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第二節 ― 天御柱神宮

 天御柱神宮へ向かう道は、いつもより明るかった。


 星綴高等学園を出た時には、すでに夕方のはずだった。校門の前の桜並木は影を長く伸ばし、駅へ向かう生徒たちの背中は、いつもなら橙色の光を浴びている時間だ。


 けれど、その日の神狭市は違っていた。


 空の色が、どこか薄い。


 青でもない。白でもない。夕暮れの赤でもない。


 紙を強い光に透かした時のような、妙に均一な明るさが街の上にかかっていた。ビルの窓も、電柱も、歩道橋の手すりも、輪郭だけを白くなぞられているように見える。


 影が薄い。


 それが、いちばん気味が悪かった。


 人も車も建物も、ちゃんとそこにあるのに、足元へ落ちる影だけが頼りない。世界が少しずつ、厚みを失っていくようだった。


「これ、夕方の光じゃないよな」


 レンが歩きながら言った。


 片手にはスマホ。もう片方の手には、小型のモバイルバッテリーが握られている。彼は移動中もずっとAVIS一般版の拡散ログを追っていた。


「太陽はあっち」


 ユウリは西の空を見た。


 ビルの向こうに、本物の太陽が沈みかけている。


 それなのに、天御柱神宮のある北東の丘の方角から、白い明るさが滲んでいた。


 ミオは二人の少し後ろを歩いていた。


 胸元の学生証を片手で押さえている。


 彼女の歩幅はいつも通りに見える。けれど、時々呼吸が浅くなるのが分かった。


「大丈夫?」


 ユウリが声をかけると、ミオは小さく頷いた。


「はい。まだ、大丈夫です」


 まだ。


 その言葉が引っかかった。


 ユウリはスマホを見た。


《対象:星宮ミオ》

《現在名安定率:63%》

《太陽照応による漂白反応:継続》

《注意:発生源への接近により低下速度が上昇する可能性があります》


 また一つ下がっている。


 ユウリは画面を握りしめた。


「アヴィ。これ、近づかない方がいいんじゃないのか」


「その通りだ」


 あまりに即答だった。


「なら、止めろよ」


「止めても行くだろう」


「……それはそうだけど」


「だから警告だけしている。星宮ミオの現在名は、発生源に近づくほど揺らぎやすくなる。だが同時に、発生源が彼女を検出している以上、離れても完全には安全ではない」


「どういうことだよ」


「向こうはもう、彼女を見つけている」


 ユウリの足が一瞬止まりかけた。


 ミオがそれに気づき、こちらを見る。


「どうしました?」


「いや」


 言いかけて、飲み込む。


 不安にさせたくなかった。


 でも、隠しても仕方がない。


 ユウリは少しだけ声を落とした。


「アヴィが、向こうはもうミオを見つけてるって」


 ミオは、驚かなかった。


 むしろ、納得したように目を伏せた。


「……そんな感じがします」


「感じるのか」


「はい」


 彼女は天御柱神宮の方角を見た。


「見られている、というより……呼び方を探されている感じです。私を何と呼べばいいか、向こうが勝手に考えているみたいで」


 ユウリは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 呼び方を探されている。


 それは、名前を与えられる前の怖さだった。


 人は名前を呼ばれることで、そこに繋ぎ止められる。


 けれど、間違った名前を与えられれば、その名前の形へ押し込まれる。


 ミオはそれを、もう何度も経験しかけている。


 無番線ホームで。

 補講教室で。

 そして今、白い光の中で。


 レンがスマホから顔を上げた。


「天御柱神宮、もう人が集まり始めてる。SNSに動画上がってる。『神社で太陽が二つ見える』とか、『AVIS限定イベント』とか」


「止められないのか」


「俺が何言っても無理だろ。むしろ拡散する」


 レンは苦い顔をした。


「『危ないから行くな』って投稿したら、逆に行くやつが増える。都市伝説ってそういうもんだ」


 ユウリは何も言えなかった。


 その通りだった。


 危険だと言われれば、見たくなる。


 本物かもしれないと言われれば、確かめたくなる。


 自分も、きっとそういう側にいた。


 神話も、都市伝説も、怪異も、遠くにあるうちは面白い。


 誰かの名前が消えかけるまでは。


   *


 天御柱神宮は、神狭駅から少し離れた丘の上にある古い神社だった。


 駅前の賑やかな通りを抜け、旧北口商店街の端をかすめ、細い坂道を上がった先に石段がある。普段なら、夕方の境内は静かだ。部活帰りの生徒が近道に使うことはあっても、長く立ち止まる者は少ない。


