序節 ― カフェノーネーム
天御柱神宮で偽日輪が祓われた翌日、神狭市には小さな雨が降っていた。
傘を差すほどではない。
けれど、空気の中に細かな水の粒が混じり、髪や制服の肩を少しずつ湿らせていくような雨だった。道路の白線はにじみ、アスファルトは薄く光っている。駅前の大型ビジョンは、何事もなかったように化粧品の広告を流していた。
昨日、あの空を白く焼こうとしたものの残り香は、もうどこにもない。
少なくとも、普通の人の目には。
天御柱神宮の騒ぎは、朝のニュースでは「一時的な通信障害」として処理されていた。
神社周辺でスマートフォンが一斉に不具合を起こした。
一部の動画配信に白飛びや音声乱れが発生した。
体調不良を訴えた人が数名いた。
原因は調査中。
それだけだった。
偽日輪。
ソウリン大御神の名を騙った白い残り火。
人々の連絡先を「信徒」へ置き換えた光。
ユウリの背後に立ち上がった《未署名の観測翼》。
それらは、どのニュースにも出てこない。
世界はまた、理解できないものに、分かりやすい仮の札を貼っていた。
通信障害。
その四文字で、昨日の戦いは薄く覆われている。
ユウリは旧北口商店街のアーケードを歩きながら、何度も左手の甲を見た。
そこには何もない。
未完成の印も、白い鍵も、羽根のような光も消えている。
それでも、手の奥にはまだ何かが残っていた。鍵を握った時の感触。偽日輪の名札に触れた時の熱。神の名が、一枚の札のように剥がれていった瞬間の、あの小さな音。
かちり。
思い出すたびに、胸の奥が冷える。
あれは勝利だったのか。
それとも、自分はただ、名を欲しがっていた何かから、借り物の名前を剥がしただけなのか。
答えは出ない。
アーケードの古い屋根に、雨がぽつぽつと当たっている。シャッターを下ろした金物屋の前を通り過ぎると、錆びた看板の文字が雨で黒く濡れていた。時計店のショーケースには、止まったままの腕時計がいくつも並んでいる。古い薬局の前には、手入れされた植木鉢が三つ置かれていた。
昼間なのに、人通りは少ない。
いや、少ないというより、ここだけ神狭市の時間から少し遅れているようだった。
駅前の騒がしさも、学園のざわめきも、スマホの通知音も、ここまで来ると少し遠くなる。
だから、レンがこの場所を選んだ。
朝、彼からメッセージが来た。
『学校はまずい。情報処理室Bも見られてる。旧北口商店街に、AVISログが妙に薄い場所がある。そこに集合』
指定された場所は、地図アプリに店名が出なかった。
ただ、座標だけが示されていた。
ユウリがそこへ着くと、木枠の扉の前でレンが待っていた。
制服の上にパーカーを羽織り、片手にスマホ、もう片方の手に折りたたみ傘を持っている。いつも通りに見せようとしているが、目の下に少しだけ疲れが残っていた。
「遅い」
「時間ぴったりだろ」
「俺が早く来たんだから、お前が遅い」
「理屈がおかしい」
いつものやり取り。
それが少しだけありがたかった。
レンは扉を顎で示した。
「ここ。カフェらしい」
ユウリは入口を見る。
看板はない。
営業時間も、メニューも出ていない。
木枠の横に、小さな真鍮の札が一枚下がっているだけだった。そこには店名も文字も書かれていない。ただ、黒い塗料で細い線が一本引かれている。
名前を書くはずだった場所を、あえて塗りつぶしたように。
「本当にカフェなのか?」
「たぶん。口コミはほぼない。地図にも出ない。でも、古い地域ブログに一件だけ書かれてた。“名前のない喫茶店”って」
「怪しすぎるだろ」
「怪しいけど、AVISのログがここだけ妙に静かなんだよ。少なくとも、学校よりはマシ」
