第一節 ― 太陽タイプ診断
放課後のチャイムが鳴る頃には、星綴高等学園の中で、AVIS一般版の通知は完全に遊びになっていた。
昼前に一斉に届いた「太陽タイプ診断」は、授業の合間を縫って生徒たちの間に広がり続けていたらしい。廊下に出ると、あちこちで同じ画面を見せ合う声が聞こえた。
「俺、太陽神タイプだった」
「え、俺も。これ全員太陽じゃね?」
「いや、私、月タイプから太陽に変わったんだけど」
「守護神が天照っぽいやつって出た。すごくない?」
「神社行くと限定診断できるらしいぞ」
「何それ。御朱印みたいな?」
「再臨チャレンジって出てるんだけど。これ押したら何かもらえんの?」
笑い声が重なる。
軽い。
あまりにも軽い。
画面の中で「神」や「再臨」や「契約」という言葉が並んでいるのに、生徒たちはそれを新しい占いアプリか、企業のキャンペーンか、ちょっとよくできた都市伝説イベントくらいにしか思っていなかった。
無理もない。
ユウリだって、二日前なら同じように受け取っていたかもしれない。
神話や都市伝説が好きだった。
現実になれば面白いと思っていた。
存在しないホームも、学校の七不思議も、画面の向こうの噂であるうちは、きっと「よくできた話」として楽しんでいた。
けれど、もう笑えない。
名前が切符に印字されるところを見た。
出席簿に空の名前が増えるところを見た。
呼ばなければ、記録を戻さなければ、人は本当に「いなかったこと」に近づいていく。
それを知ってしまった後では、廊下の笑い声が、全部どこか危ういものに聞こえた。
「天瀬」
声をかけられて振り返ると、倉持ハルトが立っていた。
いつものように軽く手を上げているが、表情は少し硬い。昨日の保健室前で倒れた一件から、彼はまだ完全には調子を取り戻していないようだった。
それでも、机の名前シールは今朝よりはっきりしていた。
倉持ハルト。
その名前がそこにあることを、ユウリは何度も確認してしまう。
倉持はスマホの画面をこちらに向けた。
「なあ、これ」
画面には、AVIS一般版の明るい診断画面が表示されていた。
《本日の守護神タイプ:太陽》
《あなたの内なる神格適性:日輪系》
《天御柱神宮で限定照応イベント開催中》
《再臨候補に接続しますか?》
その下に、大きな金色のボタンがあった。
《参加する》
倉持は笑おうとして、少し失敗した。
「やばいやつか?」
ユウリはすぐに答えられなかった。
やばい。
たぶん、間違いなく。
けれど、その一言だけで済ませられるほど単純でもなかった。
倉持は昨日、名前を奪われかけた。
だからこそ、他の生徒よりも少しだけ警戒している。けれど、何がどう危ないのかまでは分かっていない。
ユウリ自身も、分かっているとは言えなかった。
「押した?」
「いや、押してない」
倉持はすぐに首を振った。
「昨日のことあるし。何か、こういうの見ると、ちょっと気持ち悪くなってきた」
「なら押すな」
ユウリは言った。
少し強い声になった。
「絶対に」
倉持は一瞬驚いた顔をして、それから真面目に頷いた。
「分かった。押さない」
その返事を聞いて、ユウリは少しだけ息を吐いた。
昨日と違う。
倉持はもう、何でも笑い飛ばすだけではなくなっている。
それはよかった。
けれど、同時に胸が痛んだ。
彼がそうなったのは、名前を失いかけたからだ。
知らなくてよかった怖さを、知ってしまったからだ。
廊下の向こうでは、別の生徒がボタンを押して騒いでいた。
「うわ、光った!」
「何これ、AR?」
「鳥居出た! やば!」
スマホのカメラ越しに、廊下の壁へ薄い鳥居のような金色の線が重なっている。周囲の生徒が面白がって集まり、画面を覗き込んでいた。
ユウリのポケットの中で、AVISが震える。
取り出すと、黒い画面に白い文字が走った。
《一般版AVIS:集団接続開始》
《太陽照応イベント:拡散中》
《神狭市内同時接続数:急増》
隣でレンが、自分のスマホとノートPCを同時に見ていた。
廊下の窓枠に腰を預け、画面に流れるログを追っている。授業が終わった瞬間から、彼はほとんど会話に加わらず解析を続けていた。
「拡散速度が異常だ」
レンは低く言った。
「校内だけじゃない。神狭市全体で通知が出てる。駅前、旧北口商店街、天御柱神宮周辺、神狭データアーカイブの近くまで反応がある」
「誰かが配信してるのか?」
