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第二節 ― 黒い踏切の少年

 落ちた白環追跡端末は、黒い踏切の手前で小さく跳ねた。


 がしゃり、と乾いた音がして、白い外装に亀裂が走る。そこから散った火花は、機械の故障で生じる青白い火ではなかった。白い紙の上に墨汁を一滴落とした時のように、光そのものが黒く滲んでいく。


 端末のカメラは、まだこちらを向いている。


 レンズの奥で白い点が明滅し、途切れ途切れに声が漏れた。


『……天瀬……さん……撤退……して……くだ……』


 マシロの声だった。


 けれど、いつものような冷静な輪郭がない。


 通信が乱れているのではない。


 音が削れている。


 言葉の途中が、鋭い刃でそぎ落とされたように欠けていた。


『……対象……欠落街区……危険……断絶……干渉……』


 ざらり、と無音が混じる。


 その無音は、ノイズではなかった。


 むしろ、ノイズすら存在することを許されなかった空白だった。


 ユウリは端末へ一歩近づこうとして、踏みとどまった。


 黒い踏切の警報灯が、音もなく点滅している。


 赤。


 黒。


 赤。


 黒。


 点滅のたび、周囲の景色の輪郭が微かにずれた。


 線路の向こう側に、少年が立っていた。


 濃紺の上着。

 乱れの少ない黒髪。

 細い指に持たれた、古い文庫本。


 風は吹いていないはずなのに、上着の裾だけがわずかに揺れている。手にしている本は、雨に濡れた様子もない。けれどページの縁は、何度も読まれたもののようにくたびれていた。