その時、アーケードの向こうからミオが歩いてきた。
薄いグレーの傘を差し、胸元の学生証を片手で押さえている。雨のせいか、髪の先が少し濡れていた。ユウリと目が合うと、彼女は小さく会釈した。
「お待たせしました」
「大丈夫。僕も今来たところ」
レンがぼそっと言う。
「俺は待ったけどな」
ミオが少しだけ笑う。
その笑顔を見て、ユウリは胸の奥が少し緩むのを感じた。
昨日、彼女の名前はまた削られた。
それでも、今ここにいる。
星宮ミオとして。
ユウリはそのことを、何度も確認してしまう。
扉を開けると、古い鈴が鳴った。
ちりん、と。
細く澄んだ音だった。
雨音よりも小さいはずなのに、なぜか店の奥まで、そしてこちらの胸の奥まで届くような音だった。
店内は静かだった。
外の薄暗さとは違う、琥珀色の灯りがある。壁には古い時計と、額に入った白紙のメニューらしきものが掛かっていた。けれど、その紙には何も書かれていない。カウンターの棚にはカップやグラスが整然と並び、奥には古いレコードプレーヤーが置かれている。
ジャズが流れていた。
曲名は分からない。
けれど、雨の日の古い商店街に似合う、少しざらついた音だった。
カウンターの奥で、老紳士がグラスを磨いていた。
白髪はきれいに撫でつけられ、背筋はまっすぐだった。黒いベストに白いシャツ。細いタイ。左手には薄い手袋をしている。皺のある顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、その瞳だけは、年齢を測れないほど深かった。
カウンターの端には、黒いシルクハット。
その隣には、銀の握りを持つ杖。
この古びた商店街の喫茶店には、少しだけ似合わない。
けれど、最初からそこにあったもののようにも見えた。
「いらっしゃい」
老紳士は、柔らかい声で言った。
「三名様だね」
名前は聞かなかった。
予約かどうかも聞かない。
どこから来たのかも、誰なのかも、何をしに来たのかも聞かない。
ただ、三人が入ってきたという事実だけを受け入れるように、奥の席へ手を示した。
「雨の日は、窓際より少し奥がいい。外の気配を背負わずに済む」
レンが小さく眉を寄せる。
「……どういう意味ですか」
「ただの店主の好みだよ」
老紳士は微笑む。
「濡れた通りを見ながら飲む珈琲は悪くない。だが、話し込むには、外が見えすぎる席は少し落ち着かない」
そう言って、彼は三つのカップを用意し始めた。
「注文、まだしてませんけど」
レンが言うと、老紳士は穏やかに答えた。
「少年には深煎りを。考えすぎる時は、苦いものがいい。こちらのお嬢さんには温かいミルクを少し入れた珈琲を。胃が冷えている。もう一人のお嬢さんには、珈琲ではなく蜂蜜入りの温かいミルクを」
ミオが驚いたように瞬きする。
「私、珈琲は少し苦手で」
「だろうね」
老紳士は楽しげに笑った。
レンがユウリの方を見る。
怪しい。
その目がそう言っていた。
ユウリも同じことを思った。
怪しい。
あまりにも怪しい。
けれど、不思議と危険な感じはしなかった。
アヴィは何も言わない。
ユウリはスマホを取り出し、画面を見た。
黒い円環は静かに回っている。
《現在地:旧北口商店街》
《局所記録濃度:低》
《店名:未取得》
《注意:記録照合不能》
《危険判定:保留》
「保留かよ」
ユウリが小さく呟くと、アヴィがようやく返した。
「この店、記録に引っかからない。だが、敵性反応も出ない」
「それ、余計に怖いんだけど」
「同感だ」
レンが画面を覗き込む。
「AVISでも店名取れないのか」
「うん」
ミオは、店内を見回していた。