 赤く塗られた鳥居は少しくすみ、石灯籠には苔が残っている。


 神狭市の中心にありながら、そこだけ時間が少し古い。


 そんな場所だった。


 けれど、その日の石段の下には、人が集まっていた。


 高校生。


 大学生らしい若者。


 仕事帰りの会社員。


 配信者なのか、自撮り棒にスマホをつけた人。


 近所の子ども連れまでいる。


 みんな、同じようにスマホを掲げている。


 画面を覗き込み、鳥居へ向け、境内へ向け、空へ向けている。


「ここで診断するとレア神格が出るらしい」


「太陽神の再臨イベントだって」


「神様見えるってマジ?」


「ほら、画面越しだと鳥居光ってる!」


「これ公式イベント? どこの会社?」


「AVIS、急に本気出してきたな」


 軽い。


 怖いくらい軽い。


 ユウリは人混みを見て、腹の奥が熱くなるのを感じた。


 遊びじゃない。


 そう叫びたかった。


 でも、声にならなかった。


 つい二日前まで、自分だって同じように画面を向けたかもしれない。


 神社で神様が見える。

 限定診断がある。

 再臨イベントが始まる。


 そんな噂を聞いたら、興味を持ったはずだ。


 面白そうだと思ったはずだ。


 だから、怒り切れない。


 怒りたいのに、その中にいる自分の影が見えてしまう。


 レンが人混みを避けながら言った。


「これ、まずいな。接続数が増えるほど反応が強くなってる」


「スマホが原因なのか」


「原因というより、増幅器。みんなが同じ場所で同じ通知を見て、同じ神っぽいものを期待してる。その期待が、何かに形を与えてる」


 アヴィが補足する。


「祈りの劣化版だ。信仰ではない。だが、数が集まれば構文は発火する」


「祈ってるわけじゃないのに?」


「人間は、面白半分でも神を呼ぶ。問題は、呼ばれたものが何かだ」


 石段を上がる。


 途中の街灯は、まだ点く時間には少し早い。


 それなのに、灯籠の中が白く光っていた。


 炎ではない。


 電球でもない。


 小さな日輪のような白い円が、灯籠の中に浮いている。


 ミオがそれを見て、少しふらついた。


「ミオ」


 ユウリが支える。


 彼女の手が冷たい。


「ごめんなさい。光が……近いです」


「戻るか」


 ミオは首を横に振った。


「戻っても、たぶん追ってきます」


 その声は怖がっているのに、どこかはっきりしていた。


「それに、ここで何が起きているのか、知らないままだと、もっと怖いです」


 ユウリは頷くしかなかった。


 石段を上りきると、境内が見えた。


 普段の天御柱神宮を、ユウリは何度か見たことがある。


 正面に拝殿。


 その横に社務所。


 奥へ行くと、古い御神木と、小さな鏡池がある。


 水面に空を映すその池は、地元では少し有名だった。晴れた日の朝、池の中央に太陽が映ると、願いが届くという話を聞いたことがある。


 だが、今の境内は、いつもの神社ではなかった。


 白い光が、地面の砂利の一粒一粒にまで染み込んでいる。


 鳥居の影は薄く、拝殿の屋根の反りも、白く縁取られている。


 人々は拝殿の前より、奥の鏡池へ向かって集まっていた。


 スマホを掲げる人。

 動画を撮る人。

 誰かに通話で状況を伝える人。

 笑いながら「やばい、映ってる」と言う人。


 その中心から少し離れた場所に、一人の青年が立っていた。


 白い装束に近い、上品な私服。


 白を基調にした長めの上着。襟元はきちんと整えられ、袖口には薄い金の刺繍が入っている。和装ではない。けれど、どこか神職の装束を思わせる端正さがあった。


 年齢は二十歳前後。


 大学生にも見える。


 若い神職にも見える。


 背筋がまっすぐで、立っているだけで周囲の騒がしさから少し切り離されていた。


