第四節 ― 旧校舎の補講
旧校舎の入口をくぐった瞬間、空気が変わった。
それは温度だけではなかった。
匂いが違う。
本校舎の廊下にある、ワックスと消毒液と人の気配が混ざった匂いではない。旧校舎の中には、湿った木材と、古い紙と、長く閉じられていた黒板消しの粉のような匂いが沈んでいた。
廊下は夕方のはずなのに暗い。
窓はある。
外にはグラウンドが見えるはずだった。
部活動の声が聞こえ、校庭の照明が点き始め、走る生徒の影が横切っているはずだった。
けれど、窓の向こうに広がっていたのは、黒い空だった。
夜ではない。
星空のように見える。だが、そこにある星は遠すぎず、近すぎた。ガラス一枚の向こうで、白い点がじっと瞬いている。まるで黒板にチョークで打った無数の点のようだった。
レンが息を呑む。
「外、どうなってんだよ」
ユウリは窓へ近づきかけて、すぐに足を止めた。
見てはいけない気がした。
窓の外にあるものは空ではない。
旧校舎という記録の内側に貼られた、別の背景だ。
そう思った。
ミオは胸元の学生証を押さえていた。
顔色が悪い。
けれど、前を見ていた。
「声、上です」
「三階か」
ユウリが言うと、スマホが震えた。
《旧校舎三階:補講教室》
《出席確認、進行中》
《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:49%》
四十九。
ユウリは奥歯を噛んだ。
半分近い。
倉持ハルトという名前の半分が、すでに別の何かに上書きされかけている。
階段を上がる。
一段ごとに、チョークの音が近づいてきた。
かつ。
かつ。
かつ。
誰かが黒板に文字を書いている。
その音が、廊下の奥からではなく、頭の中に直接響くようだった。
二階の踊り場を過ぎると、掲示板があった。
そこには、古い校内新聞や委員会の連絡が貼られているはずだった。
だが、今は違った。
紙の一枚一枚に、欠席届が貼られている。
氏名欄は空白。
理由欄には、すべて同じ文字が書かれていた。
記録都合。
「記録都合って何だよ……」
レンが吐き捨てるように言う。
アヴィの声がスマホから低く響いた。
「学校側の処理理由だ。対象を“いない者”ではなく、“欠席している者”として扱うための仮ラベルだな」
「ふざけるな」
「ふざけてはいない。だから悪質だ」
アヴィの声にも、わずかに苛立ちが混じっているように聞こえた。
三階へ上がる。
廊下はさらに暗かった。
非常灯だけが、床の端を緑色に照らしている。
その光の中で、教室の札がひとつずつ変わっていく。
三年資料室。
旧美術室。
旧放送準備室。
歩くたびに、札の文字がかすれ、別の文字へ組み替わる。
三年資料室。
三年欠席室。
旧美術室。
旧未提出室。
旧放送準備室。
欠席者放送室。
そして、廊下の突き当たり。
そこにあるはずのない教室札が、ゆっくりと浮かび上がった。
補講教室。
黒い文字だった。
白い札の上に、墨で書かれたように濃く、乾いた文字。
扉は閉まっている。
だが、中から声が聞こえた。
ざらついた校内放送のような声。
『次の者』
その後に、チョークの音。
かつ。
『欠席』
ユウリは喉を鳴らした。
「倉持は中か」
「いる」
ミオが言った。
その声は小さいが、確信があった。
「でも……ひとりじゃありません」
レンがスマホを握り直す。
彼の画面には、さっき保存した倉持の音声ファイルが開かれていた。
「行くぞ」
ユウリは扉の取っ手に手をかけた。
冷たい。
金属ではなく、濡れた石に触れたような冷たさだった。
扉を開ける。
軋む音はしなかった。
内側から、静かに招き入れられるように開いた。
教室の中には、生徒たちが座っていた。
数は、二十人ほど。
