終節 ― 神なき自由は人を救わない
天御柱神宮に、夕方が戻ってきた。
それは、当たり前のはずの光だった。
西の空は薄い橙色に染まり、鳥居の柱には長い影が落ちている。石灯籠の苔は緑を取り戻し、拝殿の屋根の下には、昼でも夜でもない柔らかな暗がりがあった。
ついさっきまで、境内を塗り潰していた白い光はどこにもない。
鏡池の水面にも、もう太陽は映っていなかった。
ただ、波紋だけが残っている。
風もないのに、水面はまだかすかに揺れていた。
その揺れを見ていると、ユウリには、さっきの声が耳の奥で蘇った。
『では、私は何だったの』
答えられなかった。
今も、答えられない。
偽日輪は消えた。
神名の偽装は剥がされた。
人々の連絡先から「信徒」の文字は消え、ミオの学生証にも「星宮ミオ」の名前が戻った。
だから、勝ったのだと思う。
けれど、それは気持ちよく拳を突き上げられるような勝利ではなかった。
ユウリは、拝殿脇の石段に腰を下ろしていた。
立っていられなかった。
足に力が入らない。手の甲に浮かんでいた未完成の印はもう消えているが、そこだけまだ熱を持っているようにじんじんする。
スマホは膝の上に置いていた。
画面は暗い。
アヴィも、しばらく黙っている。
レンは少し離れた場所で、境内にいた人たちの様子を見ていた。彼は何人かに声をかけ、倒れていないか、スマホの連絡先が戻っているかを確認している。
怒鳴っていた時とは違う、少し不器用な気遣いだった。
「通信障害だったのかな」
「動画、途中から真っ白で何も映ってない」
「何か、すごく明るかった気がする」
「イベント中止?」
「いや、公式イベントじゃなかったっぽい」
通行人たちは、口々にそんなことを言っていた。
誰も、正しく覚えていない。
白い日輪が降りてきたことも。
連絡先の名前が「信徒」に変わったことも。
神楽坂レイジが日輪神将を展開したことも。
ユウリが未署名の観測翼で神名の名札を剥がしたことも。
覚えている者はいる。
だが、言葉にしようとすると、途端に曖昧になる。
イベント。
通信障害。
妙に明るかった。
神社の演出。
白飛びした動画。
世界は、また自分に都合のいい説明を探していた。
ユウリはそれを責められなかった。
自分だって、できることならそう思いたい。
全部、ただの変なイベントだったと。
そう思えたら、どれだけ楽だろう。
「ユウリくん」
声がして、顔を上げる。
ミオが立っていた。
彼女は学生証を両手で持っている。胸元から外して、何度も名前欄を確かめていたのだろう。
星宮ミオ。
文字は戻っている。
それでも、ユウリには分かった。
ミオはまだ震えている。
体がではない。
名前の奥が、まだ震えている。
「大丈夫?」
ユウリが聞くと、ミオは少しだけ考えてから頷いた。
「はい。今は」
その言い方が、烏丸マシロの「今は」と重なって、ユウリの胸が少し痛んだ。
今は。
それは安心の言葉ではない。
続きがある言葉だ。
今は大丈夫。
でも、次は分からない。
ミオはユウリの隣に座った。
少し距離を空けて。
けれど、離れすぎない場所に。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「助けたっていうか……」
ユウリは鏡池を見た。
「僕だけじゃない。神楽坂さんが祓ったし、レンも周りを止めてた。ミオも、自分の名前をちゃんと持ってた」
「でも、ユウリくんが言ってくれなかったら、私はたぶん、また別の名前にされていました」
ミオは学生証を見つめた。
「依代とか、器とか、そういう名前に」
ユウリは何も言えなかった。
否定したかった。
そんなことはない、と言いたかった。
けれど、嘘になる。
白い光は確かに、ミオをそう呼ぼうとしていた。
彼女が何を望むかではなく、神話側がどう使えるかで名前を貼ろうとしていた。
ミオは静かに続けた。
「私、自分の名前がこんなに怖いものだと思いませんでした」
「名前が?」
「はい。呼ばれると嬉しいです。ここにいていいんだって思えます。でも、違う名前を呼ばれると……その名前に引っ張られそうになる」
彼女は指で、学生証の端を撫でた。
「星宮ミオって、まだ薄いんですね」
ユウリのスマホが、そこで小さく震えた。
画面が点灯する。
《星宮ミオ:現在名安定率 61%》
数字だけが、冷たく表示されていた。
六十一。
偽日輪は祓われたのに、数字は戻っていない。
ユウリは唇を噛んだ。
「……ごめん」
ミオが驚いたように顔を上げる。
「どうして謝るんですか」
「守れたと思ったのに、削られてる」
「でも、残っています」
ミオは、静かに言った。
「全部なくなったわけじゃありません」
その声は、弱くない。
震えてはいる。
けれど、ちゃんと彼女自身の声だった。
ユウリは頷いた。
「うん」
残っている。
それは、たぶん今の自分たちにとって、いちばん大事な事実だった。
*
