第三節 ― 切れば救える
黒い踏切を越えた瞬間、ユウリは一つ、何かを落とした気がした。
何を落としたのかは分からない。
財布でも、鍵でも、スマホでもない。もっと小さく、もっと当たり前に持っていた何かだ。
振り返る。
踏切はすぐ後ろにある。
だが、そこまでどう歩いてきたのか、ほんの一瞬だけ思い出せなかった。
誰と一緒にいたのかは分かる。
久遠レン。
星宮ミオ。
そして、玻璃川トウマ。
けれど、踏切の手前で自分が何を言ったのか、少し霞んでいる。
「……今、何か忘れた?」
ユウリが呟くと、レンがすぐにスマホを確認した。
「移動ログが飛んでる。踏切を渡った瞬間の記録がない」
「どのくらい?」
「二秒」
レンは顔をしかめた。
「でも、体感だともっと長い。嫌な感じだな。二秒だけ、俺たちがどこにもいなかったことになってる」
ミオは胸元に手を当てていた。
学生証を確かめるように、指先が布の上を押さえている。
「私は……大丈夫です。名前はあります」
そう言ってから、彼女は小さく息を吸った。
「でも、少しだけ、声が遠くなりました」
「声?」
「呼ばれている声です。さっきまで、遠くからたくさん聞こえていました。私を別の名前で呼ぶ声。でも、この先では……声が途中で切れています」
トウマが振り返らずに言った。
「ここでは、届かないものが多い」
「だから、灰谷さんもここに?」
ミオが問う。
トウマは答えなかった。
彼はただ、無音団地の奥へ向かって歩いていく。
黒い踏切の向こう側にある団地は、さっき通った団地よりも古かった。
壁の色は灰色とも白ともつかない。長い年月で雨に濡れ、陽に焼け、誰にも塗り直されないまま、色そのものが疲れ果てたように薄くなっている。階段の手すりには赤錆が浮き、集合ポストの扉は半分ほど壊れていた。
しかし、荒れ放題ではない。
廊下には掃き掃除の跡がある。
植木鉢には枯れていない植物がある。
ベランダには洗濯物が干されている。
人は住んでいる。
そのはずなのに、声がない。
テレビの音も、食器の音も、話し声も、子どもが走る足音も聞こえない。ユウリたちの靴音だけが、コンクリートの廊下に薄く響き、すぐに吸い込まれる。
団地の入口には古い掲示板があった。
貼られている紙は新旧入り混じっている。自治会費のお知らせ。ゴミ出しの注意。水道工事の案内。防犯パトロールの予定表。
けれど、どの紙にも肝心な部分がない。
自治会の名前がない。
日付がない。
担当者名がない。
連絡先がない。
情報はそこにあるのに、誰のためのものか分からない。
レンが掲示板を撮ろうとして、やめた。
「撮っても残らないだろうな」
「撮らないのか」
「撮るけど、期待しない」
そう言いながら、レンはシャッターを切った。
保存された画像には、掲示板そのものは写っていた。だが、貼り紙の文字は、どれも途中で黒く裂けている。
レンは低く息を吐いた。
「ログが嫌がってる」
「ログが?」
「残ろうとすると、裂かれる」
トウマが短く言った。
「ここで残そうとするな」
レンが睨む。
「残さなかったら、なかったことになるだろ」
「残すから、そこを狙われる」
「何に」
「神話に」
トウマの声は平坦だった。
「苦しみを記録すれば、神話はそこから入ってくる。祈りを記録すれば、神はそこから手を伸ばす。助けてほしいと残せば、救済者を名乗るものが寄ってくる」
「じゃあ、全部消せって?」
「全部じゃない」
トウマは足を止めた。
「届かせるなと言っている」
その言い方に、ユウリは引っかかった。
消すのではない。
届かせない。
トウマにとって断絶とは、破壊ではなく遮断なのかもしれない。
ただ、その遮断があまりにも鋭すぎる。
*
灰谷ユズルは、四号棟の四階にいた。
部屋番号は読めなかった。
ドアの表札は空白だった。インターホンの横には、かつて名前が貼られていた跡だけがある。白いテープの残りが四隅に残り、中央の名前だけが剥がされている。
だが、ドアの向こうから、わずかな光が漏れていた。
スマホの画面の光。
それだけが、暗い室内で揺れている。
トウマはノックしなかった。
鍵も開けなかった。
ただ、扉の前で指を二本そろえ、空中を横へ裂くように動かした。
鍵のかかる音が、途中で切れた。
開錠音ではない。
鍵という状態が、その一瞬だけ続かなくなった。
扉がわずかに開く。
ユウリは思わず息を呑んだ。
「今の……」
「鍵との接続を切っただけだ」
「だけって言うなよ」
