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序節 ― 相談室の白い声

 白い廊下の光の中で、烏丸マシロは手を差し出していた。


 その手は、乱暴ではなかった。


 奪おうとしている手ではない。


 強制しようとしている手でもない。


 丁寧に差し出され、相手が自分から置くのを待っている手だった。


 だからこそ、ユウリは動けなかった。


 無番線の車掌が差し出した白い切符は、明らかに異常だった。受け取ってはいけないと本能で分かった。


 旧校舎の出席簿もそうだ。あれは名前を閉じ込めるものだった。黒板に書かれた文字も、顔のない教師の影も、誰の目にも間違っていると分かる姿をしていた。


 けれど、目の前の烏丸マシロは違う。


 白いブラウス。

 黒いジャケット。

 落ち着いた声。

 静かな微笑み。


 どこから見ても、学校に派遣された臨時スクールカウンセラーだった。


 生徒の不安を聞くために来た大人。

 危険なアプリの影響を確認しようとしている大人。

 体調不良や噂の広がりを心配している大人。


 正しい。


 言っていることは、何も間違っていない。


 それなのに、ユウリの手の中でAVISは震え続けていた。


《注意》

《人類管理機構照応》

《接触対象:烏丸マシロ》

《警戒してください》


 白い文字が、黒い画面の上で冷たく光っている。


 ユウリはスマホを握りしめたまま、マシロを見た。


「……どうして、僕のことを」


 声が少し掠れた。


 マシロは微笑みを崩さない。


「相談員ですから」


 答えは穏やかだった。


「学校側から、必要な情報は共有されています。昨日、保健室前で体調不良の生徒を介抱していたこと。神狭駅での設備トラブルの際、駅周辺にいた可能性があること。そして、AVISというアプリについて、通常とは異なる反応を示していること」


