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第三節 ― 補正される名前

 白環相談所を出た途端、雨の匂いが変わっていた。


 さっきまでは、古いアーケードに染み込んだ埃と、濡れたシャッターと、どこかの店から漏れる珈琲の香りが混じっていた。


 今は違う。


 消毒液に似た匂いがする。


 病院ほど強くはない。けれど、確かにそこにある。雨に濡れた商店街の匂いの上から、清潔で、無機質で、少し冷たい匂いが薄く塗られていた。


 ユウリは走りながら、足元の白い線を見た。


 線はさっきよりも増えている。


 旧北口商店街の敷石の上を、細い円環が何重にも走っていた。古いタイルの割れ目や水たまりを無視し、店の入口も、歩道の段差も、排水溝も、すべて同じ白い規則で囲んでいく。


 その光景は、結界というより、巨大な校正記号に見えた。


 街の間違った部分を白く囲み、不要な記述を削除し、正しい文へ直そうとしている。


 けれど、何が正しいのかを決めているのは、この街ではない。


 そこに住む人々でもない。


 マシロの端末が短く鳴った。


《補正抵抗:拡大》

《対象者周辺記録にノイズ》

《商店街固有記憶への干渉発生》

《副作用範囲:許容値接近》


 レンが横目でそれを見る。


「許容値って何だよ」


 マシロは走る速度を落とさないまま答えた。


「処理継続に支障がない範囲です」


「商店街の名前とか、人の記憶が消えてても?」


「完全消去ではありません。一時的な混濁です」


「一時的って保証あるんですか」


「あります」


 短い返答。


 自信というより、そうでなければならないという声だった。


 ユウリは言い返そうとしたが、その前に人の声が聞こえた。


「ここ、何屋だったっけ」


 アーケードの右側。


 古い看板を見上げて、年配の男性が首を傾げていた。買い物袋を片手に持ち、もう片方の手で眼鏡を直している。彼の前には、古書店《紙魚の巣》がある。


 あるはずだった。


 けれど、看板の文字が白く滲んでいた。


 《紙魚の巣》。


 その文字のうち、《紙》の下半分が薄れ、《魚》の横線が消え、《巣》は輪郭だけになっている。看板の木目は残っているのに、名前だけが白い霧に吸われているようだった。


 年配の男性は困った顔で呟く。


「よく来てたんだけどな。古い本屋……いや、資料屋? 何て名前だったか」


 隣にいた女性が言う。


「紙……何とかじゃありませんでした?」


「紙屋?」


「違うと思います。紙、魚……?」


「魚屋だったかな」


「本屋ですよ、たぶん」


 二人は笑おうとした。


 けれど、笑いきれない。


 思い出せないことが、じわじわと不安になっている。


 ユウリのAVISが反応する。


《店舗名:紙魚の巣》

《商店街固有記憶:補正干渉中》

《神話関連資料保持地点》

《白環処理:関連記憶を低優先度で希釈》


「低優先度で希釈……」


 ユウリは立ち止まりそうになった。


 低優先度。


 つまり、管理機構にとっては重要ではない記憶。


 けれど、この商店街にとっては違う。


 古書店の名を覚えている人。

 そこへ通っていた人。

 その店にしかない本を探しに来た人。

 店主の声や、古い紙の匂いや、奥の棚の位置まで覚えている人。


 そういう記憶が、白い線の処理に巻き込まれて薄くなっている。


「マシロ先生」


 ユウリは低く言った。


「これも必要な補正ですか」


 マシロは足を止めた。


 古書店の看板を見る。


 彼女の端末に、同じような表示が浮かんでいるのだろう。視線が少しだけ細くなる。


「《紙魚の巣》は、神話・民俗・都市伝説関連資料を多く扱う店舗です。今回の事案に直接関係していなくても、再照応の媒介になる可能性があります」


「だから名前を薄める?」


「店舗記憶全体を消しているわけではありません。危険な連想経路を弱めています」


「でも、あの人たちは店名を思い出せなくなってます」


「副作用です」


 また、その言葉だった。


 副作用。


 ユウリは拳を握った。


「副作用って言えば、何でも小さく聞こえるんですね」


 マシロの表情は揺れなかった。


「小さく扱っているわけではありません。処理全体の中で許容できる損失かどうかを判断しています」


「損失」


 その言葉が、喉に引っかかった。


 人の記憶も、店の名前も、そこに誰かが通った時間も、損失として計算される。


 マシロは悪人ではない。


 むしろ、被害を最小限にしようとしている。


 けれど、その最小限の中には、誰かにとって大切なものが入っている。


 それがユウリには耐えがたかった。


 ミオが、古書店の看板を見つめていた。


「名前が、浮いています」


「浮いてる?」


 ユウリが聞くと、ミオは小さく頷いた。


「完全に消えたわけじゃありません。看板にも、あの人たちの中にも、まだ残っています。でも、呼び出せなくなっている。棚の奥に押し込まれて、手が届かないみたいに」


 レンが端末を操作する。


「店名、俺のメモには残ってる。《紙魚の巣》。でも、検索候補が変だ。『紙の巣』『資料室』『古本屋』に置換されかけてる」


「ログも補正されてるのか」


「されてる。完全には消えないけど、一般名詞に寄せられてる」


 紙魚の巣が、ただの古本屋になる。


 名前が失われ、分類だけが残る。


 ユウリは、そこにミオの端末表示を重ねてしまった。


 星宮ミオ。

 未定義核。

 依代候補。

 理触疑い。


 人も店も、固有名を失えば、分類名だけが残る。


 それは、便利だ。


 扱いやすい。


 でも、そこにいたものは少しずつ薄くなる。


 古書店の奥で、何かが倒れる音がした。


 からん、と乾いた音。


 店の戸が少し開き、紙の匂いが漏れた気がした。だが、そこから誰かが出てくることはない。白い線は店の入口の前で波紋のように揺れ、店内へ入り込もうとして、何かに引っかかっていた。