全員が机に向かっている。
制服は星綴高等学園のものに見える。だが、どの生徒も顔が見えなかった。俯いているのではない。顔のあるべき場所が、白いチョークの粉でぼかされたように曖昧だった。
机の上には、ノートが開かれている。
ページには何も書かれていない。
ただ、余白だけが並んでいる。
教室の正面には黒板があった。
その中央に、大きく書かれている。
本日の欠席者
その下に、名前が並んでいた。
倉持ハルト。
綴白ナナセ。
ユウリは、そこで息を止めた。
さらにその下へ、白いチョークが勝手に走っていく。
かつ。
天瀬ユウリ。
かつ。
久遠レン。
かつ。
星宮ミオ。
「おい、俺たちまでかよ」
レンが声を荒げる。
だが、黒板の文字は止まらない。
特に、ミオの名前だけが異様だった。
星宮ミオ。
書かれた瞬間、その文字がぶれる。
白いチョークの線が震え、別の形へずれようとする。
星宮ミオ。
月を抱く名。
星宮ミオ。
夜の女神の器。
星宮ミオ。
母の残響。
境界に立つ者。
星宮ミオ。
いくつもの名が、重なっては剥がれ、また戻る。
黒板の上で、彼女の現在名が別の神名に押し流されそうになっていた。
ミオの身体が大きく揺れた。
「ミオ!」
ユウリが支える。
彼女の手は氷のように冷たかった。
「だめ……ここ、私の名前を別のものにしようとしてる」
声が震えている。
ミオは黒板から目を逸らせない。
「私じゃない名前が、たくさん……私の上に、書かれようとしてる」
ユウリの胸の奥が熱くなる。
怒りだった。
昨日、名前を取り返したばかりなのに。
ようやく、星宮ミオとして朝を迎えたのに。
また別の何かが、彼女の名前へ手を伸ばしている。
教卓の前に、影が立った。
いつの間にか、そこにいた。
顔のない教師の影。
古いスーツを着ている。輪郭は黒板の粉のようにぼやけ、顔の位置には白く霞んだ空白がある。片手に出席簿。もう片方の手にはチョーク。
その影が、ゆっくり出席簿を開いた。
紙をめくる音が、やけに大きく響く。
ぱらり。
ぱらり。
ぱらり。
声は、教卓の前からではなく、教室の四隅にある古いスピーカーから流れた。
『出席を確認します』
生徒たちが、一斉に背筋を伸ばした。
顔のない生徒たち。
机に向かっていた全員が、同じ角度で前を向く。
『呼ばれた者は、返事をしてください』
ユウリはミオの前に出た。
昨日と同じだ。
名前を奪われるなら、呼び戻せばいい。
自分がしたことは、それだけだった。
けれど、それでミオは戻ってきた。
なら、今も。
「ミオ!」
叫ぶ。
教室の空気が、一瞬だけ揺れた。
黒板の上で、星宮ミオという文字が濃くなる。周囲にまとわりついていた別の名が、わずかに剥がれる。
ミオが息を吸う。
だが、それだけだった。
教室は壊れない。
補講教室の机も、顔のない生徒たちも、教師の影も消えない。
黒板には、なおも名前が並んでいる。
倉持ハルト。
綴白ナナセ。
天瀬ユウリ。
久遠レン。
星宮ミオ。
アヴィの声が鋭く響いた。
「違う。今回は本人だけじゃない。記録を戻せ」
「記録って――」
「倉持ハルトが、ここにいる記録だ。今この学校にいることを、別の記録で押し返せ」
レンがすぐに動いた。
スマホを掲げ、音声ファイルを再生する。
ノイズが走る。
補講教室の空気が、一瞬だけ抵抗するように重くなった。
それでも、音は流れた。
『えー、二年B組、倉持ハルト。ギター、入ります。ミスっても笑うなよ』
倉持の声だった。
軽くて、少し照れていて、それでも自分を名前で名乗っている声。
その瞬間、黒板の「綴白ナナセ」という文字が薄れた。
白いチョークの線が、粉になって落ちる。
教室の隅に座っていた顔のない生徒たちが、ざわりと揺れた。
