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第四節 ― 未署名の観測翼

 白い人影は、雨の中で音もなく立ち上がった。


 人間の形をしている。


 けれど、人間ではない。


 頭部には顔がなく、目も鼻も口もない。首から下は、白い職員服のような輪郭をしている。腕には白い腕章。胸元には名前ではなく、細い黒文字で管理番号だけが浮かんでいた。


《白環補正体》

《白紙監査官》

《局所自動展開》

《外部干渉制限》


 手には、白紙のバインダー。


 雨に濡れているはずなのに、その紙は一滴も濡れていない。むしろ、周囲の雨粒の方が紙に近づく前に白くほどけて消えていた。


 雨宮ソウタは、その足元で震えている。


 彼の首元には、二つのタグが貼りついていた。


《信徒》

《通信障害被害者》


 片方は、偽日輪が残した役割名。


 もう片方は、白環管理区域が貼ろうとしている補正名。


 どちらも、雨宮ソウタではなかった。


 ユウリは左手を伸ばしたまま、息を止める。


 白い鍵はまだ不完全だった。第3話で偽日輪に向けた時のような、はっきりとした輪郭はない。指先から伸びる細い光が、鍵の形を思い出そうとしているだけのように揺れている。


 背中にも、羽根はない。


 いや、あるのかもしれない。


 けれど、見えない。


 ただ、肩甲骨のあたりが熱い。背中の内側で、白い羽根と黒い文字片が何かを組み立てようとしている感覚だけがあった。


 アヴィの声が響く。


「無理に展開するな。昨日の負荷が抜けてない」


「でも、今やらないと」


「やるなとは言ってない。やるなら、目的を間違えるな」


「分かってる」


「分かってない顔だ」


 アヴィの声はいつも通り生意気だった。


 それが少しだけありがたかった。


 ユウリは息を吸う。


 目の前にいるのは、偽日輪ではない。


 神の名を騙る残り火ではない。


 人を信徒にしようとする敵でもない。


 これは、保護のために動いている補正体だ。


 傷を負った記憶を安定させるために。

 神話構文の再燃を防ぐために。

 被害者を日常へ戻すために。


 だから、壊せばいいわけではない。


 壊せば、雨宮ソウタの中に残った偽日輪の残響が暴れるかもしれない。


 白環補正そのものが途切れれば、商店街全体に広がった記憶の白飛びが、逆に不安定なまま残るかもしれない。


 マシロが叫んだ。


「天瀬さん、下がってください。今の補正体は、対象者の記憶保護を最優先しています。外部干渉を敵性行動と判断する可能性があります」


「敵じゃないなら、止めてください!」


「手動停止には処理理由が必要です。対象者の残響が再活性化している以上、補正を完全停止することはできません」


「じゃあ、名前まで消えるのを見てるんですか!」


 マシロは答えなかった。


 答えられなかったのではない。


 彼女の中では、答えがあるのだ。


 必要な副作用。

 許容できる損失。

 保護のための補正。

 日常復帰を優先する処理。