 神楽坂レイジ。


 ユウリは、まだ名乗られていないのに、そう直感した。


 彼は人々を鏡池から下がらせようとしていた。


「ここから先は入らないでください」


 声はよく通る。


 怒鳴ってはいない。


 だが、不思議と耳に残る声だった。


「これは遊びではありません。池の周辺から離れてください」


 けれど、人々の反応は軽かった。


「本物の神主さん?」


「動画撮っていいですか?」


「イベント運営の人?」


「コスプレ?」


「この先行くと限定演出あるんですか?」


 レイジは眉を寄せた。


 不快そうではない。


 困っている。


 どうすれば伝わるのか、真剣に考えている顔だった。


「限定演出ではありません。危険です。スマートフォンをしまって、境内の外へ――」


「危険って何が?」


「AVISのイベントじゃないんですか?」


「じゃあ何で通知来たの?」


 質問は悪意がない。


 だからこそ厄介だった。


 相手は本気で危険だと思っていない。


 神楽坂レイジは、その中で怒鳴らず、苛立たず、何度も言葉を選んでいた。


 その姿に、ユウリは少しだけ意外なものを感じた。


 神々の再臨派。


 その言葉だけを聞けば、もっと強引で、神の名を振りかざす人間を想像していた。


 けれど目の前のレイジは、少なくとも今この場では、人を守ろうとしている。


 レンが小声で言う。


「あれが神楽坂レイジか?」


「たぶん」


「思ったよりまともそうだな」


「うん」


 それが、かえって厄介なのだと思った。


 間違った人ではない。


 むしろ、正しいことをしている。


 だからこそ、彼の思想も簡単には否定できない。


 その時、レイジがこちらを見た。


 人混みの中で、ユウリたちを見つけた。


 彼の視線は、まずユウリへ。

 次にレンへ。

 そして、ミオで止まった。


 一瞬だけ、彼の表情が変わる。


 驚き。


 警戒。


 そして、どこか痛ましいものを見るような色。


 レイジは人々の間を抜け、ユウリたちへ近づいてきた。


「君たちは、星綴高等学園の生徒だね」


 丁寧な声だった。


 ユウリは頷く。


「天瀬ユウリです」


「久遠レン」


「星宮ミオです」


 ミオが名乗った瞬間、周囲の白い光がかすかに揺れた。


 レイジの目が細くなる。


「星宮さん」


 彼は静かに言った。


「ここは、君には危険だ。すぐに下がった方がいい」


 ユウリは思わず前に出た。


「どうしてミオだけ」


 レイジはユウリを見る。


「彼女の中に、過剰な照応がある。あの光は、それを器として誤認する」


「器じゃない」


 ユウリの声が、思ったより強く出た。


 レイジは、一瞬だけ目を見開いた。


 だが、怒らなかった。


「そうだ。だからこそ、危険だと言っている」


 その答えに、ユウリは詰まった。


 レイジはミオを器と決めつけているわけではない。


 むしろ、そう扱われる危険を警告している。


「あなたは、何を知ってるんですか」


 レンが聞いた。


 レイジは名乗るように、静かに背筋を正した。


「神楽坂レイジ。天御柱神宮に関わる家の者だ。今起きているものは、この神社の本来の祭祀ではない。ソウリン大御神の名を利用した、別の照応反応だ」


 その名を聞いた瞬間、ユウリのスマホが震えた。


《神楽坂レイジ》

《照応:神々の再臨派》

《契約神候補:ソウリン大御神》

《危険度:未確定》

《交戦状態:非推奨》


 レンが小さく呟く。


「非推奨って、戦う前提で出るのやめろよ」


 レイジは画面を見ていない。


 だが、何かを察したようにユウリのスマホへ視線を落とした。


「特殊版のAVISか」


「知ってるんですか」


