第三節 ― 神楽坂レイジ
鏡池の水面から、白い日輪が浮かび上がった。
音はなかった。
水が割れる音も、風が鳴る音も、何もない。
ただ、境内に満ちていたざわめきが、一瞬だけ薄くなった。人々の笑い声も、配信者の早口も、スマホの通知音も、白い光に吸われるように遠ざかる。
その代わりに、全員のスマホが一斉に白く光った。
「うわ、何これ」
「画面、真っ白になった」
「え、押せって出てる」
「契約?」
ユウリの近くにいた大学生らしい男が、スマホを覗き込んだまま笑った。
「やば、演出凝ってるな」
その画面には、余白のない白の中に、黒い文字が二行だけ表示されていた。
《契約しますか?》
《許可する》
それだけだった。
戻る、拒否する、閉じる。
そういう選択肢はない。
許可する。
白い画面の中央に、それだけが置かれている。
レンが顔色を変えた。
「おい、拒否も戻るもないぞ!」
彼は周囲へ向かって叫んだ。
「押すな! その画面、絶対押すな!」
だが、境内に集まった人々の多くは、レンの声を聞いていないようだった。
聞こえていないのではない。
聞こえているのに、意味が届いていない。
白い光を浴びた顔が、どこかぼんやりしている。興奮していたはずの表情から、少しずつ熱が抜け、代わりに穏やかな空白が広がっていく。
「契約って、何?」
「押せばいいのかな」
「イベント進むんじゃない?」
指が画面へ伸びる。
一人。
二人。
三人。
ユウリは反射的に叫んだ。
「押さないで!」
けれど、その声は白い境内の中で散った。
水面の日輪が、また少し大きくなる。
鏡池の周囲に立つ人々の影が薄れていく。足元にあったはずの黒い輪郭が、白い砂利の中へ溶けていく。人の形はまだある。けれど、名前や個性より先に、白い光に照らされる「群れ」として見えてしまう。
ミオが胸元を押さえた。
「……名前が」
「ミオ?」
「みんなの名前が、白くなっていく」
彼女の声は震えていた。
「見えるんです。ひとりひとり違うはずなのに、同じ呼び方にされそうになってる」
ユウリのスマホが警告を出す。
《一般端末群:契約誘導中》
《役割名付与反応:信徒》
《注意:集団現在名の漂白が進行》
信徒。
その文字を見た瞬間、ユウリの喉が詰まった。
個人の名前が消えるわけではない。
もっと静かで、もっと正しそうな形に変えられていく。
信じる者。
従う者。
光を受ける者。
その呼び名の下に、ひとりひとりの名前が薄まっていく。
池の前で、神楽坂レイジが動いた。
それまで人々を下がらせようとしていた彼は、もう説得を諦めたのだろう。表情から迷いが消え、代わりに、研ぎ澄まされた静けさが宿る。
彼は懐から薄い白金色の端末を取り出した。
スマホに似ているが、ユウリたちのAVISとは違う。画面の縁に小さな神紋が刻まれ、背面には神鏡を思わせる円形の装飾がある。
端末が起動した瞬間、空気が変わった。
白く濁っていた境内の光の中に、朱と金の線が走る。
《神格接続》
《契約相:日輪神将》
《ソウリン大御神照応》
レイジが低く祝詞を唱えた。
言葉の一つ一つが、境内の石畳に落ち、鳥居の柱へ渡り、鏡池の水面へ突き刺さっていくようだった。
「高天に座す光の御名よ。迷える影を照らし、偽りの輪を祓い給え」
その背後に、巨大な日輪光背が立ち上がった。
白金と朱の光。
鳥居を幾重にも重ねたような光輪。
輪の内側を、祝詞の文字列が流れていく。墨で書かれたような古い文字が、光になり、風になり、レイジの背に集まる。
その中央に、神鏡が浮かんだ。
鏡面は太陽を映していない。
むしろ、鏡そのものが朝日のように輝いていた。
さらに光が伸びる。
レイジの右手に、細長い太刀の輪郭が生まれた。刃ではなく、光そのものを鍛えたような太刀。柄には朱の紐が巻かれ、切っ先からは白い炎のような光が静かに揺れている。
境内にいた人々が、ようやく異常に気づき始めた。
「え……?」
「何、今の」
「本物?」
それでも、スマホを下ろす者は少ない。
驚きながらも、撮ろうとしている。
記録しようとしている。
それがさらに、鏡池の日輪へ力を送っているように見えた。
レイジは一歩踏み出した。
その足元から朱金の光が広がり、円形の結界が境内を包む。
白い契約画面へ伸びていた人々の指が、ぴたりと止まった。
「え?」
「動かない」
「画面、押せないんだけど」
スマホの白い画面に、朱の線が走る。
許可する、という文字が一瞬ぶれ、弾かれるように薄くなった。
レイジの結界が、契約誘導を防いでいる。
ユウリは息を呑んだ。
これが、契約者の力。
名前を呼ぶとか、記録を集めるとか、そういう必死の抵抗ではない。