壁の白紙のメニュー。名前のない入口。空のグラス。古いレコード。カウンターに置かれたシルクハットと杖。
「ここ、少し静かです」
「静か?」
「名前を聞かれない場所、という感じがします」
ミオの言葉に、老紳士の手がほんのわずかに止まった。
すぐにまた、カップを置く音が続く。
「良い耳をしている」
彼はそう言った。
ミオは少し戸惑う。
「耳、ですか」
「名は、声だけで呼ばれるものではない。場所も、人も、時には沈黙も名を呼ぶ。君はそれを聞くのが少し得意なのだろう」
ユウリは老紳士を見た。
この人は、何かを知っている。
そう思った。
でも、どこまで知っているのか分からない。
聞けば答えるのか。
聞いてもはぐらかすのか。
それとも、聞くこと自体が間違いなのか。
老紳士は三つの飲み物をテーブルへ運んだ。
深煎りの珈琲。
ミルクを少し入れた珈琲。
蜂蜜入りの温かいミルク。
それぞれの前に、迷いなく置かれる。
「この店では、来た者の名を尋ねない」
老紳士は言った。
「名乗りたければ名乗ればよい。名乗りたくなければ、名乗らずにいればよい。失くした者は、失くしたまま座っていればよい」
ユウリは、その言葉に胸を突かれた。
失くした者は、失くしたまま座っていればよい。
無番線ホームで、ミオの名前は切符にされかけた。
旧校舎で、倉持ハルトの名前は空白の名に上書きされかけた。
天御柱神宮で、人々の名前は信徒という役割へ塗り替えられかけた。
名前を守らなければならない。
そう思ってきた。
けれど、この店の老紳士は、失くしたまま座っていてよいと言う。
それは甘やかしなのか。
救いなのか。
ユウリにはまだ分からなかった。
老紳士はカウンターへ戻る。
だが、背を向けたまま、こちらに聞こえるくらいの声で言った。
「話をするには、よい雨だ。外の足音が少し遠くなる」
それきり、彼はグラスを磨き始めた。
*
最初に口を開いたのはレンだった。
「整理しよう」
彼はスマホと小型タブレットをテーブルの上に置いた。
「この三日で起きたことが多すぎる。勢いで動いてきたけど、ここらで一回まとめないと、次で死ぬ」
「縁起でもないな」
「縁起で生き残れるなら、今すぐ神社戻ってお祓いしてもらう」
そう言ってから、レンは少し黙った。
神社。
その言葉が、昨日の白い光を連れてきたのだろう。
ユウリも、カップに手を触れたまま黙った。
温かいはずの珈琲の熱が、指先まで届くのに少し時間がかかった。
レンは画面にメモを表示した。
「まず一件目。神狭駅の無番線ホーム」
その言葉で、ミオの肩が少し動いた。
ユウリは彼女を見る。
ミオは大丈夫だと言うように、小さく頷いた。
レンは続ける。
「存在しない地下通路、無番線、終点未記録。車掌みたいなやつが白い切符を差し出して、ミオの名前を受領させようとした」
「名前を、切符にされかけた」
ユウリが言う。
「あの時は、ミオって呼んだら切符から名前が剥がれた」
ミオはカップを両手で包みながら、静かに言った。
「呼ばれた時、戻ってこられた感じがしました。星宮さん、ではなくて、ミオって」
その言葉に、ユウリは少しだけ視線を落とした。
今でも、その瞬間を覚えている。
必死だった。
ただ、遠くへ行きかけた彼女を引き戻したくて、名前を呼んだ。
レンがメモへ入力する。
「現在名呼称で切符化を解除。敵は完全撃破じゃなくて、ホームごと消失」
「まだ残ってる可能性があるってことか」
「たぶん。AVISのログでも、無番線は消滅じゃなくて“未接続化”になってる」
次に、レンは画面を切り替えた。
「二件目。星綴高等学園七不思議。出席簿の空席」
旧校舎の匂いが、ユウリの記憶に戻る。
