第二節 ― 白い相談所
《白環相談所》は、昨日まで確かに空き店舗だった。
ユウリは、それを覚えている。
シャッターは半分錆びていて、貼り紙の跡だけが四角く残っていた。何年も前に閉店した婦人服店だったはずだ。ガラス戸の向こうには古いマネキンの台座だけが残り、雨の日にはそこに薄暗い水の反射が揺れていた。
それが今は、白い入口になっている。
錆びたシャッターは見えない。
ガラス戸には曇りひとつなく、内側から清潔な光が漏れていた。入口の横には、臨時設置らしい白い看板が立っている。
《白環相談所》
神話性ストレス・通信障害関連相談窓口
一時受付中
ご不安な方は職員へお声がけください
神話性ストレス。
通信障害関連相談。
どちらも、普通の言葉ではない。
それなのに、看板全体はあまりにも公的で、あまりにも穏やかだった。自治体の臨時相談窓口か、学校のカウンセリング案内のように見える。白い丸文字に近いフォント。やわらかな案内文。危険を感じさせない配色。
だが、ユウリのAVISには違う表示が出ていた。
《アーカイヴ・ノア臨時処理拠点》
《白環管理区域:局所中枢》
《記憶補正/認識安定化/被害者分類処理中》
《注意:内部記録は外部端末へ保存されません》
「外部保存不可だって」
レンが小声で言った。
彼も自分のスマホを見ている。画面には白いノイズが薄くかかり、録音アプリもカメラも起動ボタンが灰色になっていた。
「入った時点でログ取れなくなる可能性が高い」
「じゃあ、入らない方がいい?」
ミオが不安そうに聞く。
レンは唇を噛んだ。
「普通に考えたら入らない方がいい。でも、向こうの処理内容が分からないまま外で騒いでも、たぶん勝てない」
ユウリはマシロを見る。
彼女は入口の前で、三人を待っていた。
白いブラウス。黒いジャケット。乱れのない髪。落ち着いた表情。昨日の天御柱神宮で、遠くからこちらを記録していた時と同じ静けさがある。
雨は降っている。
けれど、マシロの肩は濡れていなかった。
白い線の内側に入った雨粒は、彼女に触れる前に薄くほどけているように見えた。
「心配しなくて大丈夫です」
マシロは言った。
「ここは処罰や拘束のための場所ではありません。神話構文災害に接触した方の状態を確認し、日常生活へ戻るための支援を行う場所です」
その言い方は完璧だった。
責めない。
脅さない。
安心させる。
それでも、ユウリの足は重かった。
支援。
保護。
相談。
正しい言葉ほど、今日は怖い。
カフェ《ノーネーム》の老紳士の言葉が、まだ耳に残っている。
名は危険だ。だから管理せねばならない。そう考える者もいる。
ユウリはミオを見た。
彼女は学生証を握っている。
白い相談所の光を受けて、カードケースの表面がぼんやり光っていた。名前欄の文字はまだ読める。星宮ミオ。その五文字が、今この瞬間、ひどく頼りなく見えた。
「行こう」
ユウリは言った。
「でも、何かおかしいと思ったら、すぐ出る」
レンが頷く。
「同意」
ミオも小さく頷いた。
「はい」
マシロは何も言わず、入口の自動ドアを開いた。
*
中は、白かった。
外から見えた以上に、白かった。
壁も、床も、天井も、椅子も、仕切りも、すべて白い。病院の白さとも、学校の保健室の白さとも違う。汚れや雑音を許さない、記録用紙のような白さだった。
受付カウンターには、白い腕章をつけた職員が二人座っている。
どちらも普通の人間に見えた。若い女性と、中年の男性。市役所の職員と言われても、心理相談員と言われても納得できる。ただ、二人の手元にある端末だけが普通ではなかった。
薄い白い板のような端末。
画面に表示される文字は、ユウリたちのAVISとは違う。黒ではなく、淡い灰色。項目は整然としていて、感情の入り込む余地がなかった。
《対象者ID》
《接触事案》
《記憶混濁度》
《神名残響》
《現在名保持状態》
《補正推奨度》
ユウリはその文字を見て、胸の奥がざらついた。
対象者ID。
現在名保持状態。
補正推奨度。
ここでは、人が名前より先に項目になる。
白い仕切りの向こうから、声が聞こえてきた。
「昨日、神社に行ったことは覚えていますか?」