レンが小さく言ったが、トウマは答えない。
室内は、生活感のある部屋だった。
古い畳。低いテーブル。積まれた雑誌。空になったペットボトル。壁際のカラーボックスには、漫画やゲームソフトが並んでいる。誰かがここで普通に暮らしていたことが分かる。
だが、家族写真らしきものは伏せられていた。
カレンダーの日付は黒く抜けている。
時計の秒針は動いているのに、音がしない。
部屋の中央に、少年が座り込んでいた。
灰谷ユズル。
そう推定されている生徒。
痩せた顔。乾いた唇。制服の上着は脱ぎ捨てられ、シャツの襟元は乱れている。髪は汗で額に張りつき、目の下には濃い影があった。
彼はスマホを両手で握っていた。
画面は白い。
その白さは、マシロの白環の白とは違う。
もっと安っぽく、もっと親しげで、もっと危険な白だった。広告バナーや診断結果や動画サムネイルのような、指先で何度も押したくなる白。
そこに、同じ言葉が繰り返し表示されている。
《あなたは救われます》
《苦しみを手放しますか?》
《契約しますか?》
《許可する》
《許可する》
《許可する》
選択肢は一つしかない。
許可する。
許可する。
許可する。
拒否も、保留も、戻るもない。
灰谷は画面を見つめたまま、ぼそぼそと呟いていた。
「もう、いいから」
声はかすれている。
「終わるなら、何でもいい。忘れられるなら、何でもいい。苦しくないなら、何でもいい」
ユウリは一歩近づいた。
「灰谷――」
その瞬間、トウマの手がユウリの胸元を遮った。
「呼ぶな」
声が低かった。
「その名前ごと、向こうに引っ張られる」
ユウリは唇を噛む。
名前を呼ぶな。
それは、ユウリにとって「助けるな」と言われているのに近かった。
だが、灰谷の周囲に何かがいた。
人影のようなもの。
白くぼやけた輪郭が、部屋の隅や天井近くに浮かんでいる。顔はない。腕も足もはっきりしない。だが、祈るように手を組んでいる影があり、スマホを掲げる影があり、跪く影がある。
彼らは神ではない。
たぶん、人でもない。
ユウリのAVISが震えた。
《信徒残響》
《存在しない神への救済願望が集合》
《神格未成立》
《契約誘導残滓》
《危険:同調した場合、仮信徒化》
「存在しない神……」
ミオが小さく呟いた。
その声に、信徒残響たちが一斉にこちらを向いた。
顔がないのに、見られたと分かる。
灰谷のスマホ画面が、さらに白く光った。
《あなたも救われます》
《苦しみを手放しますか?》
《契約しますか?》
《許可する》
ユウリのスマホにも、通知が飛び込んできた。
《苦しみを手放しますか?》
《迷いを手放しますか?》
《選ばなくてよい救済を受け入れますか?》
《許可する》
ユウリの指が、一瞬だけ硬直した。
選ばなくてよい救済。
それは、今のユウリにとってあまりにも悪意のある言葉だった。
レイジの「神々の理を選べ」。
マシロの「管理を受け入れろ」。
トウマの「神話ごと切れ」。
どれにも答えられないユウリの迷いを、白い通知は正確に突いてきた。
許可すれば、楽になるのか。
選ばなくてよくなるのか。
その瞬間、アヴィが怒鳴った。
「押すな、ユウリ!」
画面が黒い羽根で埋まり、通知が弾かれる。
ユウリは息を吸った。
喉がからからに乾いていた。
隣で、ミオも苦しそうに胸元を押さえている。
彼女の画面にも通知が来ていた。
《あなたは何者でもなくてよい》
《女神でなくてよい》
《少女でなくてよい》
《苦しみを手放しますか?》
《許可する》
ミオの瞳が揺れる。
「何者でもなくていい……」
ユウリはすぐに言った。
「ミオ、見ないで」
ミオははっとして、画面を伏せた。
だが、白い光はまだ指の隙間から漏れている。
レンのスマホにも通知が来ているらしい。彼は歯を食いしばりながら、画面を裏返した。
「ふざけんな……。ログ消せば楽になるとか、そういうことかよ」
灰谷は、そんな三人の反応にも気づいていない。
彼はただ画面を見つめ続けている。
「俺、何したんだっけ」
涙が落ちた。
「何が怖かったんだっけ。誰といたんだっけ。何で、こんなに……」
彼の指が、画面の《許可する》へ近づく。
ユウリは思わず叫びそうになった。
その名前を。
だが、トウマが先に動いた。
「もういい」
彼の背後に、黒い紙片が浮かび上がる。
《裂頁の黒鋏》。
部屋の空気が、一段冷えた。