境内の混乱が少し落ち着いた頃、神楽坂レイジがユウリの前に立った。
彼の契約相はもう消えている。
背後にあった巨大な日輪光背も、神鏡も、光の太刀もない。
そこにいるのは、白い装束に近い上品な服を着た、二十歳前後の青年だった。
だが、立ち姿は変わらない。
疲れているはずなのに、背筋はまっすぐで、視線は澄んでいる。
レイジはユウリの前で、静かに頭を下げた。
「君がいなければ、僕はあれを祓えなかった」
ユウリは戸惑った。
神楽坂レイジは、強かった。
誰よりも先に動き、結界を張り、人々を守り、偽日輪と正面から戦った。
ユウリがしたのは、その横で、見えたものを叫んだだけだ。
「僕は……ただ、見えただけです」
そう言うと、レイジは静かに首を振った。
「見えることは、選ぶことの始まりだ」
言葉が、すぐには飲み込めなかった。
レイジは鏡池へ視線を向ける。
「あれは、僕にも偽物だと分かっていた。ソウリン大御神ではない。そう断言することはできた。だが、僕には、それが何を借り、何を貼り、何によって神の形を得ようとしているのかまでは見抜けなかった」
「でも、神楽坂さんは戦えてました」
「戦えていた。だが、正しく戦えていたわけではない」
その言葉には、自分を責める響きがあった。
「僕の光は、あれを祓うために振るわれた。けれど同時に、あれに“太陽神らしさ”を与えていた。ソウリン大御神の名を守ろうとした僕自身が、あの偽りに証明を与えかけていた」
レイジは苦く微笑んだ。
その笑みは、きれいだった。
きれいで、痛かった。
「君が神名を剥がさなければ、僕は最後まで正面から光をぶつけ続けていただろう」
ユウリは何も言えなかった。
レイジは上から押しつけるような人間ではない。
礼儀正しく、誠実で、強い。
自分の誤りも認められる。
だからこそ、危ういと思った。
この人が「神々の理」を正しいと信じているなら、その言葉には重みがある。
ただの敵役の言葉ではない。
人を助けた人の言葉だ。
実際に、あの光で何人も守った人の言葉だ。
「天瀬ユウリ」
レイジが、改めて名前を呼んだ。
ユウリは顔を上げる。
「君は、神々を信じていないのだろう」
答えられなかった。
信じていない。
たぶん、昨日までならそう言えた。
神話は好きだ。
都市伝説も好きだ。
でも、それは物語として、考察として、遠くから眺めるものだった。
神を本気で信じているわけではない。
そう思っていた。
けれど、今はどうだろう。
無番線の車掌がいた。
出席簿の空席があった。
偽日輪が降りた。
アヴィが喋り、自分の背後には未署名の観測翼が立ち上がった。
信じるかどうかの前に、もうそれらは現実に干渉している。
ユウリが黙っていると、レイジは続けた。
「それでも、君は今日、神の名を扱った。神名を剥がし、残滓を見抜き、祓いの道を開いた」
夕方の風が、境内を渡った。
白い光に奪われかけていた風の冷たさが、今は妙に生々しく感じる。
「神なき自由は、人を救わない」
レイジの声は静かだった。
責める声ではない。
脅す声でもない。
彼自身が信じていることを、そのまま置く声だった。
「人は自由だけでは迷う。名もなく、理もなく、ただ選べと言われても、その選択はやがて誰かに奪われる。だからこそ、神々の理が必要だ。人を導き、世界に筋道を与えるものが」
ユウリは、反発しようとした。
でも、言葉が出なかった。
レイジの言っていることにも、正しさがあるからだ。
今日、境内に集まった人々は自由だった。
面白そうだから来た。
通知が来たから押そうとした。
神様が見えるかもしれないと期待した。
その自由は、偽日輪に利用された。
誰かが止めなければ、彼らは自分の名前を信徒という役割へ差し出していたかもしれない。
正しい導きが必要だ。
そう言われれば、否定しきれない。
レイジの光は、本当に人々を守った。
それは事実だった。
「君もいずれ、神々の理を選ぶことになる」
レイジは言った。
「選ばなければ、より強い構文に流される。名を持たない自由は、名を持つ力に呑まれる」
ユウリはミオを見た。
彼女はまだ学生証を握っている。
女神でもない。
依代でもない。
再臨器でもない。
ただの転校生として。
星宮ミオという名前を、やっと守り直した少女として。
彼女はそこにいる。
ユウリは、その姿を見て、ようやく少しだけ言葉を見つけた。
「まだ、決めません」
声は大きくなかった。
けれど、はっきり出た。
レイジがユウリを見る。
「それが君の答えか」
「今は」
ユウリはスマホを握った。
「神が必要ないって言えるほど、僕は何も分かってません。でも、神の理が必要だって、今ここで決めることもできません」
レイジは黙って聞いていた。
「ミオを依代って呼ぶ光も、神の名前を使っていました。正しいって言葉も使っていました。だから……まだ決めたくない」
それは、答えというには未熟だった。
反論というには弱い。
