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第一節 ― 旧北口商店街の白い線

 カフェ《ノーネーム》の扉を出た瞬間、雨音が少しだけ遠くなった。


 いや、雨音だけではない。


 旧北口商店街に残っていた、あの古い生活音が薄れていた。


 シャッターの内側で誰かが物を動かす音。

 遠くの店先で流れていたラジオ。

 アーケードの屋根を打つ細かな雨。

 濡れた舗道を踏む靴音。


 それらが一枚の白い布の向こう側へ押し込められたように、輪郭を失っている。


 ユウリは入口の前で立ち止まった。


 雨に濡れた舗道の上に、白い線が浮かんでいた。


 ペンキではない。


 チョークでもない。


 光でもあるし、傷跡にも見える。


 細い白い線が、商店街の敷石の継ぎ目を無視して、ゆるやかな円を描いている。円は一つではなかった。古い薬局の前、時計店の前、アーケード中央の排水溝のまわり。いくつもの白い円環が重なり、商店街全体を区切るように広がっていた。


「……何だ、これ」


 レンが低く呟いた。


 さっきまで軽口を叩いていた声とは違う。


 目が、もう解析する者のそれになっている。


 ユウリのスマホが震えた。


 画面を見る前から、嫌な予感があった。


《白環管理区域:一時展開》

《記憶補正処理中》

《神話構文災害被害者を保護中》

《一般市民の認識安定化を優先》

《注意:区域内での現在名・事件記憶に補正干渉が発生します》


「白環管理区域……」


 ミオが小さく読み上げた。


 その声に、白い線がかすかに反応したように見えた。


 ユウリは反射的に彼女の前へ半歩出る。


 ミオは胸元の学生証を押さえていた。名前欄はまだ読める。星宮ミオ。その文字は消えていない。


 けれど、白い線が敷石の上に伸びるたび、ユウリにはその名前の周囲にも薄い輪がかけられていくように見えた。


「マシロ先生の仕業か」


 レンがスマホを操作しながら言った。


 画面上では、商店街一帯に白い円形のエリア表示が重なっている。


 神狭市旧北口商店街。


 その中心に、小さな文字が浮かんでいた。


《アーカイヴ・ノア臨時処理区域》

《対象事件:天御柱神宮集団照応事案》

《処理目的:拡散防止/記憶安定化/被害者保護》


 悪意のある言葉は一つもなかった。


 拡散防止。

 記憶安定化。

 被害者保護。


 どれも、必要に見える。


 昨日の偽日輪事件を放っておけば、動画や投稿が広がり、また誰かが面白半分で神話構文に触れるかもしれない。天御柱神宮にいた人々の中には、本当に契約しかけた者もいた。スマホの連絡先を「信徒」に書き換えられた者もいる。


 なら、記憶を薄める。


 事件を通信障害として処理する。


 危険なログを回収する。


 それは、たぶん正しい。


 正しいはずだった。


 それでも、ユウリの背中に冷たいものが走る。


「補正って、どこまでやるんだ」


 問いかけると、アヴィが答えた。


「設定上は、神話構文災害に関連する記憶だけを日常的な解釈へ置換する処理だ。白い光を見た記憶は通信障害へ。契約画面を見た記憶はアプリ不具合へ。神名照応を見た記憶はイベント演出へ」