「はい。たぶん」
「誰と行きましたか?」
「えっと……友達と。いや、ひとりだったかも」
「白い光を見ましたか?」
「見た、気がします。でも、ニュースで通信障害って言ってたから、それかなって」
「怖かったですか?」
「分かりません。怖かった気もするけど、今はそんなに」
「では、昨日の出来事は一時的な通信障害による混乱だった、という説明に違和感はありますか?」
「……ないです」
「ありがとうございます。認識安定処理を続けます」
別の仕切りからは、男子生徒の声がした。
「俺、押しかけたんです。画面に契約って出て」
「契約内容は覚えていますか?」
「覚えてないです。許可する、ってボタンだけあって。押したら何か起きる気がして。でも、その前に誰かが叫んで……」
「誰が叫びましたか?」
「分かりません。たぶん、知らない人です」
「その人物の名前を覚えていますか?」
「……名前?」
短い沈黙。
「分かりません」
ユウリの心臓が、嫌な音を立てた。
自分たちのことではないかと思った。
昨日、レンは何度も叫んでいた。押すな、と。画面を見るな、と。自分もミオの名前を呼んだ。レイジも人々を下がらせようとしていた。
その声は、誰かを止めたかもしれない。
でも今、その誰かの記憶の中で、声の主は「知らない人」にされている。
名前が、切り離されている。
マシロは三人を奥の席へ案内した。
そこだけ仕切りが少し広く、白い丸テーブルと四脚の椅子が置かれていた。壁には何もない。時計もない。窓も白いフィルムで覆われ、外の商店街は見えなかった。
座るように示される。
ユウリたちは並んで座った。
ミオを真ん中にしようとしたが、彼女は少し迷った後、ユウリの隣に座った。もう片方にレンが座る。
マシロは向かいに座った。
端末をテーブルに置く。
白い画面に、三人の名前が表示された。
《天瀬ユウリ》
《久遠レン》
《星宮ミオ》
そこまではよかった。
だが、次の行で表示が分岐する。
《天瀬ユウリ:未確定名の観測者/契約相展開履歴あり》
《久遠レン:情報拡散リスク/高密度ログ保持》
《星宮ミオ:現在名不安定/女神照応過多/理触疑い》
ユウリは思わず画面から目を逸らした。
名前の下に、分類が貼られている。
それは、偽日輪の名札ほど露骨ではない。
でも、似ていた。
その人を見る前に、どう扱うべきかを決める札。
マシロは静かに言った。
「まず、確認します。昨日、天御柱神宮で起きた事案について、あなた方三名は通常の目撃者ではありません」
「分かってます」
ユウリは答えた。
「ですが、僕たちは被害者でもあります」
「はい」
マシロは即座に頷いた。
「その通りです。だからこそ、保護が必要です」
「保護って、端末を取り上げたり、記憶を補正したりすることですか」
「必要であれば」
迷いがなかった。
ユウリは拳を握る。
レンが横で小さく息を吐いた。
ミオは黙っている。
マシロは、怒るでもなく、諭すように続けた。
「天瀬さん。あなた方は、自分たちが関わっているものの危険性を十分に理解していません」
「理解しようとはしています」
「理解しようとしていることと、理解していることは違います」
その言葉は、正しかった。
正しすぎた。
ユウリは反論できなかった。
実際、自分はまだ何も分かっていない。
AVISが何なのか。
アヴィが何者なのか。
ミオの現在名安定率をどう戻すのか。
《未署名の観測翼》を使う代償は何なのか。
神々の再臨派も、人類管理機構も、まだ表面しか知らない。
分からないまま動いてきた。
その結果、助かった人もいる。
でも、危険を広げた可能性もある。
マシロはユウリの沈黙を責めなかった。
ただ、淡々と端末の画面を操作する。
そこに、昨日の天御柱神宮の概略図が表示された。
鏡池。
鳥居。
人々の位置。
偽日輪の発生点。
神楽坂レイジの契約相展開位置。
ユウリの《未署名の観測翼》展開位置。
ユウリは背筋が冷えた。
記録されている。
あの白い光の中で、何もかもが。
「昨日の時点で、一般AVIS利用者のうち十七名が契約誘導を受けました。そのうち四名は、ボタンへの接触直前まで進行しています。二名には神名残響が残り、一名には軽度の役割名反応が出ています」
