第一節 ― 欠落街区
神狭市は、西へ行くほど音が減る。
最初にそれに気づいたのは、レンだった。
「……おかしいな」
星綴高等学園から駅を背にして歩き、住宅街を抜け、古い線路沿いの道へ入ったあたりで、レンはスマホを見ながら立ち止まった。
画面には地図アプリが表示されている。
現在地を示す青い点は、三人が立っている道の上ではなく、少し離れた住宅の屋根の上にあった。数秒後、青い点は線路の向こうへ飛び、さらに数秒後には、何も表示されていない灰色の空白地帯へ移動する。
「GPSが跳んでる」
レンは画面を指で拡大した。
「この先、道があるはずなんだよ。少なくとも航空写真にはある。でも地図データ上だと、ここで途切れてる」
ユウリは画面を覗き込んだ。
確かに、道は途中で切れていた。
まるで地図を描いていた誰かが、途中でペンを止めたように、住宅街の細い道路が不自然なところで終わっている。その先には建物の輪郭だけが薄くあり、住所も、店名も、バス停も、交差点名も表示されていない。
そこだけ、神狭市の地図から欠けていた。
ミオが前方を見る。
線路沿いの歩道の先に、古い案内標識が立っていた。
青い板に白い文字。
けれど、その文字の一部が抜けている。
神狭市西部再開発――
その後が読めない。
文字が消えているのではない。削られているのでもない。標識の表面そのものが、そこだけ薄く欠けていた。雨に錆び、風に剥がれた古い看板なら分かる。だが、欠け方が不自然だった。
文字の意味だけが切り取られたように見える。
「ここから、ですね」
ミオの声が少し小さくなった。
「空気が変わりました」
ユウリも、それを感じていた。
駅前や学校のある区域には、いつも人の音がある。車の音。信号機の電子音。店の自動ドア。どこかのマンションから聞こえるテレビ。子どもの声。自転車のブレーキ。誰かの笑い声。
だが、この辺りにはそれが薄い。
まったく無音ではない。遠くで車は走っているし、電線の上では鳥が鳴いている。風も吹いている。
それなのに、どの音も少し遠い。
現実の表面に、一枚だけ透明な膜が挟まっているようだった。
アヴィが起動する。
《欠落街区》
《記録連続性:不安定》
《撮影データ保存失敗率:62%》
《音声ログ欠損率:41%》
《注意:ここでは“見たこと”と“残ること”が一致しません》
「見たことと、残ることが一致しない……」
ユウリは画面の文字を声に出した。
レンが舌打ちする。
「最悪だな。俺の仕事、半分死ぬじゃん」
「半分で済む?」
「済まないかも」
レンはスマホのカメラを起動し、前方の標識を撮った。
シャッター音が鳴る。
だが、保存された画像を開いた瞬間、三人は息を止めた。
標識が写っていない。
そこにあったはずの青い案内板は、写真の中ではただの灰色の柱になっていた。文字だけでなく、標識そのものが、意味を持つものとして残っていない。
レンの顔が強張る。
「もう一回」
彼は角度を変えて撮った。
今度は標識らしきものが写った。だが、青い板の中央に黒い帯が走っており、文字は一切読めない。
三度目。
標識は写った。文字も少しだけ残った。
神狭市西部再――
そこで写真は途切れている。画像の右半分が、鋭利な刃物で切り落とされたように黒く抜けていた。
「……ログが裂けてる」
レンの声は、興奮よりも恐怖に近かった。
彼にとって、記録は武器だった。情報を拾い、照合し、残すことが、彼の戦い方だった。
その記録が残らない。
見たものが、見たものとして保存されない。
それはレンにとって、足元の床が消えるようなものなのだろう。
ユウリはスマホを握り直した。
名前を呼ぶこと。
記録を残すこと。
覚えていること。
この数日の戦いで、それらがどれほど大事かを知った。
だからこそ、この場所は怖い。
ここでは、見ても残らない。
覚えてもつながらない。
名前を呼べば届くかもしれないが、届いた先から逆に引っ張られるかもしれない。
「行こう」
ユウリは言った。
言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
ミオが頷く。
レンもスマホをしまわず、画面をつけたまま歩き出した。
