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第三節 ― 午後五時五十七分の放送

 午後の授業は、いつもより長く感じられた。


 黒板に書かれていく数式も、教師の声も、ページをめくる音も、全部が薄い膜の向こうから届くようだった。


 ユウリは何度も時計を見た。


 二時四十分。

 三時十五分。

 三時五十分。

 四時二十分。


 時間は進んでいる。


 けれど、放課後五時五十七分という一点だけが、教室のどこかに先回りして待っているように感じられた。


 倉持ハルトは、午後の授業中も教室にいた。


 少なくとも、ユウリにはそう見えていた。


 窓際の席で、眠そうに頬杖をつき、教師に当てられて慌てて教科書を開く。隣の男子に小声で答えを聞き、見つかって注意される。いつもの倉持だった。


 だが、授業が進むたびに、何かが少しずつずれていった。


 四時間目の終わり、教師がプリントを配った時、倉持の分だけ一枚余った。


「……あれ、余ったな」


 教師は教卓の上でプリントを揃えながら、首を傾げた。


「誰か配り忘れか?」


「先生、倉持の分じゃないですか」


 ユウリが言うと、教師は一瞬だけユウリを見た。


 その顔に、妙な空白が浮かんだ。


「倉持?」


 教室が静かになる。


 すぐに隣の男子が笑って言った。


「いや、先生。そこにいますって」


 倉持が手を上げる。


「いますよ。朝からずっと」


「ああ、そうか。悪い悪い」


 教師は笑って、プリントを倉持に渡した。


 それだけだった。


 ただのうっかり。


 そう処理できる程度の出来事。


 だが、ユウリには分かった。


 記録だけではない。


 教師の認識にも、少しずつ穴が開き始めている。


 五時間目が終わる頃には、倉持の机の名前シールはさらに薄くなっていた。


 倉持ハルト。


 まだ読める。


 けれど、黒い文字の奥に、白っぽい別の輪郭が沈んでいる。


 綴白ナナセ。


 ユウリはその名前を頭の中で読むたびに、胸の奥がざらつくのを感じた。


 誰かの名前ではない。

 誰かを入れるための、空白みたいな名前。


 ミオの言葉が、何度も戻ってくる。


 六時間目の終了チャイムが鳴った瞬間、ユウリのスマホが震えた。


《対象:倉持ハルト》

《現在名上書き率:36%》

《仮登録名:綴白ナナセ》

《放送確定時刻まで:一時間三十七分》


 数字が、昼よりさらに上がっている。


 ユウリは席を立った。


 レンも同時に鞄を掴む。


 ミオは自分の席で、静かに学生証を握っていた。ユウリと目が合うと、小さく頷く。


 言葉は必要なかった。


 三人は、教室を出た。


 放課後の廊下は賑やかだった。


 部活へ向かう生徒、委員会の集合場所へ急ぐ生徒、友人と駅前へ行く約束をしている生徒。窓の外では、グラウンドに運動部の声が広がり始めている。


 昨日、神狭駅で世界が裂けたことなど、誰も気にしていない。


 今、倉持ハルトの名前が消えかけていることにも、誰も気づいていない。


「まず軽音部」


 レンが言った。


「部室に、倉持の録音データがある。あとギターケース。持ち物に名前が残ってるかもしれない」


「倉持本人は?」


「授業終わったら部室行くって言ってた。はず」


 レンは最後の言葉を少しだけ濁した。


 自信が揺らいでいる。


 倉持は確かにそう言ったのか。

 それとも、そう言った記憶だけが残っているのか。


 昨日までなら考えもしなかった不安が、いちいち言葉の隙間へ入り込んでくる。


 軽音部の部室は、特別棟の一階奥にあった。


 防音材の貼られた扉。古いアンプ。廊下まで漏れるギターの音。普段なら、放課後になるとすぐに誰かが音を鳴らしている場所だ。


 だが、その日は少し静かだった。


 部室の扉は開いている。


 中には、部員が三人いた。ボーカルの女子、ドラム担当の男子、ベースを肩にかけた一年生。彼らは譜面台の前で、何かを確認している。


 レンが扉を叩いた。


「倉持いる?」


 部員たちは顔を上げた。


 ボーカルの女子が首を傾げる。


「倉持?」


 レンの表情が固まった。


「おい。いるだろ。ギターの倉持」


「ギター?」


 ドラムの男子が部室の隅を見る。


 そこには、黒いギターケースが立てかけられていた。


 銀色のステッカーが貼られている。雷のマーク。音楽フェスのロゴ。雑に貼られたバンド名。間違いなく倉持のものだった。


 レンはケースを指差した。


「あれ、倉持のだろ」


「え、誰のだっけ」


 ベースの一年生が不安そうに言った。


「前からありましたよね、それ」


「いや、あるのは知ってるけど……誰が持ってきたんだっけ」


 ボーカルの女子が、スマホで部活のグループチャットを開く。


「今日、ギター来る予定だったよね? えっと……」


 指が画面を滑る。


 その動きが途中で止まった。


「……あれ。ギター、誰だっけ」