マシロの声は平静だった。
「もし、天瀬さんと神楽坂さんの介入が遅れていれば、最低でも複数名が強制的な神話接続状態に移行していた可能性があります」
レンの表情が変わる。
「強制的な神話接続って、具体的には?」
「本人の意思と現在名を保ったまま契約するのではなく、役割名を上書きされた状態で、神格残滓の末端構文に組み込まれる状態です」
ミオが唇を結んだ。
ユウリも意味を理解する。
信徒。
あの連絡先に表示された文字は、ただの表示ではなかった。
人々が本当に、その役割へ落とされかけていた。
「だから、記憶を補正してるんですか」
「はい。神話構文災害は、記憶され、語られ、検索され、共有されることで再発火します。特に現代の情報環境では、恐怖体験も娯楽として拡散される。昨日の事案も、放置すれば数時間以内に都市伝説化し、模倣接続が発生していたでしょう」
マシロは、はっきりと言った。
「自由な神話など、爆弾を子どもに配るようなものです」
その言葉は重かった。
ユウリは反射的に反論しようとした。
でも、声が出ない。
実際に、AVIS一般版は遊びとして広がった。
太陽タイプ診断。
守護神タイプ。
再臨チャレンジ。
レア神格。
イベント感覚で神社に集まった人々。
その軽さが、偽日輪を強くした。
倉持ハルトも、AVIS一般版で笑っていた。
昨日、彼の名前はまた揺らいだ。
レンも黙っている。
彼は情報を集め、解析し、時には楽しんでいた。だからこそ、マシロの言葉が刺さったのだろう。
ミオだけが、静かに顔を上げた。
「でも、全部を隠したら、何が危険なのかも分からなくなります」
マシロはミオを見る。
その視線は穏やかだった。
「星宮さん。危険を知る必要がある人と、知らない方が安全な人がいます」
「それは、誰が決めるんですか」
「私たちが判断します」
ミオの指が膝の上で少し強く握られた。
「私のことも?」
「はい」
即答。
ミオの顔がわずかに曇る。
マシロは悪意なく、続ける。
「あなたの場合、通常の被害者とは状況が異なります。外部から神話構文災害を受けた、というだけではありません。あなた自身が複数の神話照応と、未整理の世界法則側干渉を保持している。現時点で、自由行動を認めることは、あなた自身にも周囲にも危険です」
白い端末に、さらに細かい項目が浮かぶ。
《星宮ミオ》
《現在名安定率:61%》
《女神照応過多》
《外部神格残滓誘引性:高》
《未定義核:疑い》
《依代候補反応:複数事案で確認》
《理触疑い》
《通常補正:不適合》
《別枠保護措置:推奨》
ユウリの胸の奥で、熱が走った。
未定義核。
依代候補。
理触疑い。
どれも、ミオの名前ではない。
どれも、ミオを見ているようで、ミオを見ていない。
ミオは画面を見つめていた。
表情は大きく変わらない。
けれど、彼女の膝の上の手は震えていた。
「……私は」
ミオが口を開く。
声は小さい。
でも、消えなかった。
「私は、星宮ミオです」
マシロは頷いた。
「もちろんです。あなたの現在名は星宮ミオとして記録されています」
「記録ではなくて」
ミオは言葉を探した。
「私は、そう呼ばれたいんです。分類じゃなくて」
その言葉に、ユウリは息を呑んだ。
マシロは、少しだけ沈黙した。
ほんの一瞬。
その一瞬だけ、彼女の表情に迷いのようなものが浮かんだ。
だが、すぐに消える。
「理解しています」
「本当に?」
ユウリの声が出た。
自分でも驚くほど低かった。
マシロはユウリを見る。
「本当に理解してるなら、その画面を閉じてください」
「できません」
「どうしてですか」
「必要な分類だからです」
「ミオは分類じゃない」
言葉が、鋭く出た。
部屋の空気が少し張り詰める。
白い仕切りの向こうで、職員の声が一瞬だけ止まった。
ユウリは立ち上がりそうになるのをこらえた。
「先生は、ミオを傷つけようとしてるわけじゃないんだと思います。それは分かります。でも、今、ミオを見てない。危険度とか、分類名とか、隔離が必要かどうかしか見てない」
マシロは静かに聞いている。
否定しない。