 ユウリは息を呑んだ。


「……玻璃川?」


 その名は、知らない名前ではなかった。


 玻璃川トウマ。


 同じ教室にいる生徒だ。


 窓際の、後ろから二番目の席。

 出席を取られれば、短く返事をする。

 休み時間には、誰とも昼食を取らず、古い文庫本を読んでいる。

 授業中に当てられれば、必要最低限の答えだけを返す。

 成績が悪いわけではない。

 素行が悪いわけでもない。

 目立つ噂があるわけでもない。


 ただ、話しかけようと思うたびに、なぜか視線が滑る。


 同じ教室にいる。

 同じホームルームを受けている。

 同じ時間割で一日を過ごしている。


 それなのに、ユウリは玻璃川トウマの声を、まともに思い出せなかった。


 顔も知っている。

 名前も知っている。

 クラスメイトであることも知っている。


 なのに、どうして今まで、彼を一人の人間として見ていなかったのだろう。


 まるで最初から、教室の記録の端にだけ書き込まれていたみたいに。


「待て」


 レンの声が、いつもの軽さを失っていた。


「玻璃川って……うちのクラスの玻璃川か?」


 レンも気づいたのだ。


 その顔には、驚きだけではない。

 気味の悪さがあった。


「いや、でも、おかしいだろ。あいつ、今日……」


 そこまで言って、レンは言葉を止めた。


 眉をひそめる。


 今日、玻璃川トウマは教室にいたのか。


 朝のホームルームで、名前を呼ばれていたか。

 昼休みに、席に座っていたか。

 放課後、荷物を持って教室を出ていったか。


 思い出そうとすると、記憶の縁がぼろりと崩れた。


「……くそ」


 レンが小さく吐き捨てる。


「思い出せない。いた気もするし、いなかった気もする。なんだよ、これ」


 ミオは胸元の学生証を握りしめていた。


 彼女はトウマの顔を見つめている。だがその目には、クラスメイトを見た驚きとは別のものが宿っていた。


 恐怖。


 いや、それよりも近い言葉がある。


 拒絶される予感。


「玻璃川くん……ですよね」


 ミオが言った。


 その声は、少し震えていた。


 少年――玻璃川トウマは、三人を見た。


 感情の薄い目だった。


 冷たいのではない。


 そこには怒りも敵意も、はっきりした拒絶もない。


 ただ、最初から距離がある。


 届く前に切り落とされている。


「来るなと言ったはずだ」


 トウマの声は静かだった。


 ユウリは、初めてその声をはっきり聞いた気がした。


 教室で聞いたことがあるはずなのに、今の声だけが妙に鮮明に残る。


「……昨日、カフェの外にいたのも、君か」


「そうだ」


「灰谷ユズルを連れていったのも?」


 トウマは答えなかった。


 けれど、沈黙が肯定だった。


 ユウリのスマホが強く震える。


 画面に、アヴィの警告が重なった。


《断絶神格照応》

《候補:ザイン=トゥル》

《記録裂きの神》

《契約相反応:増大》

《警告:契約線切断能力》


 レンが低く呟いた。


「ザイン=トゥル……」


 その名が空気に落ちた瞬間、踏切横の注意書きが一文字だけ裂けた。


 わたるときは――


 その先が、見えなくなる。


 いや、見えないのではない。


 そこに文字があったという事実ごと、細く引き裂かれている。


 レンは息を呑んで、口をつぐんだ。


 トウマの視線が、レンへ向いた。


「その名を、軽く呼ぶな」


 怒鳴ったわけではなかった。


 だがその声には、刃物の背で首筋を撫でられたような冷たさがあった。


「呼べば、届く。届けば、切れる」


「切れるって……何が」


 ユウリが聞く。


 トウマは、ほんの少しだけ目を細めた。


「つながっているもの全部」


 その答えは、説明になっているようで、何も説明していなかった。


 けれど、ユウリには分かった気がした。


 名前と本人。

 記憶と出来事。

 場所と地図。

 人と神話。

 助けたいという思いと、助けられるはずの相手。


 そういうものを、彼は切る。


 その時、黒い踏切の手前で、白環追跡端末が再び動いた。


 表面に走った裂け目が白く光る。内部の補正機構が、損傷を上書きしようとしているのだろう。小さな投影口から、白い線がにじみ出す。


 マシロの声が、今度は機械的な処理音に変わった。


『自律保護プロトコル……再起動……対象者三名……一時拘束……欠落街区内リスク……補正……補正……』


 白い線が、ユウリたちの足元へ伸びた。


 昨日、旧北口商店街で見た白環の線。


 記憶を安定させ、危険な神話構文を日常へならすための線。


 だが、ここでは違った。