 マシロがわずかに眉を動かす。


「抵抗していますね」


「店が?」


「場所にも記録保持力があります。古い店舗、信仰施設、学校、商店街、個人の住居。長く呼ばれ続けた場所は、簡単には補正されません」


 その説明は、淡々としていた。


 けれど、ユウリには重要なことに聞こえた。


 場所にも、記録保持力がある。


 名前は本人だけのものではない。


 呼ぶ人、覚えている人、残っている場所によって保たれる。


 第2話で、アヴィが言ったこと。


 倉持ハルトの名前を戻した時に、ユウリたちが知ったこと。


 それがここでも起きている。


 《紙魚の巣》という名前は、看板だけではなく、この商店街の人々の記憶と、古い棚と、そこに置かれた本と、何度も開け閉めされた戸によって保たれていた。


 白環管理区域は、その全部を一時的に薄めようとしている。


 異常を消すために。


 安全を戻すために。


 ユウリたちは再び走った。


 西側の路地へ近づくにつれ、白い線はさらに濃くなっていた。


 時計店の前では、店主らしき老人が自分の看板を見上げていた。


「うち、こんな名前だったか?」


 看板には、かすれた文字で《時枝時計店》と書かれていたはずだ。


 だが今は、《時計店》だけが残っている。


 時枝。


 その姓が白く抜けていた。


 老人は笑おうとして、笑えない顔をする。


「変だな。わしの名前も時枝だったと思うんだが」


 妻らしき女性が店の奥から出てきて、眉をひそめる。


「何言ってるの。あなたは……」


 そこで、彼女の言葉が止まった。


 口が、名前の形を作ろうとしている。


 でも、音が出ない。


 ユウリはぞっとした。


 老人は自分の胸元を押さえる。


「いや、分かっとる。分かっとるんだ。わしは……」


 白い線が店の敷居をかすめる。


 AVISが表示する。


《個人名記憶:商店名記憶と連動》

《補正干渉:過剰》

《推奨:処理強度低下》


「マシロ先生!」


 ユウリが叫ぶ。


 マシロはすぐに端末を操作した。


「西側一帯、処理強度を一段階下げてください。商店名記憶と個人名記憶が連動しています」


 職員から通信が返る。


『了解。ただし補正抵抗対象の残響が拡大しています。強度低下により再活性の恐れがあります』


「分かっています。局所調整で対応します」


 マシロは冷静だった。


 対応はしている。


 過剰干渉に気づけば、修正もする。


 それでも、ユウリの中の違和感は消えなかった。


 この仕組みは、最初から人の記憶を削ることを前提にしている。


 削りすぎれば戻す。


 強すぎれば下げる。


 でも、削られた側の恐怖は、数値の調整では測れない。


 ミオが小さく呟いた。


「名前が、あちこちで白くなってる」


 彼女の顔色はさらに悪くなっていた。


 ユウリは足を止める。


「大丈夫か?」


「大丈夫です。でも、少し……聞こえすぎます」


「聞こえすぎる?」


「思い出せない、という声が」


 ミオは胸元を押さえた。


「人が名前を探している声です。店の名前。友達の名前。自分の名前。怖かった記憶。助けてくれた人。全部、白い棚にしまわれていくみたいで」


 ユウリは周囲を見る。


 商店街は、ひどく静かだった。


 でも、その静けさの下で、確かに多くの人が何かを探している。


 昨日何を見たのか。

 誰と逃げたのか。

 何が怖かったのか。

 この店の名前は何だったのか。

 あの店主は何と呼ばれていたのか。


 白環管理区域は、それらの問いにすべて同じ答えを与えようとしている。


 通信障害。

 混乱。

 気のせい。

 一般名詞。

 分類名。


 その方が安全だから。


 その方が早く日常へ戻れるから。


 ユウリは、足元の白い線を見下ろした。


 白い線は、自分の靴先にも触れている。


 少しだけ頭がぼんやりした。


 昨日の天御柱神宮。

 白い光。

 偽日輪。

 レイジの太刀。

 ミオの学生証。

 自分の左手の鍵。


 それらに、薄い言葉が重なろうとする。


 通信障害。

 神社での混乱。

 よく分からないイベント。