それがまた、ユウリを苛立たせた。
「無番線も、出席簿も、偽日輪も、全部そうだった。ミオを別の何かにしようとした。今の先生の画面も、同じに見える」
レンが小さく息を吸った。
ミオはユウリを見ていた。
マシロは、わずかに目を伏せる。
「天瀬さん」
声は穏やかだった。
「あなたの怒りは、正当です」
その返答に、ユウリは一瞬詰まる。
「ですが、正当な怒りが、常に正しい判断につながるとは限りません」
マシロは端末を閉じなかった。
「私は星宮さんを物として扱うつもりはありません。名前を奪うつもりもありません。むしろ、彼女の現在名を維持するために、危険な外部接続を管理しなければならないと考えています」
「隔離して?」
「必要なら」
「本人が嫌だと言っても?」
マシロは、そこで初めて少しだけ苦しそうな顔をした。
しかし答えは変わらなかった。
「本人の意思を尊重します。可能な限り」
「可能な限りって」
「本人の意思だけでは、本人を守れない場合があります」
その言葉は、あまりにも大人の言葉だった。
未成年の安全。
危険物の管理。
被害拡大の防止。
本人の判断能力。
緊急保護。
正しい制度の言葉が、その背後に並んでいる気がした。
ユウリは反論を探した。
でも、うまく見つからない。
もしミオが本当に危険なら。
もし彼女の近くにいるだけで神話災害が起きるなら。
もし誰かが傷つくなら。
本人が嫌だと言っても、保護が必要なのかもしれない。
それを完全に否定できるほど、ユウリは無責任にはなれなかった。
マシロは次に、ユウリの方へ端末を向けた。
「天瀬さん。あなたの端末を提出してください」
静かな命令だった。
「AVIS特殊版、および内部存在と推定されるアヴィ=シグルの接続状態を確認します。必要に応じて、一時停止または隔離保存を行います」
ポケットの中で、ユウリのスマホが震えた。
画面を見なくても分かる。
アヴィが嫌がっている。
「断る」
ユウリは即答した。
マシロは驚かない。
「理由を聞かせてください」
「アヴィは、危険かもしれない。でも、今まで何度も助けてくれました。無番線でも、補講教室でも、偽日輪でも。何者か分からないからって、勝手に止められたくない」
「何者か分からないからこそ、確認が必要です」
「確認って、分解するってことですか」
「必要なら」
「なら嫌です」
ユウリはスマホを握りしめた。
アヴィが小さく言う。
「珍しくまともな判断だ」
「黙ってろ」
小声で返すと、レンが少しだけ笑いそうになった。
だが、すぐに真顔へ戻る。
マシロの視線がレンへ移った。
「久遠さん。あなたは解析ログをこちらへ渡してください」
「嫌です」
レンも即答した。
「あなたのログには、危険な神話構文への接続情報が含まれています」
「分かってます」
「では」
「だから渡したくないんです」
レンは端末を手元に引き寄せた。
「先生たちが危険な情報を消すのは分かる。でも、全部そっちで持っていかれたら、俺たちは何も分からなくなる。自分たちに何が起きたか、自分たちで確かめることもできなくなる」
「あなたが不用意に扱えば、他者を巻き込みます」
「だから俺が管理します」
「あなたは高校生です」
「知ってます」
レンの声が少し荒くなる。
「でも、俺は見たんです。倉持の名前が揺れたところも、昨日の連絡先が信徒になったところも、ミオが依代って表示されたところも。先生たちが全部通信障害にするなら、俺が覚えてないと、本当に何もなかったことになる」
マシロはレンを見つめた。
「覚えていることが、あなたを壊す場合もあります」
「忘れさせられる方が嫌です」
その言葉に、ユウリはレンを見た。
レンの顔は少し青い。
彼だって怖くないわけではない。
それでも、ログを手放さない。
記録を守ろうとしている。
マシロは、三人を順番に見た。
ユウリ。
レン。
ミオ。
それぞれが、不安定で、未熟で、危険で。
けれど、それぞれ自分の名前と記憶を握っている。
「……分かりました」
マシロは言った。
ユウリは少し意外に思った。
彼女は強制してくると思っていた。
だが、マシロはすぐに端末へ何かを入力した。
《任意提出:拒否》
