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第五節 ― 名前は記録だけにない

 補講教室の扉を抜けた瞬間、倉持の重さが消えた。


 いや、消えたのではない。


 ほんの一瞬だけ、ユウリの腕の中にあった体温が、廊下の空気へほどけるように薄くなった。支えていたはずの肩が軽くなり、制服の布地の感触が指先から抜け落ちる。


「倉持……?」


 レンが叫ぶより早く、視界が揺れた。


 暗い廊下。

 非常灯。

 黒い窓の向こうに貼りついた星空。

 遠くでめくられる出席簿の音。


 それらが、黒板消しで拭われるようにぼやけていく。


 次に見えたのは、普通の廊下だった。


 夕方の旧校舎ではない。


 本校舎一階、保健室前の廊下。


 窓の外には、ちゃんとグラウンドがあった。陸上部がトラックを走り、サッカー部の掛け声が風に乗って届いてくる。校舎の蛍光灯は白く、非常灯の緑だけが浮いているわけでもない。


 そして、保健室の扉の前に、倉持ハルトが倒れていた。


 黒いギターケースはない。


 代わりに、彼の鞄が廊下の端に転がっている。


 倉持はうつ伏せに近い形で床に倒れ、片手だけが扉の方へ伸びていた。まるで、助けを求めて保健室まで来て、その直前で力尽きたように。


「倉持!」


 レンが駆け寄る。


 ユウリも膝をついた。


 倉持の肩に触れる。


 温かい。


 呼吸もある。


「倉持、聞こえるか」


 ユウリが呼ぶと、倉持のまぶたがわずかに動いた。


「……ん」


 声が返ってきた。


 小さい。


 けれど、確かに倉持の声だった。


 レンが大きく息を吐く。


「おい、名前言えるか」


「は……?」


「いいから言え。自分の名前」


 倉持は顔をしかめた。


「何だよ……久遠、怖……」


「名前」


 レンの声が少し震えていた。


 倉持は、ぼんやりと天井を見た。


 数秒、沈黙が落ちる。


 その数秒が、ユウリには異様に長く感じられた。


 言え。


 頼むから、言え。


 心の中で、そう祈る。


 倉持は乾いた唇を動かした。


「倉持……ハルト」


 レンの肩から、目に見えて力が抜けた。


「よし」


 それだけ言って、彼は顔を伏せた。


 笑っているようにも、泣きそうになっているようにも見えた。


 ミオは少し離れた場所に立ち、胸元の学生証を握りしめていた。


 彼女の顔色はまだ悪い。補講教室で黒板に別の名を重ねられかけた影響が残っているのだろう。けれど、その目は倉持を見ていた。


 名前が戻った人を見る目だった。


 保健室の扉が開いた。


 養護教諭の榊先生が顔を出す。


「何の騒ぎ――って、倉持くん?」


 その声には、ちゃんと名前があった。


 倉持くん。


 ユウリはその一言に、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 戻っている。


 完全ではないかもしれない。


 でも、倉持ハルトという名前は、まだ学校の中にある。


 榊先生はすぐに倉持の状態を確認し、ユウリたちに手伝わせてベッドへ運ばせた。


 保健室の白いカーテン。

 消毒液の匂い。

 壁に貼られた体温表。

 窓際の観葉植物。


 そこは、あまりにも普通の保健室だった。


 さっきまでいた補講教室の黒板も、顔のない生徒たちも、出席簿を閉じた教師の影も、何もない。


 倉持はベッドに寝かされ、額に冷却シートを貼られた。


「たぶん、寝不足と軽い貧血ね」


 榊先生は体温計を確認しながら言った。


「最近、変なアプリが流行ってるんでしょう。夜更かししてたんじゃない?」


 倉持は弱々しく笑った。


「いや、まあ……ちょっと」


「ちょっとじゃないでしょう。顔色悪いわよ。今日は部活休んで、家に連絡して迎えに来てもらいなさい」


「えー、部活……」


「駄目」


 榊先生の声は優しかったが、強かった。


 倉持は観念したように目を閉じた。