 自分は何もしていない。

 見間違い。


「……っ」


 ユウリは奥歯を噛みしめた。


 違う。


 あれは通信障害ではない。


 ミオの名前は、依代にされかけた。


 倉持ハルトの名前は、また揺らいだ。


 人々の連絡先は信徒になりかけた。


 偽日輪は神の名を欲しがっていた。


 そして自分は、名札を剥がした。


 忘れてはいけない。


 忘れたら、なかったことになる。


 ユウリのスマホが熱を持つ。


 アヴィの声が、低く響いた。


「飲まれるな」


「分かってる」


「分かってない。これは敵意ではなく、善意の補正だ。敵意より厄介だぞ」


「分かってるって」


「なら、自分の名前を保持しろ」


 ユウリは息を吸った。


「天瀬ユウリ」


 自分で、自分の名前を呟く。


 小さな声だった。


 けれど、白い線の中で確かに響いた。


「天瀬ユウリ。星綴高等学園二年。神話と都市伝説が好きで、まだ何も決めてない。ミオの名前を呼んだ。倉持の記録を戻した。偽日輪の名札を剥がした」


 言いながら、胸の奥に残っていた白い霞が少し晴れる。


 レンがこちらを見る。


「お前、急に自己紹介始めんなよ」


「必要だったんだよ」


「……じゃあ俺もか」


 レンは舌打ちしてから、早口で言った。


「久遠レン。星綴二年。解析担当。ログ保持者とか情報拡散リスクとか勝手に呼ばれてるけど、俺は俺。倉持の名前も覚えてる。昨日のあれも通信障害じゃない」


 ミオは少しだけ微笑んだ。


 そして、両手で学生証を握る。


「星宮ミオ。転校してきたばかりです。珈琲は少し苦手です。空が近い場所が気になります。私は、依代ではありません。理触疑いでも、未定義核でもありません」


 彼女は少し息を吸う。


「星宮ミオです」


 その声に、足元の白い線がわずかに揺れた。


 ユウリは胸が熱くなるのを感じた。


 名前を呼ぶこと。


 覚えていること。


 言葉にして、ここにいると示すこと。


 それは、どれほど小さくても、補正への抵抗になる。


 マシロは、その様子を見ていた。


 彼女の表情は読みにくい。


 だが、端末には小さな変化が出ていた。


《三名、自己現在名保持を確認》

《白環補正への抵抗形成》

《強制補正非推奨》

《対話継続推奨》


 ユウリはその表示を見て、少しだけ複雑な気持ちになった。


 自分たちの抵抗まで、すぐ項目化される。


 でも、その項目化によって強制補正が避けられるなら、完全に否定もできない。


 本当に、厄介だった。


 西側の路地から、再び叫び声が上がった。


「違う! 俺は信徒じゃない!」


 雨宮ソウタ――AVISがそう表示した男子生徒が、白い線の中心で膝をついていた。


 制服は別の学校のものだ。神狭南高校のバッジが胸元にある。髪は雨で額に張りつき、スマホを握る手が震えている。


 首元に、白いタグが浮かんでいる。


《信徒》

《未確定》

《信徒》

《未確定》


 白環の補正が、彼の記憶を通信障害へ置換しようとしている。


 だが、偽日輪の残響がそれに抵抗している。


 忘れたくないという本人の意志と、信徒へ落とそうとする残響と、日常へ戻そうとする補正が、彼の中でぶつかっていた。


 周囲の看板が白く滲む。


 古書店《紙魚の巣》の文字がさらに薄くなる。


 時計店の時枝の名が抜ける。


 古い薬局の表札から、店主の姓が消えかける。


 補正は彼だけに集中しているのではない。


 彼の記憶に繋がる商店街の痕跡ごと、白くならしている。


 マシロが端末を構えた。


「対象者の残響を抑制します」


「抑制って、また記憶を薄めるんですか」


 ユウリが聞く。


「彼は今、契約未遂残響に引き戻されています。放置すれば、昨日の偽日輪構文が再活性化する可能性があります」


「でも、今の補正で周りの名前まで消えてる」


「局所処理で収めます」


「収まらなかったら?」


 マシロは答えなかった。


 それが答えだった。


 レンがユウリの横に立つ。


「まずい。白環の補正と残響が干渉してる。どっちかを止めないと、周辺記録がまとめて白飛びする」


「どっちを止めればいい」