レンが叫ぶ。
「聞こえるか! 倉持ハルトだ! 二年B組、軽音部のギター!」
音声の中で、ギターの音が鳴る。
荒いコード。
少し走ったリズム。
その音に、教室の机がかすかに震えた。
だが、教卓の影は出席簿を閉じない。
顔のない教師は、チョークを黒板へ向けた。
薄れた「綴白ナナセ」の文字が、再び濃くなろうとする。
『記録不十分』
スピーカーから声が流れる。
『本人音声。一件。保持値、微弱』
アヴィが舌打ちしたような音を立てた。
「足りない。音声だけでは弱い。校内記録の上書きに押し負ける」
「じゃあ、どうすればいい!」
レンの声が割れる。
ミオが、震えながら言った。
「名前だけじゃない」
ユウリとレンが振り返る。
ミオはまだ苦しそうだった。
けれど、黒板を見つめる目は逃げていなかった。
「あの人が、昨日ここにいたことを……誰かが覚えていることを。倉持ハルトという人が、ただ名前だけじゃなくて、ちゃんとここで誰かと話して、笑って、音を出していたことを」
その言葉が、ユウリの胸に落ちた。
記録。
それは紙やデータだけではない。
誰かの記憶も、きっと記録だ。
ユウリは思い出す。
昨日の情報処理室B。
AVIS一般版を見せびらかしていた倉持。
雷神タイプだったと得意げに笑っていた顔。
「ロマンがないな、天瀬」と言った声。
くだらないやりとり。
あの時は、ただの騒がしいクラスメイトだった。
だが今、そのくだらなさこそが、倉持ハルトがここにいた証拠だった。
ユウリは黒板へ向かって叫んだ。
「倉持ハルトは、昨日、情報処理室Bにいた!」
声が教室に響く。
顔のない生徒たちが、わずかにユウリを見る。
「AVIS一般版を見せてきた。守護神タイプが雷神だって、自慢してた。僕に、ロマンがないって言った。倉持ハルトは、昨日、確かにここにいた!」
黒板の文字が揺れる。
倉持ハルトの名前が濃くなる。
レンも続いた。
「軽音部でギター弾いてる! 入りでミスっても誤魔化すし、音でかいし、AVISで雷神タイプ引いて調子乗ってた! 朝、綴白ナナセって呼ばれて返事して、みんなに笑われてた! でもそれは、倉持ハルトがそこにいたからだ!」
レンの声には怒りがあった。
恐怖も、焦りもあった。
だが、それ以上に、忘れさせられることへの抵抗があった。
黒板の「綴白ナナセ」が、さらに薄くなる。
チョークの粉が床へ落ちる。
ミオが一歩前へ出た。
ユウリは支えようとしたが、彼女は首を横に振った。
自分の足で立つ。
胸元の学生証を握りしめ、ミオは黒板を見た。
「私にも、話しかけてくれました」
声は震えていた。
けれど、届いた。
「転校初日で緊張していた私に、画面を見せて笑っていました。雷神タイプだって。私は、少し驚いたけれど……そのおかげで、教室の空気が少しだけ普通になりました」
ミオは息を吸う。
「倉持ハルトくんは、私の転校初日に、同じ教室にいました」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気が大きく揺れた。
ユウリのスマホが激しく震える。
《現在名保持記録:本人音声》
《現在名保持記録:友人記憶》
《現在名保持記録:同級生記憶》
《現在名束ね直し開始》
黒板に亀裂が入った。
いや、黒板そのものではない。
そこに書かれていた「綴白ナナセ」という文字に、細い割れ目が走った。
綴。
白。
ナ。
ナ。
セ。
一文字ずつ、チョークの線が剥がれ、粉になって崩れていく。
その下から、倉持ハルトの名前が濃く浮かび上がった。
倉持ハルト。
何度も上書きされかけた文字が、黒板の上で強く残る。
教卓の影が、初めて動きを止めた。
顔のない教師が、ゆっくりとこちらを見る。