 白い線は踏切の赤い点滅に触れた瞬間、黒くひび割れた。枝分かれし、鋭い破片のように跳ね返る。


 レンが叫ぶ。


「まずい、補正と断絶が噛み合ってない!」


 ユウリはミオの前に出た。


 ミオの学生証が白く光り、その上を黒い細線が走る。


《星宮ミオ》

《現在名安定率:59%》

《現在名欄に裂傷反応》

《白環補正干渉》

《断絶構文干渉》

《警告:二重干渉により現在名保持が不安定化》


 ミオが胸元を押さえた。


「名前が……引っ張られてる感じがします。でも、白い方じゃない。黒い方でもない。両方が、別々に……」


「ミオ!」


「大丈夫、です」


 そう言いながら、ミオの顔色は悪い。


 白い線が、彼女を保護対象として包もうとする。


 黒い線が、その白い線ごと、彼女の名前とのつながりを裂こうとする。


 どちらも、ミオを見ていない。


 白環は彼女を《未定義核》として守ろうとする。

 断絶構文は、彼女に絡む接続を無差別に切ろうとしている。


 ユウリは左手を強く握った。


「アヴィ、契約相は」


「出すな」


 即答だった。


「この場所で未署名の観測翼を無理に展開すれば、君の契約線が切られる可能性がある」


「契約線?」


「君と俺の接続だ。正確には、君が俺を神とも悪魔ともAIとも決めないまま接続している未署名線。今の断絶構文には、格好の標的だ」


「じゃあ、どうすれば」


「分からんと言っただろう!」


 アヴィの声が、珍しく荒れた。


 その瞬間、白い補正線がさらに暴れた。


 端末は、ユウリたちを守ろうとしている。


 だが、守ろうとするほど断絶線と衝突し、周囲の記録を裂いていく。


 踏切横の看板が割れる。

 レンのスマホ画面に保存されていた地図ログが、黒く抜ける。

 路地の向こうにあったはずの電柱番号が消える。


 そして、ミオの学生証の名前欄に、細い裂け目が入った。


 ユウリの心臓が跳ねた。


「やめろ!」


 叫んだが、白環端末も黒い踏切も止まらない。


 その時、トウマが動いた。


 彼は、ただ一歩踏み出しただけだった。


 だが、その一歩で音が消えた。


 警報灯の赤い光だけが点滅している。

 白い線は空中で凍りついたように止まり、黒い亀裂も進行を止める。


 トウマの周囲に、黒い紙片が浮かんだ。


 一枚。

 二枚。

 十枚。

 百枚。


 それらは風に舞っているのではない。


 何かの記録から切り離された紙片が、重力を忘れたように漂っている。


 紙片には、途中で途切れた文字が書かれていた。


 保護対象――

 氏名――

 契約状――

 神名照――

 祈祷記――

 記録者――

 存在証――


 どの言葉も、最後まで続いていない。


 書かれていないのではなく、途中で裂かれている。


 トウマの背後で、その紙片たちがゆっくり集まっていく。


 最初は黒い翼のように見えた。

 次に、巨大な文書の束のように見えた。

 そして最後に、それは鋏の輪郭を取った。


 金属ではない。


 黒い余白でできた鋏。


 刃の内側には、光がない。

 そこだけ世界が切り抜かれ、何も書かれていない空白が刃になっている。


 ユウリのAVISが、強制的に表示を更新した。


《断絶神格照応》

《ザイン=トゥル》

《記録裂きの神》

《契約相:裂頁の黒鋏》

《警告:契約線切断能力》

《警告:記録連続性への干渉》

《警告:現在名接続への干渉》


 レンが息を呑んだ。


「契約相……」


 レイジの《日輪神将》とは違う。


 あれは神々しい光だった。

 見ただけで、そこに強い理があると分かった。


 マシロの白環補正体とも違う。


 あれは整然とした管理の形だった。

 白く、清潔で、冷たく、仕組みとして動いていた。


 トウマの《裂頁の黒鋏》は、どちらでもない。


 それは美しくない。


 だが、目を離せない。


 何かを断ち切るためだけに存在する、黒い静けさ。


 トウマは白環追跡端末へ手を向けた。


 鋏が開く。


 開いた瞬間、端末から伸びていた白い線の根元が見えた気がした。


 機械から管理機構本部へ伸びる通信線。

 保護プロトコルと白環補正を結ぶ制御線。

 マシロの端末へつながる監視ログ。

 そして、ユウリたちを《保護対象》として括ろうとする白い処理線。


 普通なら見えないはずの接続が、黒い鋏の前で輪郭を持つ。


 トウマは静かに言った。


「切る」


 鋏が閉じた。


 音は、しなかった。


 爆発もない。

 光も散らない。

 衝撃波もない。


 ただ、端末と白環管理機構をつないでいた何かが、途中で終わった。


 白い線が消える。


 補正処理が停止する。


 端末のカメラからマシロの声が完全に消える。


