終節 ― 白い相談員
翌朝、星綴高等学園の空気は、昨日より少しだけ白かった。
雨が降ったわけではない。
霧が出ているわけでもない。
それでも、校舎の廊下も、窓から差し込む朝の光も、黒板に残ったチョークの粉も、どこか薄く、漂白されたように見えた。
ユウリは教室に入る前に、廊下の窓から旧校舎を見た。
昨日の夕方、あの建物の三階には、存在しない補講教室が開いていた。
黒板には、倉持ハルトの名前と、綴白ナナセという空っぽの名前が並んでいた。顔のない生徒たちが机に座り、顔のない教師が出席簿を開き、校内放送のような声で「欠席」を告げていた。
だが、今朝の旧校舎はただ古いだけだった。
窓は閉まり、壁は少しくすみ、屋根の端には昨日の雨の名残のような水滴が光っている。
どこにも星空は映っていない。
非常灯の緑も見えない。
補講教室という札もない。
何も知らない建物の顔をしている。
「おはよ」
背後から声がした。
振り返ると、レンが立っていた。
いつもより少し遅い登校だった。髪は少し跳ねていて、目の下にはまだ薄い隈が残っている。だが、昨日の放課後に比べれば、表情はだいぶ戻っていた。
「倉持は?」
ユウリが聞くと、レンは顎で教室の中を示した。
「来てる。保健室で寝たおかげで元気、と本人は言ってる」
「本人は?」
「本人は」
レンはそこで少し苦い顔をした。
「でも、昨日のことはほとんど覚えてない。部室に行こうとして、気分悪くなって、保健室前で倒れた。本人の記憶はそうなってる」
「そっか」
「一応、自分の名前は言える。軽音部のやつらも覚えてる。そこは大丈夫」
レンはそう言ったあと、声を少し落とした。
「ただ、昨日の録音データ、ノイズ増えてた。倉持が名前を名乗ってるところは残ってる。でも、その前後が少し削れてる」
「世界の編集?」
「たぶん。ムカつくけど」
レンは唇を噛んだ。
ユウリも、旧校舎から目を離せなかった。
名前は戻った。
倉持ハルトという名前は、まだ学校の中にある。
けれど、昨日の出来事は、もうところどころ削られ始めている。
全部を守れたわけではない。
それでも、守れたものはある。
そう思わなければ、前へ進めなかった。
教室に入ると、倉持は本当にいた。
窓際の席で、友人たちに囲まれている。顔色は少し悪いが、口はいつも通り動いていた。
「だから寝不足だって。昨日、動画見ながら寝落ちしてさ」
「お前、保健室前で倒れるとか大げさすぎ」
「いや、俺もそう思う。人生初だわ」
倉持は笑っていた。
その笑い方は、昨日より少しだけ弱い。
けれど、倉持ハルトの笑い方だった。
机の名前シールも、今朝は読める。
倉持ハルト。
文字は少し薄い気がする。
それでも、そこにある。
ユウリは胸の奥で小さく息を吐いた。
その時、倉持がこちらに気づいた。
「天瀬」
「何?」
「昨日、俺、何か変なこと言ってた?」
ユウリの足が止まる。
倉持は笑っている。
だが、その目の奥には、自分でも説明できない不安が少しだけ残っていた。
「変なこと?」
「いや、何かさ。名前がどうとか、誰かに呼ばれたとか、そういう夢見た気がするんだよ。あと、久遠がめちゃくちゃ怒ってた気がする」
レンが横から言った。
「それは現実」
「マジかよ。俺、何した?」
「寝不足で倒れた」
「それだけでそんな怒る?」
「怒る」
「理不尽」
倉持が笑う。
レンも、一瞬だけ笑った。
そのやりとりを見て、ユウリは思った。
完全には戻らない。
でも、何も残らなかったわけではない。
昨日、三人で呼び戻したものは、ちゃんとここにある。
チャイムが鳴った。
担任の小野寺先生が教室に入ってくる。
手には出席簿があった。
ユウリの身体が、反射的に強張る。
ミオも同じだった。
彼女は自分の席で、胸元の学生証にそっと触れている。
小野寺先生は教卓に立ち、出席簿を開いた。
ページをめくる音。
昨日までは何でもなかった音が、今は喉の奥を締めつける。