顔はない。
表情もない。
それでも、見られていると分かった。
スピーカーから、低いノイズが流れる。
『記録、競合』
出席簿のページが勝手にめくれる。
ぱらぱらぱらぱら、と音を立てて、無数の名前が過ぎていく。
その中には、読めない名前もあった。
滲んだ名前。
途中で途切れた名前。
空欄のままの名前。
かつてこの学校で、誰かが呼ばれ、誰かが忘れたのかもしれない名前。
ミオが小さく息を呑む。
ユウリも、そのページから目を離せなかった。
これは今回だけの怪異ではない。
星綴高等学園という場所に、ずっと残っていた何かだ。
今日、たまたま倉持が巻き込まれただけ。
この出席簿には、他にも空白がある。
他にも、欠席扱いにされた誰かがいる。
そう感じた。
だが、今は全部を救えない。
ユウリは黒板を見た。
倉持ハルト。
その名前だけは、今ここで取り返す。
「倉持ハルトは、綴白ナナセじゃない」
ユウリは言った。
「二年B組、倉持ハルト。今日、ここにいる」
レンが続く。
「欠席じゃない。まだ帰ってない。まだ部室にギターケース置きっぱなしだ」
ミオも言う。
「まだ、誰かに覚えられています」
教室の後ろで、誰かが息を吸う音がした。
三人は振り返る。
顔のない生徒たちの間に、倉持がいた。
机に突っ伏していた。
顔は見える。
だが、ひどくぼんやりしている。
目を開けたまま、眠っているような顔だった。
「倉持!」
レンが駆け寄ろうとする。
だが、机の列が急に遠ざかった。
教室の奥行きが伸びる。
倉持のいる席が、黒板から遠く、遠く離れていく。
スピーカーから声が流れる。
『欠席者は、席を離れないでください』
ユウリは叫んだ。
「倉持ハルト!」
レンも叫ぶ。
「倉持、起きろ!」
ミオが、最後に呼んだ。
「倉持くん!」
倉持の瞳が揺れた。
彼の唇が、かすかに動く。
「……俺」
声は小さい。
けれど、確かに聞こえた。
「倉持……ハルト」
その瞬間、伸びていた教室が元に戻った。
机の列が縮み、倉持の席が三人の近くへ戻る。
黒板の「倉持ハルト」が、強く白く光った。
同時に、「綴白ナナセ」の文字が完全に砕けた。
チョークの粉が舞い、教室の空中に白い霧のように広がる。
顔のない教師は、しばらく動かなかった。
やがて、静かに出席簿を閉じた。
ぱたん。
その音は、妙にはっきり響いた。
『本日の補講は、終了しました』
声が告げる。
教師の影は消えない。
ただ、教卓の向こうに立ったまま、こちらを見ている。
倒したわけではない。
退けただけ。
今日の出席確認を、ここで終わらせただけ。
それはユウリにも分かった。
アヴィが低く言う。
「閉じただけだ。消滅はしていない。長居するな」
「倉持を連れて出る」
レンが倉持の腕を取る。
倉持の身体は重かった。
だが、温かい。
ちゃんと生きている。
ちゃんとここにいる。
ミオがふらつく。
ユウリはすぐに彼女を支えた。
「大丈夫?」
「……はい。でも、少しだけ」
ミオは黒板を見る。
彼女の名前は、まだ残っていた。
星宮ミオ。
ただ、その周囲には、薄く消えかけた別の文字の跡がいくつも重なっている。
ユウリはその名前を見て、静かに言った。
「ミオも、ここにいる」
ミオは目を閉じ、小さく頷いた。
「はい」
教室の灯りが、ひとつずつ落ちていく。
顔のない生徒たちが、机に向かって再び俯く。
黒板の文字が薄れ、補講教室の輪郭が暗闇に溶け始める。
扉だけが、細く開いていた。
逃げ道のように。
あるいは、今日だけ許された退室口のように。
ユウリたちは、倉持を支えながら教室を出た。
背後で、もう一度だけ出席簿のページがめくられる音がした。
ぱらり。
まるで、次に呼ぶ名前を探しているように。




