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第五節 ― 未署名の観測翼

「名札を、剥がせ」


 アヴィの声が、白い境内の中で妙にはっきり聞こえた。


 ユウリは左手を見る。


 手の甲に浮かんだ未完成の印が、脈打つように光っている。


 円にもならない。

 羽根にもならない。

 鍵にもなりきらない。


 まだ何者でもない印。


 その先に、細い白い鍵が伸びていた。


 剣ではない。


 槍でもない。


 戦うための武器というには、あまりにも頼りない。握れば折れてしまいそうなほど細く、刃もなく、重さもない。ただ、スマホの画面から伸びた光が、ユウリの左手の中で鍵の形を取っている。


 これで何ができるのか。


 分からない。


 分からないのに、見えている。


 偽日輪の中心。


 白い太陽の胸元にあたる場所に、何枚もの名札が貼られていた。


 ソウリン大御神。


 その文字が、いちばん表面にある。


 だが、その下で別の名が揺れている。


 アマテラス。

 アポロン。

 ラー。

 アウロ=ルクス。

 救済の太陽。

 正しい神。

 戻ってきてほしいもの。


 それらは神の名だった。


 あるいは、人が太陽に託してきた願いの名だった。


 光で照らしてほしい。

 正しく導いてほしい。

 不安を焼き払ってほしい。

 夜を終わらせてほしい。


 その願いは、たぶん悪ではない。


 誰かを傷つけるために生まれたものではない。


 けれど、名を持たない白い残り火が、それを欲しがっていた。


 自分が神であると呼ばれるために。


 自分が戻るべき理であると認められるために。


 ユウリは、喉の奥が乾くのを感じた。


 怖い。


 圧倒的に怖い。


 偽日輪の光は、ただ明るいだけではなかった。そこに立っているだけで、自分の輪郭が薄くなっていく。天瀬ユウリという名前が、ただの観測者、ただの契約候補、ただの未熟な器に置き換えられていくような錯覚がある。