「出席を取るぞ」
いつもの声。
いつもの朝。
名前が順番に呼ばれていく。
「相原」
「はい」
「石動」
「はい」
「上原」
「はい」
ユウリは、呼吸を浅くしたまま待った。
小野寺先生の指が名簿の上を進む。
「倉持」
「はい」
倉持が、少し大きめに返事をした。
教室の空気は変わらない。
誰も笑わない。
誰も首を傾げない。
小野寺先生も、違和感なく次の名前へ移った。
「久遠」
「はい」
レンが返事をする。
ユウリは、そこでようやく息を吐いた。
綴白ナナセという名前は、呼ばれなかった。
出席簿には、少なくとも今朝は混ざっていない。
ミオと目が合う。
彼女も、小さく頷いた。
だが、安心しきるには早かった。
ホームルームの終わりに、小野寺先生が出席簿を閉じ、少し表情を改めた。
「それから、今日は一時間目の前に臨時朝礼がある。昨日の駅の件や、校内での体調不良者が出ている件について、学校から話があるそうだ。体育館へ移動するように」
教室がざわつく。
「また駅の話?」
「昨日の倉持のやつも?」
「AVIS禁止とかになる?」
「やば、入れてるんだけど」
ユウリはレンを見た。
レンも眉をひそめている。
ミオは何も言わなかった。
ただ、体育館という言葉を聞いた瞬間、少しだけ身を硬くした。
*
体育館には、全校生徒が集められていた。
朝の光が高い窓から入り、床に細長い白い線を落としている。バスケットゴールは壁際に畳まれ、ステージの上には校章の入った演台が置かれていた。
生徒たちは学年ごとに並び、教師たちが列を整えている。
いつもの朝礼と同じ光景。
だが、空気は少し違った。
神狭駅の設備トラブル。
AVIS一般版の噂。
昨日の倉持の体調不良。
それらが、生徒たちの間で小さく囁かれていた。
「神狭駅、ほんとに無番線出たらしいよ」
「うちの学校でも七不思議の放送あったって聞いた」
「AVIS入れてから変な夢見るんだけど」
「それただの寝不足じゃね?」
噂は形を変えながら広がっていく。
ユウリはその声を聞きながら、アヴィの言葉を思い出していた。
検索され、拡散され、語られ、混ぜられる。
祈りではなく、情報として流通した神話が、構文だけを肥大化させて現実に干渉する。
体育館の中にあるのは、ただの生徒たちの雑談だ。
けれど、その雑談さえ、何かの燃料になっているのかもしれない。
そう思うと、ざわめきがただの音には聞こえなかった。
校長の話は短かった。
神狭駅の設備トラブルについて、学校としても状況を確認していること。
根拠のない噂を広げないこと。
不審なアプリやサイトに個人情報を入力しないこと。
体調不良や不安があれば、担任や養護教諭に相談すること。
どれも、正しい話だった。
正しいからこそ、ユウリには少し怖かった。
正しい言葉は、異常を日常の枠へ押し戻す。
設備トラブル。
根拠のない噂。
不審なアプリ。
体調不良。
昨日の無番線ホームも、補講教室も、その言葉の中へ片づけられていく。
そして校長は、最後に言った。
「本日より、生徒相談体制を強化するため、臨時のスクールカウンセラーの先生に来ていただくことになりました」
体育館のざわめきが、少し変わった。
ステージ袖から、一人の女性が出てくる。
その瞬間、ユウリはなぜか姿勢を正した。
白いブラウス。
黒いジャケット。
膝下までの落ち着いたスカート。
髪はきれいにまとめられ、歩き方は静かで無駄がない。派手な印象はない。むしろ、どこまでも清潔で、控えめで、学校という場所に自然に溶け込む大人に見えた。
けれど、白かった。
ブラウスの白だけではない。
肌の色でも、雰囲気でもない。
彼女の周囲だけ、ノイズが少ない。
余分なものが削ぎ落とされ、輪郭だけが正確に整えられているように見えた。
名前を、過不足なく記録するための白。
そんな印象が、ユウリの中に浮かんだ。
女性は演台の前に立ち、軽く頭を下げた。