*
欠落街区は、廃墟ではなかった。
そこが、まず不気味だった。
人の暮らしはある。
古い団地のベランダには洗濯物が干されている。道路脇には子ども用の自転車が倒れている。郵便受けには新しいチラシが挟まっている。町工場のシャッターには、最近貼られたらしい配達票が残っている。
なのに、人の気配だけが薄い。
団地の窓にカーテンはある。
だが、内側からテレビの光は漏れない。
公園には砂場がある。
だが、足跡がない。
商店らしき建物には自動販売機がある。
だが、電子音がしない。
ユウリたちは、古びた団地群の前を通り過ぎた。
建物の壁には、かすれた文字で《神狭西第三団地》と書かれているはずだった。
だが、実際に読めたのは、
神狭西 第 団地
それだけだった。
数字が抜けている。
それだけなのに、建物全体が自分の年齢を忘れているように見えた。
ミオが団地を見上げる。
「ここ、声がありません」
「声?」
「はい。人が住んでいる感じはあるのに、呼ばれている感じがしません」
ミオの言葉は時々、ユウリにはすぐ理解できない。
だが、最近は少しずつ分かるようになってきた。
彼女は、名前や祈りや記録に反応する。
人が人を呼ぶ声。
場所が自分の名を保つ響き。
そういうものを、たぶんユウリたちよりも敏感に感じ取っている。
「無音団地」
アヴィが表示した。
《ロケーション候補:無音団地》
《音声記録欠損》
《住民名簿照合失敗》
《生活痕跡あり/音声痕跡なし》
《注意:長時間滞在非推奨》
「名前、そのままだな」
レンが小さく言った。
「ここが無音団地ってことは、灰谷ユズルもこの辺に?」
「まだ分からない」
ユウリは答えたが、胸の奥がざわついていた。
灰谷ユズル。
その名前を口に出すのは避けた。
今は、心の中で思うだけにする。
だが、思っただけでも、遠くで何かが紙を裂いたような気がした。
ユウリは肩越しに振り返る。
誰もいない。
ただ、団地の階段の踊り場に、半分だけ剥がれた掲示物が揺れている。
自治会のお知らせ。
だが、自治会名が読めない。
何月何日の行事かも分からない。
紙には確かに文字が印刷されているのに、意味が途中で切れている。
*
団地を抜けると、細い路地に入った。
左右には古い住宅と町工場の壁が迫っている。
路地はまっすぐ伸びているように見えた。だが、進むたびに角度が変わる。右へ曲がったはずなのに、さっきの団地の裏へ戻りかける。左へ進んだはずなのに、見覚えのない壁に突き当たる。
レンの地図は完全に役に立たなくなっていた。
「これ、道が変わってるんじゃない」
「何が変わってる?」
「俺たちの記録。たぶん、歩いた経路が途中で切れてる。だから現在地の計算ができない」
レンはスマホを見せた。
移動履歴が表示されている。
だが、その軌跡はひどかった。
直線で歩いたはずの部分が途中で途切れ、別の場所から急に再開している。途中には、黒い空白がいくつも挟まっている。
歩いたはずの道が、記録の上では存在しない。
アヴィが表示する。
《ロケーション候補:記録裂けの路地》
《移動ログ欠損》
《位置情報分断》
《この路地では“どこから来たか”が失われやすくなります》
ミオが不安そうに振り返る。
「私たち、戻れますか」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
ユウリは、後ろの路地を見る。
歩いてきたはずの道が、少し違って見えた。
さっきまであったはずの青いゴミ箱がない。
壁の落書きの位置が変わっている。
電柱の番号札が、途中で途切れている。
自分たちは、確かにここを歩いてきた。
でも、その事実が周囲から認められていない。
「大丈夫」
ユウリは言った。
根拠はなかった。
でも、言わなければいけない気がした。
「戻る。戻れなくなったら、名前を呼び合う」
レンが少し笑った。
「今、それ危険なんじゃなかったか」
「危険だけど、何も呼ばないよりはいい」
ミオが、少しだけ表情を緩めた。
「では、私も呼びます」
「うん」
「ユウリくん。レンくん」
ミオが二人の名前を呼んだ。
小さな声だった。