夕方なのに暗い廊下。
窓の外に映る星空のような黒。
補講教室。
黒板に書き足される名前。
倉持ハルト。
綴白ナナセ。
天瀬ユウリ。
久遠レン。
星宮ミオ。
「倉持の名前が、綴白ナナセって空の名前に上書きされかけた。今回は名前を呼ぶだけじゃ戻らなかった」
「記録が必要でした」
ミオが言った。
「倉持さんが、昨日そこにいたこと。軽音部でギターを弾いていたこと。情報処理室BでAVISの診断を見せて笑っていたこと。誰かが覚えていることが、名前を戻す力になりました」
レンが頷く。
「名前は本人だけのものじゃない。呼ぶ人、覚えてる人、残ってる場所、記録。そういうので保たれる」
ユウリは、その言葉を胸の中で繰り返した。
名前は、本人だけのものではない。
だから奪われる時も、本人だけでは守れない。
それは怖いことでもあり、救いでもあった。
「三件目」
レンの声が少し低くなる。
「昨日の偽日輪」
店内の灯りが、ほんのわずかに揺れた気がした。
外の雨音が少し強くなる。
「天御柱神宮。AVIS一般版の太陽タイプ診断。ソウリン大御神の名を騙った未登録太陽残滓。人々の連絡先を“信徒”へ置換。ミオの学生証に依代候補、再臨器って表示」
ミオの指がカップの縁を強く握る。
ユウリは低く言った。
「やめろ」
レンはすぐに止まった。
「悪い」
「いや、整理は必要だけど」
ユウリは息を吐いた。
「その言葉、あんまり聞きたくない」
ミオは少しだけ首を横に振った。
「大丈夫です。言葉にしないと、何が起きたのか分からなくなります」
その声は静かだった。
けれど、ユウリには分かった。
大丈夫ではない。
それでも、彼女は自分のことを他人任せにしたくないのだ。
レンは少し慎重に続けた。
「偽日輪は神名を貼り替えてた。ソウリン大御神、アマテラス、アポロン、ラー、アウロ=ルクス……太陽神っぽい名前を借りて、自分を神にしようとしてた」
「神様って呼ばれたかった、名前のない残り火」
ユウリが言うと、レンは画面から顔を上げた。
「お前が昨日言ったやつだな」
「うん」
言った瞬間の感触が、まだ残っている。
偽日輪の名札が剥がれた。
ソウリン大御神ではない。
そう断じた。
そのおかげでレイジは祓えた。
でも、最後の問いには答えられなかった。
「では、私は何だったの」
ユウリが小さく呟くと、ミオがこちらを見た。
「まだ、気にしていますか」
「気にしない方がおかしいだろ」
「そうですね」
ミオは、少しだけ目を伏せた。
「でも、答えられなかったから、間違っていたわけではないと思います。あのままだったら、たくさんの人の名前が消えていました」
「分かってる」
ユウリはカップの中の黒い水面を見た。
「分かってるけど、あれに名前がなかったのも、本当だった」
誰も何も言わなかった。
その沈黙の中で、カウンターの奥から老紳士の声がした。
「名を与えられなかったものは、しばしば名を盗む」
三人が一斉に顔を上げる。
老紳士はグラスを磨いたまま、こちらを見ていなかった。
「それは悪意とは限らない。だが、盗まれた側にとっては災厄だ」
レンが慎重に聞く。
「店主さん、今の話、どこまで分かってます?」
老紳士は、薄く笑った。
「雨の日の若者の話は、少し耳に入りやすいものだよ」
「そういう誤魔化し、今あんまり求めてないんですけど」
「では、別の言い方をしよう」
老紳士はグラスを棚へ戻した。
その動作は静かで、音がほとんどしなかった。
「この店では、客の事情を詮索しない。だが、客が零した言葉を、聞かなかったことにもしない」
レンは眉を寄せた。
「つまり、知ってても教えないってことですか」
