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序節 ― 消えた保護対象

 翌朝、神狭市は何もなかった顔をしていた。


 駅前の大型ビジョンには、いつも通り化粧品の広告が流れている。昨日、一瞬だけ神話構文反応の警告を映した画面は、もう春でもない桜の花びらを散らしていた。


 通学路の人々も同じだった。


 傘を畳む会社員。

 イヤホンをした大学生。

 コンビニ袋を片手に走る中学生。

 信号待ちでスマホを見ている高校生たち。


 誰も、旧北口商店街に白い円環が浮かんだことなど覚えていないように見えた。


 けれど、ユウリは知っている。


 昨日、あの商店街では人の名前が白く塗られかけた。

 雨宮ソウタという生徒が、自分は信徒ではないと泣きながら叫んだ。

 マシロは彼を管理番号ではなく名前で呼び、白環補正は一時解除された。

 そして、カフェ《ノーネーム》の窓の外で、白い線が黒く裂けた。


 切られた。


 その感覚だけが、左手の奥にまだ残っている。


 神話の光でも、白環の補正でもない。


 もっと冷たいもの。


 何かと何かのつながりを、途中で終わらせる力。


「天瀬、顔やばいぞ」


 昇降口で声をかけられて、ユウリは我に返った。


 倉持ハルトだった。


 彼は片手に購買のパンを持ち、もう片方の手で自分の顔を指差している。


「寝てない顔してる」


「まあ、ちょっと」


「またAVISか?」


 その言い方に、少しだけ本気の怯えが混じっていた。


 第2話の一件以来、倉持はAVIS一般版の話題に軽く乗れなくなっている。以前なら「俺、雷神タイプだったんだぜ」と笑っていたはずの彼が、今は画面を開く前に一度ためらう。


 それも当然だった。


 彼は、自分の名前を失いかけた。


 完全には覚えていない。

 けれど、体のどこかが覚えている。


「違う……と思う」


 ユウリが答えると、倉持は少しだけ眉をひそめた。


「思う、なんだな」


「自信がない」


「そこは嘘でも『大丈夫』って言えよ」


 冗談めかして言いながらも、倉持は笑いきれなかった。


 その時、廊下の向こうからレンが歩いてきた。鞄を肩に引っかけ、スマホを見ながら早足で近づいてくる。顔色が悪い。


「ユウリ」


 レンの声は低かった。


「第二図書準備室。今すぐ」


「何かあった?」


「たぶん、あった」


「たぶん?」


「起きたことの方が消えかけてる」


 その一言で、ユウリの眠気は完全に飛んだ。


   *


 第二図書準備室は、朝の光の中でも少し薄暗かった。


 古い棚に並ぶ学校新聞。創立記念誌。旧校舎の図面。誰が集めたのか分からない七不思議特集のスクラップ。放課後の欠席者の記録を調べた時と同じ場所なのに、今は別の意味で不穏に見えた。


 ミオはすでに来ていた。


 窓際の席に座り、学生証を両手で持っている。


 ユウリが入ると、彼女は顔を上げた。


「おはようございます」


「おはよう。……大丈夫?」


「はい。昨日よりは」


 そう言ってから、ミオは少しだけ目を伏せた。


「でも、少し静かです」


 ユウリは息を止める。


 第5話の前夜、トウマはまだミオの神話を切っていない。だからこの時点で「静か」というのは、昨日の白環管理区域の余波だろう。白く補正されかけたことで、ミオの内側の声が一時的に遠のいているのかもしれない。