 足がすくむ。


 息が詰まる。


 レイジのように、美しく立てない。


 祝詞も知らない。

 太刀も持っていない。

 背後に巨大な光背もない。


 レンのように、すぐに状況を解析して叫ぶ余裕もない。


 ただ、見えている。


 あれが本物の神ではないことだけは。


「ユウリくん!」


 背後から、ミオの声がした。


 振り返りたい。


 でも、振り返ったら動けなくなる気がした。


 彼女がどんな顔をしているのか、見たら、怖くて足が止まる。


 だからユウリは前を向いたまま答えた。


「大丈夫」


 嘘だった。


 全然、大丈夫ではない。


 けれど、言わなければ歩けなかった。


 レイジが叫ぶ。


「無茶だ! 下がれ、天瀬ユウリ!」


 名前を呼ばれた。


 正確に。


 その声には警告があり、焦りがあり、そして本気でユウリを止めようとする意志があった。


 レイジは敵ではない。


 少なくとも今は。


 彼は人々を守ろうとしている。


 だが、今この瞬間、偽日輪に届く道は、レイジの正しい光では開かない。


 レイジが正しければ正しいほど、偽日輪はその光を借りて神に近づいていく。


 ユウリは白い砂利を踏みしめた。


 一歩。


 足元の影はない。


 自分が本当にそこに立っているのか、不安になるほど白い。


 二歩。


 偽日輪がこちらを向く。


 顔はない。


 それでも、見られている。


 三歩。


 左手の鍵が震えた。


 細い光の鍵から、黒い文字片がこぼれる。文字片は羽根のように舞い、ユウリの周囲を一瞬だけ囲んだ。


 アヴィが言う。


「走れ。だが、斬るな」


「分かってる」


「本当に分かってるか?」


「分かってない」


 ユウリは息を吸った。


「でも、剥がせばいいんだろ」


「上出来だ」


 アヴィの声が、少しだけ笑った。


 次の瞬間、偽日輪から白い光の線が放たれた。


 細い。


 だが、速い。


 槍のような光ではない。

 紙に引かれる修正液の線のようだった。


 触れたものの名前を、白く塗りつぶす線。


 ユウリは反射的に左手をかざした。


 鍵の先端が光に触れる。


 衝撃はなかった。


 代わりに、頭の中へ膨大な文字が流れ込んだ。


《信徒》

《信徒》

《信徒》

《依代》

《供物》

《再臨器》

《正しき光の受領者》


「っ……!」


 膝が折れそうになる。


 名前ではない。


 役割ばかりだ。


 白い光は、人をひとりずつ見ていない。


 必要な機能として見ている。


 信じる者。

 受け入れる者。

 神を迎える器。

 光に焼かれる供物。


 その中に、個人名はない。


 ユウリは歯を食いしばった。


「違うだろ……」


 左手の鍵を握る。


 光の線が砕け、黒い文字片になって散る。


 その向こうで、偽日輪が声を発した。


『我は、日輪』


 境内の空気が震える。


 人々のスマホが一斉に明滅した。


《正しき太陽を迎えますか?》

《許可する》


 レイジが結界を張り直す。


 朱金の光が広がり、契約誘導を押し返す。


 しかし、偽日輪の白はそれを食べるように強くなる。


『我は、正しき神』


 偽日輪の胸元に、新しい名札が貼られる。


 ソウリン大御神。


 今度はさらに濃い。


 レイジの光を浴びたことで、その文字は本物に近い輝きを帯びていた。


 レイジの顔が歪む。


「違う……!」


 彼も分かっている。


 目の前のものがソウリン大御神ではないことを。


 それでも、自分の光が相手を補強していることまでは、まだ受け入れきれていない。


 偽日輪は、さらに言う。


『我は、戻るべき理』


 その声に、境内の人々が揺れた。


 白い光を浴びた誰かが、ぼんやりと呟く。


「戻る……」


「神様が……」


「正しい光……」


 違う。


 ユウリは左手の鍵を握りしめた。


 胸の奥から、怒りが湧いた。


 その言葉は、人々の願いを借りている。


 不安を終わらせたい。

 正しいものに導かれたい。

 何か大きなものに、世界を直してほしい。


 その気持ちは分かる。


 でも、それを使ってミオの名前を器にするのは違う。


 倉持ハルトを信徒にするのも違う。


 知らない誰かの母親や友人や恋人の名前を、連絡先の中で同じ文字に変えるのも違う。


 ユウリは走った。


 白い光が身体を打つ。


 皮膚が焼けるわけではない。


 だが、名前の表面が削られていくような痛みがある。