信徒残響たちは、祈るような姿勢のまま一斉に震えた。彼らにはトウマの契約相が見えているのだろう。あるいは、見える以前に、切られることを本能的に理解しているのかもしれない。
灰谷の胸元から、細い光の線が伸びていた。
ユウリには、最初それが見えなかった。
だが、トウマが鋏を開いた瞬間、輪郭が浮かぶ。
灰谷のスマホから、灰谷の胸へ。
灰谷の胸から、部屋に漂う信徒残響へ。
信徒残響から、もっと遠く、存在しない神の空白へ。
それは、まだ契約ではない。
でも、すでに食い込んでいる。
灰谷の中に、救われたいという願いを楔のように打ち込んでいる。
「待って」
ユウリは言った。
トウマは止まらない。
「切る」
「切ったら、何が残るんだ」
トウマの手が止まった。
ほんの一瞬。
彼はユウリを見た。
「苦しみが消える」
「それ以外は?」
問い返すと、トウマは黙った。
その沈黙が答えだった。
ユウリは灰谷を見る。
苦しんでいる。
今この瞬間、灰谷ユズルは確かに苦しんでいる。これ以上待てば、彼は《許可する》を押すかもしれない。存在しない神に救済を求め、仮信徒になるかもしれない。
トウマの断絶は、今すぐ効く。
でも。
ユウリは雨宮ソウタの顔を思い出す。
いたよ。灰谷。俺と一緒に相談所にいた。
あの言葉だけが、灰谷の存在を現実につなぎ止めていた。
もし、それまで切られたら。
「ユウリ」
アヴィが低く言った。
「止めるなら、君も契約相を展開する必要がある。だが、今の状況では危険だ」
「じゃあ、どうすれば」
「選べ」
アヴィの声は苦かった。
「今は、表示されているもの以外にも選択肢があるとは言えん。時間がない」
ユウリは拳を握る。
その間に、灰谷の指がさらに画面へ近づく。
トウマが鋏を閉じた。
音はない。
ただ、灰谷と白い通知を結んでいた線が、途中で終わった。
スマホの画面が黒くなる。
信徒残響たちが、声もなく崩れる。
祈る手がほどけ、白い輪郭が紙の灰のように散り、部屋の隅へ吸い込まれていく。
灰谷の体が、がくんと前へ倒れた。
ユウリは慌てて支えようとしたが、トウマが先に肩を押さえた。
灰谷は、荒い息を吐いた。
一度。
二度。
三度。
そして、顔を上げる。
目の焦点が、さっきよりはっきりしていた。
「あ……れ」
彼は周囲を見回した。
「俺、何してたんだっけ」
声に、さっきまでの切迫した苦しみはない。
呼吸も落ち着いている。手の震えも止まっている。
彼は本当に、楽になっていた。
ユウリはその事実に、何も言えなくなる。
救われた。
少なくとも、今は救われた。
灰谷はスマホを見た。
画面は真っ黒だ。
AVIS一般版の通知も、白い救済文も、すべて消えている。
「何か……変な夢見てたみたいだ」
灰谷は額を押さえた。
「頭、軽い。さっきまで、ずっと何かに言われてた気がする。救われるとか、許可しろとか……でも、もう聞こえない」
ミオが小さく息を吐いた。
「よかった……」
その言葉は自然に出たものだった。
ユウリも、ほんの一瞬だけ安堵しかけた。
だが、レンが尋ねた。
「雨宮ソウタ、覚えてるか」
灰谷はレンを見た。
目に、何の反応もなかった。
「雨宮?」
ユウリの胸が冷える。
灰谷は首を傾げた。
「誰?」
部屋の空気が、静かに沈んだ。
レンが一歩近づく。
「昨日、白環相談所にいただろ。お前と同じ部屋にいた。あいつ、お前のこと覚えてたんだよ。灰谷がいたって。みんなが忘れかけてたのに、あいつだけが――」
「相談所?」
灰谷は困ったように笑った。
「俺、そんなとこ行ったっけ」
「偽日輪事件は?」
「何それ」
「AVISで契約しかけたのは?」
「AVIS……は、入れてたかも。でも、あんまり覚えてない」
レンの表情が強張る。
灰谷は本当に分かっていない。
嘘をついているわけではない。
怖がっているわけでもない。
ただ、そこだけが抜けている。
苦しみが切られた。
同時に、苦しみにつながる記憶も切られた。
その中には、雨宮ソウタとのつながりも含まれていた。
ユウリはトウマを見る。
「何で」
声が震えた。
「何で、雨宮のことまで」
トウマは灰谷から手を離した。
「残っていたら、また引っ張られる」
「だからって」
「その記憶は、神話と一緒に絡んでいた」
トウマは淡々と言う。
「偽日輪。白環相談所。仮信徒化。雨宮ソウタ。全部、同じ束に絡まっていた。一本だけ残せば、そこからまた侵食する」
「でも、雨宮は灰谷を心配してたんだぞ」
「心配が鎖になることもある」
その言葉に、ユウリは強く反発したかった。