「……はい」


 その返事を聞いて、ユウリは奇妙な感覚を覚えた。


 普通だ。


 あまりにも普通のやりとりだった。


 体調不良の生徒。

 保健室。

 寝不足。

 部活禁止。

 家へ連絡。


 世界は、そういう形で今日の異常を処理しようとしている。


 倉持ハルトは名前を奪われかけたのではない。


 寝不足で倒れた。


 校内放送で欠席扱いにされかけたのではない。


 体調が悪くて保健室へ来た。


 補講教室に閉じ込められたのではない。


 たまたま廊下で倒れた。


 そういう記録に、もう置き換わり始めている。


 レンが、保健室の壁に拳を当てた。


 強くはない。


 だが、悔しさを押し殺すような仕草だった。


「……ふざけんな」


 小さな声だった。


 榊先生には聞こえていない。


 ユウリはレンを見る。


 レンは倉持を見ていた。


 ベッドで寝ている倉持を。


 彼の名前は戻った。


 だが、今日起きたことは戻らない。


 いや、戻らないどころか、誰にも正しく残らない。


 そのことが、レンには許せないのだろう。


 ユウリも同じだった。


 名前を取り返せた。


 でも、それで終わりではない。


 戻した名前のまわりにあった出来事が、世界の都合のいい形へ丸められていく。


 それは、静かな暴力のようだった。


 保健室を出ると、廊下に何人かのクラスメイトが集まっていた。


 佐伯と、倉持の隣の席の男子、軽音部のボーカルの女子もいる。


「倉持、大丈夫?」


「寝不足だって」


 レンが答える。


「そっか……よかった」


 佐伯はほっとしたように言った。


 しかし、すぐに首を傾げる。


「でも、今日、倉持くんって朝からいたよね?」


 隣の男子が言う。


「いたよ。たぶん」


「たぶんって何だよ」


「いや、いたのは覚えてるんだけど……何か、変な返事してなかった?」


「あれ、何だっけ」


「名前、違うやつで呼ばれて……」


「誰の名前だっけ?」


 会話が、途中でほどけていく。


 綴白ナナセ。


 その名前を、誰もはっきり口にしなかった。


 忘れたのか。


 忘れさせられているのか。


 それとも、口にしない方がいいと本能的に感じているのか。


 ユウリには分からなかった。


 軽音部の女子が、少しだけ強く言った。


「倉持ハルトくん」


 全員が彼女を見る。


 彼女は、確かめるようにもう一度言った。


「ギターの倉持ハルトくん。今日、部室には来てないけど、ギターケースは置いてある。昨日の録音も残ってる」


 レンが彼女を見た。


 彼女もレンを見返す。


 その目には、まだ不安があった。


 けれど、確かに覚えようとしている人の目だった。


 ユウリのスマホが、小さく震える。


《現在名保持記録:友人記憶》

《保持値:維持》

《倉持ハルト:現在名回復率 76%》


 七十六。


 完全ではない。


 だが、戻っている。


 ユウリは息を吐いた。


 その時、ミオが小さく言った。


「完全には、戻らないんですね」


 ユウリは答えられなかった。


 倉持の名前は戻った。


 けれど、今日の細部は曖昧になっている。


 誰がいつ彼を見たのか。

 朝の出席で何が起きたのか。

 放課後、彼はどこにいたのか。


 それらは、ところどころ欠けたままになっている。


 名前を取り返すことは、起きたことすべてを元通りにすることではない。


 その現実が、静かに胸へ沈んでいった。


   *


 保健室前の騒ぎが収まる頃には、外はすっかり暮れかけていた。


 部活動の声はまだ残っているが、校舎の中は少しずつ人が減っている。


 三人は、第二図書準備室へ戻った。


 さっきまで開いていた資料やノートPCは、長机の上にそのまま残っていた。星綴七不思議特集のファイル。古い出席簿。旧校舎の図面。レンがコピーした音声ファイル。どれも、今日の出来事を完全には証明できない。