 あるいは、欠落街区の方から、すでに何かが近づいているのか。


 ユウリはその考えを振り払った。


 レンが机の上にスマホとタブレットを置く。


「昨日の白環相談所のログ、残ってたやつを整理してた」


「外部保存できなかったんじゃなかったのか」


「普通にはな。だからキャッシュの断片と、AVISの通知履歴と、俺の手書きメモを照合した」


 レンは画面を開いた。


 そこには、昨日の関係者リストらしきものが表示されている。


《雨宮ソウタ》

《契約未遂後反応》

《対話処理へ移行》

《現在名保持》


《対象者:W-039》

《軽度神名残響》

《補正同意》


《対象者:W-040》

《役割名反応》

《経過観察》


 そして、その次。


《対象者:W-041》

《氏名:――》

《記録参照失敗》

《最終確認地点:神狭市西部・――》


 文字が裂けていた。


 消えているのではない。


 白く塗られているのでもない。


 画面のそこだけ、横に細く引き裂かれたように欠けている。名前欄は空白ですらなく、表示領域そのものが途中で切れていた。


 ユウリは喉の奥が冷えるのを感じた。


「これ、誰?」


「分からない」


 レンは悔しそうに言った。


「俺のログにも、最初からこの状態で残ってる。けど、昨日の相談所にW-041はいた。これは確実だ」


「どうして分かるんですか」


 ミオが聞く。


「番号が飛んでる。あと、雨宮ソウタの対話処理ログに、ほんの一瞬だけ出てくるんだ。『同室者あり』って。その同室者のところが裂けてる」


 レンが別の画面を開く。


《雨宮ソウタ》

《対話処理開始》

《同室者:――》

《発言記録:いたよ、――》

《音声ログ破損》


 ユウリは画面に手を伸ばしかけて、止めた。


 触れたら、そこから自分の記憶まで切れそうな気がした。


「アヴィ」


 呼ぶと、ユウリのスマホが震えた。


 黒い羽根のアイコンが、いつもより少し遅れて浮かぶ。


《解析中》

《記録補正ではありません》

《神名偽装でもありません》

《断絶構文を検出》


 続いて、警告が出た。


《記録裂き反応:進行中》

《対象記録:W-041》

《氏名断片:灰――ユ――》

《推定現在名:灰谷ユズル》

《注意:推定名です。呼称には危険が伴います》


「灰谷ユズル……」


 ミオが小さくその名前を繰り返した。


 その瞬間、準備室の蛍光灯が一度だけ揺れた。


 棚の上に積まれていた古い出席簿の一冊が、かすかに開く。


 ユウリは思わず振り返った。


 何もない。


 けれど、部屋のどこかで紙が裂けるような音がした気がした。


 レンが舌打ちする。


「名前を口にしただけで反応するのかよ」


 アヴィが画面に文字を出す。


《断絶構文下の現在名は、呼称によって接続が再形成される場合があります》

《同時に、接続先から逆干渉を受ける危険があります》

《要約:名前を呼ぶと届く。届くと引っ張られる》


 ミオの指が学生証を握りしめる。


「名前を呼ぶことが、危険なんですか」


「いつもじゃない」


 ユウリは答えた。


 答えたかった。


 でも、自信はなかった。


 第1話でミオの名前を呼んだ。

 第2話で倉持ハルトの名前を取り戻した。

 第4話で雨宮ソウタの名前を呼んだ。


 名前を呼ぶことは、ユウリにとって唯一の抵抗だった。


 けれど今、その行為そのものが危険だと表示されている。


 呼べば届く。

 届けば、奪われる。


 その言葉は、昨夜カフェの窓の外にいた少年の気配と重なった。


 切る者は、追われると余計に切る。


 老紳士の声が、耳の奥で蘇る。


   *


 昼休みになる前に、マシロから呼び出しが来た。


 場所は、星綴高等学園の相談室だった。


 第2話の終わりに彼女が現れた、あの白い空気の部屋。


 けれど今日は、白環相談所のような強い白さはない。普通の学校の相談室として整えられている。低いテーブル。柔らかい椅子。観葉植物。壁に貼られた進路相談のポスター。


 それでも、マシロがそこに座っているだけで、部屋の温度が少し下がるように感じた。


