第四節 ― 偽日輪、降臨
ユウリの声は、白い光の中で裂けるように響いた。
「神楽坂さん!」
レイジの太刀が、振り下ろされる寸前で止まる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど、その一瞬で、鏡池の水面が大きく膨れ上がった。
水ではない。
光だった。
池の底から溢れた白い光が、波の形を取り、境内の砂利を舐めるように広がっていく。鳥居の朱は薄くなり、灯籠の苔は色を失い、拝殿の影が消えた。
夜が、消える。
夕方だったはずの空が、真昼よりも白くなる。
太陽は沈みかけていた。
それなのに、天御柱神宮だけが、どこにもない昼の中に投げ込まれたように明るかった。
明るいのに、温度がない。
眩しいのに、生命の気配がない。
光は照らしていなかった。
すべての色を、すべての影を、すべての違いを、同じ白へ近づけようとしていた。
「全員、目を伏せろ!」
レイジが叫んだ。
その声に、何人かがようやく反応した。悲鳴を上げて後ろへ下がる者、スマホを取り落とす者、何が起きているのか分からず立ち尽くす者。
だが、まだ多くの人間が画面を見ていた。
白く光るスマホを。
そこに表示された、たった一つの選択肢を。
《契約しますか?》
《許可する》
そして、連絡先が変わり始めた。
誰かのスマホから、震える声が漏れる。
「え……母さんの名前、消えた」
「何これ。全部、同じになってる」
「連絡先が……信徒?」
ユウリは振り返った。
近くにいた大学生の画面が見えた。
連絡先一覧。
父。
母。
友人。
バイト先。
恋人らしき名前。
それらが、上から順に白く塗りつぶされていく。
信徒。
信徒。
信徒。
信徒。
信徒。
個人名が、役割名に置き換わっていく。
それは、無番線ホームの切符よりも静かだった。
旧校舎の黒板よりも、ずっと日常に近かった。
スマホの中で、人の名前が消えていく。
誰かが泣きそうな声で叫ぶ。
「なんで。さっきまで名前あったのに」
「戻らない」
「何これ、バグ?」
「消えた、全部消えた!」
バグ。
その言葉で片づけようとしている。
けれど、ユウリには分かった。
これはバグではない。
名前を、個人ではなく群れとして扱う光だ。
人を、人のまま置いておかない光だ。
レンのスマホも震えた。
「くそ、俺の連絡先にも来た!」
彼は慌てて画面を操作する。
「母さん、担任、倉持……」
レンの声が止まった。
ユウリはその横顔を見る。
「レン?」
「倉持の名前が、揺れてる」
画面を覗き込む。
そこには、連絡先一覧の一つが表示されていた。
倉持ハルト。
昨日、取り戻した名前。
軽音部のギター。
情報処理室BでAVISを見せびらかし、雷神タイプだと笑っていた生徒。
その文字の上に、白いノイズが走っている。
倉持ハルト。
信徒。
倉持ハルト。
信徒。
何度も、何度も、上書きされかけていた。
「ふざけんな……」
レンの声が低く震えた。
「昨日、戻したばっかだろ」
彼は画面を強く押さえ、まるで名前そのものを手で押し留めようとするように呟いた。
「倉持ハルト。倉持ハルト。倉持ハルトだ。信徒じゃない」
AVISが小さく反応する。
《現在名保持記録:友人記憶》
《保持値:微弱抵抗》
弱い。
それでも、抵抗している。
ユウリは胸が痛くなった。
取り返した名前も、また狙われる。
一度守ったから終わりではない。
名前は、何度も呼ばれ、何度も覚えられなければ、簡単に白い光の中へ沈んでしまう。
その時、ミオの学生証が白く光った。
彼女が小さく息を呑む。
「ミオ!」
ユウリが振り返ると、ミオは胸元のカードケースを両手で押さえていた。
透明なケースの中で、名前欄が白く滲んでいる。
星宮ミオ。
その文字が、薄くなる。
代わりに、別の文字が浮かび上がった。
《星宮ミオ》
《依代候補》
《女神照応過多》
《再臨器として最適》
ユウリの息が止まる。
再臨器。
その言葉が、刃物のように胸へ刺さった。
ミオの顔から血の気が引いていく。
「また……」