「分からん。残響だけ剥がせればいいけど、今の俺には無理」


 ユウリは左手を見た。


 何もない。


 未署名の観測翼は、昨日使えたばかりだ。


 今、展開できる保証はない。


 それでも、見えている。


 雨宮ソウタの首元にある《信徒》のタグ。

 彼の記憶に貼られようとしている《通信障害》のラベル。

 そして、その奥にまだかすかに残る本人の名前。


 雨宮ソウタ。


 彼は信徒ではない。


 通信障害に巻き込まれた匿名の被害者でもない。


 昨日、契約しかけ、誰かに止められたことを忘れたくないと叫んでいる、一人の生徒だ。


 ユウリは一歩前に出た。


 マシロが鋭く言う。


「天瀬さん、下がってください」


「嫌です」


「あなたが干渉すれば、補正処理が不安定になります」


「もう不安定です」


 ユウリは雨宮ソウタを見た。


 彼は頭を抱えながら、泣きそうな声で繰り返している。


「俺は信徒じゃない。信徒じゃない。誰か、止めてくれたんだ。名前、思い出せないけど、いたんだよ……!」


 その声に、ユウリは第2話を思い出した。


 倉持ハルトは、呼ぶだけでは戻らなかった。


 彼がそこにいた記録が必要だった。


 誰かが覚えていることが必要だった。


 名前は本人だけのものではない。


 呼ぶ人がいて、覚えている人がいて、残っている場所があるから、ここにある。


 なら、今必要なのは、彼の恐怖を消すことではない。


 彼が昨日そこにいて、確かに助かったことを、別の名前で塗りつぶさずに支えることだ。


 ユウリは、白い線の中へ踏み込んだ。


 足元から冷たい感覚が上がってくる。


 白い補正が、彼にも触れようとする。


 通信障害。

 混乱。

 記憶違い。

 関係者ではない。

 忘れてよい。


「忘れてよくない」


 ユウリは呟いた。


 スマホが熱を持つ。


 アヴィの円環が回る。


「やる気か、ユウリ」


「やる」


「敵じゃないぞ」


「分かってる」


「マシロの補正を壊しすぎれば、あの生徒の残響が暴れる」


「じゃあ、壊さない」


「なら何をする」


 ユウリは雨宮ソウタを見た。


「残ってる名前を探す」


 左手の甲が熱くなった。


 まだ印は出ない。


 けれど、奥で何かが目を覚まし始めている。


 白い相談所の前で、マシロが息を呑む気配がした。


「天瀬さん、待ってください。今の状態で契約相を――」


 ユウリは振り返らなかった。


 雨宮ソウタの首元で、《信徒》のタグが濃くなる。


 同時に、白環の補正が《通信障害被害者》という新しいラベルを貼ろうとしている。


 その二つの名札の奥に、本人の名前が埋もれていく。


 ユウリは左手を伸ばした。


「雨宮ソウタ!」


 自分でも知らない名前だった。


 AVISの表示で見えただけの名前。


 けれど、確かに今ここにある名前だった。


 男子生徒が顔を上げる。


 涙で濡れた目が、ユウリを見る。


「……俺の、名前」


「そうだ。雨宮ソウタ。信徒じゃない。通信障害の記録でもない。昨日、天御柱神宮にいた。契約しかけた。でも、止まった。今、ここにいる」


 白い線が大きく揺れた。


 マシロの端末が警告音を鳴らす。


《白環補正体:局所自動展開》

《対象記憶保護処理へ移行》

《外部干渉を制限します》


 雨の中、白い線が立ち上がった。


 円環がほどけ、人の形を取り始める。


 顔のない白い職員のような影。


 手には白紙のバインダー。


 胸元には、名札ではなく、管理番号だけが浮かんでいる。


 マシロが低く言った。


「自動補正体……」


 レンが構える。


「次、来るぞ」


 ミオがユウリの名を呼ぶ。


「ユウリくん!」


 ユウリの左手に、薄い白い鍵の輪郭が浮かび始めた。


 剣ではない。


 槍でもない。


 また、名札を剥がすための鍵。


 だが今回は、敵を倒すためではない。


 白く補正される記録の奥から、まだ消えていない名前を見つけるための鍵だった。

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