 レンの顔から血の気が引いた。


「ふざけんなよ」


 声が低くなる。


 部員たちがびくっとする。


 レンは一歩、部室の中へ踏み込んだ。


「昨日まで一緒にAVISで騒いでたやつだろ。情報処理室Bで雷神タイプだって見せびらかして、朝もナナセとか言って笑ってた。倉持ハルトだよ。忘れんなよ」


 最後の声は、怒りというより懇願に近かった。


 ボーカルの女子は困ったように眉を寄せる。


「久遠、何怒ってんの。倉持……ああ、倉持くん?」


 その名前を口にした瞬間、彼女は少しだけ目を見開いた。


「そうだ、いた。ギターの倉持くん。……え、なんで一瞬忘れてたんだろ」


 ドラムの男子も額に手を当てた。


「やば。俺も出てこなかった」


 だが、思い出せたのは一瞬だけだった。


 すぐに表情が曖昧になる。


「でも、今日来てたっけ」


「来てたよ」


 レンが即答する。


「教室にいた」


「そうだっけ」


「いた!」


 レンの声が大きくなった。


 ユウリは彼の肩に手を置く。


「レン」


「分かってる。でも――」


「分かってる」


 ユウリも、同じ怒りを感じていた。


 倉持は軽い。調子がいい。昨日だってAVISを面白がっていた。朝の異変も半分ネタにしていた。


 けれど、それは消えていい理由にはならない。


 忘れられていい理由にはならない。


 レンはギターケースへ向かった。


 ケースの持ち手には、小さなネームタグがついていた。


 だが、その名前も薄れている。


 倉持ハルト。


 文字の最後の方がかすれ、ところどころ白い空白になっていた。


 レンはタグを握りしめた。


「まだ読める」


 自分に言い聞かせるように言う。


「倉持ハルト。読める。消えてない」


 ユウリのスマホが震えた。


《現在名保持記録:物品タグ》

《劣化進行中》

《保持値:微弱》


 アヴィの声がする。


「持ち物の記録は残っているが、弱い。本人との接続が薄れ始めている」


「録音データは?」


 ユウリが聞くと、レンは部室の奥の共有PCへ向かった。


「探す」


 部員たちは戸惑ったまま、その様子を見ていた。


 事情を説明できない。

 けれど、彼らも何かがおかしいとは感じ始めている。


 レンはフォルダを開き、日付順に音声ファイルを探した。


「昨日のリハ録音……いや、一昨日か? くそ、ファイル名が変だ」


 画面には、いくつかの音声ファイルが並んでいる。


 2026_軽音部_練習。

 guitar_test。

 未設定音声。

 Nanase_take01。

 Kura……_intro。


 レンの指が止まった。


「これだ」


 彼はファイルをコピーし、自分のスマホへ転送する。


 再生ボタンを押すと、少しノイズ混じりの音声が流れた。


『えー、二年B組、倉持ハルト。ギター、入ります。ミスっても笑うなよ』


 その後に、粗いギターの音が鳴った。


 倉持の声だ。


 軽くて、少し照れくさそうで、いつものように調子に乗っている声。


 部室の空気が、一瞬変わった。


 ボーカルの女子が、はっとしたように顔を上げる。


「倉持くんの声だ」


 ドラムの男子も頷く。


「そうだよ。これ、倉持の声じゃん。何で忘れて……」


 だが、数秒後にはまた顔が曇る。


 記憶が戻りかけて、また沈んでいく。


 ユウリは拳を握った。


 音声は鍵になる。


 でも、これだけでは足りない。


 レンはファイルを複数コピーしながら、低く言った。


「絶対戻す」


 その言葉に、誰も茶化さなかった。


 ミオは部室の入口で、旧校舎の方角を見ていた。


 その横顔が、急にこわばる。


「ミオ?」


 ユウリが呼ぶと、彼女はゆっくり振り返った。


「声がします」


「また?」


 レンが思わず言う。


 ミオは首を横に振った。


「昨日の駅とは違います。切符の音じゃありません。これは……授業の声です」


「授業?」


「誰もいない教室で、出席を取ってる」


 部室の中が、しんと静まった。


 外では、運動部の声が聞こえている。


 だが、ミオが見ている方向――旧校舎側の廊下だけは、妙に暗かった。


 特別棟の窓から、旧校舎の上階が見える。


 普段なら古びた白い壁と、閉じられた窓が並んでいるだけの建物。


 今は、その三階の一室だけが、薄く明るいように見えた。


 まだ夕方前なのに。


 そこに、誰かがいるはずはないのに。


 レンのスマホが震えた。


 続いて、ユウリのスマホ。

 ミオのスマホ。


 ユウリは画面を見る。


《旧校舎放送系統に異常接続》

《対象:倉持ハルト》

《現在名上書き率:41%》

《放送確定時刻まで:十三分》


「十三分」


 ユウリは呟いた。


 時計を見る。


 午後五時四十四分。


 五時五十七分まで、あと十三分。


「倉持本人はどこだ」


 レンが部員たちを見る。


「お前ら、本当に見てないのか」