 天瀬ユウリ。

 観測者。

 契約候補。

 未確定者。

 信徒。

 供物。


 違う。


 ユウリは自分の名を心の中で握る。


 天瀬ユウリ。


 星綴高等学園の二年生。

 神話と都市伝説が好きだった。

 まだ何も分かっていない。

 でも、ミオの名前を呼んだ。

 倉持ハルトの記録を戻した。

 今、ここにいる。


 白い光の中で、背後の《未署名の観測翼》が羽ばたいた。


 羽根と文字片が散り、ユウリの進路を一瞬だけ開く。


 レイジが叫ぶ。


「天瀬くん!」


 ミオの声が重なる。


「ユウリくん!」


 レンも叫んだ。


「行け、ユウリ! そいつの名前、剥がせ!」


 ユウリは偽日輪の前に飛び込んだ。


 近づくほど、白い太陽は巨大に見えた。


 胸元に貼られた神名の層が、目の前にある。


 ソウリン大御神。

 アマテラス。

 アポロン。

 ラー。

 アウロ=ルクス。

 救済の太陽。

 正しい神。

 戻ってきてほしいもの。


 その奥。


 奥の奥。


 何も書かれていない、白い空白があった。


 名がない。


 神名ではない。


 ただ、呼ばれたがっている。


 存在したがっている。


 誰かに、何かに、正しい名前を与えてほしがっている。


 ユウリは、そこで一瞬だけ息を呑んだ。


 これは、ただの敵なのか。


 それとも、呼ばれ損ねた何かなのか。


 だが、迷っている時間はなかった。


 白い光がミオへ伸びる。


 学生証の名前欄が、さらに薄くなる。


《星宮ミオ》

《再臨器》

《依代候補》

《現在名:不安定》


 ユウリは叫んだ。


「違う!」


 自分の声が、境内に響く。


 祝詞でもない。


 神名でもない。


 ただの高校生の声。


 それでも、偽日輪の光が一瞬揺らいだ。


「お前はソウリン大御神じゃない!」


 レイジが目を見開く。


 ユウリは偽日輪の胸元へ左手を伸ばした。


 白い鍵が、最も表面にある名札へ触れる。


 ソウリン大御神。


 その文字が熱を持つ。


 指先が弾かれそうになる。


 神の名は重い。


 偽物が貼っているだけでも、その名は簡単には剥がれない。


 けれど、ユウリには見えている。


 文字の端が浮いている。


 本当にその存在の名なら、根を張っているはずの場所が、ただ光で貼りつけられているだけだ。


 ユウリは鍵を差し込んだ。


 かちり、と音がした。


 小さな音。


 だが、境内の白い光の奥で、何かが外れる音だった。


「誰かに“神様”って呼ばれたかった、名前のない残り火だ!」


 その言葉が、偽日輪の中心へ届いた。


 白い太陽が、大きく揺れる。


 胸元の名札が、一枚剥がれた。


 ソウリン大御神。


 その文字が光の紙片となって舞い、朱金の光へ返っていく。


 続いて、下の名札が剥がれる。


 アマテラス。

 アポロン。

 ラー。

 アウロ=ルクス。

 救済の太陽。

 正しい神。

 戻ってきてほしいもの。


 一枚ずつ、白い太陽の表面から剥がれ落ちていく。


 剥がれた名札は消えない。


 ただ、それぞれが本来の場所へ戻るように、光の欠片となって空へ散った。


 ユウリのAVISが激しく震える。


《神名偽装:解除》

《正光吸収:停止》

《本体名:未登録太陽残滓》

《現在、祓除可能》


 偽日輪の光が、初めて弱まった。


 境内に影が戻る。


 薄くだが、人々の足元へ影が落ちた。


 スマホの連絡先に表示されていた「信徒」の文字が揺れ、元の名前が少しずつ戻り始める。


「戻った……?」


「母さんの名前、戻ってる」


「何だったんだよ、今の」


 レンのスマホでも、倉持ハルトの文字が濃く戻った。


 彼は息を吐き、画面を握りしめる。


「よし……よし、戻った」


 ミオの学生証にも変化が起きた。


 《依代候補》の文字が剥がれ落ちる。


 《再臨器として最適》が白いノイズになって消える。


 最後に、名前欄が残った。


 星宮ミオ。


 まだ少し薄い。


 でも、確かにそこにある。


 ユウリは膝をつきそうになった。


 身体から力が抜ける。


 左手の鍵はまだ光っているが、今にも崩れそうだった。


 それでも、ユウリは振り返って叫んだ。


「神楽坂さん、今なら!」


 レイジは動かなかった。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、彼は迷った。


 自分の光が敵を育てていた。