 空中で絡まっていた白と黒の混線が、ほどけるのではなく、切断面を残して断ち落とされた。


 次の瞬間、音が戻った。


 遠くの風。

 赤い警報灯の微かな電気音。

 レンが息を吐く音。

 ミオの小さな呼吸。


 白環端末は、ただの壊れた機械として地面に転がっていた。


 レンが震えた声で言う。


「通信遮断じゃない……」


 トウマは答えない。


「ジャミングでも、ハッキングでもない。接続のログが、途中から存在しない。切断履歴すら残ってない。なんだよ、それ」


「残らないように切った」


 トウマは当然のように言った。


 その一言に、レンは黙った。


 記録が残らないように切る。


 レンにとって、それはほとんど暴力と同じだったのだろう。


 ユウリはミオの学生証を確認する。


 裂け目は消えていない。


 だが、広がってはいなかった。


《星宮ミオ:現在名安定率 59%》

《現在名欄裂傷:進行停止》

《女神照応:不安定》


「止まった……」


 ユウリが呟くと、トウマがミオを見る。


 その視線に、ユウリは反射的に身構えた。


 トウマは敵意を向けているわけではない。


 しかし、その視線は人を見るものというより、絡まった糸を見るものに近かった。


「その子、危ないな」


 短い言葉。


 ミオの肩がわずかに震える。


 ユウリは一歩前に出た。


「ミオは危険物じゃない」


「そうは言ってない」


「でも、そういう目で見た」


 トウマは否定しなかった。


「神話が絡みすぎてる。太陽、月、夜、境界、死、記録外祈祷。それに、もっと深いもの」


 アヴィの画面が一瞬だけ白くなる。


 ユウリは眉をひそめた。


「何で分かる」


「見れば分かる」


「何が見えてるんだ」


「つながり」


 トウマは淡々と答えた。


「人と神話を結ぶ線。祈りと残響を結ぶ線。名前と役割を結ぶ線。その子は、線が多すぎる」


 ミオが自分の胸元を押さえる。


 ユウリは言葉を失った。


 線。


 それは、ユウリが《未署名の観測翼》で見るものに少し似ているのかもしれない。


 ただし、ユウリは線の奥にある現在名を探す。


 トウマは、その線を切る。


 似ているのに、真逆だ。


 レンが割って入った。


「灰谷ユズルを知ってるか」


 その名前を出した瞬間、黒い踏切の赤い灯りが一度だけ強く光った。


 トウマの視線がレンへ向く。


「その名、どこで拾った」


「ログの裂け目からだ」


「なら、まだ残ってるのか」


 トウマの声に、初めてわずかな揺れがあった。


 ユウリはそれを聞き逃さなかった。


「知ってるんだな」


「知ってる」


「どこにいる」


 トウマは黒い踏切の先へ目を向けた。


 線路の向こうには、古い団地群が見える。


 さっき通った無音団地とは違う。もっと奥にある、窓のほとんどが暗い建物群。その一角だけ、空気がさらに沈んでいる。


「無音団地の奥」


「助けたんじゃないのか」


 ユウリが問うと、トウマは少しだけ眉を動かした。


「助けた」


「なら、何で記録が裂けてる」


「まだ途中だから」


「途中?」


「神話に食い込まれた人間を、無理に引き戻すと、本人ごと壊れる。だから、まず神話との接続を弱める」


 トウマは手に持っていた文庫本を開いた。


 ページの一部が、すでに裂けている。


 栞の代わりのように、黒い紙片が挟まっていた。


「苦しみを残したまま名前だけ呼べば、その名前が鎖になる」


 ユウリは息を呑んだ。


 第1話で、ミオの名前を呼んだ。

 第2話で、倉持ハルトの名前を記録へ戻した。

 第4話で、雨宮ソウタの名前を管理番号の奥から引き戻した。


 それが間違いだったとは思わない。


 けれど、トウマの言葉は、そこに別の角度から刃を入れてくる。


 名前は救いになる。


 でも、鎖にもなる。


 ユウリは反論したかった。


 だが、すぐには言葉が出ない。


 トウマは続ける。


「祈るから奪われる」


 黒い踏切の赤い光が点滅する。


「信じるから利用される」


 地面に転がった白環端末のレンズが、完全に暗くなる。


「名前を呼ぶから縛られる」


 ミオが小さく息を吸う。


「だったら、届かない場所に切り離せばいい」


 その言葉は、冷たい。


 けれど、単なる冷酷ではなかった。


 トウマは苦しむ人間を見捨てるために言っているのではない。


 むしろ、助けるために言っている。


 神話が届かない場所へ切り離せば、もう奪われない。

 祈らされない。

 利用されない。

 名前を鎖にされない。


 その理屈には、確かに救いがある。