 それでも、ユウリには見えている。


 雨宮ソウタの名前が、二枚のタグの奥で潰されかけている。


 《信徒》でもない。

 《通信障害被害者》でもない。

 その奥に、まだかすかに残っている名前。


 白紙監査官が動いた。


 顔のない頭部が、ユウリの方を向く。


 バインダーが開く。


 白紙だったページに、文字が浮かんだ。


《外部干渉者:天瀬ユウリ》

《未確定名の観測者》

《補正処理妨害リスク》

《一時保護枠へ追加》


 ユウリの足元の白い線が、円を描く。


 それは逃げ道を塞ぐように、ゆっくり広がった。


 雨音が遠ざかる。


 商店街の景色が、一枚の白い仕切りの向こう側へ押し込められていく。


 レンが叫んだ。


「ユウリ、囲まれてる!」


 振り返ると、白い線はミオとレンの足元にも伸びていた。


《久遠レン》

《情報拡散リスク》

《高密度ログ保持》

《聴取完了まで区域外移動制限》


《星宮ミオ》

《現在名不安定》

《未定義核疑い》

《別枠保護措置対象》


 ミオの学生証が白く光る。


 名前欄の上に、薄い白い帯が重なろうとしていた。


 ユウリの中で、冷たいものが熱へ変わった。


「ミオに触るな」


 その声に反応して、白紙監査官が一斉にこちらを向いた。


 一体ではなかった。


 白い線の各所から、同じ姿の補正体が立ち上がっている。


 古書店《紙魚の巣》の前に一体。

 時枝時計店の前に一体。

 古い薬局の前に一体。

 そして、雨宮ソウタを囲むように二体。


 それぞれが白紙のバインダーを持っている。


 ページが開くたび、商店街の名前が少しずつ薄くなる。


《紙魚の巣》

《神話関連資料店》

《古書店》

《店舗》


《時枝時計店》

《時計修理店》

《店舗》


《柊木薬局》

《薬局》

《店舗》


 固有名が、一般名詞へならされていく。


 ユウリは第2話の補講教室を思い出した。


 黒板に書かれた名前。

 倉持ハルト。

 綴白ナナセ。


 あの時、名前は別の空白に上書きされかけていた。


 今回は違う。


 白環補正は、別の名前を与えているわけではない。


 固有名を外し、分類名へ置き換えている。


 その方が安全だから。


 その方が扱いやすいから。


 その方が、異常な連想を呼びにくいから。


 けれど、分類名になった瞬間、そこにあった時間の厚みが消える。


 紙魚の巣は、ただの古書店ではない。


 時枝時計店は、ただの時計修理店ではない。


 柊木薬局は、ただの薬局ではない。


 雨宮ソウタは、ただの通信障害被害者ではない。


 ミオは、未定義核ではない。


 ユウリの左手に、白い鍵が現れた。


 今度は、かちりという音がした。


 小さい。


 けれど、確かに鍵が噛み合う音。


 背中で、羽根が開く。


 偽日輪の時ほど大きくはない。白い羽根が二枚。そこに黒い文字片が絡みつき、未完成の翼を形作る。羽根の先はところどころ欠け、文字片は雨に濡れる前にほどけて消えそうになっている。