《自発協力:不成立》
《保護説得継続》
《強制措置:保留》
保留。
その言葉に、ユウリはわずかに息を吐く。
だが、安心するには早かった。
マシロは静かに続けた。
「現時点では、強制措置には移行しません。ただし、あなた方三名は引き続き管理対象です」
「管理対象って呼ぶの、やめてください」
ユウリが言うと、マシロは少しだけ目を伏せた。
「では、どう呼べばいいですか」
問い返されて、ユウリは詰まった。
どう呼べばいい。
それは簡単なようで、難しい。
被害者。
関係者。
契約者。
生徒。
仲間。
どれも一部は合っていて、全部ではない。
ミオが、静かに言った。
「名前で呼んでください」
白い部屋の中に、その声が落ちた。
「天瀬ユウリくん。久遠レンくん。星宮ミオ。まず、それで呼んでください」
マシロは、ミオを見る。
しばらく沈黙した。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かりました。星宮ミオさん」
正しく呼ばれた。
それだけなのに、ユウリは少し息を吐いた。
ミオも、ほんのわずかに表情を緩める。
だが、その直後だった。
白い相談所の奥から、甲高い音が鳴った。
警報ではない。
でも、柔らかい相談所の空気には似合わない、硬い通知音だった。
職員の一人が端末を見る。
「烏丸管理官」
管理官。
その呼称に、ユウリたちは一斉にマシロを見る。
マシロは表情を変えない。
職員が続ける。
「旧北口商店街西側で補正抵抗が発生しています。対象者一名、記憶補正を拒絶。周辺記録にノイズが拡散中」
端末に映像が表示された。
商店街の西側。
古書店《紙魚の巣》へ向かう路地のあたり。
そこに、昨日天御柱神宮で見た男子生徒がいた。
契約しかけた生徒の一人だ。
彼は白い線の中心で頭を抱えている。
周囲の人々は彼を避けるように立ち止まっていた。
映像には音声も入っている。
「違う、通信障害じゃない……!」
男子生徒が叫んでいた。
「俺、押しそうになったんだ! 誰かが止めた! 名前は分からないけど、いたんだ! 何で思い出せないんだよ!」
白い線が彼を囲む。
しかし、その内側で黒いノイズが走っていた。
補正がうまく入っていない。
マシロの端末に表示が出る。
《記憶補正抵抗》
《契約未遂残響:再活性》
《役割名反応:再発》
《処理優先度:上昇》
男子生徒の首元に、薄い白いタグが浮かぶ。
《信徒》
《未確定》
《信徒》
《未確定》
ユウリは立ち上がった。
「行きます」
マシロも立ち上がる。
「待ってください。これは私たちの処理対象です」
「処理対象じゃない。あの人は、昨日止められたことを覚えてる」
「その記憶が、残響を再活性化させています」
「だから消すんですか」
「安定化させます」
ユウリはマシロを見た。
マシロも、逃げずにその視線を受け止める。
正しい大人の目。
守るためなら、苦い判断もする目。
それでも、ユウリは引けなかった。
あの男子生徒は、覚えている。
怖かったことを。
誰かに止められたことを。
自分が何かにされかけたことを。
それは危険な記憶かもしれない。
でも、彼が彼自身として昨日を生き延びた証でもある。
ミオも立ち上がった。
「私も行きます」
「星宮ミオさん、あなたはここに残ってください」
マシロが言う。
「嫌です」
ミオの声は静かだった。
「私も、名前を変えられかけました。あの人が何を怖がっているのか、少し分かります」
レンが端末を持ち上げる。
「俺も行く。どうせここにいてもログ取れないし」
マシロは三人を見た。
ほんのわずかに、眉が動く。
怒りではない。
困惑でもない。
たぶん、計算が崩れた時の表情だった。
「……分かりました」
彼女は端末を手に取った。
「ただし、私の指示に従ってください」
ユウリは答えなかった。
従うとは言えない。
でも、完全に拒むとも言えない。
この人の判断にも、必要なものはある。
それが、いちばん厄介だった。
白い相談所の自動ドアが開く。
外の雨音が戻ってくる。
しかし、その雨音の奥に、今度は人の叫びが混じっていた。
ユウリたちは、白い光の中へ走り出した。