 正しい神名を掲げて祓おうとしたことが、偽日輪に神らしさを与えていた。


 その事実が、彼の胸を刺したのだろう。


 レイジの表情に、痛みが走った。


 けれど、彼は立ち止まらなかった。


 すぐに太刀を構え直す。


 背後の《日輪神将》が、朱金の光を取り戻す。


 今度の光は、白くない。


 無理にすべてを照らす光ではない。


 夜明けのような、わずかに朱を含んだ光だった。


 レイジは低く祓詞を唱えた。


「ソウリン大御神の名において――」


 その声には、先ほどまでの確信とは違うものがあった。


 痛みを知ったうえで、それでも祓う者の声。


「偽りの光を、正しき朝へ還す」


 《日輪神将》が光の太刀を振るった。


 朱金の斬撃が、偽日輪を貫く。


 今度は吸収されなかった。


 神名の偽装を剥がされた白い残り火は、もうソウリン大御神の光を自分の証明にはできない。


 白い太陽が裂ける。


 境内に、強い光が満ちた。


 だが、それは漂白の光ではなかった。


 影を消す光ではない。


 影を影として残し、朝を朝として告げる光だった。


 人々が目を伏せる。


 ミオが学生証を抱きしめる。


 レンが歯を食いしばる。


 ユウリは、その光の中心にあるものを見ていた。


 名札を剥がされた偽日輪。


 神ではないもの。


 太陽神になれなかったもの。


 それは消えかけながら、初めて幼い声で言った。


『では、私は何だったの』


 ユウリは答えられなかった。


 喉まで言葉が来た。


 でも、出なかった。


 敵だ。


 怪異だ。


 未登録太陽残滓だ。


 偽りの光だ。


 どれも正しいのかもしれない。


 でも、その声はあまりにも幼かった。


 誰かに名前をもらいたかっただけのものを、ユウリは剥がした。


 神ではないと断じた。


 それは必要だった。


 必要だったけれど、何も痛まないわけではなかった。


 偽日輪は、最後にもう一度だけ揺れた。


 白い残り火が、朱金の朝の光に包まれてほどけていく。


 水面へ落ちる。


 鏡池が波紋を広げる。


 白い太陽は、消えた。


 境内に、夕方が戻ってきた。


 空は薄い青から橙へ変わり始めている。


 鳥居には影がある。


 灯籠の苔にも色が戻っている。


 人々のスマホ画面には、いつものロック画面や連絡先一覧が表示されていた。そこには、父、母、友人、恋人、倉持ハルト、さまざまな名前が戻っている。


 誰かが泣いていた。


 誰かが笑っていた。


 誰かは、今起きたことをもううまく思い出せなくなっていた。


「イベント、終わった?」


「通信障害?」


「すごい光だったな」


「何か、怖かった気がする」


 世界が、また都合のいい言葉を探し始めている。


 ユウリはその場に膝をついた。


 左手の鍵が砕ける。


 背後の《未署名の観測翼》も、白い羽根と黒い文字片になってほどけていった。


 スマホの画面に表示が残る。


《契約相:未署名の観測翼》

《第一展開:終了》

《神名偽装:解除済》

《偽日輪構文:祓除》

《星宮ミオ:現在名安定率 61%》


 六十一。


 戻っていない。


 いや、むしろ悪化している。


 偽日輪は祓われた。


 ミオの学生証にも、星宮ミオの名は戻った。


 それでも、彼女の現在名はまた削られていた。


 勝った。


 たぶん、勝った。


 でも、何も失わずに勝ったわけではない。


 ミオが駆け寄ってくる。


「ユウリくん!」


 彼女は膝をつき、ユウリの顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか」


「……たぶん」


 声が掠れていた。


 ミオの学生証が見える。


 星宮ミオ。


 その名前を見て、ユウリは少しだけ笑った。


「ミオは?」


「私は……ここにいます」


 ミオは、ゆっくりと答えた。


 自分に言い聞かせるように。


「星宮ミオです」


 ユウリは頷いた。


「うん」


 その名前だけは、今、確かにここにある。


 けれど、鏡池の水面に広がる波紋の中で、ユウリはまださっきの声を聞いていた。


『では、私は何だったの』


 答えはない。


 未署名の観測翼は、その問いに名前を与えなかった。


 剥がすことはできた。


 でも、名づけることはできなかった。


 それが、ユウリの初めての戦いだった。

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