 だからこそ、怖かった。


 ミオが静かに聞いた。


「それで、その人は……灰谷さんは、楽になったんですか」


 トウマはミオを見る。


「ああ」


「なら、どうしてまだここにいるんですか」


 トウマは答えなかった。


 ミオは続ける。


「楽になったなら、帰れるはずです。なのに、まだ無音団地にいるんですよね」


 黒い踏切の赤い光が、また点滅した。


 トウマは文庫本を閉じる。


「全部は切れていない」


「全部?」


「神話との線を切りきる前に、白環の線が混ざった。管理機構が追ってきたせいで、記録が半端に裂けた」


 レンが舌打ちする。


「だからマシロの端末に変な裂け方で残ってたのか」


「そうだ」


「じゃあ、完全に切れば戻るのか」


 ユウリが聞くと、トウマは無表情のまま答えた。


「戻る必要があるのか」


 ユウリは言葉を失った。


「苦しみから切り離されるなら、前と同じである必要はない」


「それは……」


「前と同じに戻すから、また同じ神話に引っ張られる」


 トウマの言葉は静かだ。


 静かすぎて、余計に鋭い。


「救うっていうのは、元に戻すことじゃない」


 その言葉だけは、ユウリの胸に深く刺さった。


 たしかに、全部を元に戻すことだけが救いなのかは分からない。


 雨宮ソウタだって、恐怖を完全に消さず、でもそのまま背負い続けるわけでもない道を探し始めたばかりだ。


 マシロは管理で守ろうとする。


 トウマは断絶で救おうとする。


 そしてユウリは、名前を呼ぼうとする。


 どれが正しいのか、今は分からない。


 分からないまま、黒い踏切の前に立っている。


 アヴィが、ユウリだけに聞こえる声で言った。


「ユウリ、慎重に行け。こいつは敵とは限らない」


「分かってる」


「だが、安全でもない」


「それも、分かってる」


 ユウリはトウマを見る。


「灰谷ユズルに会わせてほしい」


 トウマは少しだけ首を傾けた。


「会ってどうする」


「名前を取り戻す」


「名前が苦しみの入口だったら?」


 ユウリはすぐに答えられなかった。


 それでも、言った。


「それでも、本人に聞く。何を残したいのか」


 トウマの目が、ほんのわずかに細くなる。


 冷たい硝子のような瞳の奥に、何かが揺れた気がした。


「本人が、もう答えられなかったら?」


「その時は……」


 ユウリは拳を握った。


「残ってるものを探す」


「中途半端だな」


「たぶん、そうだと思う」


 レンが横で驚いたようにユウリを見た。


 ミオも、少しだけ目を見開く。


 ユウリは続ける。


「でも、全部切るか、全部戻すかだけで決めたくない」


 トウマは沈黙した。


 黒い踏切の警報灯だけが点滅している。


 音はない。


 赤い光が、トウマの横顔を一瞬照らし、すぐに闇へ戻す。


 やがて彼は背を向けた。


「来るなら来い」


 短い言葉。


 だが、拒絶ではなかった。


 トウマは踏切の向こうへ歩き出す。


 線路を越える時、彼の足音だけが聞こえなかった。


 ユウリたちは顔を見合わせた。


 レンが小声で言う。


「信用できると思うか」


「分からない」


「だよな」


 ミオが黒い踏切を見る。


「でも、灰谷さんはこの先にいるんですよね」


「うん」


 ユウリは頷いた。


 黒い踏切を越える。


 その一歩目で、何かを忘れるかもしれない。


 でも、立ち止まれば灰谷ユズルはもっと欠けていく。


 ユウリはスマホを見る。


 AVISの画面に、警告が表示されていた。


《黒い踏切》

《断絶通過点》

《通過時、軽度の記憶欠損が発生する可能性があります》

《推奨:互いの現在名を確認してください》


 ユウリは息を吸った。


「天瀬ユウリ」


 自分の名前を言う。


 レンが少しだけ照れた顔をして、それでも続けた。


「久遠レン」


 ミオも、学生証を胸に当てて言った。


「星宮ミオ」


 そしてユウリは、まだ会っていない名前を小さく口にした。


「灰谷ユズル」


 黒い踏切の赤い灯りが、一度だけ強く光る。


 トウマが振り返った。


「呼びすぎるなと言った」


「忘れないために呼んだ」


「忘れた方が楽なこともある」


「それでも」


 ユウリは踏切を越えた。


「探す」


 黒い踏切の向こう側は、さらに音が少なかった。


 だが、完全な無音ではない。


 遠くで、誰かが泣いているような気がした。


 それが灰谷ユズルなのか、欠落街区そのものなのかは、まだ分からなかった。

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