 すべての名前と日付が裂けている。


 誰がここを作ったのか。

 誰が封じたのか。

 いつ閉じたのか。


 何も残っていない。


 トウマが扉の前に立つ。


 彼の背後に、黒い紙片がまた浮かんだ。


 だが、今度は鋏の形を取らない。


 紙片たちは震えている。


 まるで、この場所そのものを恐れているように。


「開けるのか」


 ユウリが聞くと、トウマは首を振った。


「開いている」


「でも、扉が」


「閉じているのは、形だけだ」


 その言葉の直後、扉の向こうから紙が擦れる音がした。


 さらさら。


 さらさら。


 無数のページを、見えない手がめくっているような音。


 レンが一歩下がる。


「何かいる」


 アヴィが表示する。


《裂頁眷属反応》

《分類:断絶神格周辺残滓》

《目的推定:記録線切断》

《警告:直接接触を避けてください》


 黒い断面の奥から、一枚の紙片が出てきた。


 次に、もう一枚。


 さらに十枚、百枚。


 紙片は空中で集まり、人型の輪郭を作る。


 頭部はない。

 顔もない。

 胴体は破れた出席簿。腕は切れた卒業証書。足元には半分だけの名札がぶら下がっている。胸のあたりには、途中で終わった契約書の文面が貼りついていた。


 それは人を殺すために作られた怪物ではない。


 もっと静かで、もっと嫌なものだった。


 人がここにいた証拠を、切るもの。


 ユウリのスマホが震える。


 画面に契約相展開の表示が出る。


《契約相展開》

《許可――》

《拒――》

《保――》

《――――》


 文字が途中で切れている。


 許可する、拒否する、保留する。


 その選択肢が、最後まで表示されない。


 ユウリの指が止まった。


「アヴィ、これ」


「ユウリ、気をつけろ!」


 アヴィの声が叫ぶ。


「こいつら、選択肢そのものを裂いてくる!」


 裂頁眷属が、音もなく一歩進む。


 その足元で、灰谷の学生証が震えた。


 名前欄の端に、細い亀裂が入る。


 ミオの学生証も光る。


 レンの端末から、ログファイルがひとつずつ消える。


 そして、ユウリのAVIS画面では、未署名の観測翼の展開文字が、さらに短く裂けていった。


《契約相――》

《未署――》

《観測――》

《――》


 トウマが前に出る。


 背後で《裂頁の黒鋏》が開きかける。


 だが、その刃の影に、第零保管庫の奥からさらに多くの紙片が反応した。


 切れば、もっと出る。


 ユウリにもそれが分かった。


 この場所では、断絶の力そのものが呼び水になる。


 アヴィが低く言った。


「次は、ただ切るだけじゃ足りない」


 裂頁眷属が腕を伸ばす。


 狙いはユウリたちの体ではない。


 名前。

 記録。

 選択肢。

 現在へつながる細い線。


 ユウリは、表示の欠けたAVISを握りしめた。


 まだ選択肢は完全には消えていない。


 なら、残っている部分を探すしかない。


 黒い紙片の群れが、第零保管庫の裂け目からあふれ出した。

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