「断片的には」


 レイジは答えた。


「だが、今は説明している時間がない。君たちは人々を境内の外へ誘導してくれ。僕は鏡池を抑える」


「抑えるって、ひとりで?」


「必要ならば」


 その言葉に、迷いはなかった。


 ユウリは何か言おうとした。


 だが、その前に、境内の奥から歓声が上がった。


「映った!」


「太陽!」


「すげえ!」


 鏡池の方だった。


 人々が一斉にスマホを掲げる。


 ユウリたちも振り向いた。


 池の水面に、太陽が映っていた。


 だが、空にはもう太陽はない。


 本物の太陽は西のビルの向こうへ沈みかけている。鏡池の真上にあるのは、白く薄い夕空だけだ。


 それなのに、水面の中央には、白い日輪がある。


 真円だった。


 あまりにも整いすぎた、白い円。


 水面は揺れているのに、その日輪だけは揺れない。


 まるで池の底に、別の空が開いているようだった。


 ユウリのスマホが激しく震えた。


《再臨候補:発生》

《ソウリン大御神照応:上昇》

《警告:神名照合に矛盾》

《照応値:不安定》

《接続中の一般版AVIS端末:増加》


 同時に、周囲の人々のスマホが白く光った。


「うわ、来た!」


「再臨候補って出た!」


「押していいの?」


「配信止まったんだけど!」


 レンが叫ぶ。


「押すな! 全員、その画面押すな!」


 だが、誰も本気で聞いていない。


 彼らには、レンの声もまたイベントの一部のように聞こえているのかもしれなかった。


 レイジが鏡池へ向かって駆け出した。


「下がってください!」


 その声は、先ほどより強かった。


「今すぐ池から離れてください!」


 だが、人々はむしろ前へ出る。


 白い日輪を撮ろうと、スマホを伸ばす。


 その光景を見て、ユウリは背筋が冷たくなった。


 白い日輪が、こちらを見た気がした。


 水面に映っているだけの円。


 目などない。


 顔などない。


 それなのに、確かに視線を感じた。


 ユウリではない。


 レンでもない。


 その視線は、ミオへ向いていた。


 ミオの身体が大きく揺れる。


「ミオ!」


 ユウリが支えた。


 彼女の瞳に、白い光が映っている。


 鏡池の日輪が、彼女の目の奥にもう一つ浮かんでいるように見えた。


「見てる……」


 ミオがかすれた声で言った。


「水の中の太陽が、私を見てる」


 ユウリのAVISが、警告音を鳴らす。


《対象:星宮ミオ》

《現在名安定率:61%》

《依代認識反応を検出》

《警告:対象を発生源から遮断してください》


 レイジが振り返った。


 彼の表情が、初めてはっきり険しくなる。


「星宮さんを下げろ!」


 ユウリはミオを支えながら、一歩後ろへ下がった。


 だが、白い光が足元へ伸びてくる。


 影が消える。


 砂利の上にあったはずの三人の影が、白い明るさの中で薄くほどけていく。


 水面の日輪が、少しずつ大きくなっていた。


 池に映っているのではない。


 池の底から、上がってきている。


 白い太陽が、水の中からこの世界へ顔を出そうとしている。


 アヴィの声が、ユウリの手の中で低く響いた。


「始まったぞ、ユウリ」


 ユウリはスマホを握りしめた。


 鏡池の水面に、白い日輪が開いている。


 人々はまだ笑っている。


 レイジは池の前に立ち、何かの祝詞を唱え始めていた。


 そしてミオは、白い光の中で、自分の名前を必死に握りしめている。


 ユウリは、ようやく理解した。


 これはもう、ただの異変ではない。


 ここから先は、戦いになる。

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