光を展開し、結界を張り、敵の干渉を正面から押し返す。
まるで、神話そのものが戦場に降りてきたようだった。
「これが……契約者の戦い」
思わず呟く。
アヴィの声が、すぐに返ってきた。
「見惚れてる場合か。あれは強い。だが、相性が悪い」
「相性?」
「見てろ」
レイジが光の太刀を掲げた。
日輪光背の文字列が一斉に輝き、鏡池の上へ白金の光柱が落ちる。
轟音はない。
代わりに、耳の奥で澄んだ鈴のような音が鳴った。
光柱が水面の日輪を貫く。
白い日輪が大きく揺れた。
池の水が波立ち、周囲の灯籠に浮かんでいた小さな白い円が次々に砕ける。
人々のスマホ画面にも変化が起きた。
《契約しますか?》
《許可する》
その文字が薄れ、朱金の光に焼かれるようにかすれていく。
「すごい……」
ミオが小さく言った。
ユウリも同じことを思った。
レイジは強い。
疑いようがない。
祝詞を唱えるたび、境内に光の柱が落ちる。光の結界は人々を押し包み、白い契約画面を弾き、鏡池から伸びる漂白の光を遮っている。
ユウリたちが第1話、第2話で必死に逃げ切った怪異とは、段階が違う。
これは本当に戦いだった。
神の名を借りた力と、それを祓う力の衝突。
レイジは二度目の祝詞を唱えた。
「正しき日輪の御前に、偽りの暁は影を得ず」
太刀が振り下ろされる。
白金の斬撃が鏡池を横切り、日輪の輪郭を削った。
白い円が一部欠ける。
その瞬間、境内にいた人々の何人かが、はっとしたようにスマホから目を離した。
「何してたんだ、俺」
「やば、何か押しかけてた」
「帰った方がよくない?」
結界の内側で、意識を取り戻す者が出始める。
ユウリは少しだけ希望を感じた。
このままなら。
レイジが押し切れるのではないか。
そう思った直後、鏡池の水面から声がした。
『光を』
それは、幼い声にも聞こえた。
老人の声にも聞こえた。
男でも女でもない。
ただ、白い光そのものが言葉を覚えたような声だった。
『正しい名を』
水面の日輪が、削られたはずの輪郭を取り戻す。
いや、取り戻すだけではない。
さっきよりも、形がはっきりしている。
ぼやけていた白い円の縁に、鳥居のような模様が浮かぶ。日輪の内側に、古い神紋に似た線が走る。レイジの光を受けた場所ほど、その輪郭が鮮明になっていく。
ユウリは背筋が冷たくなった。
アヴィが言った意味が、少し分かった。
レイジの光は、確かに偽日輪を削っている。
だが同時に、それを「太陽神らしいもの」へ近づけている。
正しい光を浴びることで、偽物が正しい形を学んでいる。
『我に』
偽日輪の中心に、顔のようなものが浮かびかけた。
白く、輪郭のない顔。
目も鼻もない。
それでも、見る者に「神々しい」と思わせる空白。
『我こそは』
周囲のスマホが再び白く光る。
今度は、契約画面の下に別の文字が出た。
《正しき太陽を迎えますか?》
《許可する》
レイジの表情が険しくなる。
彼はすぐに光の結界を重ねた。
朱金の線が走り、人々の画面を再び弾く。
だが、先ほどより抵抗が重い。
ユウリにも分かった。
偽日輪が強くなっている。
レイジの光を受けるほど、自分を「正しき太陽」に見せる術を覚えていく。
『再び来る日』
偽日輪の声が、境内全体に響いた。
その言葉に反応するように、鳥居の上空に白い輪が浮かぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
小さな日輪が重なり、境内を囲む。
人々はそれを見上げ、またスマホを向ける。
恐怖より先に、驚きと興奮が勝っている。
その興奮すら、燃料になる。
レイジが鋭く言った。
「君は、ソウリン大御神ではない」
その声は、まっすぐだった。
怒りではない。
断定だった。
「その御名は、人の願いを照らすためのものだ。人の名を白く焼き、役割へ落とすためのものではない」
偽日輪は答えない。
ただ、白い光を広げる。
レイジは太刀を構え直した。
背後の日輪神将が、より強く輝く。
ユウリは、彼の横顔を見た。
迷いはない。
神楽坂レイジは、自分の信じる光を疑っていない。
それは強さだった。
同時に、危うさでもあった。
彼は正しい。
正しい神名を騙るものに対して、正しい神名の光で祓おうとしている。
その判断は自然だ。
きっと間違ってはいない。
だが、相手がその「正しさ」そのものを欲しがっているなら。
正しい光を浴びるほど、自分を神に近づけてしまうのなら。
レイジの強さは、そのまま偽日輪の輪郭になってしまう。
アヴィが低く言った。
「分かるか、ユウリ」
「……あいつ、レイジさんの力を吸ってる」