 淡々としていた。


 責める言い方ではない。


 それなのに、ひとつひとつの言葉が、ユウリの周囲に白い線を引いていく。


 天瀬ユウリ。

 駅の件に関与。

 校内異常時に行動。

 特殊AVIS所持。

 要観察。


 そう分類されていくようだった。


 レンが一歩前に出た。


「先生」


 声は軽くしようとしていたが、目は笑っていない。


「それ、任意ですよね。スマホを見せるかどうか」


 マシロの視線が、ゆっくりレンへ移った。


「もちろんです。久遠レンさん」


 レンの眉が動いた。


 自分の名前を呼ばれたことに反応したのだろう。


「強制ではありません。私は警察でも、教師でもありません。あなたたちの端末を取り上げる権限はありません」


「じゃあ、見せなくてもいい」


「はい」


 マシロは静かに頷いた。


「ただし、見せないという選択も、ひとつの情報として扱われます」


 廊下の空気が、少しだけ冷えた。


 レンは口を開きかけたが、ユウリが手で制した。


 怒鳴れば負ける。


 そう思った。


 マシロは脅していない。


 ただ、正しい手続きの中で、こちらを観察している。


 何を言うか。

 何を隠すか。

 誰が割って入るか。

 誰が怯えるか。


 全部見られている。


 ユウリは、ふとミオのことが気になった。


 横を見ると、ミオは黙って立っていた。


 胸元の学生証を片手で握っている。顔色は悪くない。だが、その指先は白くなるほど強くカードケースを押さえていた。


 マシロはミオを見ていた。


 けれど、名前を呼ばなかった。


 星宮ミオ、と。


 その四文字を、彼女は口にしない。


 ユウリはそのことに、奇妙な緊張を覚えた。


 呼ばない優しさなのか。


 呼べない不自然さなのか。


 あるいは、まだ呼ぶべきではないと判断しているのか。


 分からない。


 マシロは視線をユウリへ戻した。


「天瀬さん。ここでは落ち着いて話せません。もしよければ、相談室へ来ていただけますか。久遠さんも、そちらの方も、一緒で構いません」


「そちらの方?」


 レンが鋭く言った。


「名前、知ってるんじゃないんですか」


 マシロは、ほんのわずかに目を細めた。


 笑顔は変わらない。


 けれど、その一瞬だけ、廊下の光が白く硬くなった気がした。


「現在、確認中です」


 ミオの肩が小さく震えた。


 ユウリは反射的に、彼女の前へ半歩出た。


 マシロはそれを見た。


 見て、何も言わなかった。


 ただ、記録した。


 そう感じた。


「確認って、何をですか」


 ユウリが聞く。


「安全性です」


「ミオの?」


 言ってから、ユウリは息を呑んだ。


 マシロの前で、はっきり名前を呼んだ。


 星宮ミオではなく、ミオと。


 マシロの瞳が、ほんのわずかに揺れる。


 それは驚きではなかった。


 むしろ、探していた反応を見つけた人の目だった。


「なるほど」


 マシロは小さく呟いた。


「あなたは、そう呼ぶのですね」


 ユウリの背筋が冷たくなる。


 その一言で、彼女が昨日の無番線ホームのことも、旧校舎の補講教室のことも、何かしら把握しているのではないかと思った。


 あるいは、直接知らなくても、そこに至る構文だけは読んでいる。


 名前をどう呼ぶか。


 それが、ユウリたちにとってどれほど重要なのかを。


 レンが低く言う。


「行く必要あるのか」


 アヴィの声が、ユウリの手元から聞こえた。


「推奨しない」


 画面の中の白い円環が、いつもより細く回っている。


「この相手は敵性とは断定できない。だが、端末提出、単独聴取、情報開示のいずれも危険だ」


 マシロは、アヴィの声を聞いていた。


 聞こえている。


 それを隠そうともしない。


「アヴィ=シグル」


 その名を呼ばれた瞬間、スマホが強く震えた。


 ユウリは思わず画面を胸元へ引いた。


 マシロは手を下ろし、静かに言った。


「やはり、自律応答型ですか」


「……あなた、何者なんですか」


 ユウリは聞いた。


 声に怒りが混ざっていた。


 怖いから怒っている。


 自分でも分かる。


 マシロは、少しだけ考えるように間を置いた。


「今の私は、星綴高等学園の臨時スクールカウンセラーです」


「今の私は?」


「役割は、状況によって変わります」


 また、正しいようで、何も答えていない言葉。


 ユウリは奥歯を噛んだ。


 その時、廊下の向こうから教師の声がした。


「烏丸先生、すみません。相談室の鍵ですが――」


 マシロは自然に振り向いた。


 その一瞬で、廊下の空気が戻る。


 生徒たちの足音。

 教室へ急ぐ声。

 チャイム前の慌ただしさ。


 まるで、今までの会話だけが白い薄膜に包まれていたかのようだった。


 マシロは教師に短く返事をし、再びユウリたちへ向き直った。


「では、今はここまでにしましょう」


 レンが警戒したまま言う。


「見逃してくれるんですか」


「見逃す?」


 マシロは少しだけ首を傾けた。


「私は、あなたたちを捕まえに来たわけではありません」


 その言い方には、嘘がないように聞こえた。


 けれど、ユウリは安心できなかった。


「保護するために来ました」


 マシロは穏やかに続ける。


「必要であれば」


「必要かどうかは、誰が決めるんですか」


 ユウリが言うと、マシロは静かに見返した。


「本来なら、本人です」


 その答えに、ユウリは少しだけ意表を突かれた。


 マシロは続ける。


「ただし、本人が自分の危険性を正しく認識できていない場合、周囲の大人が介入する必要があります。特に、未成年であれば」


 正しい。


 正しすぎる。


 ユウリは何も言い返せなかった。