「教えるほど知っているとは限らない」
「でも、知らないわけでもない」
「さて」
老紳士は、楽しげに微笑んだ。
「珈琲は冷める前がよい」
完全にはぐらかされた。
レンは不満そうに口を尖らせたが、追及はしなかった。
この店では、強く踏み込む方が危ない。
ユウリにも何となく分かった。
レンはメモを続ける。
「次。ミオの現在名安定率」
ミオが自分のスマホを出す。
彼女のAVIS画面は、今もほとんど白い。
ただ、中央に数字だけが表示されていた。
《現在名:星宮ミオ》
《現在名安定率:61%》
《注意:女神照応過多》
《注意:世界法則側干渉痕》
六十一。
昨日と変わっていない。
いや、戻っていない、と言うべきか。
ユウリはそれを見るたびに、胸が詰まる。
「第1話の後は?」
レンが聞く。
ミオは記憶をたどるように少し考えた。
「最初に見た時は、七十台でした。正確には覚えていません。でも、第2話の後に六十八になって、第3話で六十一まで下がりました」
「下がりっぱなしだな」
「言い方」
「ごめん」
レンは本当に申し訳なさそうにした。
ミオは小さく首を振る。
「事実ですから」
ユウリは画面を見つめた。
「この数字がゼロになったら、どうなるんだ」
アヴィが答える。
「推測になる」
「推測でいい」
「星宮ミオという現在名が、彼女をこの現実に固定できなくなる。別の神名、役割名、あるいは未定義状態へ移行する可能性が高い」
ミオの指がわずかに震えた。
ユウリはすぐに言った。
「なら、そうならないようにする」
「具体策は?」
アヴィが冷静に返す。
ユウリは詰まった。
名前を呼ぶ。
記録を集める。
名札を剥がす。
それぞれの場面では、それで何とかなった。
でも、ミオの現在名そのものを安定させる方法はまだ分からない。
レンが頭をかいた。
「やっぱ医者とか必要なんじゃねえの。普通の病院じゃなくて、こういうやつ診れる人」
「そんな人いるのか」
「神話構文障害とか言ってたし、いるんじゃね。知らんけど」
その時、老紳士がカウンターの奥で小さく笑った。
ユウリたちはまたそちらを見る。
「何か?」
レンが聞くと、老紳士は首を横に振る。
「いや。病に名をつけたがる者は、どの時代にもいると思っただけだ」
「それ、いるって意味ですか?」
「さて」
また、はぐらかされる。
この店主は、答えの前に扉だけを見せる。
そんな印象だった。
レンは諦めて、次の項目へ移った。
「ユウリの契約相。《未署名の観測翼》」
その名前を聞いた瞬間、ユウリの左手が疼いた。
「まだ一回しか使ってない」
「一回でも使えた。しかも、神名偽装を剥がした。かなり特殊だと思う」
「レイジさんみたいに戦えるわけじゃない」
「それはそう。お前、正面戦闘は弱そう」
「はっきり言うな」
「でも、見える。神名の貼り替わりとか、記録の揺らぎとか、現在名の薄いところとか。たぶん、お前の役割は火力じゃない」
役割。
その言葉に、ユウリは少し引っかかった。
偽日輪は、人々を役割名へ置き換えようとした。
マシロは、ユウリたちを管理対象として見ている。
レイジは、ユウリに神々の理を選ぶ者として期待しているのかもしれない。
誰もが、誰かを何かの役割で呼ぶ。
自分も、そうされている。
未確定名の観測者。
そう呼ばれたことを思い出す。
「役割って言われると、ちょっと嫌だな」
ユウリが言うと、レンはすぐに気づいたように目を伏せた。
「悪い。能力傾向、くらいの意味」
「分かってる」
でも、言葉は残る。
何と呼ぶかは、やはり大事なのだ。
ミオが静かに言った。
「私は、ユウリくんのあの力、怖くありませんでした」
ユウリは驚いて彼女を見る。