「設定上は?」


「現場処理は常に雑になる」


 短い返答だった。


 その言葉の意味は、すぐに分かった。


 アーケードの奥から、女性の声が聞こえた。


「……昨日、私、誰と行ったんだっけ」


 三人は顔を上げる。


 時計店の前に、二十代くらいの女性が立っていた。片手にスマホを持ち、もう片方の手で濡れた髪を耳にかけている。画面を見ながら、困ったように笑っていた。


「天御柱神宮、行ったんだよね。写真あるし。でも、誰かと一緒だった気がするんだけど……」


 隣にいた友人らしき女性が、首を傾げる。


「私じゃない?」


「ううん。たぶん、別の子。ほら、駅で待ち合わせして、太陽がどうとか言って……」


 そこで、彼女の言葉が止まった。


 白い線が、彼女の足元をゆっくり通り過ぎる。


 スマホの画面が一瞬だけ白く光った。


「……あれ?」


 彼女は瞬きした。


「何の話してたんだっけ」


 友人が笑う。


「天御柱神宮で通信障害あったって話でしょ」


「ああ、そうそう。びっくりしたよね。画面真っ白になって」


 会話は戻った。


 でも、何かが抜け落ちた。


 昨日一緒にいた「誰か」の記憶が、その場で薄く切り取られた。


 ユウリは息を呑む。


 レンも同じものを見ていた。


「今の……」


「ああ」


 レンの声が硬い。


「事件記憶だけじゃない。人間関係の紐づけまで巻き込んでる」


 その時、ミオが小さく言った。


「名前が、抜けました」


 ユウリはミオを見る。


「見えたのか?」


「はい。あの人の中にあった、誰かの名前が、白い線の向こう側へ押し込まれたみたいに」


 ミオの顔色は悪い。


 自分の名前が何度も揺らいできたからこそ、他人の中で名前が薄れる感覚も拾ってしまうのかもしれない。


 ユウリは奥歯を噛んだ。


 白い線は静かに広がっている。


 派手な怪異ではない。


 悲鳴もない。


 だが、確実に何かを消している。


 アーケードの向こうで、今度は男子高校生の声がした。


「え、マジで? 俺、そんな通知押した?」


 制服姿の生徒が二人、コンビニ袋を持ったまま立ち止まっていた。片方のスマホに、昨日のAVIS通知履歴が残っているらしい。


「ほら、見ろよ。再臨候補に接続って」


「やめろって、それ昨日やばかったやつじゃん」


「でも俺、覚えてないんだよ。神社行ったのは覚えてる。白くなったのも何となく覚えてる。でも、誰と行ったっけ。俺、ひとりじゃなかったよな?」


「俺と行ったんじゃね?」


「そうだっけ」


 白い線が、その二人の間を横切った。


 男子生徒のスマホ画面が点滅する。


 通知履歴が一つ消えた。


 彼は眉をひそめたが、次の瞬間、表情がゆるんだ。


「あれ、ただの通信障害か」


「だろ。ニュースでも言ってたし」


「だよな。何か、変に怖かった気がしたけど」


 その声は、安心しているように聞こえた。


 恐怖が薄れている。


 異変が日常へ戻されている。


 それ自体は、救いなのかもしれない。


 けれど、ユウリは見てしまった。


 男子生徒の首元に、一瞬だけ白いタグのようなものが浮かぶ。


《契約未遂:軽度》

《記憶補正処理中》

《危険認識低減》

《通常生活復帰を優先》


 危険認識低減。


 その文字に、ユウリの胸がざらついた。


「危険だったって記憶まで薄めてるのか」


 アヴィが答える。


「恐怖が残りすぎると、再照応の核になる。異常体験を何度も語り直せば、神話構文は再燃する。だから、恐怖も薄める」


「でも、それだとまた同じことするかもしれない」


「管理側は、再発防止を別工程で行うつもりだろう。アプリ監視、ログ削除、対象者リスト化、必要に応じた接触」


「対象者リスト……」