 それでも、翼は立った。


《契約相:未署名の観測翼》

《第二展開》

《現在名探索》

《補正下記録層を走査》


 白い世界の奥で、細い線が見えた。


 光ではない。


 記憶の糸だ。


 雨宮ソウタから、いくつもの糸が伸びている。


 昨日の天御柱神宮。

 鏡池。

 白い日輪。

 押しかけた《許可する》のボタン。

 止めろと叫ぶ誰かの声。

 隣にいた友人の手。

 帰り道で震えながら飲んだ缶コーヒー。

 帰宅後に母親から「顔色が悪い」と言われた記憶。

 そして、今ここで、自分は信徒ではないと叫んでいる声。


 そのすべてが、雨宮ソウタという名前につながっている。


 だが、白環補正はその糸を一本ずつ束ね、別のラベルへ結び直そうとしていた。


 通信障害。

 混乱。

 一時的な恐怖。

 相談対象。

 W-17。


 白紙監査官のバインダーに、管理番号が浮かぶ。


《対象者:W-17》

《契約未遂残響》

《記憶補正抵抗》

《強制安定化処理へ移行》


 マシロが息を呑んだ。


「強制安定化……」


「それ、何ですか」


 ユウリが聞く。


 マシロは端末を強く握った。


「残響と本人記憶の衝突が激しい場合、該当記憶を深層へ封鎖します。日常生活には戻れますが、関連記憶への自力アクセスは困難になる」


「つまり、忘れさせるってことじゃないですか」


「封鎖です。消去ではありません」


「本人が思い出せないなら、同じだ!」


 白紙監査官が、雨宮ソウタへ手を伸ばす。


 白い指先が、彼の首元の《信徒》タグと《通信障害被害者》タグをまとめて包み込もうとしている。


 雨宮ソウタは震えながら叫んだ。


「嫌だ……! 忘れたくない! 怖かったんだよ! でも、忘れたら、また押すかもしれないだろ!」


 その言葉に、ユウリの胸が揺れた。


 恐怖は、ただの傷ではない。


 時には、次に同じ場所へ行かないための印になる。


 それを全部なかったことにすれば、楽になるかもしれない。


 でも、同じ危険へ戻ってしまうかもしれない。


 ユウリは白い鍵を握った。


「アヴィ」


「分かってる」


「どこを剥がせばいい」


「《信徒》は偽日輪の残響だ。剥がしていい。《通信障害被害者》は補正ラベルだ。壊すな。奥へずらせ。本人名への接続を残したまま、恐怖を燃え上がらせない位置へ動かす」


「難しいこと言うなよ」


「だから未熟者には向かないと言っている」


「じゃあ手伝え」


 アヴィが短く笑った。


「最初からそのつもりだ」


 スマホの画面から、黒い文字片が飛び出す。


 それはユウリの白い鍵へ絡みつき、鍵の歯を細かく作り替えた。剥がすためだけの鍵ではない。差し込み、回し、位置を変えるための鍵。


 ユウリは一歩踏み出した。


 白紙監査官が腕を上げる。


 バインダーのページがめくれた。


 そこに、ユウリの項目が表示される。


《天瀬ユウリ》

《補正妨害》

《一時拘束》


 足元の白い円環が立ち上がり、ユウリの膝を縛ろうとした。


 レンが叫ぶ。


「させるか!」


 彼は自分のスマホを円環へ向け、何かを高速で入力する。


 画面にノイズが走る。


「白環の端末認証、完全には無理だけど遅延くらいなら――っ!」


 白い円環の動きが一瞬鈍った。


 レンのスマホから煙のような白いノイズが上がる。


「レン!」


「いいから行け! 長く持たねえ!」


 ミオも動いた。


 彼女は自分の学生証を胸に当て、目を閉じる。


「星宮ミオ」


 小さな声で、自分の名前を呼ぶ。


「星宮ミオ。私はここにいます」


 すると、ミオの足元へ伸びていた白い線が少しだけ引いた。


 彼女自身の現在名が、補正に抵抗している。


 マシロがその様子を見ていた。


 端末には警告が出ているはずだ。


 強制措置を取るべきか。

 補正体を支援すべきか。

 ユウリたちを止めるべきか。


 だが、彼女はすぐには動かなかった。


 ユウリはその一瞬を逃さなかった。


 雨宮ソウタの前に飛び込む。


 白紙監査官の指先が迫る。


 ユウリは鍵を伸ばした。


 まず、《信徒》のタグへ。


 鍵の先端が触れた瞬間、白い光ではなく、偽日輪の残り火が走った。


 熱い。


 昨日の境内の白昼が、頭の中に蘇る。


 《許可する》

 《信徒》

 《正しき光》

 《我を迎えよ》


 雨宮ソウタの記憶に残った偽日輪の声が、耳の奥で膨らむ。


 ユウリは歯を食いしばった。


「違う」


 鍵を回す。


 かちり。


「雨宮ソウタは、信徒じゃない」


 《信徒》のタグに亀裂が入る。