 けれど、何もなかったことにもさせない。


 ユウリは椅子に座り、両手で顔を覆った。


 疲れていた。


 体力を使ったというより、名前を押さえ続けることに神経を削られたような疲れだった。


 ミオは向かいの椅子に座り、学生証を机の上に置いた。


 そこには、星宮ミオと書かれている。


 しかし、ユウリには分かった。


 彼女は安心しきっていない。


 補講教室の黒板で、星宮ミオの周囲に別の名が重なった。


 その感覚が、まだ残っているのだろう。


「名前って、本人だけのものじゃないんですね」


 ミオが静かに言った。


 ユウリは顔を上げる。


 彼女は自分の学生証を見ていた。


「私、昨日は、自分の名前を取り返してもらったと思っていました。でも今日、倉持くんを見て……名前は、自分で持っているだけじゃ駄目なんだって思いました」


「うん」


 ユウリは頷いた。


 言葉を探す。


「たぶん、呼ぶ人がいて、覚えてる人がいて、残ってる場所があって……それで、ここにあるんだと思う」


 自分で言いながら、その重さを感じた。


 名前は本人のものだ。


 それは間違いない。


 けれど、人はひとりで名前を持っているわけではない。


 誰かに呼ばれる。

 書類に書かれる。

 写真の裏に残る。

 部活の録音に声が入る。

 昨日のくだらない会話を、誰かが覚えている。


 そうやって、名前は現実の中に結び目を作っている。


 その結び目が多いほど、人はここに留まりやすい。


 逆に、その結び目を解かれていけば、どんなに本人が自分を覚えていても、世界から滑り落ちてしまうのかもしれない。


 アヴィの声が、机の上のスマホからした。


「少しは学習したな」


 ユウリは顔をしかめる。


「今、感動的な話をしてたんだけど」


「感動で現象は止まらない」


「分かってる」


「分かっているならいい」


 レンが椅子に深く座り込んだ。


 彼は疲れた顔で天井を見上げている。


「で、どうする」


 その声に、ユウリとミオが視線を向けた。


 レンはゆっくり身体を起こす。


「これ、放っておけないだろ」


 軽い言い方ではなかった。


 昨日の駅。


 今日の出席簿。


 どちらも偶然、自分たちの目の前で起きた。


 でも、きっと偶然では済まない。


 AVIS一般版は広がっている。

 神話構文災害は未収束。

 星綴高等学園の七不思議は、閉じただけで解決していない。


 ユウリは長机の上に置かれた旧校舎の図面を見た。


「第二図書準備室」


 ミオが顔を上げる。


「ここを、使うんですか」


「うん。資料がある。人もあまり来ない。旧校舎の記録も近い」


 レンがすぐに言う。


「校内ネットワークも入る。電源もある。隠れて調べるには悪くない」


「隠れてって言うな」


「じゃあ、非公式調査拠点」


「それも怪しい」


 ミオが少し笑った。


 その笑いで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。


 レンはその隙を逃さず、軽い調子を取り戻した。


「じゃあ、部活名つけるか」


「絶対に嫌だ」


 ユウリは即答した。


「まだ何も言ってないだろ」


「神話災害対策部とか言うつもりだった」


「何で分かった」


「顔に書いてある」


「悪くないだろ。略して神対部」


「最悪だ」


「じゃあ、星綴怪異研究会」


「もっと嫌だ」


「AVIS被害者の会」


「それは少し正確だけど嫌だ」


 ミオが、今度は声を出して笑った。


 ほんの短い笑いだった。


 けれど、昨日からの緊張の中で初めて、少しだけ普通の高校生らしい時間が戻った気がした。


 レンも笑い、ユウリも少しだけ肩の力を抜いた。


 だが、その穏やかさは長く続かなかった。


 机の上のスマホが震えた。


 三人分、ほぼ同時に。


 ユウリは画面を見る。


 黒い背景に、白い文字が浮かび上がる。


《星綴高等学園七不思議:未解決》

《出席簿の空席:一時閉鎖》

《旧校舎放送室:継続稼働》

《倉持ハルト:現在名保持》

《星宮ミオ:現在名安定率 68%》


 ユウリの視線が、最後の数字で止まった。


 六十八。


 第1話のあと、駅前で見た数字より低い。


 ミオは戻っている。


 星宮ミオという名前は、ここにある。


 けれど、安定していない。


 今日の補講教室で、彼女の名前はまた揺らいだ。


 別の神名、別の構文、別の何かが、彼女の上に書かれようとした。


 ミオも、その表示を見ていた。


 彼女は何も言わなかった。


 ただ、自分の学生証を静かに握った。


 ユウリは、その手を見つめる。


 名前を取り返すこと。


 名前を守ること。


 それは、一度叫べば終わることではない。


 何度も呼び、何度も覚え、何度も記録を繋ぎ直すことなのだ。


 アヴィが静かに言った。


「勘違いするな。今日は倉持ハルトの現在名を保持しただけだ。七不思議の出席係は残っている。放送室も止まっていない。星宮ミオの現在名も安定していない」


「分かってる」


 ユウリは言った。


 今度は、怒りではなかった。


 怖さはある。


 不安もある。


 けれど、それだけではない。


「でも、倉持の名前は戻った」


 アヴィは少し黙った。


「戻した、が正確だ」


「じゃあ、戻した」


 ユウリはミオとレンを見た。


「僕たちで」


 レンが、少し驚いた顔をした。


 ミオは静かに頷いた。


「はい」


 第二図書準備室の窓の外で、夕方の空が深い青へ変わっていく。


 校内放送は、もう流れていない。


 旧校舎も、今はただ古い建物として沈黙している。


 けれど、そのどこかで、出席簿はまだ閉じられたまま残っている。


 次に開かれる時を待つように。


 ユウリは、机の上の古い出席簿に視線を落とした。


 名前がある。


 名前が消える。


 名前が戻る。


 その仕組みを、まだ何も分かっていない。


 だから、調べるしかない。


 覚えるしかない。


 呼ぶしかない。


 そして、忘れさせられそうになった誰かの名を、ここに繋ぎ止めるしかない。


 その時、第二図書準備室の古いスピーカーが、ほんの一瞬だけノイズを立てた。


 ざ、と。


 三人は同時に顔を上げる。


 だが、声は流れなかった。


 代わりに、スマホの画面に一行だけ、小さなログが残った。


《次回出席確認:未定》


 ユウリは、息を吐いた。


 終わっていない。


 それでも、今日は終わらせた。


 それだけは、確かだった。

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