 ユウリはミオを見た。


 ミオは白い線をじっと見ている。


 その足元にも、円環が近づいていた。


 ユウリは彼女の腕を軽く引く。


「ミオ、下がって」


「あ……はい」


 白い線は、ミオの靴先の少し手前で止まった。


 まるで、彼女を測っているように。


 ユウリのスマホが震える。


《星宮ミオ》

《現在名保護処理の対象候補》

《本人同意:未確認》

《処理保留》


「本人同意未確認で処理保留って……確認したら処理する気かよ」


 レンの声に怒りが混ざる。


 だが、すぐに別の表示が浮かんだ。


《天瀬ユウリ》

《未確定名の観測者》

《契約相展開履歴あり》

《補正非推奨》

《監視推奨》


「俺は監視か」


 ユウリは思わず笑いそうになった。


 笑えないのに。


 レンが自分の画面を見る。


《久遠レン》

《情報拡散リスク》

《ログ保持者》

《聴取推奨》


「俺、聴取推奨だってさ」


「レンらしいな」


「全然うれしくねえ」


 軽口のように聞こえたが、レンの表情は険しい。


 彼は白い線の広がりをスマホで記録しようとした。だが、カメラ画面を開いた瞬間、映像が白くぼやける。


「くそ、撮れない」


「補正されてる?」


「たぶん。記録そのものにフィルターがかかってる。カメラも録音も、一定以上の情報は残せないようになってる」


 レンは諦めずに別のアプリを開いた。


「でも、端末内ログには痕跡が残るはず……」


 画面に白いノイズが走る。


 その瞬間、レンが小さく舌打ちした。


「今、ログのファイル名が変わった」


「どう変わった?」


「昨日の偽日輪関連が、“通信障害メモ”になってる。ふざけんな」


 レンは本気で怒っていた。


 それは、単に自分の記録を触られたからではない。


 昨日、そこにいた人たちの恐怖も、倉持ハルトの名前が揺らいだことも、ミオが依代と呼ばれかけたことも、ユウリが名札を剥がしたことも。


 全部が、通信障害という薄い言葉へ押し込められていく。


 それが許せないのだ。


 白い線は、さらに広がった。


 商店街の店先に貼られていた古い夜市のポスターの文字が薄れる。


 紙魚の巣、という古書店の看板の一部が白く滲み、紙魚、の二文字だけがかろうじて残る。


 時計店の店名も、薬局の店主の名前が書かれた表札も、少しずつ白くぼやけていく。


 ユウリは気づいた。


 白環管理区域は、天御柱神宮の事件だけを処理しているわけではない。


 事件に触れた可能性のある場所ごと、記憶の表面をならしている。


 出っ張った部分を削るように。


 引っかかりを消すように。


 人々がつまずかず日常へ戻れるように。


 その代わりに、そこにあった細かな名前や関係や違和感まで、白く塗り込められていく。


「これは……守ってるのか?」


 ユウリは呟いた。


 答えは返ってこない。


 アヴィも黙っている。


 ミオが、そっと言った。


「守っているのだと思います」


 ユウリは彼女を見る。


 ミオは白い線から目を逸らさなかった。


「少なくとも、そうしようとしているんだと思います。昨日のことをはっきり覚えていたら、怖くて眠れない人もいるかもしれません。スマホを見るだけで震える人もいるかもしれません。自分の連絡先が“信徒”になったことを、何度も思い出してしまう人も」


「うん」


「だから、薄めることが救いになる人もいると思います」


 ミオの声は、やさしかった。


 だからこそ、次の言葉が痛かった。


「でも、私は嫌です」


 彼女は自分の学生証を握った。


「私が怖かったことまで、誰かに薄められるのは嫌です。何が怖かったのか、誰が名前を呼んでくれたのか、忘れたら……私は、私がここに戻ってきたことまで分からなくなります」