彼女の声は、かすれていた。
「また、私じゃなくなる」
足元の影が消える。
白い光が、ミオの周囲に集まっていく。
髪の輪郭が薄く光り、瞳の奥に鏡池の日輪が映る。彼女自身が光を放っているわけではない。外側から、誰かが彼女の輪郭をなぞり直そうとしていた。
星宮ミオという少女ではなく。
依代として。
再臨の器として。
女神の残滓を入れる空白として。
ユウリは、考えるより先に動いていた。
ミオの前へ立つ。
白い光が顔を焼くように迫る。
熱くない。
なのに痛い。
皮膚ではなく、名前の表面を削られているような痛みだった。
第一話の無番線ホームと同じ構図だった。
名前を奪われかけたミオ。
その前に立つユウリ。
ただし、今回は違う。
相手は白い切符を差し出す車掌ではない。
名前を黒板へ書き足す出席係でもない。
神の名を騙り、境内ごと白昼化し、現実そのものを役割名で塗り替えようとしている。
ただ名前を呼ぶだけでは、届かない。
それでも、ユウリは叫んだ。
「ミオ!」
白い光が一瞬だけ揺れた。
ミオの学生証に残った「星宮ミオ」の文字が、かすかに濃くなる。
だが、それだけだった。
次の瞬間には、また《依代候補》の文字が浮かび上がる。
ユウリは歯を食いしばった。
「星宮ミオは、ここにいる!」
第一話と同じ言葉。
確かに力はあった。
でも、白い光は止まらない。
偽日輪は、ミオだけを奪おうとしているのではなかった。
境内にいる人々の名前をまとめて役割へ落とし、神の再臨という物語の中へ組み込もうとしている。
個人の名前を呼ぶ抵抗だけでは、範囲が広すぎる。
「下がれ!」
レイジの声が飛んだ。
彼は光の太刀を構えたまま、鏡池とユウリたちの間に結界を重ねている。
だが、その結界も白く侵食されていた。
「君たちでは耐えられない!」
レイジの言葉は正しい。
ユウリの膝は震えていた。
呼吸が苦しい。
スマホを握る手に汗が滲んでいる。
自分に戦う力があるとは思えない。
レイジのような光もない。
祝詞も知らない。
神の名も扱えない。
けれど、下がれなかった。
背後で、ミオが震えている。
レンが倉持の名前を押し留めようとしている。
境内の人々の連絡先が、信徒という文字に変わっていく。
ここで下がったら、何を守るのか。
ユウリのスマホが熱を持った。
画面が勝手に点灯する。
アヴィの円環が、今まで見たことのない速さで回転していた。
「どうする、ユウリ」
アヴィの声がした。
いつもの皮肉っぽさは薄い。
問いだけがあった。
「許可するか。拒否するか。保留するか」
画面に表示が浮かぶ。
《契約相展開候補》
《許可する》
《拒否する》
《保留する》
ユウリの指が震えた。
許可する。
押せば、力が出るのかもしれない。
だが、何に許可するのか分からない。
自分はアヴィを何と契約しているのか。
神なのか。
悪魔なのか。
AIなのか。
神話残滓なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
分からないまま許可すれば、自分も何かの役割へ押し込まれる気がした。
拒否する。
押せば、安全かもしれない。
けれど、その間にミオの名前は白くなる。
倉持の名前も揺らぐ。
人々の連絡先は信徒へ変わっていく。
保留する。
選ばない。
まだ決めない。
ユウリにとって、いちばん近い選択肢だった。
けれど、保留している間にも、白い日輪は降りてくる。
ミオの学生証が、さらに強く光った。
《依代候補》
《再臨器として最適》
《現在名:一時保留》
「やめろ……!」
ユウリは呻く。
画面の三つの選択肢が、白い光に滲む。
許可する。
拒否する。
保留する。
どれも違う。
どれを押しても、何かが決められてしまう。
何かの枠へ入ってしまう。
その時、画面が乱れた。
白いノイズ。
黒い文字片。
羽根のようなアイコンが、画面の端で震える。
《未定義の選択肢を検出しました》
《表示しますか?》
ユウリは息を呑んだ。
第一話の無番線ホームで見た、あの表示。