「来てくれてありがとうございます」


 マシロはいつものように穏やかに言った。


 だが、その端末はすでに開かれている。


 画面には、ユウリたちが見たものと同じ裂けた記録が表示されていた。


《保護対象:W-041》

《氏名:――》

《記録参照失敗》

《最終確認地点:神狭市西部・欠落街区》


「灰谷ユズルさん」


 ユウリが言うと、マシロの目がわずかに動いた。


「その名前を、どこで」


「AVISが推定しました」


「推定名を不用意に口にしないでください」


 マシロの声は静かだったが、厳しかった。


「断絶構文下では、名前の呼称が追跡線になります。あなたが彼を探すつもりで呼んだ名前が、逆に彼をさらに深い欠落へ落とすこともあります」


「でも、名前を呼ばなかったら、誰も探せない」


「探します。私たちが」


「もう探してるんですか」


「はい」


 マシロは端末を操作した。


 神狭市の地図が表示される。


 駅前、星綴高等学園、旧北口商店街、天御柱神宮。その西側に、薄い灰色の区域がある。


 そこだけ、地図の線が乱れていた。


 道路が途中で途切れている。

 建物名が一部消えている。

 住所の数字が飛んでいる。

 航空写真に切れ込みのような黒い帯がある。


 マシロはその区域を指した。


「神狭市西部、通称・欠落街区」


 ユウリは息を呑んだ。


 昨日、カフェ《ノーネーム》の窓の外で黒い裂け目を残した少年。

 彼が消えた方向も、たしか商店街の西側だった。


「欠落街区は、白環管理区域とは性質が異なります」


 マシロは説明を続ける。


「白環管理区域は、危険記憶や神話構文残響を補正し、日常へ戻すための管理領域です。過剰であれ、不完全であれ、目的は安定です」


「欠落街区は?」


「安定しません」


 短い答えだった。


 マシロの指が地図上をなぞる。


「記録が届かない。記憶がつながらない。写真が残らない。音声ログが途切れる。地図上の道と実際の道が一致しない。人が入っても、どこを歩いたのか説明できない」


「管理できないってことですか」


「補正できないのではありません」


 マシロはユウリを見た。


「補正そのものが、途中で切れます」


 レンが低く言った。


「昨日の白い線が、黒く切れたみたいに」


 マシロは否定しなかった。


「あなたたちも見たのですね」


「見ました」


「なら、理解してください。あそこは危険です。あなたたちが関わるべき案件ではありません」


「それ、前にも聞きました」


 ユウリの声に、少しだけ棘が混じった。


 マシロは表情を変えない。


「何度でも言います。危険だからです」


「でも、灰谷ユズルはそこにいるかもしれない」


「だから私たちが捜索します」


「名前も記録も裂けてるのに?」


 ユウリは思わず身を乗り出した。


「昨日、雨宮ソウタの名前だって、管理番号の奥に埋もれてました。あの時、マシロ先生たちだけだったら、強制安定化してた」


「それは、否定しません」


 マシロは静かに言った。


 その返答に、ユウリは一瞬詰まった。


 責めても、彼女は逃げない。


 だから余計に、単純に怒れない。


「ですが、今回の相手は白環補正体ではありません。断絶です。切られたものは、必ず戻せるとは限りません」


 その言葉に、部屋の空気が重くなる。


 ミオが小さく聞いた。


「断絶って……神様なんですか」


 マシロは少しだけ沈黙した。


「神と呼ぶべきか、神を壊すものと呼ぶべきか。立場によって変わります」


 端末に、警告文が表示される。


《断絶神格照応》

《候補:ザイン=トゥル》

《記録裂きの神》

《契約線切断能力》

《危険度:高》


「ザイン=トゥル……」


 レンが呟く。


 その名前が部屋に落ちた瞬間、観葉植物の葉先が一枚だけ裂けた。


 音もなく。


 葉脈に沿って、すっと。


 ミオが息を呑む。


 マシロは即座に端末を閉じた。


「この名前も不用意に呼ばないでください」


「神の名前なのに?」


 ユウリが聞く。


「断絶神格の名は、祈るための名ではありません。接続を切るための刃です」