 ユウリは何も言えなかった。


 それは、ミオにとって特に重い言葉だった。


 彼女の現在名は、呼ばれ、覚えられ、記録されることでかろうじて保たれている。恐怖の記憶すら、彼女が星宮ミオとしてそこにいた証明の一部なのかもしれない。


 白い線が、また一つ円を描く。


 その中心に、昨日天御柱神宮で見かけた配信者らしい若者が立っていた。


 彼はスマホを両手で握り、顔を青ざめさせている。


「動画、消えてる……」


 彼の声は震えていた。


「いや、残ってる。でも、タイトルが変わってる。『太陽神降臨か』って付けたはずなのに、『神社で通信障害に遭遇』になってる。コメントも変だ。俺、何を撮ったんだっけ」


 白い線が彼の足元を囲んでいる。


 スマホ画面には、白い処理ウィンドウが出ていた。


《過剰拡散リスク》

《記憶補正処理:進行》

《神話構文再燃防止》

《通常認識へ置換》


 若者は画面を見つめたまま、ぼろりと涙をこぼした。


「俺、何か……すごく怖いもの見た気がするんだよ」


 通りすがりの人が、心配そうに声をかける。


「大丈夫ですか?」


「分かんない。怖かったことだけ覚えてる。でも、何が怖かったか分かんない」


「救急車呼びます?」


「いや、違う。違うんだ。俺、誰かと一緒に逃げた気がする。誰だっけ。名前、何だっけ」


 白い線が、彼の周囲で強く光った。


 彼は数秒、ぼんやりと立ち尽くした。


 そして、涙を拭った。


「あれ……何で泣いてんだ、俺」


 声が、軽くなっていた。


 先ほどの切実さが消えている。


 通行人が笑って言う。


「通信障害でパニックになったんじゃないですか?」


「かも。恥ず」


 若者は照れたように笑い、スマホをポケットにしまった。


 ユウリは、足が動かなかった。


 救われたのか。


 それとも、奪われたのか。


 さっきまで震えていた恐怖は、確かに彼を苦しめていた。


 でも、それは彼が本当に何かを経験した証でもあった。


 それを誰かが勝手に薄めて、通信障害という形に整えた。


 それは、悪意ではない。


 悪意ではないから、余計に難しい。


「ユウリ」


 レンが低く呼んだ。


 白い線の向こう、アーケードの奥に人影が見えた。


 白いブラウス。

 黒いジャケット。

 手にした薄い端末。

 落ち着いた姿勢。


 烏丸マシロだった。


 彼女の周囲だけ、雨粒がやけに白く見える。


 マシロの隣には、同じように白い腕章をつけた数人の大人がいる。警察官ではない。医療スタッフにも見えるが、どこか事務的だった。彼らは通行人に声をかけ、スマホを確認し、必要な者を商店街の奥へ案内している。


 空き店舗の一つに、いつの間にか白い看板が掛かっていた。


《白環相談所》

神話性ストレス・通信障害関連相談窓口

一時受付中


 昨日まで、そこは空き店舗だったはずだ。


 シャッターも下りていた。


 今は、白いパネルで入口が整えられ、蛍光灯のような清潔な光が中から漏れている。


 マシロはユウリたちに気づいた。


 驚いた様子はなかった。


 むしろ、来ることを予測していたように静かにこちらへ歩いてくる。


「天瀬さん。久遠さん。星宮さん」


 彼女は三人の名前を、丁寧に呼んだ。


 正確に。


 それなのに、ユウリは少しだけ身構えた。


 マシロの呼び方は間違っていない。


 だが、その背後に、別の表示が透けて見える気がする。


 未確定名の観測者。

 情報拡散リスク。

 現在名保護処理対象候補。


 彼女は名前を呼んでいる。


 でも、同時に分類している。


「ここで何をしているんですか」


 ユウリが聞くと、マシロは端末を胸の前で軽く抱えた。


「保護です」


 迷いのない声だった。


「天御柱神宮で発生した神話構文災害により、複数の市民に記憶混濁、契約未遂後反応、神名残響、恐怖再照応の兆候が見られます。放置すれば、本人の精神状態にも、神狭市全域の構文安定にも悪影響が出ます」


「だから、記憶を変えてるんですか」


「補正しています」


「同じじゃないですか」


 ユウリの声が少し強くなった。


 マシロは表情を変えない。


「同じではありません。記憶の全消去ではなく、危険な神話構文との接続を弱め、日常的な説明へ置換する処理です。本人の生活継続を優先しています」


「その人が何を見たか、誰といたかまで消えてました」


「副作用です」


 あまりに静かな返答だった。


 ユウリは言葉を失いかける。


 副作用。


 その一言で済ませていいものなのか。


 マシロは続けた。


「副作用を最小限に抑えるため、現在、白環相談所で個別確認を行っています。あなた方にも来ていただく必要があります」


 レンが鼻で笑った。


「聴取推奨って出てましたけど」


「はい。久遠さん、あなたは複数の異変ログを保持し、独自解析を行っています。意図せず情報を拡散すれば、次の災害を誘発する可能性があります」


「だからログを渡せと?」


「必要です」


 レンの目が鋭くなる。


 マシロは次にユウリを見る。


「天瀬さん。あなたは契約相を展開しましたね」


 ユウリの左手が、無意識に握られる。


「……見てたんですか」


「記録しました」


 その言い方に、背筋が冷えた。


 見た、ではない。


 記録した。


「あなたの《未署名の観測翼》は、神名偽装を解除する能力を持つ可能性があります。非常に有用であると同時に、非常に危険です。扱い方を誤れば、神名そのものを傷つける可能性がある」