 白紙監査官が反応し、バインダーを閉じようとする。


 マシロが一歩踏み出した。


「天瀬さん、残響だけを剥がしてください! 補正ラベルまで壊せば対象者の恐怖記憶が暴走します!」


 ユウリは一瞬だけ彼女を見た。


 敵としてではない。


 必要なことを言っている人として。


「分かってます!」


 その返事に、マシロの表情がわずかに変わった。


 驚きに近い。


 ユウリは再び鍵を握る。


 《信徒》のタグを剥がす。


 完全に壊すのではなく、雨宮ソウタの記憶から切り離し、偽日輪の残響だけを白い線の外へ押し出す。


 タグがはがれた瞬間、雨宮ソウタが大きく息を吸った。


「っ……!」


 彼の首元から白い炎のようなものが抜ける。


 それは一瞬だけ、小さな日輪の形になった。


 だが、神名はない。


 ただの残響。


 ユウリの背後の観測翼が羽ばたき、黒い文字片でそれを包む。


 残響は雨に溶けるように消えた。


 次に、《通信障害被害者》のタグが残る。


 それは偽りではない。


 昨日、世間的にはそう処理される。


 白環管理区域が、彼を日常へ戻すために必要としているラベル。


 でも、そのラベルが前面に出すぎると、彼自身の記憶を押し潰す。


 ユウリは鍵を差し込む。


 今度は剥がさない。


 回す。


 ゆっくり。


 タグの位置を、雨宮ソウタの名前の上から横へずらす。


 《通信障害被害者》が薄くなる。


 その奥から、本人の名前が浮かび上がる。


《雨宮ソウタ》


 ユウリは叫んだ。


「管理対象じゃない」


 雨の中、声が響く。


「この人には、名前がある!」


 白環が揺れた。


 白紙監査官のバインダーにノイズが走る。


《対象者:W-17》

《対象者:雨宮ソウタ》

《対象者:W-17》

《対象者:雨宮ソウタ》


 表示が何度も切り替わる。


 ユウリはもう一度言った。


「雨宮ソウタ!」


 ミオも続く。


「雨宮ソウタさん!」


 レンも叫んだ。


「雨宮ソウタ! お前、昨日ちゃんと止まったんだろ!」


 周囲にいた人々が、はっとしたようにこちらを見る。


 誰かが呟く。


「雨宮……?」


「あの子、神狭南の……」


「昨日、神社にいた子?」


 断片的な記憶が戻る。


 完全ではない。


 でも、彼が匿名の相談対象ではなく、一人の生徒としてそこにいることを、周囲が認識し始める。


 雨宮ソウタは、涙で濡れた顔を上げた。


「俺……」


 彼の声は震えている。


「俺、押しかけた。でも、止まった。怖かった。忘れたくない。でも、ずっと怖いままも嫌だ」


 それは、矛盾した言葉だった。


 でも、人間らしい言葉だった。


 忘れたくない。

 でも、苦しみ続けたくもない。


 白紙監査官の動きが止まった。


 マシロの端末に新しい表示が出る。


《対象者、現在名保持》

《契約未遂残響:低下》

《恐怖記憶:保持》

《日常復帰支援:必要》

《強制安定化:非推奨》

《対話処理へ移行》


 マシロは、その表示をじっと見つめていた。


 ユウリの背中の翼が揺れる。


 もう限界だった。


 白い羽根がほどけ始める。


 黒い文字片が雨に溶けていく。


 左手の鍵にもひびが入った。


 足元がぐらつく。


「ユウリ!」


 レンが駆け寄ろうとする。


 しかし、その前にマシロが動いた。


 彼女はユウリの肩を支えた。


 白い補正体ではない。


 職員としてでもない。


 ただ、大人の手として。


「無理をしすぎです」


 声は静かだった。


 けれど、少しだけ怒っているようにも聞こえた。


「昨日、契約相を初回展開したばかりでしょう。連続使用は危険です」


「止めるなら、先にあっち止めてください」


「今、止めました」


 マシロは端末へ指示を送る。


 白紙監査官たちのバインダーが閉じた。


 商店街に立ち上がっていた白い人影が、一体ずつ輪郭を失っていく。


 古書店の前の補正体。

 時計店の前の補正体。

 薬局の前の補正体。


 雨に溶けるように消えた。


 白い円環も、少しずつ地面へ沈んでいく。


 ただ、完全には消えない。


 商店街の敷石には、薄い白い線がまだ残っている。


 マシロはユウリから手を離し、雨宮ソウタの前に膝をついた。


「雨宮ソウタさん」


 彼女は、管理番号ではなく名前で呼んだ。


 雨宮がびくっと肩を揺らす。


「あなたには、対話処理を行います。記憶を無理に封鎖しません。ただし、残響が再発する可能性があります。白環相談所で経過観察を受けてください」


「……忘れなくていいんですか」