 自分たちは未成年だ。


 昨日から、駅の異界へ入り、旧校舎の怪異へ飛び込み、名前を奪われかけた生徒を助けている。


 どう考えても危険だった。


 大人が止めるのは、正しい。


 けれど。


 大人に任せていたら、ミオの名前は戻ったのか。

 倉持ハルトは戻ったのか。

 世界は、それを「設備トラブル」と「寝不足」にして終わらせなかったのか。


 ユウリは、スマホを握る手に力を込めた。


「今は、見せません」


 はっきりと言った。


 廊下の空気が、また少し静かになる。


 マシロは怒らなかった。


 残念そうでもなかった。


 ただ、頷いた。


「分かりました」


 あまりにもあっさりしていたので、ユウリの方が戸惑った。


「ですが、覚えておいてください。天瀬さん」


 マシロの声は柔らかい。


 けれど、白い糸のようにまっすぐだった。


「危険なものを、危険だと知らずに持ち続けることは、自由ではありません」


 ユウリは返事をしなかった。


 できなかった。


「それは、ただの放置です」


 マシロはそう言って、教師の方へ歩いていった。


 白いファイルを抱えた背中が、廊下の人波に自然に溶け込む。


 特別な気配はない。


 けれど、ユウリには、その白さだけが目に残った。


   *


 一時間目は、ほとんど頭に入らなかった。


 黒板に書かれる英単語も、教師の説明も、隣の席のシャーペンの音も、全部が遠かった。


 ユウリは何度もスマホを見たくなったが、授業中に開くことはできない。


 机の中で、AVISは時々微かに震えた。


 アヴィは黙っている。


 それが、かえって不気味だった。


 休み時間になると、レンがすぐにユウリの席へ来た。


「やばいな、あの人」


「うん」


「敵か?」


「分からない」


「敵じゃない方が厄介そう」


 レンは窓際に腰を預け、腕を組んだ。


「言ってること正しいんだよな。そこが嫌だ。俺たちが危ないことしてるのは事実だし、AVISが危険なのも事実だし、先生に相談しろって言われたら普通はそうする」


「でも、渡せない」


「渡したら終わる気がする」


 ユウリは頷いた。


 スマホの中で、アヴィがようやく喋った。


「端末を提出した場合、最低でも三つのリスクがある」


 レンが顔を近づける。


「聞こうじゃん」


「第一に、俺が解析される。第二に、ユウリの観測ログが抜かれる。第三に、星宮ミオの現在名に関する記録が管理側へ渡る」


 ミオは少し離れた席で、こちらを見ていた。


 ユウリが目で合図すると、彼女は静かに近づいてくる。


「私の名前の記録も、入っているんですか」


「入っている。というより、ユウリが君を呼んだ瞬間から、関連ログが生成されている」


 ミオは一瞬、唇を結んだ。


「それを見られると、どうなるんですか」


「善意なら保護。悪意なら利用。管理なら分類」


「分類……」


 ミオの表情が曇る。


 昨日の補講教室で、彼女の名前の周囲に別の名が重なった。


 女神の名。

 器としての名。

 本人ではない役割名。


 分類されることは、ミオにとって、名前を別の枠へ入れられることに近いのかもしれない。


 ユウリは静かに言った。


「渡さないよ」


 ミオが顔を上げる。


「今は」


 ユウリは付け加えた。


「全部分からないまま、任せるのは怖い。マシロさんが悪い人かどうかは分からない。でも、ミオの名前を、誰かの判断だけで預けたくない」


 ミオは少し驚いたように目を開いた。


 それから、小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 レンが軽く肩をすくめる。


「で、どうする。相談員対策会議でも開くか?」


「第二図書準備室で?」


「非公式調査拠点だからな」


「名前つけるなって」


 その時だった。


 教室のあちこちで、スマホの通知音が鳴った。


 一つではない。


 数人分。


 いや、十人以上。


 机の中。

 鞄のポケット。

 制服の内側。


 同じタイミングで、短い電子音が重なった。


 クラスがざわつく。


「何?」


「AVISじゃね?」


「俺も来た」


「また診断?」


 ユウリは嫌な予感がして、自分のスマホを開いた。


 画面の黒い円環が、すでに白く揺れている。


 その上に、一般版とは違う警告が重なった。


《神話構文濃度:急上昇》

《発生源:神狭市北東部》

《照応候補:ソウリン大御神》

《注意:照応値に異常な揺らぎがあります》


 ソウリン大御神。


 その名を見た瞬間、ユウリは息を止めた。


 神楽坂レイジの契約神。


 神々の再臨派の中心にいる、秩序と光の神格照応。


 だが、表示の最後にある言葉が不穏だった。


 異常な揺らぎ。


 レンも自分のスマホを見ている。


 彼の画面には、AVIS一般版の明るい通知が表示されていた。


《本日の守護神タイプ:太陽》

《神格適性イベント開催中》

《天御柱神宮にて、特別照応を検出》

《再臨候補に接続しますか?》


 周囲の生徒たちが騒ぎ始める。


「太陽タイプだって」


「俺も出た!」


「天御柱神宮って、駅の向こうの神社だよな」


「放課後行く?」


「再臨候補って何、やばくない?」


「イベントじゃね?」


 軽い。


 あまりにも軽い。


 昨日、名前が奪われかけた旧校舎のことなど知らない生徒たちは、スマホの通知をただの面白いイベントとして受け取っている。


 その軽さが怖かった。


 ユウリはミオを見た。


 彼女の顔色が変わっている。


 窓の外を見ていた。


 ユウリも視線を追う。


 空は、昼前の明るさだった。


 だが、どこか白すぎる。