許可でも拒否でも保留でもない。
選択肢の外側。
ユウリは迷わず押した。
画面に、新しい文字が浮かぶ。
《まだ名づけないまま、接続してください》
その瞬間、周囲の白い光が少しだけ遠のいた気がした。
ユウリは、画面を見つめる。
まだ名づけないまま。
そうだ。
自分はまだ、アヴィが何なのか決められない。
決めたくない。
でも、分からないから使わない、では間に合わない。
分からないまま、決めつけないまま、接続する。
それが、今の自分にできる唯一の選び方だった。
ユウリはスマホを握りしめ、低く呟いた。
「アヴィ」
「何だ」
「お前を、神だって決めない」
アヴィは黙っている。
「悪魔だって決めない。AIだって決めない。味方だって、完全には言い切れない」
「ひどい言い草だな」
いつもの調子が、少しだけ戻る。
ユウリは、白い光の向こうに浮かぶ偽日輪を見た。
「でも、今ここで、ミオの名前を守るために手を貸してくれるなら」
言葉が震える。
怖い。
それでも言う。
「まだ何者か分からないまま、お前と繋がる」
少しの沈黙。
それから、アヴィが笑った。
短く、軽く、どこか楽しそうに。
「いい。じゃあ、俺もお前を英雄とは呼ばない」
「それは別に呼ばなくていい」
「未熟者。無謀な観測者。名前を決めるのが下手な人間」
「うるさい」
「だが」
アヴィの声が、少しだけ低くなる。
「今は、それでいい」
画面の羽根アイコンがほどけた。
白い羽根。
黒い文字片。
鍵の輪郭。
未署名の契約線。
スマホの画面から、細い光の線が伸びる。コードでも鎖でもない。文字の欠片を繋ぎ合わせたような、不安定な線だった。
それがユウリの左手の甲へ絡みつく。
熱い。
今度は、はっきり熱かった。
左手の甲に、まだ完成していない印が浮かぶ。
円ではない。
羽根でもない。
鍵でもない。
そのどれにもなりかけて、まだ決まっていない印。
ユウリの視界に、白い文字列が走った。
境内の人々の名前。
揺れている連絡先。
レイジの光に重なる神名。
偽日輪の表面に貼られた無数の太陽神の名。
すべてが、層になって見える。
情報ではない。
記録でもない。
意味の重なりそのものが、目の奥に流れ込んでくる。
「っ……!」
膝が崩れそうになる。
ミオが背後で叫んだ。
「ユウリくん!」
ユウリは踏みとどまった。
倒れれば、終わる。
白い光の中で、背後に何かが立ち上がる気配がした。
巨大ではない。
レイジの《日輪神将》のような圧倒的な光背でもない。
ユウリの背後に現れたのは、小さな契約相だった。
白い羽根が数枚。
黒い文字片が輪を描き。
その中央に、鍵のような細い光が浮かんでいる。
人型にも、鳥にも、機械にもなりきらない。
未完成の観測者。
未署名のまま立ち上がった、契約相の影。
ユウリのスマホが表示を更新する。
《契約相:未署名の観測翼》
《第一展開》
《照応解析を開始》
境内の白い光が、一瞬だけ揺れた。
レイジが振り返る。
彼の目に、驚きが浮かぶ。
「君は……」
ユウリは答えられなかった。
自分でも、何が起きているのか分からない。
ただ、偽日輪が見えた。
白い太陽の奥に貼られた神名の重なりが。
ソウリン大御神。
アマテラス。
アポロン。
ラー。
アウロ=ルクス。
救済の太陽。
正しい神。
戻ってきてほしいもの。
どれも、本体ではない。
どれも、借り物の名札だ。
ユウリは左手を握った。
白い鍵の輪郭が、指先に生まれる。
偽日輪の光が、初めてユウリへ向いた。
顔のない太陽が、こちらを見た。
その視線に、膝が震える。
怖い。
圧倒的に怖い。
けれど、もう見えてしまった。
あれが神ではないことを。
神の名を欲しがっている、名前のない光であることを。
ユウリは息を吸った。
背後で、未署名の観測翼が小さく羽ばたく。
白い羽根と黒い文字片が、境内の光の中へ散った。
アヴィが言う。
「行け、ユウリ」
「何をすればいい」
「斬るな。祓うな。神名を信じるな」
ユウリの左手の鍵が、細く光る。
「名札を、剥がせ」