「それもある。SNSで“太陽タイプ診断”がトレンドに乗りかけてる。動画も上がってる。天御柱神宮で限定演出が出るって噂になってる。けど、それだけじゃ説明つかない」
レンは画面を拡大した。
地図上に、白金色の点が増えていく。
星綴高等学園から神狭駅へ。
神狭駅から旧北口商店街へ。
そこから北東へ伸びる道筋をたどるように、点が天御柱神宮へ集まっている。
「通知が、人を誘導してる」
レンの声から、いつもの好奇心が少し引いていた。
「ただの診断アプリの動きじゃない。位置情報と行動パターンを見て、行けそうなやつにだけ強めの通知を出してる。しかも、何人かは通知内容が違う」
「違う?」
「“守護神診断”だけのやつもいる。“太陽神適性あり”って出てるやつもいる。“再臨候補に接続しますか”まで出てるやつもいる。段階分けされてる」
ユウリは倉持の画面を見た。
彼には、再臨候補の表示まで出ている。
昨日、名前を揺らされたせいなのか。
それとも、単にAVIS一般版の使用頻度が高いからなのか。
分からない。
倉持が不安そうに言った。
「俺、これ消した方がいい?」
「今すぐアンインストールしろって言いたいけど」
レンが顔をしかめる。
「消したら消したで、ログがどうなるか分からん。通信切って、アプリ開くな。あと、誰かに押せって言われても押すな」
「お、おう」
倉持は慌ててスマホをロックした。
「何か、お前ら本当に詳しくなってんな」
その言葉に、ユウリは少しだけ苦笑した。
詳しくなりたかったわけではない。
詳しくならなければ、誰かの名前が消える。
そういうところへ、押し込まれただけだ。
ミオは、窓の外を見ていた。
放課後の空は、夕方へ向かっているはずだった。
校庭の向こうで太陽は低く傾き、校舎の影が長く伸びる時間のはずだ。
けれど、影は薄かった。
光だけが、妙に残りすぎている。
雲の縁も、校舎の壁も、グラウンドの白線も、まるで白い布を一枚かぶせられたように明るい。眩しいわけではない。ただ、色が抜けていくような明るさだった。
ミオは小さく呟いた。
「……明るいのに、怖いです」
ユウリは彼女の横に立った。
「ミオ?」
「太陽の光って、本当はあたたかいはずなのに」
彼女は空から目を離さない。
「これは、あたたかくないです。照らしているんじゃなくて……消しているみたい」
その言葉と同時に、ユウリのAVISが震えた。
《対象:星宮ミオ》
《現在名安定率:64%》
《警告:太陽照応による漂白反応》
六十四。
昨日の終わりには六十八だった。
また下がっている。
「漂白反応って何だ」
ユウリは小声で聞いた。
アヴィの声が、いつもより少し低く返る。
「太陽照応による過剰な意味付けだ。光で照らすのではなく、個人名の輪郭を焼いて薄める。薄くなった場所へ、別の役割名を貼る」
「役割名?」
「信徒、依代、供物、巫女、器。そういうものだ」
ミオの指が、胸元の学生証を握った。
ユウリは、その手を見て胸の奥が冷えるのを感じた。
昨日の補講教室で、黒板に書かれたミオの名前は、何度も別の名へずれようとしていた。
星宮ミオ。
女神の名。
境界の名。
器としての名。
彼女が彼女である前に、何かの残滓や象徴や役割として扱われる。
その怖さを、ミオはもう知っている。
「どうして、ミオが」
ユウリの問いに、アヴィは少し間を置いた。
「星宮ミオは、ただの契約候補ではない。複数の女神残滓、境界系構文、さらに世界法則側の干渉痕を持っている。本人が望んだかどうかは関係ない。神話構文側から見れば、非常に入りやすい空白を持つ」
「空白……」
「器と言い換えてもいい。だが、その言い方は推奨しない」
ミオが静かに言った。
「神話側が、勝手に私を器だと思っているんですね」
アヴィは否定しなかった。
「そうだ」
ミオは、ほんの少しだけ目を伏せた。
痛みを受け止めるような沈黙だった。
ユウリは言葉を探した。
大丈夫、とは言えない。
大丈夫ではないからだ。
狙われている。
揺らいでいる。
名前が安定していない。
でも、それでも言いたいことはあった。
「ミオは器じゃない」
彼女が顔を上げる。
「少なくとも、僕はそう呼ばない」
ミオの瞳が、少しだけ揺れた。
レンがわざと軽く言う。
「俺も呼ばない。星宮さんは星宮さんだし、ミオって呼ぶかはユウリの許可制っぽいから保留」
「何で僕の許可がいるんだ」
「空気的に?」
「いらない」
ミオが、小さく笑った。
緊張の中で、その笑いは少しだけ救いだった。
だが、すぐに校内放送が鳴った。