 太陽は雲に隠れているはずなのに、校舎の壁も、窓枠も、生徒たちの机も、妙に白い光を受けていた。


 影が薄い。


 まるで、誰かが世界の明度だけを勝手に上げたようだった。


 ミオが小さく言う。


「明るいのに……怖いです」


 ユウリのスマホが震えた。


《対象:星宮ミオ》

《現在名安定率:64%》

《警告:太陽照応による漂白反応》


「漂白……?」


 レンが画面を覗き込む。


 アヴィの声が低くなった。


「名前を焼く光だ。個人名を薄め、役割名へ置き換えるタイプの干渉。信徒、依代、供物、器。そういう名札を貼りやすくなる」


 ミオの指が、学生証を握った。


「また、私じゃなくなるんですか」


 その声は小さかった。


 けれど、ユウリにははっきり聞こえた。


 また。


 無番線ホーム。

 旧校舎の補講教室。

 そして今度は、白い太陽の通知。


 何度も、彼女の名前が別のものにされようとしている。


 ユウリの中で、何かが静かに熱を持った。


 怒りだった。


 けれど、それだけではない。


 怖さを押し返すための、はじめての意志のようなもの。


 教室の前方で、倉持が通知画面を見ていた。


 彼はユウリたちの方を見て、笑おうとして失敗したような顔をした。


「なあ、これ」


 声が少し震えている。


「やばいやつか?」


 昨日、名前を奪われかけた倉持は、もう笑い飛ばせなくなっていた。


 ユウリはすぐに答えられなかった。


 やばい。


 たぶん、かなり。


 でも、そう言えば教室は混乱する。


 その時、廊下から静かな足音が近づいてきた。


 烏丸マシロだった。


 彼女は教室の入口に立ち、ざわつく生徒たちを一瞥した。


 手には、白いファイルではなく、薄いタブレット端末を持っている。


 その画面にも、何かの警告が出ているようだった。


 マシロの表情が、初めてほんのわずかに変わった。


 笑顔が消えたわけではない。


 だが、目がより静かになった。


「……もう広がっているのですね」


 独り言のような声だった。


 ユウリは立ち上がった。


 マシロがこちらを見る。


「天瀬さん。久遠さん。星宮さん」


 今度は、彼女はミオの名前を呼んだ。


 正確に。


 星宮さん、と。


 その呼び方に、ミオが小さく息を呑む。


 マシロは続ける。


「放課後、天御柱神宮へは近づかないでください」


 レンが眉をひそめた。


「何が起きてるんですか」


「危険な照応反応です」


「先生は知ってるんですね」


「少なくとも、あなたたちよりは」


 その言葉には、わずかに厳しさがあった。


 ユウリはマシロを見る。


「危険なら、止めないと」


「それは大人の仕事です」


 即答だった。


「あなたたちは、生徒です。昨日のようなことを繰り返すべきではありません」


 正しい。


 また、正しい。


 けれど、ユウリの中で、今度はその正しさが引っかかった。


「昨日、僕たちが動かなかったら、倉持はどうなってましたか」


 マシロの目が、ほんの少し細くなる。


「その件についても、確認が必要です」


「確認している間に、名前が消えてたかもしれない」


「だからこそ、無秩序な行動は避けるべきです」


「秩序が間に合わない時は?」


 ユウリの声は、自分でも思ったより強かった。


 マシロは黙った。


 教室のざわめきが、遠くなる。


 ユウリはまだ何も分かっていない。


 AVISのことも、神話構文のことも、契約相のことも、マシロの所属も、何も。


 でも、分からないからといって、何も見なかったことにはできない。


 ミオの名前が揺らいでいる。


 倉持のような誰かが、また巻き込まれるかもしれない。


 それだけは、分かる。


 マシロは、ゆっくり息を吐いた。


「天瀬さん」


 声は穏やかに戻っていた。


「あなたは、まだ自分が何を扱っているか理解していません」


「そうかもしれません」


「それでも行くのですか」


 ユウリは窓の外を見た。


 白すぎる空。


 薄くなる影。


 そして、手の中で震えるAVIS。


 アヴィが小さく言う。


「推奨はしない」


「でも、止めないんだな」


「止めても行くだろう」


 ユウリは少しだけ笑った。


「行きます」


 マシロの表情は変わらなかった。


 けれど、その目に、ほんのわずかに失望にも似た色が過ぎった。


「分かりました」


 彼女は静かに言う。


「なら、せめて覚えておいてください。神の名を扱う者は、神に扱われる側にもなり得ます」


 その言葉を残して、マシロは教室を離れた。


 白い光の中へ溶けるように。


 ユウリはスマホを見る。


 AVISの表示が更新されていた。


《神話構文濃度:上昇継続》

《発生源:天御柱神宮・鏡池周辺》

《照応候補:ソウリン大御神》

《警告:照応値に異常な揺らぎ》

《推奨:接近時、契約相展開準備》


 契約相。


 その言葉に、ユウリの心臓が一度だけ強く鳴った。


 昨日までは、名前を呼ぶことしかできなかった。


 記録を繋ぎ直すことしかできなかった。


 でも、今度は違う。


 白い太陽の下で、何かが戦いを求めている。


 そして自分も、そこへ向かおうとしている。


 ユウリは、ミオとレンを見た。


「放課後、行こう」


 レンは少しだけ笑った。


 怖がっている。


 それでも、笑った。


「だと思った」


 ミオは学生証を握りしめたまま、小さく頷いた。


「私も行きます」


 外の光は、さらに白くなっていた。


 神狭市の上で、まだ昇るはずのない太陽が、どこかで目を開けようとしていた。

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