「はい」


 マシロは少し間を置いてから言った。


「忘れないまま、日常へ戻る方法を探します」


 その言葉に、ユウリはマシロを見た。


 マシロも、こちらを見る。


 二人の視線がぶつかる。


 勝ったわけではない。


 マシロを倒したわけでもない。


 彼女が間違いを認めたわけでもない。


 ただ、今この一件では、強制安定化ではなく対話処理が選ばれた。


 それだけだった。


 でも、それだけでも、雨宮ソウタの名前は残った。


 ユウリは大きく息を吐いた。


 背中の翼が完全に消える。


 左手の鍵も砕け、光の粉になって雨に混じった。


 膝が折れそうになる。


 今度はレンが支えた。


「お前、毎回倒れかけるな」


「好きでやってない」


「知ってる」


 ミオが駆け寄ってきて、ユウリの顔を覗き込む。


「大丈夫ですか」


「たぶん」


「また、たぶんです」


「本当に大丈夫かは、僕にも分からないから」


 ミオは少し困ったように笑い、それから真剣な顔で言った。


「でも、ありがとうございました」


「何が」


「名前で呼ぶことを、諦めなかったことです」


 ユウリは答えられなかった。


 その言葉は、雨宮ソウタだけではなく、ミオ自身のことでもあるのだろうと思ったからだ。


 マシロは立ち上がる。


 白い端末を胸の前に抱え、商店街を見渡した。


 看板の文字は、少し戻っていた。


 《紙魚の巣》の《巣》がまだ薄い。

 《時枝時計店》の時枝も完全ではない。

 《柊木薬局》の柊木は、かすれている。


 補正の跡は残っている。


 完全には戻らない。


 だが、消え切らずに済んだ。


 マシロは静かに言った。


「白環管理区域を段階縮小します。西側の補正強度を下げ、個別対話へ移行してください」


 職員たちが頷き、動き始める。


 白い相談所へ案内される人々の流れが変わった。


 ただスマホを提出させ、記憶をならすのではなく、一人ずつ名前を確認し、話を聞く形へ切り替わっていく。


 ユウリはその様子を見て、少しだけ息を吐いた。


 マシロが隣に立つ。


「あなたの行為は危険でした」


「分かってます」


「補正体を不安定化させ、対象者の残響を再燃させる可能性があった」


「でも、雨宮ソウタの名前は残りました」


「はい」


 マシロは否定しなかった。


 その肯定が、少し意外だった。


「そこは、認めます」


 彼女はユウリを見る。


「ただし、これは例外的にうまくいっただけです。毎回成功するとは限りません」


「それも分かってます」


「分かっているなら、次からは事前に相談してください」


「相談したら止めるでしょう」


「止めます」


「じゃあ無理です」


 レンが横で小さく吹き出した。


 ミオも少しだけ目元を緩める。


 マシロは笑わなかった。


 けれど、怒りもしなかった。


 ただ、静かに言う。


「あなたは、管理の外側へ出ようとする」


「先生は、何でも管理の内側に入れようとする」


「その通りです」


 マシロは、白い線の残る商店街を見た。


「管理しなければ、こぼれ落ちるものがある」


 ユウリも同じ景色を見る。


 雨に濡れた看板。

 名前を思い出そうとする人々。

 泣きながらも自分の記憶を手放さなかった雨宮ソウタ。

 白い補正の跡。


「でも、管理することでこぼれるものもある」


 ユウリが言うと、マシロはすぐには答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 雨音が戻ってきた。


 アーケードの屋根を叩く、細かな雨の音。


 白い相談所の清潔な光の中では聞こえにくかった、旧北口商店街の音。


 やがて、マシロは言った。


「だから、難しいのです」


 それは、初めて聞く弱い言葉だった。


 正しい大人の断言ではない。


 迷いを完全には隠しきれない、一人の人間の言葉だった。


 ユウリはマシロを見た。


 彼女はすぐに表情を整える。


「ですが、管理をやめる理由にはなりません」


「名前を呼ぶのをやめる理由にもなりません」


 二人は、しばらく向かい合った。


 敵ではない。


 でも、同じ道でもない。


 そのことが、はっきりした。


 白環管理区域の光は弱まり始めている。


 けれど、完全に消えたわけではない。


 この街の上には、まだ白い線が残っている。


 そしてユウリの左手にも、砕けた鍵の熱がまだ残っていた。

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