 その声に、初めてわずかな緊張が混じっていた。


「特にザイン=トゥルは、記録を裂く神格です。人と神話残滓の契約線、場所と記憶の連続性、名前と呼称の結びつき。そういったものを切断します」


「それって、神話災害から人を助けられるってことじゃないですか」


 レンが言った。


 マシロは頷いた。


「はい。実際に助かる場合があります」


 その肯定が、逆に怖かった。


「だから危険なのです」


 マシロは続ける。


「効く力ほど、使われます。使われる力ほど、正当化されます。断絶は、痛みを即座に終わらせることができる。けれど、痛みと一緒に、その人が何を失ったのか、誰に助けを求めたのか、何を取り戻そうとしていたのかまで切り落とすことがあります」


 ユウリは左手を見た。


 名前を探す鍵。


 白く塗られた記録の奥から、まだ残っている現在名を見つける力。


 でも、もしその現在名につながる線そのものが切られていたら。


 自分は何を見つけられるのだろう。


   *


 相談室を出る時、マシロはもう一度だけ言った。


「欠落街区へは行かないでください」


 ユウリは答えなかった。


 答えたら、嘘になる。


 レンもミオも何も言わなかった。


 廊下に出ると、昼休みのざわめきが戻ってきた。


 教室から笑い声がする。購買へ走る生徒の足音がする。どこかのクラスで机が動く音がする。


 普通の学校。


 普通の日常。


 それなのに、そのすぐ外側で、一人の名前が裂けている。


 最初からいなかったことになりかけている。


 ユウリは壁にもたれ、息を吐いた。


「行くよな」


 レンが言った。


 ユウリは彼を見る。


「危険だって言われたばかりだろ」


「だから何だよ」


 レンは肩をすくめる。


「灰谷ユズルが本当にいたなら、今探さないともっと消える。ログが裂けるってことは、時間が経つほど復元できなくなる。俺は、消えた記録をそのままにしておくのは嫌だ」


 ミオも、静かに口を開いた。


「私も行きます」


「ミオは危ないかもしれない」


「はい」


 彼女は頷いた。


「でも、名前が消えるのは怖いです。自分の名前が消えるのも怖いです。でも……消えた人を、誰も探さなくなることの方が、もっと怖いです」


 ユウリは何も言えなくなった。


 その言葉は、彼女自身の恐怖から出ている。


 無番線ホームで切符に名前を奪われかけ、補講教室で別の名にされかけ、偽日輪に依代として見られ、白環管理区域で未定義核と分類されかけたミオだからこそ言える言葉だった。


 名前が消えること。


 それを誰も探さなくなること。


 どちらも、彼女にとって遠い話ではない。


 ユウリのスマホが震えた。


 アヴィが表示する。


《推奨:接近非推奨》

《欠落街区への侵入は危険です》

《断絶構文との接触により、現在名・記憶・契約相に不可逆的な欠損が発生する可能性があります》


 一拍置いて、次の一行。


《補足:非推奨と表示しても、君は行くんだろうな》


 ユウリは少しだけ笑ってしまった。


「分かってるなら止めるなよ」


 アヴィの文字が返る。


《止めるのも仕事だ》

《止まらない君に、警告を残すのも仕事だ》


 ユウリはスマホを握る。


 左手の奥に、未署名の鍵の熱がわずかに戻る。


「行こう」


 そう言った瞬間、廊下の窓の外で、昼の光が一瞬だけ欠けた。


 雲が通っただけかもしれない。


 でも、ユウリには違って見えた。


 神狭市の西の方角。


 そこだけ、空が薄く裂けているように見えた。


 そして、その裂け目の向こうから、誰かがこちらを見ている気がした。


 名前を呼ぶな、と。


 呼べば届く、と。


 届けば、奪われる、と。


 それでもユウリは、もう一度だけ、心の中でその名前を確かめた。


 灰谷ユズル。


 消えた保護対象。


 まだ、完全には消えていないはずの誰か。


 彼を探すために、三人は欠落街区へ向かうことを決めた。

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