けれど、その瞬間、路地の冷たさが少しだけ和らいだ気がした。
レンは照れたように目をそらす。
「急に呼ぶなよ」
「呼び合うと言ったので」
「そうだけど」
ユウリは少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
この街区は怖い。
でも、三人でいる。
それだけで、完全には欠けずにいられる気がした。
*
記録裂けの路地を抜けた先に、奇妙な広場があった。
広場といっても、公園ではない。
再開発の途中で空き地になり、そのまま放置されたような場所だった。地面には砕けたアスファルトが残り、雑草が膝の高さまで伸びている。奥にはフェンスがあり、そこに古い工事看板が掛かっている。
神狭市西部再開発計画
第零――
その先が裂けていた。
ユウリは看板へ近づく。
文字は途中で欠けている。
だが、下の方に、かろうじて読める一行があった。
保管庫跡地につき立入禁止
「保管庫……」
レンが反応する。
「第零保管庫跡ってやつか?」
アヴィがすぐに表示する。
《ロケーション候補:第零保管庫跡》
《詳細記録:参照失敗》
《管理機構記録:断片のみ》
《旧式封印施設の可能性》
《断絶神格関連記録を検出》
《警告:深部照合を中断しました》
画面の文字が一瞬だけ乱れる。
次の瞬間、AVISが強制的に閉じた。
「おい」
レンが自分の端末を見る。
「俺のも落ちた」
ミオのスマホも白い画面のまま固まっている。
ユウリはフェンスの向こうを見た。
そこには建物があるはずだった。
だが、何もない。
いや、何もないわけではない。
建物の半分だけが存在していた。
地面から突き出すように、コンクリートの壁が一部だけ残っている。窓枠も、階段も、扉もない。ただ壁の断面があり、その奥に黒い空間が見える。
取り壊された跡というより、建物が途中で切断されたようだった。
そこに何があったのか。
誰が何を保管していたのか。
なぜ第零なのか。
考えようとすると、思考が途中で途切れる。
ユウリは無意識に一歩下がった。
「近づかない方がいい」
アヴィの声が、スマホではなく、耳の奥で聞こえた。
「今はな」
「今は?」
「いずれ来るかもしれない。だが、今の君たちが入れば、何を見たかも残らない」
ユウリは息を呑んだ。
いずれ来る。
それは予言のようで、警告のようだった。
ミオがフェンスを見つめている。
顔色が悪い。
「ミオ?」
「ここ、嫌です」
彼女は珍しくはっきり言った。
「何かが、しまわれていた場所です。でも、しまったことも、しまわれたものも、全部忘れようとしている」
その言葉に、ユウリの背筋が寒くなる。
保管庫。
何かをしまう場所。
けれど、ここはしまったものだけでなく、しまった事実まで欠けている。
管理機構、あるいはそれ以前の組織が、断絶神格の破片を封じようとした場所。
プロットで整理した言葉が、物語の中の現実として立ち上がる。
誰が封じたのか分からない。
何を封じたのか分からない。
封じられたものが、今もそこにあるのかすら分からない。
分かるのは、ここが危険だということだけだった。
フェンスの金網が、風もないのにかすかに鳴った。
ぎし、と。
ユウリはその音に反応して身構えた。
だが、何も出てこない。
代わりに、遠くで踏切の警報灯が赤く点滅するのが見えた。
音はしない。
赤い光だけが、無音のまま点滅している。
黒い踏切。
ユウリは直感した。
次に行くべき場所は、そこだ。
*
黒い踏切は、欠落街区の奥へ続く線路上にあった。
線路は錆びている。
使われていないはずだ。
だが、踏切の警報灯だけが生きている。
赤い光が、右、左、右、左と交互に点滅している。遮断機は上がったまま。警報音はない。電車の気配もない。
ただ、赤い光が点くたびに、周囲の景色が少しずつ欠ける。
踏切名の看板は、黒く塗られている。
かつて何という名前だったのか分からない。
警報灯の下に貼られた注意書きも、途中で途切れている。
わたるときは――
その先がない。
ミオが立ち止まった。
「ここを渡るんですか」
声に不安が滲んでいる。
レンは周囲を見回した。
「他に道、なさそうだな」
「戻る?」