だが、灰谷を見ると、言葉が詰まる。
彼は本当に楽そうだった。
さっきまで、救済通知に囚われ、泣きながら《許可する》を押しかけていた少年が、今は落ち着いて呼吸している。
もし雨宮のことを思い出させれば、また苦しむのかもしれない。
また通知が戻るのかもしれない。
また、存在しない神の信徒残響が寄ってくるのかもしれない。
それでも。
ユウリは思う。
それでも、全部切っていいのか。
灰谷は立ち上がろうとして、少しふらついた。
ミオが慌てて支える。
「大丈夫ですか」
「うん。ありがとう。えっと……君たち、誰?」
その一言が、また胸に刺さった。
ユウリたちは彼を探しに来た。
雨宮が彼の存在を証言してくれた。
レンはログの裂け目を追った。
ミオは名前が消える恐怖を知っているから、ここまで来た。
でも、灰谷にはその全部がない。
彼にとっては、知らない誰かが突然部屋にいるだけだ。
トウマは言った。
「帰れるなら帰れ。ここに長くいるな」
「帰るって……どこに?」
灰谷が周囲を見回す。
その目に、不安が戻る。
「ここ、俺の部屋じゃないよな」
レンが端末を見る。
「住所ログがない。保護対象記録も裂けてる。学校の出席情報も欠けてる。こいつ、自分の帰る場所も一部切られてるかもしれない」
灰谷の顔色が変わった。
「何それ。俺、家どこだっけ」
トウマが少しだけ目を伏せる。
それは、ほんの一瞬の反応だった。
だが、ユウリは見た。
トウマも、分かっている。
切れば苦しみは消える。
でも、切断面の向こうに何が残るか、完全には制御できない。
トウマは万能ではない。
それでも、切るしかないと思っている。
灰谷は自分のポケットを探り、学生証を取り出した。
そこには名前が残っていた。
灰谷ユズル。
だが、住所欄の一部が薄い。
緊急連絡先の欄は、黒く裂けている。
灰谷はそれを見て、笑おうとした。
失敗した。
「なあ、俺……助かったんだよな?」
誰もすぐには答えられなかった。
最初に答えたのは、トウマだった。
「助かった」
短い断言。
灰谷は少しだけ安心したように息を吐く。
「そっか」
だが、ユウリにはその言葉が重すぎた。
助かった。
たぶん、それは嘘ではない。
でも、何から助かったのか。
何を失って助かったのか。
誰がその失ったものを覚えているのか。
その答えは、部屋のどこにもなかった。
ミオが、灰谷の学生証を見つめながら小さく言った。
「名前は、残っています」
「うん」
ユウリは頷く。
「でも、名前だけじゃ足りない」
第2話で学んだことだった。
名前は本人だけのものではない。
呼ぶ人がいて、覚えている人がいて、残っている場所があって、初めて現在に留まる。
灰谷ユズルという名前は、まだ学生証にある。
でも、雨宮ソウタとの記憶が切れている。
相談所にいた記録が裂けている。
帰る場所の一部が欠けている。
それは本当に「残っている」と言えるのか。
トウマはユウリを見た。
「まだ名前があるならいい」
「それだけで?」
「それだけ残せれば十分な時もある」
「十分じゃない時は?」
トウマは答えなかった。
その沈黙が、部屋の無音と混ざる。
遠くで、踏切の赤い光がまた点滅した気がした。
音は聞こえない。
だが、灰谷のスマホが一瞬だけ震えた。
画面は黒いまま。
それでも、そこに白い文字が一行だけ浮かぶ。
《切断を確認》
《救済処理:中断》
《未回収信徒:一名》
《再接続候補を検索中》
レンが叫んだ。
「まだ終わってない!」
トウマの表情が初めて険しくなる。
部屋の隅で、崩れたはずの信徒残響の欠片が、白い灰のように集まり始めていた。
完全には消えていない。
灰谷の苦しみは切った。
だが、存在しない神の側は、まだ灰谷を諦めていない。
しかも今度は、切断された線の断面から入ろうとしている。
アヴィが表示する。
《警告》
《切断面に残響集積》
《欠落街区深部へ反応波及》
《第零保管庫跡:反応》
「第零保管庫……」
ユウリが呟いた瞬間、団地の床が低く震えた。
まるで、建物の下で巨大な紙束が裂けるような音がした。
トウマは扉の方を見る。
「まずいな」
「何が」
「ここで切ったせいで、奥が起きた」
その言葉と同時に、廊下の先から黒い紙片が一枚、ひらりと流れ込んできた。
紙片には、途中で切れた文字が書かれていた。
――保管庫。
ユウリは、その紙片を見つめる。
灰谷は救われた。
でも、救いの切断面から、もっと深い欠落が開き始めていた。