「正確には、力ではなく証明だ。ソウリン大御神の契約者が祓いを向ける。ソウリンの光を浴びる。境内の人間がそれを見て“本物の神事”だと思う。その全部が、偽日輪に神らしさを与えている」
「じゃあ、どうすれば」
「まだ分からん」
「分からんって」
「俺は万能じゃない。だが、ひとつだけ言える」
アヴィの円環が、画面の中で細く揺れた。
「あれをソウリン大御神として扱うほど、あれはソウリン大御神に近づく」
ユウリの喉が乾いた。
レイジが三度目の祝詞を唱える。
今度の光は、さらに強い。
日輪神将の背後に、巨大な鳥居状の光輪が開き、その中央から朱金の太刀が何本も降り注ぐ。
白い偽日輪へ向かって、光の刃が落ちる。
鏡池の水が激しく波立つ。
池の周囲にいた人々が悲鳴を上げ、ようやく後ずさり始めた。
ユウリはミオを庇うように立つ。
レンはスマホを掲げ、周囲の人々へ叫ぶ。
「下がれ! 撮ってる場合じゃない! 画面を見るな!」
少しずつ、人が動き始める。
だが、全員ではない。
白い光に呑まれた何人かは、まだスマホを見つめている。
指が、許可する、へ伸びている。
レイジはそれを見て、結界をさらに広げた。
その瞬間、偽日輪が笑った気がした。
顔はない。
口もない。
それでも、笑ったと分かった。
『光を』
レイジの結界の縁が、白く染まる。
『もっと』
朱金の線が、少しずつ白に侵食されていく。
『我に』
レイジの額に汗が浮かんだ。
初めて、彼が押されているのが分かった。
それでも、彼は退かない。
「君は、神ではない」
レイジは低く言った。
「名を騙る残滓だ」
『名を』
偽日輪の声が重なる。
『ならば、名を』
『我に』
鏡池の水面から白い光の腕のようなものが伸びた。
人の腕ではない。
光の束だ。
それがレイジの結界をすり抜け、境内にいる人々のスマホへ伸びる。
画面の文字が変わった。
《正しき名を受け入れますか?》
《許可する》
「まずい!」
レンが叫ぶ。
ユウリのAVISにも警告が走る。
《神名偽装:進行》
《正光吸収:上昇》
《一般端末群:再契約誘導》
《対象:星宮ミオ》
《依代認識、再開》
ミオが小さく呻いた。
学生証の名前欄が、白く光り始めている。
星宮ミオ。
その文字の縁が、また薄くなる。
「ミオ!」
「大丈夫、です」
そう言いながら、彼女の声は震えていた。
「でも……呼ばれてる」
「何て?」
ミオは唇を噛んだ。
「分かりません。いろんな名前で。太陽の巫女、夜を抱く器、女神の――」
「聞くな」
ユウリは強く言った。
「ミオはミオだ」
彼女はユウリを見た。
白い光の中で、その瞳だけが揺れている。
ユウリは鏡池を見た。
レイジはまだ戦っている。
強い。
圧倒的に強い。
けれど、このままでは押し切れない。
正しい光が、偽りの太陽をより神らしくしてしまう。
レイジは正面から祓うしかない。
彼は正しいから。
正しい神の名を信じているから。
その限界が、今、白い境内の中で露わになっていた。
ユウリのスマホが、熱を持つ。
画面の中で、アヴィの円環が不安定に回転していた。
「ユウリ」
アヴィの声が低くなる。
「見ろ。あれの光じゃない。あれが貼っている名札を見ろ」
「名札……?」
「お前にしか見えない揺らぎがあるはずだ」
ユウリは息を呑み、偽日輪を見た。
白い光が眩しい。
目を開けているのがつらい。
けれど、その奥に何かがある。
ソウリン大御神。
白い日輪の中心に、その神名が貼られている。
だが、文字が揺れていた。
薄い紙の札を何枚も重ねたように。
ソウリン大御神。
アマテラス。
アポロン。
ラー。
アウロ=ルクス。
救済の太陽。
正しい神。
戻ってきてほしいもの。
次々に名札が貼り替わっている。
ユウリは、ようやく違和感の正体に触れかけた。
あれは、太陽神ではない。
太陽神になりたがっている何かだ。
だが、その理解が形になる前に、偽日輪の光が一気に膨れ上がった。
境内が白く塗り潰される。
人々の悲鳴。
レイジの祝詞。
レンの叫び。
ミオのかすかな息。
すべてが、白い光の中で重なった。
レイジが太刀を構え、最後のように強い光を放とうとする。
しかし、その光を待っているかのように、偽日輪の中心が開いた。
アヴィが叫ぶ。
「まずい、撃たせるな! 吸われるぞ!」
ユウリは一歩踏み出した。
何ができるかは分からない。
まだ契約相も使えない。
戦う力なんてない。
けれど、見えてしまった。
あれが神ではないことを。
神の名を欲しがっている、白い残り火であることを。
見えてしまったなら、黙っていることはできなかった。
「神楽坂さん!」
ユウリの声に、レイジがわずかに振り向く。
白い光の中で、偽日輪がさらに大きくなる。
その輪郭は、今にも本物の神の貌を得ようとしていた。