「怖くなかった?」
「はい。偽日輪の光は、私を別の名前で呼ぼうとしていました。でも、ユウリくんの羽根と鍵は……名前を決めつけない感じがしました」
彼女は言葉を探すように、少し目を伏せる。
「まだ分からないまま、そばに立ってくれる感じです」
ユウリは何も言えなかった。
胸の奥が、少し熱くなる。
レンがわざとらしく咳払いした。
「はいはい、いい話。次、マシロ先生」
空気が変わった。
烏丸マシロ。
白い相談員。
人類管理機構照応。
第2話の終わりに現れ、第3話では天御柱神宮へ近づくなと警告した大人。
彼女はたぶん、正しい。
危険な場所へ行くな。
端末を確認させろ。
未成年だけで神話構文災害に関わるな。
全部、まともな言葉だ。
だからこそ、怖い。
「昨日の終わり、AVISに出てた」
ユウリはスマホを操作し、ログを表示した。
《次回予測:管理機構介入》
レンが顔をしかめる。
「絶対来るな」
「もう来てるんじゃないか」
「学校にいるしな。臨時スクールカウンセラーとして」
ミオはカップを見つめたまま言った。
「烏丸先生は、私を心配していると思います」
「うん」
「でも、見ているものが違う気がします。私のことを、星宮ミオとしてではなく……危険な何かとして見ているような」
ユウリは頷いた。
それは、昨日からずっと感じていた。
マシロはミオを傷つけたいわけではない。
むしろ守ろうとしている。
けれど、その守り方は、名前を分類し、危険度を測り、必要なら隔離する方向へ向かっている。
守るために、本人の現在名を薄める。
それは、偽日輪とは違う形の怖さだった。
レンが続ける。
「最後にレイジさん。神々の再臨派」
ユウリの脳裏に、神楽坂レイジの姿が浮かぶ。
朱金の光。
日輪神将。
まっすぐな背筋。
そして、あの言葉。
神なき自由は、人を救わない。
「あの人は強い」
ユウリは言った。
「本当に人を助けた。偽日輪を祓ったのも、最後はレイジさんだった」
「でも、神々の理を選べって?」
「そこまでは言ってない。でも、いずれ選ぶことになるって」
レンは難しい顔をした。
「まあ、分からなくはないんだよな。昨日の連中見てると。自由にアプリ入れて、自由に押して、自由に神様イベントだって騒いで、結果、信徒になりかけたわけだし」
ユウリは反論できなかった。
レイジの言葉にも、確かに正しさがある。
自由だけでは、人は簡単に危険へ近づく。
けれど、神々の理に預ければよいのかと言われると、それも違う気がする。
ミオが依代や器と呼ばれたことを思い出す。
神の理の中で、人は何と呼ばれるのか。
それを考えると、簡単には頷けなかった。
しばらく、三人は黙った。
雨音だけが続く。
店内のジャズが、針の擦れる小さな音を混ぜながら流れている。
老紳士はカウンターの奥で、またグラスを磨いていた。
その静けさの中で、ミオがぽつりと言った。
「みんな、私を何かにしようとしますね」
ユウリは顔を上げる。
ミオは怒っているわけではなかった。
悲しそうでも、諦めているわけでもない。
ただ、静かに事実を確かめているようだった。
「無番線では、切符に。補講教室では、別の名前に。偽日輪では、依代に。烏丸先生は、たぶん保護対象として。神楽坂さんは、危険な照応を持つ人として」
彼女は自分の学生証を見た。
「私は、星宮ミオでいたいだけなのに」
その言葉は小さかった。
けれど、ユウリの胸にはっきり残った。
星宮ミオでいたい。
それは、簡単な願いのはずだった。
なのに、今の神狭市では、その願いがいちばん難しい。
「僕は」
ユウリは、言いかけて少し迷った。
約束したかった。
絶対に守る、と。