ユウリが聞くと、レンは首を振った。
「灰谷の最終確認地点、たぶんこの先だ。地図は当てにならないけど、ログの欠け方がこっちに寄ってる」
「ログの欠け方で分かるのか」
「消えてる部分の形で、何となく」
レンは苦笑した。
「我ながら嫌な特技になってきた」
ユウリは黒い踏切を見た。
呼べば届く。
届けば奪われる。
そう言われた場所の先へ、今から入る。
怖くないわけがない。
けれど、灰谷ユズルの記録はこの先で裂けた。
誰かが探さなければ、彼は本当に最初からいなかったことになる。
ユウリは一歩踏み出そうとした。
その時、背後で小さな機械音がした。
三人が振り返る。
路地の上空から、白い小型端末がゆっくり降りてきていた。
球体に近い形。
表面に白環管理機構の簡易マーク。
下部にはカメラと小さな投影装置。
マシロの追跡端末だ。
レンが顔をしかめる。
「やっぱり見張ってたか」
端末から、マシロの声が聞こえた。
『天瀬さん、久遠さん、星宮さん。直ちにその場を離れてください』
通信にはノイズが混じっている。
『欠落街区は危険です。これ以上の進入は――』
そこで声が途切れた。
端末が黒い踏切へ近づいた瞬間、白い外装に細い亀裂が走った。
ユウリは目を見開く。
亀裂は物理的なものではない。
映像そのものに走っている。
端末の輪郭が、画面のノイズのようにずれた。
マシロの声が乱れる。
『――補正処理を開始――対象者保護――記録安定化――』
白い光が端末から漏れた。
白環管理区域で見た、あの補正の光だ。
だが、その光は黒い踏切の赤い点滅とぶつかった瞬間、裂けた。
白い線が空中で切れ、黒い亀裂と絡み合う。
周囲の標識が歪む。
レンのスマホ画面に無数の横線が走る。
ミオの学生証が白く光る。
《星宮ミオ:現在名安定率 59%》
《警告:白環補正と断絶構文の干渉》
《現在名欄に裂傷反応》
「ミオ!」
ユウリが彼女を支えようとする。
その前に、白い追跡端末が暴走した。
《保護対象確認》
《補正処理》
《断絶干渉》
《補正処理》
《切断》
《補正》
《――――》
端末から放たれた白い線が、三人の足元へ伸びる。
だが、その線は途中で黒く裂け、鋭い断片となって跳ね返った。
白い補正と黒い断絶が混線し、空間そのものが割れたように見える。
ユウリは咄嗟に左手を構えた。
だが、未署名の鍵は出ない。
アヴィが叫ぶ。
「下がれ! これは補正でも神話残響でもない。接続同士が衝突してる!」
「どうすればいい!」
「分からん!」
その声が本気で焦っていた。
ユウリの背中に冷たい汗が伝う。
白い線が迫る。
黒い裂け目が足元を走る。
ミオが息を詰める。
レンが端末を構えるが、画面は真っ黒に裂けている。
次の瞬間。
音が消えた。
完全な無音。
白い線も、黒い裂け目も、雨上がりの空気も、すべてが一瞬だけ止まった。
黒い踏切の向こうから、一人の少年が歩いてくる。
濃紺の上着。
濡れていない髪。
手には、古い文庫本。
昨夜、カフェ《ノーネーム》の窓の外にいた少年。
彼は白い追跡端末を見上げ、静かに手を伸ばした。
その背後で、黒い紙片が一枚、また一枚と浮かび上がる。
紙片には、途中で切れた文字が書かれていた。
保護対象――
氏名――
契約状――
神名――
そして、彼が指を振る。
白い端末と管理機構をつないでいた見えない線が、音もなく裂けた。
端末はただの機械のように力を失い、地面へ落ちた。
がしゃり、という音が、少し遅れて戻ってくる。
少年はユウリたちを見る。
その瞳は、硝子のように淡く、冷たかった。
けれど、敵意だけではない。
どこか疲れたような色がある。
「ここで白い線を使うな」
少年は言った。
「余計に欠ける」
ユウリは息を呑む。
「君は……」
少年は、黒い踏切の赤い光の中で短く名乗った。
「玻璃川トウマ」
その名が落ちた瞬間、ユウリのAVISが震えた。
画面に、警告が浮かび上がる。
《断絶神格照応》
《ザイン=トゥル》
《記録裂きの神》
《契約相反応:未展開》
《警告:契約線切断能力》
黒い踏切の赤い光が、もう一度点滅した。
ユウリたちは、欠落街区の入口で、断絶派の少年と出会った。