短いチャイム。
『生徒の皆さんに連絡します。現在、校外で不審なアプリ通知に関する問い合わせが増えています。不要な外出、噂に基づく行動は控えてください。特に、天御柱神宮周辺には――』
そこで、放送が一瞬乱れた。
ざ、とノイズが混ざる。
次に聞こえたのは、校内放送とは違う、明るく整った合成音声だった。
『特別照応地点を検出しました』
『日輪適性を確認してください』
『再臨候補に接続しますか』
廊下がざわめく。
「今の何?」
「放送ジャック?」
「AVISの声じゃね?」
教師が慌てて放送室へ向かう足音が聞こえた。
校内放送はすぐに通常の声へ戻ったが、一度聞こえてしまったものは消えない。
生徒たちの興味は、さらに天御柱神宮へ向かっていく。
「やっぱ何かあるじゃん」
「行ってみようぜ」
「配信したら伸びそう」
ユウリは思わず声を上げそうになった。
行くな、と。
けれど、廊下の全員に説明できる言葉を持っていなかった。
危険だから。
何が。
神話構文が。
何それ。
太陽照応で名前が漂白される。
意味分かんない。
そうなるのが目に見えていた。
その時、廊下の向こうから白い影が近づいてきた。
烏丸マシロだった。
彼女は放課後のざわめきの中でも、少しも急いでいなかった。白いファイルではなく、薄いタブレット端末を持ち、その画面に視線を落としている。
端末には、赤ではなく白い警告がいくつも並んでいた。
白い警告。
それがいかにもマシロらしく見えて、ユウリは嫌な予感を覚えた。
マシロは三人の前で足を止めた。
「天瀬さん。久遠さん。星宮さん」
今回は、ミオの名前も呼ばれた。
星宮さん。
丁寧な呼称。
間違いではない。
けれど、ミオはわずかに身を硬くした。
マシロの視線は、三人を順番に見たあと、最後にユウリのスマホへ落ちた。
「放課後、天御柱神宮へ向かうつもりですね」
断定だった。
レンが肩をすくめる。
「まだ何も言ってませんけど」
「行動傾向、前二件の接触履歴、現在の反応地点、あなた方の位置関係から見て、その可能性が高いと判断できます」
「怖い言い方しますね、先生」
「怖がらせたいわけではありません」
マシロは穏やかに答えた。
「止めたいのです」
ユウリは彼女を見た。
「何が起きてるんですか」
「危険な照応反応です」
「ソウリン大御神ですか」
その名を口にした瞬間、マシロの目がわずかに細くなった。
「その名を、軽々しく確定させないでください」
静かな声だった。
だが、そこには初めて少しだけ強い色があった。
「今、天御柱神宮で起きているものは、神名の照応を利用しています。正確な判定が出る前に名前を与えれば、それだけで構文を補強します」
ユウリは息を呑んだ。
神名を呼ぶことそのものが、敵を強くする可能性がある。
第1話では名前を呼ぶことでミオを取り戻した。
第2話では記録を戻すために倉持の名前を呼んだ。
だが、神の名は違う。
呼べば戻るのではなく、呼ぶことで形を与えてしまう。
アヴィが小さく言った。
「正論だ」
ユウリは画面を見た。
マシロは続ける。
「行くべきではありません。危険です」
「危険なら、なおさら止めないと」
ユウリは言った。
言いながら、自分でも無謀だと思った。
相手が何なのかも分からない。
戦い方も分からない。
契約相という言葉が画面に出ただけで、実際に何ができるかも知らない。
それでも、行かないという選択肢は浮かばなかった。
ミオの現在名安定率は下がっている。
倉持のように巻き込まれる生徒もいるかもしれない。
そして、あの通知に誘導された人々が、今も天御柱神宮へ向かっている。
マシロは、ユウリをまっすぐ見た。
「あなたたちは、まだ自分たちが何を扱っているか理解していません」
言い返せなかった。
その通りだった。
ユウリは、AVISを持っている。
アヴィ=シグルと話せる。
未確定名の観測者と呼ばれた。
でも、自分が何なのか、何ができるのか、何をしてはいけないのか、まだ何も分かっていない。
ただ、目の前で誰かの名前が消えかけた時に、呼ぶことしかできなかった。
「分かってません」
ユウリは言った。
マシロの目が、少しだけ動く。
「でも、分かるまで待っていたら、間に合わないことがある」
その言葉は、きれいな正義ではなかった。
焦りだった。
恐怖だった。
無知のまま走ろうとする危うさだった。
けれど、ユウリの中では、それが今の本当だった。
マシロはしばらく黙った。