でも、できるかどうか分からないことを、簡単に言うのは違う気がした。
それでも、何も言わないのも嫌だった。
「僕は、ミオをミオって呼ぶよ」
言葉は、それだけだった。
弱い。
でも、今の自分に言えるいちばん確かなことだった。
ミオは少し目を見開き、それから小さく頷いた。
「はい」
レンが、わざと軽く言う。
「俺も星宮さんって呼ぶ。必要ならミオって呼ぶ。まあ、まだちょっと照れるけど」
「照れるのか」
「照れるだろ、普通」
ミオが小さく笑った。
その笑いが、店内の灯りに少しだけ溶けた。
その時、老紳士が新しい水を持ってきた。
グラスの中で、氷が小さく鳴る。
「よい名前だ」
彼は、誰の名前とも言わずにそう言った。
ユウリは老紳士を見上げる。
「店主さん」
「何かな」
「あなたは、何者なんですか」
レンが息を止めた気配がした。
ミオも、老紳士を見る。
老紳士は驚かなかった。
むしろ、その質問が来るのを待っていたように、ゆっくり微笑んだ。
「この店の店主だよ」
「それだけですか」
「今のところは」
今のところ。
その言い方が、妙に引っかかった。
「名前は?」
ユウリが聞くと、老紳士の目が細くなる。
「この店では、来た者の名を尋ねない」
「店主も名乗らない?」
「名乗る必要がある時は、名乗るだろうね」
「今は必要ない?」
「君たちが珈琲を飲むには、必要ない」
そう言って、老紳士は少し身を引いた。
拒絶ではない。
ただ、ここから先はまだ早い、という距離の取り方だった。
ユウリはそれ以上聞けなかった。
老紳士は三人を見回し、静かに言った。
「君たちは、名を守った」
その言葉に、店内の空気が少し変わった。
「切符から、出席簿から、偽りの日輪から。実に忙しい数日だったことだろう」
やはり知っている。
ユウリはそう思った。
レンも何か言おうとしたが、老紳士は続けた。
「だが、名を守った者は、次に名を預かりたがる者と出会うものだよ」
「預かりたがる者……?」
ミオが小さく聞き返す。
老紳士は頷いた。
「名は危うい。だから守らねばならない。そう考える者がいる。名は危険だ。だから管理せねばならない。そう考える者もいる」
ユウリの脳裏に、烏丸マシロの白い顔が浮かんだ。
「守るために、預かる」
老紳士は言った。
「預かるために、記録する。記録するために、分類する。分類するために、仮の名を与える」
グラスの氷が、小さく鳴った。
「さて。そこにあるのは保護か、それとも別の喪失か」
誰も答えられなかった。
その時、ユウリのスマホが震えた。
画面を見る。
AVISの黒い円環が、白く乱れている。
《旧北口商店街周辺に構文変動》
《白環管理区域:一時展開予兆》
《記憶補正波形を検出》
《接触対象:烏丸マシロ》
レンのスマホも同時に鳴る。
「来たな」
彼の声は低かった。
ミオの画面にも、白い文字が浮かぶ。
《現在名保護処理の対象候補》
《注意:本人同意未確認》
ミオの顔色が変わる。
ユウリは立ち上がった。
カフェの外。
雨に濡れた旧北口商店街の舗道に、白い円環状の線が薄く浮かび始めていた。
アーケードの向こうで、人々の足音が少しずつ遠くなる。
シャッターの文字が、白く滲む。
世界が、また別の形で名前を覆い始めている。
老紳士はカウンターの奥で、静かにグラスを置いた。
「どうやら、珈琲を飲み終えるには少し早かったようだ」
ユウリは扉へ向かう。
背後で、老紳士の声がもう一度聞こえた。
「気をつけたまえ。白いものは、いつも清いとは限らない」
鈴が鳴った。
ちりん、と。
三人が外へ出ると、旧北口商店街は、雨の中で静かに白くなり始めていた。