 部員たちは不安そうに首を振った。


「来てないと思う」


「いや、でもギターケースはあるし……」


「もしかして保健室?」


「でも、誰が?」


 言葉が崩れていく。


 倉持を探そうとしているのに、名前が会話の中で滑り落ちる。


 誰だっけ。

 あの人。

 ギターの。

 ケースの持ち主。


 そんな言葉に置き換わっていく。


 レンは歯を食いしばった。


「ふざけんなよ」


 今度は、部員たちに向けた怒りではなかった。


 学校全体へ向けた怒りだった。


 名前を奪いながら、誰にもそれを異常だと思わせない何かへの怒り。


 ユウリはレンの腕を掴んだ。


「行こう。旧校舎へ」


「倉持探さなくていいのか」


「たぶん、そっちにいる」


 根拠はなかった。


 けれど、そう思った。


 出席簿。

 放送室。

 補講教室。

 欠席扱い。


 倉持ハルトは、今まさに学校の記録から隔離されようとしている。


 なら、その中心に近づくしかない。


 ミオが頷いた。


「声は、旧校舎の上から聞こえます」


 レンは音声ファイルを保存し、スマホを握りしめた。


「分かった」


 部室を出ようとしたその時、背後でボーカルの女子が言った。


「あの、久遠」


 レンが振り返る。


「何」


「ギターの人……倉持くん、だよね」


 彼女は不安げに、自分の記憶を確かめるように言った。


「倉持ハルトくん。昨日、ここのリハで、入りミスって笑ってた」


 レンは、一瞬だけ目を見開いた。


 それから頷く。


「そう。倉持ハルト」


「ごめん。何か、思い出せなくなってた」


「覚えてろ」


 レンの声は少しだけ震えていた。


「俺たちが戻すまで、覚えててくれ」


 彼女は真剣な顔で頷いた。


「うん。倉持ハルト」


 その名前が部室の空気に落ちた瞬間、ユウリのスマホに小さな表示が浮かんだ。


《現在名保持記録:友人記憶》

《保持値:微弱加算》


 微弱。


 それでも、確かに加算された。


 ユウリは胸の奥に、ほんの少しだけ熱が灯るのを感じた。


 名前は本人だけのものではない。


 誰かが覚えていること。


 誰かが呼ぶこと。


 それも、確かに力になる。


 三人は廊下へ出た。


 夕方の校舎は、昼間よりも冷えていた。


 部活動の声は遠くなり、特別棟の廊下には長い影が伸びている。窓の外の空は橙色から青紫へ変わり始めていた。


 旧校舎へ続く渡り廊下は、普段より暗く見えた。


 照明は点いている。


 だが、その光が途中で薄くなっている。


 まるで、廊下の先だけが別の時間に沈んでいるようだった。


 時計を見る。


 午後五時五十六分。


「あと一分」


 レンが言う。


 ユウリの手の中でスマホが熱を持つ。


 ミオは胸元の学生証に触れたまま、旧校舎の方を見つめている。


「来ます」


 その声と同時に、校内放送のチャイムが鳴った。


 いつもの下校案内の前に流れる、柔らかい電子音。


 だが、二音目から音が歪んだ。


 電子音の奥に、古いスピーカーのざらつきが混ざる。


 ざ、ざざ。


 廊下の照明が一度だけ瞬く。


 校内のざわめきが、遠ざかった。


『――二年B組』


 放送が流れた。


 ノイズ混じりの声だった。


 男とも女とも、若いとも年老いているとも言えない。教師の声にも、生徒の声にも聞こえる。校内放送用のマイクを通して、長い年月で擦り切れた声。


『綴白ナナセ』


 ユウリの背筋が凍った。


 一拍。


 その間に、学校全体が息を止めたような気がした。


 そして、声が続く。


『本日より、欠席』


 瞬間、三人のスマホが同時に震えた。


 ユウリは画面を見る。


《倉持ハルト:現在名上書き率 43%》

《警告:欠席扱いが確定すると、校内記録から隔離されます》

《旧校舎三階に補講教室を検出》

《対象を補講教室へ転送中》


「転送中……?」


 レンが顔を上げる。


「倉持、やっぱり旧校舎だ」


 ミオが一歩、渡り廊下へ踏み出した。


 その瞬間、旧校舎三階の窓に、誰かの影が見えた。


 ほんの一瞬。


 制服姿の男子。


 片手にギターケースを持っているように見えた。


 けれど、次の瞬間には影が消え、窓には暗い空だけが映った。


「倉持!」


 レンが走り出す。


 ユウリも追う。


 ミオが続く。


 渡り廊下を駆け抜けると、音が変わった。


 本校舎のざわめきが背後で遠ざかり、代わりに、チョークが黒板を擦る音が聞こえ始める。


 かつ、かつ。

 かつ、かつ。


 誰もいない旧校舎の奥で、誰かが名前を書いている。


 ユウリはスマホを握りしめた。


 画面には、白い文字が点滅している。


《補講教室:開室》

《出席確認、継続中》


 旧校舎の入口が、夕闇の中で黒く開いていた。

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