「本日より、しばらく星綴高等学園で相談員を務めます。烏丸マシロです」
声は落ち着いていた。
よく通るが、強すぎない。
柔らかいが、曖昧ではない。
一語一語が、きちんと紙に記録されるために発音されているような声だった。
「最近、根拠のない噂や、不安を煽るアプリが広がっているようです。困ったことがあれば、いつでも相談に来てください。眠れない、誰かに話したい、何が不安なのか分からない。そういう場合でも構いません」
生徒たちは、静かに聞いていた。
マシロは微笑んでいる。
優しそうだった。
少なくとも、見た目は。
だが、ユウリはその目が気になった。
笑っているのに、目だけがひどく静かだった。
人を安心させる目ではない。
人を責める目でもない。
分類する目だった。
この生徒は不安定。
この生徒は影響下。
この生徒は要観察。
この生徒は保護対象。
この生徒は危険。
そんなふうに、目の前の全員を静かに仕分けているような目。
ユウリは、自分の思考を振り払った。
考えすぎだ。
ただのスクールカウンセラーだ。
昨日から変なものを見すぎて、普通の大人まで怪しく見えているだけだ。
そう思おうとした。
ポケットの中で、スマホが一度だけ小さく震えた。
ユウリは反射的に押さえた。
体育館の中で開くわけにはいかない。
だが、アヴィが警戒している。
それだけは分かった。
マシロの挨拶は短かった。
「相談室は本校舎二階の第二応接室をお借りしています。予約がなくても構いません。先生方を通しても、直接来ていただいても大丈夫です」
そこで彼女は、少しだけ間を置いた。
「不安は、放っておくと形を変えます。名前をつけられない怖さほど、大きくなりやすいものです」
ユウリの胸が、かすかに跳ねた。
名前をつけられない怖さ。
その言葉だけが、体育館の空気の中で妙に重く響いた。
マシロは穏やかに続ける。
「ですから、ひとりで抱え込まないでください。あなたの不安を、正しい場所へ整理するお手伝いをします」
正しい場所。
整理。
その言葉に、ミオがわずかに身じろぎした。
レンも気づいたらしく、横目でユウリを見る。
ユウリは小さく首を振った。
まだ、何も分からない。
ただの言葉かもしれない。
けれど、言葉の選び方が、どこか普通ではなかった。
朝礼が終わる。
生徒たちは学年ごとに体育館を出始めた。
床を擦る上履きの音。教師の誘導。友人同士の小声。
マシロはステージ脇で、校長や学年主任と短く話している。
その姿は、どこから見ても普通の大人だった。
ユウリはそう思おうとした。
普通の相談員。
学校が呼んだ人。
生徒の不安を聞くために来た人。
そうであってほしいと思った。
*
一時間目が始まる前の廊下は、少し混雑していた。
体育館から戻った生徒たちが各教室へ散っていく。誰かが「相談室行ってみようかな」と冗談で言い、別の誰かが「お前はまず課題相談しろ」と返して笑っている。
ユウリ、ミオ、レンの三人も、二年三組へ向かっていた。
「どう思う」
レンが小声で聞く。
「何が」
「あの相談員」
「普通に見えた」
ユウリは言った。
自分に言い聞かせるように。
レンは片眉を上げる。
「普通の人間見て、そんな顔するか?」
「どんな顔」
「旧校舎の扉開ける前みたいな顔」
「してない」
「してた」
ミオが静かに言った。
「私も、少し怖かったです」
ユウリは彼女を見る。
「ミオも?」
「はい。悪い人、という感じではありません。でも……私を見ていないのに、どこかを測られている感じがしました」
「測られている?」
「名前ではなく、枠を」
ミオはそう言ったあと、自分でもうまく説明できないというように、視線を落とした。
ユウリのポケットで、またスマホが震える。
今度は少し強かった。
「後で見る」
ユウリは小声で言う。
だが、その瞬間だった。
廊下の角を曲がったところで、烏丸マシロとすれ違った。
彼女は数冊のファイルを抱えていた。