廊下では、生徒たちがまだ通知を見せ合っている。
外の光はさらに白くなり、窓枠の影がほとんど消えかけていた。
「なら、ひとつだけ忠告します」
マシロは言った。
「神の名を信じすぎないでください」
その言葉は、意外だった。
人類管理機構という警告を受けた相手が、神の名を警戒しろと言う。
ユウリは眉をひそめる。
マシロは続けた。
「神名は、人を救うこともあります。けれど同時に、人を役割へ閉じ込めます。信徒、巫女、依代、供物、英雄、敵。呼び名が与えられた瞬間、人はその枠へ押し込まれやすくなる」
ミオが、学生証を握る手に力を込めた。
「星宮さん」
マシロは静かに言った。
今度は、ミオを見ている。
「あなたは、特に気をつけてください。あなたの中にあるものは、あなた自身の意志より早く、周囲から名を与えられようとします」
ミオは一瞬、怯えたように見えた。
だが、すぐに顔を上げた。
「私は、星宮ミオです」
小さな声だった。
けれど、はっきりしていた。
マシロはわずかに目を細める。
「ええ。今は」
その言い方に、ユウリの胸がざらついた。
今は。
まるで、いつか変わることを知っているような言葉だった。
レンが割って入った。
「先生、止めたいなら先生が行けばいいんじゃないですか」
「行きます」
マシロは即答した。
レンが少し驚く。
「行くんだ」
「当然です。危険地点を放置する理由がありません」
「じゃあ、俺たちも別ルートで」
「推奨しません」
「でしょうね」
レンは苦笑した。
マシロはユウリを見た。
「あなた方が来ることを、私は許可しません」
「でも、止められない」
「はい」
マシロは静かに頷いた。
「だから、記録します」
その一言に、ユウリはぞくりとした。
許可ではない。
黙認でもない。
記録する。
それが、この人のやり方なのだ。
マシロはタブレットを閉じた。
「もし現地で接触した場合、私の指示に従ってください」
「約束はできません」
ユウリが言うと、マシロは少しだけ沈黙した。
「でしょうね」
その声には、わずかに諦めが混ざっていた。
そして、彼女は背を向けた。
白いブラウスが、放課後の廊下の光の中でさらに白く見える。
ユウリはその背中を見送りながら、スマホを握った。
アヴィが言う。
「無謀だ」
「分かってる」
「戦闘になる可能性がある」
「それも、分かってる」
「いや、分かっていない。ユウリ、お前はまだ契約相をまともに展開していない」
ユウリの指が止まる。
契約相。
画面に出た言葉。
まだ、自分のものという実感はない。
「それでも、行く」
ユウリは言った。
アヴィは少し黙った。
それから、いつものように皮肉っぽく言う。
「そう言うと思った。だから嫌なんだ、未確定の人間は」
レンがノートPCを鞄に押し込み、スマホをポケットに入れた。
「行くなら急ごう。通知に釣られた連中、もう校門出てる」
倉持が不安そうに近づいてきた。
「俺は?」
ユウリは即答した。
「来るな」
「だよな」
倉持は苦笑した。
「分かった。俺は部活行く。あと、通知のこと、軽音部のやつらに押すなって言っとく」
「頼む」
「それくらいならできる」
倉持は、自分の胸を軽く叩いた。
「俺、倉持ハルトだからな。昨日の借り、ちょっとは返す」
その言葉に、ユウリは少しだけ笑った。
「覚えてるじゃないか」
「名前くらいな」
倉持はそう言って、背を向けた。
その背中が、昨日より少し確かに見えた。
ユウリはミオとレンを見る。
「行こう」
三人は廊下を走り出した。
窓の外では、夕方の空が白く光っている。
太陽はもう沈みかけているはずなのに、世界はまだ昼のように明るかった。
だが、その光には温度がない。
照らすための光ではない。
名前を、影を、迷いを、個人の輪郭を、すべて同じ白へ塗りつぶすための光。
神狭市の北東、天御柱神宮の方角で、見えない日輪がゆっくりと開いている。
ユウリは走りながら、スマホの画面を見る。
《目的地:天御柱神宮》
《神話構文濃度:上昇中》
《照応候補:未確定》
《契約相展開準備:待機》
胸の奥で、恐怖と、焦りと、まだ名前のない何かが絡み合っていた。
何ができるのかは分からない。
何を扱っているのかも、まだ分からない。
それでも、ユウリは走った。
分からないまま走ることが、無謀だと知っていても。
誰かが勝手に神の名を与えられる前に。
ミオが、また別の何かにされる前に。
そして、神狭市の空が本当に白く焼き尽くされる前に。