「だから?」


「端末を確認させてください。必要なら、一時的にAVISを停止します」


 ユウリはスマホを握りしめた。


 ポケットの中で、アヴィが低く言う。


「渡すな」


「分かってる」


 思わず小声で返す。


 マシロの視線が、わずかに動いた。


 彼女には聞こえていないはずなのに、何かを察したようだった。


 最後に、マシロはミオへ向き直った。


 その瞬間、ユウリは一番嫌な予感を覚えた。


「星宮さん」


 マシロの声は、いつも通り穏やかだった。


「あなたには、通常の記憶補正は適用できません」


 ミオは小さく息を呑む。


「どうしてですか」


「あなた自身が、複数の照応と干渉痕を保持しています。外部からの神話構文だけでなく、内側からの再浮上も確認されています。現時点では、通常区域での生活継続は危険です」


 ユウリは一歩前へ出た。


「それ、どういう意味ですか」


 マシロは目を伏せずに答えた。


「一時保護が必要です」


「保護?」


「はい」


 端末に白い表示が浮かぶ。


《星宮ミオ》

《現在名不安定》

《女神照応過多》

《理触疑い》

《隔離観察:推奨》


 隔離観察。


 ユウリの中で、何かが静かに切れた。


「ミオは、物じゃない」


 声は低かった。


 自分でも驚くほど、はっきりしていた。


「分類名で呼ばないでください」


 マシロは、少しだけ目を細めた。


 怒ったのではない。


 困ったのでもない。


 むしろ、理解しているような顔だった。


「あなたがそう言うことは予測していました」


「なら、やめてください」


「できません」


 即答だった。


「私は、彼女を傷つけるつもりはありません。むしろ、傷つけないために必要な措置を提案しています」


「勝手に名前を薄めることが?」


「名前を守るために、危険な接続を管理する必要があります」


「管理って言えば、何してもいいんですか」


 マシロは黙った。


 白い線が、足元で静かに光っている。


 旧北口商店街の人々は、少しずつ白環相談所へ案内されている。泣いていた配信者も、契約しかけた男子生徒も、昨日誰といたか思い出せなかった女性も。


 彼らは保護されている。


 それは、確かにそうなのだ。


 でも、何かが同時に奪われている。


 ユウリは、その両方を見てしまった。


 だから、簡単にマシロを悪人とは呼べない。


 けれど、従うこともできない。


 ミオがユウリの袖を軽く掴んだ。


 その手が震えていた。


 ユウリは振り返らず、その手の存在だけを確かめた。


 星宮ミオはここにいる。


 保護対象ではなく。

 隔離観察推奨者でもなく。

 理触疑いでもなく。


 星宮ミオとして。


 マシロは静かに言った。


「まずは、白環相談所へ来てください。説明します」


 レンが小声でユウリに囁く。


「どうする」


 逃げるか。


 従うか。


 拒否するか。


 ユウリは白い線の向こうにある相談所を見た。


 行けば、もっと詳しいことが分かる。


 マシロの目的も、白環管理区域の仕組みも。


 でも、そこは名前を預かる場所だ。


 預かるために分類し、分類するために仮の名を与える場所。


 老紳士の声が、まだ耳に残っている。


 名を守った者は、次に名を預かりたがる者と出会うものだよ。


 ユウリは息を吐いた。


「行きます」


 ミオの手が少し強くなる。


 レンが目を見開く。


「マジで?」


「逃げても、何されるか分からない。だったら、見に行く」


 マシロは静かに頷いた。


「賢明です」


「でも」


 ユウリは、彼女を見る。


「ミオを勝手に処理するなら、その場で止めます」


 マシロは表情を変えなかった。


 ただ、少しだけ悲しそうに見えた。


「あなたは、守るという言葉をまだ信じているのですね」


「先生は、信じてないんですか」


「信じています」


 マシロは答えた。


「だから、管理が必要なのです」


 白い線が、三人の足元でゆっくりと円を描いた。


 旧北口商店街の雨音が、さらに遠くなる。


 ユウリたちは、白い相談所へ向かって歩き出した。

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