白いファイル。
透明なラベルポケットには、まだ何も書かれていない。
マシロは教師と話していたが、ユウリたちが近づいた瞬間、視線だけをこちらへ向けた。
その目が、まっすぐユウリを捉える。
ユウリの足が止まった。
止めようと思ったわけではない。
名前を呼ばれる前に、もう呼ばれたような感覚があった。
マシロは教師との会話を自然に切り上げ、穏やかに微笑んだ。
「天瀬ユウリさん」
廊下の音が、遠のいた。
天瀬ユウリ。
自分の名前。
教師なら知っていてもおかしくない。名簿を見たのかもしれない。スクールカウンセラーなら、全校生徒の情報を確認している可能性もある。
おかしくはない。
何もおかしくない。
それなのに、ユウリは背筋が冷たくなった。
マシロの呼び方は、出席簿の声に似ていなかった。
無番線の車掌とも違った。
だが、その名前は、あまりにも正確だった。
間違いなく自分を指している。
逃げ道のない呼び方だった。
「……はい」
返事をしてしまってから、ユウリは少し後悔した。
名前を呼ばれて返事をする。
昨日の倉持がそうだった。
だが、もう遅い。
マシロは柔らかく微笑んでいる。
「少し、お話を聞かせていただけますか」
レンが一歩前に出ようとした。
ユウリは手で制する。
マシロの視線が、ほんのわずかにレンへ向く。
「久遠レンさんも、後ほど必要であれば」
レンの表情が険しくなる。
「俺の名前も知ってるんですね」
「相談員ですから」
マシロは穏やかに答えた。
それは正しい答えだった。
正しすぎる答えだった。
ミオは黙っていた。
マシロは最後に、ミオを見た。
その視線は一瞬だけだった。
だが、ミオの指が学生証を強く握る。
マシロは、彼女の名前を呼ばなかった。
呼べなかったのか。
あえて呼ばなかったのか。
ユウリには分からない。
マシロは再びユウリへ視線を戻す。
「神狭駅での件、それから昨日の校内での体調不良について、いくつか確認したいことがあります」
「僕は、別に」
「責めているわけではありません」
声は優しい。
けれど、逃がさない。
「不安定な情報に触れた生徒を、適切に保護するためです」
保護。
その言葉に、ユウリは小さく眉を動かした。
守るという意味のはずなのに、なぜか閉じ込める音に聞こえた。
マシロは、一拍置いた。
そして、さらに穏やかな声で言った。
「それと――あなたのスマホを、見せてもらえますか」
ユウリのポケットの中で、AVISが強く震えた。
今度は隠しようがないほどだった。
レンがすぐに気づく。
ミオも顔を上げる。
ユウリはゆっくりとスマホを取り出した。
画面は勝手に点灯していた。
黒い背景。
白い円環。
そして、警告。
《注意》
《人類管理機構照応》
《接触対象:烏丸マシロ》
《警戒してください》
ユウリは息を止めた。
人類管理機構。
昨日まで知らなかった言葉。
けれど、その並びだけで、マシロがただの相談員ではないことは分かった。
マシロは、画面を見ていた。
驚いていない。
怖がってもいない。
ただ、そこに表示された警告を、すでに知っていた情報と照合するように静かに眺めている。
「やはり」
彼女は小さく言った。
そして、ユウリへ向けて微笑んだ。
「あなたが、未確定名の観測者ですね」
その瞬間、アヴィの声が、ユウリだけに聞こえるほど低く響いた。
「ユウリ。今すぐ渡すな」
廊下の喧騒は戻ってこない。
生徒たちはすぐそばを通っているはずなのに、音だけが遠い。
ユウリはスマホを握りしめた。
目の前には、白い相談員。
優しい笑顔。
静かな瞳。
そして、管理という言葉の気配。
マシロは手を差し出していた。
白い指先。
何かを奪うためではなく、正しく保管するために伸ばされた手。
それが、なぜか無番線の白い切符よりも怖かった。
ユウリは、まだ答えられなかった。
白い廊下の光の中で、彼の手の中のAVISだけが、黒い円環を静かに回し続けていた。