でも、ユウリの中では、それしかなかった。
まだ決めない。
ただし、誰かに決めさせもしない。
レイジは少しだけ笑った。
その笑みは、どこか寂しそうだった。
「君らしい答えなのだろうね」
「僕らしいかは、分かりません」
「分からないまま答えることもある」
レイジは鏡池へ目を向けた。
「なら、覚えておくといい。決めない者も、いつかは選択の場に立たされる」
その言葉は、予言のようにも、忠告のようにも聞こえた。
「その時、君の“まだ”が、誰かを救うのか。それとも、誰かを遅らせるのか。よく考えることだ」
ユウリは頷けなかった。
否定もできなかった。
ただ、その言葉を受け取るしかなかった。
*
少し離れた参道の影で、烏丸マシロが境内を見ていた。
彼女はいつの間に来ていたのか、白いブラウスも黒いジャケットも乱れていない。白い光に呑まれていたはずの境内にあって、彼女だけは最初から最後まで記録側に立っていたように見えた。
手元の端末には、いくつもの情報が並んでいる。
《天瀬ユウリ》
《未確定名の観測者》
《契約相展開を確認》
《契約相名称:未署名の観測翼》
《第一展開:短時間成功》
《神名偽装解除能力を確認》
《管理対象レベル:上昇》
マシロは、その表示を静かに見つめた。
驚きはない。
ただ、評価が更新された。
そんな目だった。
彼女の視線は、次に星宮ミオへ移る。
《星宮ミオ》
《現在名安定率:61%》
《女神照応過多》
《世界法則側干渉痕:継続》
《保護優先度:上昇》
さらに、久遠レン。
《久遠レン》
《一般版AVIS解析行動を確認》
《非契約状態での干渉抵抗:軽微》
《周辺人物記憶保持への寄与あり》
マシロは端末を閉じた。
境内では、レイジとユウリが向かい合っている。
神々の理を語る者。
まだ決めない者。
名前を守られた少女。
記録を解析しようとする少年。
それらを、マシロは静かに見ていた。
「保護では、足りないかもしれませんね」
誰に言うでもなく、彼女は呟いた。
その声には、冷たさだけがあるわけではなかった。
心配もある。
責任感もある。
けれど、それらはすべて、管理という白い枠の中に収まっている。
「早めに、適切な隔離基準を検討する必要があります」
その言葉は、風に紛れて誰にも届かなかった。
*
天御柱神宮を出る頃には、街灯が点き始めていた。
今度の光は、普通の街灯の光だった。
少し黄色く、少し頼りなく、でもちゃんと影を作る光。
ユウリは石段を下りながら、何度も左手を見た。
印は消えている。
鍵もない。
背後に羽根も文字片も浮かんでいない。
それでも、あの感覚は残っていた。
偽日輪の表面に貼られた神名が見えたこと。
名札を剥がした時の、小さな音。
そして、最後の問い。
『では、私は何だったの』
「なあ」
レンが隣に来た。
「大丈夫か」
「たぶん」
「その“たぶん”多すぎ」
「そう言われても」
レンはしばらくユウリを見て、それから小さく息を吐いた。
「でも、すごかった」
「何が」
「さっきのやつ。羽根と鍵の。正直、ちょっとかっこよかった」
「ちょっとか」
「調子乗るな」
レンの言い方がいつも通りで、ユウリは少しだけ笑った。
ミオも後ろで小さく笑う。
その笑い声を聞いて、ようやく息が深く入った。
終わった。
少なくとも、今日の事件は。
石段の途中で、ユウリのスマホが震えた。
画面を見る。
AVISの黒い背景に、白い文字が浮かぶ。
《神々の再臨派:接触》
《神楽坂レイジ:観測済》
《契約相:未署名の観測翼 初回展開》
《偽日輪構文:祓除済》
《星宮ミオ:現在名安定率 61%》
《警告:神狭市内AVIS一般版拡散率上昇》
《次回予測:管理機構介入》
最後の一行で、ユウリの足が止まった。
管理機構介入。
烏丸マシロの顔が浮かぶ。
白い相談員。
正しいことを言う大人。
保護という言葉の奥に、分類と隔離の気配を持つ人。
「どうした?」
レンが画面を覗き込み、顔をしかめる。
「うわ。次、マシロ先生か」
ミオも表示を見る。
彼女は何も言わなかった。
ただ、学生証を握る手に少しだけ力が入った。
ユウリはスマホを閉じた。
神々の再臨派。
人類管理機構。
偽日輪。
未署名の観測翼。
たった三日ほどで、世界はあまりにも広がりすぎていた。
それでも、戻る道はもう見えない。
石段の下には、神狭市の街明かりが広がっている。
いつもの街。
学校があり、駅があり、商店街があり、カフェ《ノーネーム》がどこかで灯っている街。
その上に、まだ星は見えない。
けれど、見えない場所で何かが綴られ続けている。
ユウリは左手を握った。
もう鍵はない。
でも、感触だけは残っている。
まだ決めない。
そう言ったばかりだ。
けれど、決めないままでも、次の選択は迫ってくる。
ユウリは、階段の下へ向かって歩き出した。
背後で、天御柱神宮の鏡池が、最後に一度だけ小さく波紋を広げた。




